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◇亀山神社の歴史◇

亀神ワールド

◇社号について◇
呉宮原村字亀山(現在の入船山記念館の所)の地への御鎮座は、文武天皇大宝三年(703年) 八月中旬と伝えられています。この頃の社号は

【日売島神社】 ヒメシマジンジャ
大分県姫島の神が天武天皇白鳳八年(679年)栃原村甲手山に天降り給ひ、後、 亀山に遷座との古伝あり、のとおりで、発祥の地の名前をとった社号です。
瀬戸内海東航の途次、何れかの都合でこの呉の地に「姫島」の神を崇める一族が住みつき、各地に 集落をつくったようです。その人々は、技術文化の面でも時代の要求に こたえる先進技術を(農業、造船業、鍛冶、採鉱技術など)をもたらし、生活程度も拡大し、 集落もまた拡大したに違いありません。
前出の久保田氏は、
「先住者は、先進技術の所有者達を神人として歓迎し 『客人信仰』を生み、民間信仰と定着していった。他の職業階級と違った不可思議の存在だったろう 鍛冶技術者などは特に。彼等の造った鏡とか鈴などは霊物であり、(この金属性器具の)鏡の前で、 この鈴を振って神意を尋ね伝える巫女の姿は神の姿と思えたに違いない。」 と言っておられます。
白鳳八年(680)年に栃原村に天降り給うた「姫島神」を尊崇する集団は、前例のない多人数、 多くの技術者を伴っており、彼等は近隣各地に分散して、自分たちの持つ技術を充分に発揮し、 土地開発と技術向上に努めたと思われます。
1年に1度の、彼ら技術者達の集いの場所は、「姫島神」の神の鎮座の甲手山で、 その度毎に祖先の祭を催したのでしょう。そして祭祀と技術の密なるつながりを持ちながら、 日売島神社という名で祀られはじめたのだと思われます。

【大屋津日売神社】 オオヤツヒメジンジャ
大屋津日売とは、家屋・木の神の名で、この頃の呉地域の中心産業が木に関わる産業であった事の表れと 言えます。
紀伊の國の古社、大屋都姫神社に神階授進のあったのは仁明天皇嘉祥三年(850年)ですから、 神階授進以前の創建はずっとさかのぼると思われます。この神は素戔嗚尊の神女で、五十猛命の妹神です。 この神を日本書紀は「五十猛之命(素戔嗚尊の一子)、天降りますとき八十樹種を持ち下られたが 韓国には植えずして、妹神と共に筑紫より始めて、すべて大八嶋國のうちに播きおほして青山に なさずといふことなり。故に五十猛之命を讃えていさほし有功神となす。 すなわち紀伊國に座す大神なり」と、述べられています。
この故に大屋津比賣神は木の神であり造船神と崇敬されております。
また、住家、船車、木具、薪炭等、農林の御恩頼の神として、往古より広く他国にも尊敬されております。 呉のまちが船材豊富な山々に囲まれていた故に、この神を祀り「大屋都比賣神社」の社号を 残すことになったのでしょう。
天智天皇の御代には日本水軍が朝鮮白村江で敗れ、新羅、唐の連合水軍の侵攻に備へ西海から 瀬戸内海に防人、烽を置き水域を築くが、建艦も急を要したと容易に想像できます。 皇極天皇元年(642年)、「諸国に課して船舶を造らしむ。」続いて孝徳天皇白雉元年(650年)、 二隻の建造を指揮のため倭漢直等三人が安藝國に遣わされております。(日本書紀) こうした国家非常の折、比賣志摩神社は栃原甲手山に鎮座(680年)、 その後20年程で大寶三年(703年) に宮原村に遷座され、木の神、造船の神として「大屋都比賣命」を御主神として 大屋都比賣神社という社号が生まれたのではないでしょうか。
そしてまた、造船着工、進水の度に大屋都比賣神に祈願し、奉告感謝の祭典が厳粛に行われる様に なったのでしょう。
ちなみに造船を思わす「船木」の地名が安藝國には三つあり、うち一つは呉の惣付に残っております。

【鈴音宮】 スズオトノミヤ
神まつりに、「巫女」の存在は欠かせません。巫女は朱丹をもって顔に塗り、丹摺りの衣で体を包み、 鈴を振り、玄妙な音にあわせて舞う巫女の姿は、祈る者として厳粛の念をかきたてられたに 違いありません。
後述の、神功皇后による三韓征伐では、神秘で神聖な朱色を塗った軍船が、神を迎え神の出現を示し、 国に仇なす輩を征伐することを祈らしめたでしょう。
この朱丹は、栃原から神山を経て呉浦に入る入り際の集落、惣付に鎮座される 丹神社(御祭神は邇保都比賣命)の分霊をお祀りする、宮原村字宮原の姫神明神に依り供出され、 鈴は聖御子神社の神人の製作になるものと推測できます。
神衣については、亀山神社由来傳に
「鹿田より調進奉り其所に狭井元社ありて 荒衣和衣を織り出しチキリカネリの瀧にてさら晒し清め冬夏の御神衣を奉りける」 と記されております。
チキリははた機の付属具で縦糸をまく「をまき」のことで、ここでは織機の意と思われます。 カネリはカトリの書き誤りと思え、カトリとは織物の一種で、細糸で目細かく堅く織った絹糸の ことだそうです。
この文章は、鹿田にある狭衣の社で神衣を織り、赤色で型染めした丹摺りの巫衣を、 近くの谷間(現在の吾妻川か?幅二米程の小川)の瀧で晒し清めたといっているのでは ないかと推測しております。
この狭衣の社が、後の平原神社となり、 氏子の中の中塩氏(現亀山神社・平原神社総代)に残る伝承では、 栃原より呉遷座の折、供奉した人々の末裔で供奉の七軒家と称され、亀山神社・平原神社のお世話に 現在も献身的です。文書が現存しないのが残念ですが、貴重な伝承と思います。
かうして丹塗りの艦船の製造が順調に進んだ或年、大屋都比賣神社の社名が鈴音宮と 改められたのではないかと思われます。


その後、古事記や日本書紀などにも、応神天皇や神功皇后 の三韓征伐のお話があるとおり、この八世紀から十世紀にかけての中国大陸、朝鮮半島諸国など 日本周辺地域にて国際関係は緊張状態にありました。日本と親交を結んでいた任那を攻めようとする 新羅を攻略するために朝鮮半島に軍を派遣し、見事に勝利し凱旋帰国したとされております。 皇室有縁の神であり国家鎮護の神であり新羅を征する武神は神功皇后(三韓征伐を敢行された)と、 その子である応神天皇以外にないわけで、このあたりが、全国的に八幡信仰が流行?して、 各地の神社で、八幡神である神功皇后や応神天皇をご祭神にくわえられるように なった理由と思われます。

そして社号は、

【大帯日売神社】 オオタラシヒメジンジャ
大帯日売は、当社の主祭神である神功皇后の別名です。 丹塗りの軍船で三韓征伐に船出された神功皇后(大帯比賣神)の功をお称えし、、 恩頼におあづかりしようと、社号が「大帯比賣神社」に改まることになったのでしょう。

【八幡宮】
八幡宮は、応神天皇、神功皇后のお二人をお祀りする宮の総称のようなものであり、 当社が八幡宮と称されるのは、推測すれば、宇佐神宮に「三之御殿」が完成した 弘仁14年(822年)より貞観18年(876年)間のことかと思われます。

【皇城宮】 コウジョウグウ
寛政十一年(1799年)に奉献された燈籠(現存してます) にこの社号が 残っています。(この燈籠にもある当社の神紋「日月の紋」は、文明年間(15世紀後半)よりといわれ 八幡宮の神紋としては例の少ないものであると言われています) 神紋のページを参照下さい。
なお、呉駅前の阪急ホテルの一番大きい宴会場は「皇城の間」と名前が付けられておりますが、 皇城宮の名からお取りになられたものです。

明治維新の際「亀山神社」と改称される。

始めに記載した3つの社号は特にそうですが、神功皇后をお祀りするようになった経緯などもあわせて、 社号には、常に地域の生活と密着した心の故郷の姿がうかがえます。
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