榎本 栄一さん
『群生海』難波別院 |
表紙 |
真珠貝 真珠貝は 海の中で 何かコロコロするような 異物を抱いたまま 今は それを 除きたいともおもわず 生きている 木の上 うぬぼれは 木の上から ポタンと落ちた 落ちたうぬぼれは いつのまにか また 木の上に登っている 獣心 私に けもの心の涌く時あり その時も 私は 人間の顔して 暮らしている 草茫茫 草茫茫のわが庭を 私はこのままに しておけという 妻は鍬で 草取るという こんな者どうしが 長年つれそうて暮らしてきた しくじる またひとつ しくじった しくじるたびに 目があいて 世の中 すこし広くなる 修行 なんでもないことだが 私のぐるりを ただ あたたかく 見るだけ ひとつこの修行を してみよう 髭 いくら剃っても この髭は 私がいのち終るまで 生えるのだろう 今朝は 何かいとおしくなでてみる 井戸 こころのなかの 井戸を こつこつと 掘り下げて行ったら 底から 阿弥陀仏が 出てきた とおい耳 この耳は ふしぎな耳で テレビの言葉は 聞こえにくいが 何万光年 彼方からの 宇宙の ささやきが 人身受け難しと 聞こえてくる 鰯 私は 何匹かの 鰯をたべた 鰯のいのちは 私のいのちと いっしょになって ややこしい 人間世界が ぐるぐる 泳ぎまわる 柿 私という柿 熟するのは 私の 死後になりそうだな 何しろ この柿 熟するのに まだながい年月が かかるので 冥恩 家と店 自転車で三十分の距離 二坪半の店 十坪の家 四人の子どもと妻 これが私の 今日までの全部である 少しあわれなようであるが 冥恩をかんずること切である 妻 妻とふたり 小さい あきないをするのだが 妻は このあきないを 小さいとは思わず 精を出す 冥助 朝 起きて水をつかい 夜 電灯を消して寝るまで 世の中の 無数の人のちからに 助けられている私である 蚊と私 蚊をいっぴき ころしたが 五十六億何千万年たって 弥勒菩薩が あらわれるとき そこで 蚊と私は あそびたわむれているにちがいない 私の詩 才能というようなもの なんにもない ただ自分のなかから 豆つぶのような仏さまが ときどき うまれてくださる 百年 百年たてば 自分の子や孫もなくなり 泥まみれの私の生涯を 知る人もなくなるだろう 然しそこに 草が繁り 虫が生きていたら 私はうれしいな 慈悲 風雪何十年の人間に 永遠の眠りがくるのは ふかい 慈悲であることが ようやくわかってきた 自転車念仏 自転車に乗り ふと気がつけば 仏のいのちが 私のいのちになり 風の中を なむあみだぶつ 走っている 同行二人 シドロ モドロ 私があるいた足あと よく見ると この 足あとの中に もう一つの 足あとがあった 青い鳥 青い鳥は 大空のどこにもいない 相手の立場になり 考えていたら どこからか とんでくる鳥 願文 にちにち出会う なんでもない あたりまえの人を ひそかに 拝めるような 私になりたい 小さな花 人のいうことを ナルホドそうかと うなずけたら 何か そこには 小さな花が咲くようである 漬物 漬物には 重石がだいじである 私という漬物に これは 天からいただいた重石 どうぞよい味に漬かってくれ 指 夜なかに指さきがうずく この指いっぽんを どうすることもできぬ自分が 幾山河越えて生きてきた ぞうきん ぞうきんは 他のよごれを いっしょけんめい拭いて 自分は よごれにまみれている 遇う わがはからいが まじるので 私は失敗する 失敗だらけのなかで 私は仏に遇う 朝 自分がどれだけ 世に役立っているかより 自分が無限に 世に支えられていることが 朝の微風のなかでわかってくる 日日 おなじようなこと くりかえす 日日であるが この日日から 私は いろいろなことを 無尽蔵に学ぶ 鈍感 私は鈍感だから 人間であることの ふかい味わいは 最後のさいごまで 生きてみないと わからぬようにおもう つの 私のあたまに つのがあった つきあたって 折れて わかった そっと どうにもならんことは そっと そのままにしておく 鮒 この濁りある沼が 私の浄土でございますと あるとき いっぴきの鮒が 申しました 豆 豆の皮むいていると この小さなひとつぶに 無辺光仏の おんいのち はいりこんでいるのが よくわかる 穢土 私の住んでいるところは 穢土というて 煩悩がからみ合うているが 春がきたら 花が咲く |