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  悪の問題
 スティーヴン・T・デイヴィス編『神は悪の問題に答えられるか』 教文館

「どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか」
「なぜこういうことが起こってしまったのだろうか」
このように思うことは誰でもあります。自分自身について、あるいは世界の出来事について、しばしばそんなふうに感じます。言うならば「神も仏もあるものか」という気持ちです。
それは、人間は苦しみに出会った時に、苦しみにどういう意味があるのか、その意味を見出したいという気持ちになりますし、「なぜ」という問いに答えてほしいと、何かに対して思うからです。
そして、人生を肯定したい、いろんな苦しみはあるけれども、全体として肯定したい、そういう願いを人間は持っています。その願いに応えるのが宗教だと思います。

「なぜ」という問いに対して答えようとするキリスト教の試みが神義論ということだと思います。神義論とは、「この世に悪が存在するにもかかわらず、神は正しく正義である」ことを示そうとする議論です。つまり、悪があるにもかかわらず、神が全能であり、完全な善であることを証明しようとする試みです。

この問いをヒュームはこういうふうに言っています。
「神は悪を阻止しようとする意思は持っているが、できないのだろうか。それならば、神は能力に欠けることになる。それとも、神は悪を阻止することができるが、そうしようとしないのだろうか。それならば、神は悪意があることになる。悪を阻止する能力もあり、その意思もあるのだろうか。でも、それならはなぜ悪が存在するのだ。」

神義論では悪を二種類に区別します。道徳悪と自然悪です。
道徳悪とは、罪と呼ばれ、嘘、殺人、傲慢、ねたみ、どん欲、わがままなどです。
自然悪とは、地震、病気、飢饉、洪水など、自然の出来事によって引き起こされる痛みや苦しみです。

日本人にとっては、悪の問題(神義論)を神との関係で考えるよりも、「どうしてこんな苦しみがあるのか」「なぜ災難や困難があるのか」という問題を考える手がかりとして参考にしたらわかりやすいように思います。

『アーミッシュの赦し』を見ますと、一般にクリスチャンは、悪の問題に三通りの答えを用意しているとあります。
1,人に自由を与えた、つまり善悪のいずれも行わせている神は、ときに、その自由を十分に尊重するため、不干渉主義をとる必要があるのではないか。
2,神は人に選択の自由を与えているが、最終的な支配者は神であり、特定の目的のために何かを起こしたり、起こるのを許したりすることがある。神が描く全体像をもし見られるならば、現時点で現れた悪は、やがてより大きな善に取り込まれるはずである。
3,神が司る世界では悪が起こるが、人はその理由を知りえない。

そして、神の存在を否定するという答え。神を信じない根拠として、悪の問題を挙げる無神論者の多くは、苦しみを放置するような神を信じることに大した意味はないとします。

スティーヴン・T・デイヴィス編『神は悪の問題に答えられるか』は、
「なぜ世界はこれほど暴力と苦しみに満ちているのか。何か理由があるのだろうか」
「なぜ悪が存在するのだろうか」
「なぜ神は悪を許すのだろうか」
「なぜ神は悪を防ごうとしないのか」
という問いに、5人の神学者、哲学者が自分の考えを述べた本です。
当然のことながら、悪の問題に答えが一つしかないというわけではありません。5人はそれぞれ異なった回答をしています。
それを読みますと、正統的な神義論には、成長主義、自由意志論、終末論という三点が重要であるように感じました。

神は人間を未熟なものとして創造した。そして神は人間に自由を与えた。なぜならば人間が自由に正しいことを選ぶことによって道徳的、宗教的徳を発達させるためである。
悪は人間が道徳的に不完全だから、自由に悪を選んだことによって生じたわけである。人間は操り人形ではない。その人間が自由に選んで悪を行ったのだから、それに対してとがめられるのは神ではなくて人間である。
また苦難を通して人は成長していく。苦しみに対処することによって人間は成長する。
だから神は苦難を許したのだ。苦難は苦しむ者にとって常に益となる。

つまり、人生を神が用意した学校と考えて、未完成な初心者が成熟した成人に仕上げられる場と見るわけです。自然悪、つまり災害も人間の成長を促すために必要なわけです。困難に耐え、立ち向かい、打ち勝ち、克服すること、それが神の国への道ということです。
ですからこういうことを言う人がいます。
「神はあなたの人格を強くするためにお子さんの死を許されたのです。」

そう言われても、そもそも人間ははたして成長するものだろうかという疑問を感じます。成長主義的楽観論と言えないでしょうか。

かりに苦難が人を成長させるとしても、「人類を苦しめる悪がこれほど多いことは解けない謎だ」。やはり「どうして」という疑問は生じます。それに対する答えが終末ということです。

我々は全体の中のごく一部しか見ることができないから、なぜという疑問を生じる。しかし、私たちには説明がつかないことも、神には説明ができる。終末には苦しみの意味がすべてが明らかになる。今は完成に至る道の途中にすぎない。終末にはすべての悪がかすんで、犠牲者や苦しんだ人たちも些細に思えるようになる。

パウロの言葉です。
「わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる」
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」

これもやはり楽観的すぎるように感じますので、終末論的楽観論としましょう。
キリスト教では生まれ変わりということは説きません。一回限りの生です。となると、せいぜい百年の人生で完全に成長するというわけですが、そんなことはあり得ません。そうして、死んだ時点では成長が完成していないのに、終末で急に完成するというのも変な話です。

そこで、生まれ変わりをくり返しながら、少しずつ成長して、最終的に完成するという考えを主張する人がいます。つまり、成長が完成した時点が終末というわけです。
この考えを生まれ変わり楽観論と名づけましょうか。

この考え方はニューエイジで説かれる死後観と同じものと言えます。たとえば、レイモンド・A・ムーディ・Jr『かいまみた死後の世界』、イアン・スティーブンソン『前世を記憶する子どもたち』、ブライアン・L・ワイス『前世療法』など、臨死体験や退行催眠による前世の記憶から、死後の世界、生まれ変わりが科学的に証明したと主張する本が数多く出版されています。
そこで主張されていることは、人間は成長するために生まれてきたのであり、苦難は成長するための課題として生まれる前に自分で選んだということです。

これは成長主義的楽観論、終末論的楽観論、生まれ変わり的楽観論と同じようなことを主張しています。「神は悪の問題に答えられるか」を読んで、ニューエイジの死後観は神義論の一種だと気づきました。

キリスト教では生まれ変わりを説きません。しかし、ニューエイジでは生まれ変わりを主張しているわけで、キリスト教とニューエイジとは立場が死後観が違います。
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世『希望の扉を開く』には、ニューエイジはグノーシス主義だとして厳しく批判されています。
けれども、ニューエイジはキリスト教の土壌から生まれてものですから、臨死体験における光の存在や、死んでから生まれ変わるまでの中間生での指導霊など、神や聖霊を連想させます。
そして、アメリカでは生まれ変わりを信じる人が25%いるように、キリスト教の信仰と生まれ変わりを信じることは矛盾しない、キリスト教の立場で生まれ変わりを解釈できると考える人は決して少なくないわけです。

ニューエイジの死後観を飯田史彦は「生まれ変わり生きがい論」としてアレンジしています。飯田史彦は宗教とは関係がないと言っていますが、おそらく神義論を知らないのでしょう。

人間は成長する存在である。成長するためにこの世に生まれてくる。そのために、自分で課題を選んで生まれてくる。その課題がさまざまな苦難やハンデである。たとえば、身体障害、両親の離婚、仕事の失敗、失恋、性格など、それらはすべて成長するために選ぶ課題である。その課題をはたして人は死んでいく。そして、再び課題を持って生まれてくる。そのように生まれ変わりをくり返しながら人は成長していくのである。

もう少し詳しく説明しますと、魂が肉体にやどっていない状態(中間生=あの世にいる状態)のあいだに、指導役の魂たち(光の存在)の前で終えてきた人生を振り返って反省したのち、彼らの助言を参考にしながら、魂が自分自身で次の人生を計画を立てます。つまり、人生におけるさまざまな困難や苦しみはすべて生まれる前に計画ずみのことなのです。

「未発達の魂ほどくわしい設計図を必要とし、どの時点でどのような問題に直面して、どういう解決方法を選ぶと正解であるかということを、こまかく予定してから生まれてきます。」
「たとえ私たちが、人よりも困難な人生を送らなければならないとしても、かならずしも過去生で悪いことをしたために、それを償っているとはかぎりません。むしろ、わざと厳しい条件に身をおき、一定の試練を受けることによって、大きく成長する機会をもうけている場合が多いからです。」
「何度も生まれ変わって、地上でいろいろな経験をつむことによって、魂の進歩をはかるわけです」

そして、ソウルメイトという存在がいます。家族や友人などとして、何度も繰り返して関わり合う魂のことです。ソウルメイトと相談しながら、次の人生を計画することが多いそうです。

「それぞれのソウルメイトには、生まれる前に、「自分がこのような言動をとったら、あらわれてくれ」とか、「自分がこのような言動をとったら、こう対処してくれ」というお願いをしておきます。相手の人間は、その時、「どうしてなのかわからないが、なぜかそのような態度をとってしまう」というかたちで、自分の人生計画に協力してくれるわけです。」

この「生まれかわり生きがい論」によって、飯田史彦は「なぜ自分はこんな目に遭うのか」という問いに答えを与えています。その答えとは、「すべての試練は私が成長するために選んだものだ」ということです。

「自分がどのような人間で、どのような境遇にいるかということは、すべて自分の責任である。自分自身が、それを選んだ張本人なのだ」
「私たちは、この世という修行の場に、何度も何度もくり返し来訪しては、愛すること、許すこと、感謝することの大切さを学びます。人生とは、いわば、生まれる前に自分で作成しておいた、問題集のようなものなのです。それぞれの問題を、解くことができてもできなくても、正解は、問題集を終えるまでは見てはなりません。
人生という問題集を最後までやりとげた時、初めて私たちは、自分で用意しておいた正解と照らし合わせ、自分の成長度を自己評価することができます。そしてまた、解けなかった問題を解くために、あるいはいちだんと厳しい問題を解くために、自分自身で新たな問題集を編み、それをたずさえて、この世という修行の場を再訪するのです。」

今まで述べてきた成長主義的楽観主義、終末論的楽観主義、生まれ変わり的楽観主義、生まれ変わり生きがい論という解答は、一見もっともなような気がしますが、しかし私にはいずれも受け入れがたいものです。

「神は悪の問題に答えられるか」の回答者の中にも、楽観的すぎる答えに納得のいかない人もいます。
「いかなるすばらしい目的であろうとも手段を選ばず追求するのは良識に反する。」
成長を促すものだとして悪の正当化をしているし、人間の苦の現実を見ていないと言うわけです。
たとえば、ウイリアム・スタイロン『ソフィーの選択』です。ナチの強制収容所でソフィーは二人の子供のうちを一人だけ選べと言われます。一人はガス室送りです。子供のうちどちらかを選ばなければ、二人ともガス室へ送られてしまいます。ソフィーは自分の意志で一人を選びました。
このソフィーの苦しみにはどういう意味があるのでしょうか。このことによってソフィーは成長したのでしょうか。いかに成長するためとはいえ、許されるはずもないことではないでしょうか。

「どうしてこんな目に遭うのだろうか」という問いは、答えを得るための問いではなく、問い続け考えていくための問いだろうと思います。