1 悪の存在
神がいるっていうんなら、赤ん坊のエイズ患者の存在を説明させてみろ。(ジョー・R・ランズデール『テキサスの懲りない面々』)
児童虐待のニュースを見るたびに胸が痛みます。
ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』の中で、イヴァンが弟の修道僧アリョーシャに神の存在を問う場面があります。
虐待され殺される子供がいる、神が存在するなら子供への虐待をどうして許しているのか。
イヴァンは子供たちの苦しみを許す「神の創った世界を承認しない」と言います。
なぜ子どもたちは苦しまなくっちゃならなかったのか。なんのために子どもたちが苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか、まるきりわかんないじゃないか。いったいなんのために子どもたちは、だれかの未来の調和のための人柱となり、自分をその肥やしにしてきたのか。(略)
もしも、子どもたちの苦しみがだ、真理をあがなうのに不可欠な苦しみの総額の補充にあてられるんだったら、おれは前もって言っておく、たとえどんな真理だろうが、そんな犠牲に値しないとな。
https://michimasa1937.hatenablog.jp/entry/20120229/p1
なぜ今も人種差別があるのでしょうか。
そもそも奴隷制度という悪がなければ、奴隷が苦しむことはありませんでした。
キリスト教の神は全知全能であり、完全な善です。
世界は全能かつ完全に善なる神によって創造されたのだから、神の創造した世界や人間は完全であり、善であるはずです。
もしもミスがあれば速やかに修正して、悪を未然に防げるはずです。
ところが、神が創造した世界には悪が存在します。
イブを誘惑した蛇がなぜ存在するのか」
災害で多くの人が死傷し、財産を失うのはなぜか。
なぜ一般人が戦争に巻き込まれて難民になるのか。
飢饉に襲われて餓死する人がなぜいるのか。
神が人間のために作った世界に、なぜ有毒植物や人間危害を加える動物がいるのか。
世界は理不尽で苦しみに満ちています。
世界は完璧だとは思えません。
なぜ神は罪を犯す人間をなぜ造ったのでしょうか。
なぜ神は悪を許すのでしょうか。
もし神が悪を防ぐことができ、しかも防ぎたいと思うなら、なぜ悪は存在するのか。
この問いを18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームはこういうふうに言っています。
「神は悪を阻止しようとする意思は持っているが、できないのだろうか。それならば、神は能力に欠けることになる。それとも、神は悪を阻止することができるが、そうしようとしないのだろうか。それならば、神は悪意があることになる。悪を阻止する能力もあり、その意思もあるのだろうか。でも、それならはなぜ悪が存在するのだ」
なぜこの世界に悪があるのかという問いにイエスは何も語っていないそうです。
リン・バーバー『博物学の黄金時代』に、ヨーロッパの科学は自然を観察、研究することで神の世界創造の証拠を探ろうとし、結果的に神の存在を否定することになったとあります。
チャールズ・ダーウィンはこう書いているそうです。
生物の変異性にも、自然淘汰の作用にも、何の構想もない。(フランシス・ダーウィン『チャールズ・ダーウィンの生涯と手紙』)
進化論とは、一切は偶然だということであり、神が介在する余地はありません。
イヴァンが神を否定できたら悩むことはなかったでしょう。
2 神義論
苦悩はその原因が発見されないかぎり、人々を不安にする。(エリアーデ『永遠回帰の神話』)
理不尽な出来事に遭った時、「何でこんなことに・・・」と思います。人は苦の原因を知り、苦しみの意味を求め、そうして苦を受け入れようとします。しかし、「なぜ」という問いの答えはありません。
そうした答えのない問いに物語で応えるのが宗教だと思います。
悪が存在するにもかかわらず、神が正しいことを証明しようとするのが神義論です。
本多峰子「新約聖書と神義論の問い」に、
①神は全能である。
②神は善である。
③この世に悪が存在する。
④神は全知である。
という4つの命題の矛盾を解き、悪の存在は全知全能絶対善なる神の存在や、その神による世界の創造の反証にはならないと示すことが神義論の課題だとあります。
4 道徳悪と自然悪
まず、悪とは何かについて。
本多峰子「悪の問題にむかう 神学と文学における考察に関する試論」に、「善と悪の関係について、大きく分けて一元論と二元論が考えられる」とあります。
一元論は、世界を究極的には善と考え、悪は善の欠如、影、対立はするが、結局は善に支配されるものと考える。宇宙は究極的には調和していると見る。悪は一見悪に見えても、総体的に見れば善であることがわかる。
『ヨブ記』では、神はサタンに好きなようにさせます。
二元論は、この世を善と悪との闘争の場と考える。善と悪とはまったく妥協の余地なく対立し、片方が他方を打ち負かすことによってしか克服できない。
二元論はゾロアスター教やマニ教です。
キリスト教は一元論の立場なので、悪が存在することが問題となります。
悪は道徳悪と自然悪の2種類に分けられます。
道徳悪とは、道徳的規範から逸脱した行為によって引き起こされる人間の邪な行為である。殺人、窃盗、嘘、傲慢、嫉妬、貪欲、争いなど。
自然悪とは、自然の災害や病気によって引き起こされる痛みや苦しみである。地震、疫病、飢饉、洪水など。
5 キリスト教の答え
こうした悪はどうして起こるのか、宗教はさまざまな答えをしています。
本多峰子「悪の問題にむかう 神学と文学における考察に関する試論」は、「神が全能かつ善であるならば、なぜ悪が存在するのか」という問いの答えを4つあげています。
①神は全能であり、しかも善であるが、それと悪の存在は矛盾しない。
②神は全能であるが、完全に善であるわけではない。
③神は善であるが、全能ではない。
④神は善ではないし、全能でもない。
①の「神は全能でありしかも善であるが、それと悪の存在は矛盾しない」という見方を保持する立場には次のようなものがある。
a われわれの苦しみは神の罰である。
b すべては神の神秘であり、人間の知の及ぶものではない。すべてに神の摂理があると信じて受け入れるべきである。
c 神は人間に自由意志を与えた。人間はその自由意志の濫用で堕罪を犯し、それゆえいま悪がある。(アウグスティヌスの立場)
d 悪の存在は人間の成長の糧となり、人間を完成に導くために不可欠である。(イレナエウスの立場)
e この世は、理論的にありうる限りで最善の世界である。
f 自由意志論と、成長の糧論の混合。
この6つの説について説明します。
a「われわれの苦しみは、神の罰である」
神の罰について、三宅威仁「神義論の諸相」はこのように説明してます。
旧約聖書に、災難(軍事的敗北や自然災害など)は人間の犯した罪に対するヤハウェの罰であるという考えがあり、人々はそれを多かれ少なかれ受け入れていた。
病気を人間の犯した罪に対する神の罰として説明する場合を考えると、この説明では、どういう原因で病気になったのかという疑問に対する答えと、「なぜ他ならぬこの私が病気に罹らなければならなかったのか」という答えが一致していた。
しかし、近代においては、なぜ私がウイルスに感染しなければならなかったのかは説明してくれない。偶然としか言いようがないが、それでは苦難の「必然性」「当然性」を求める心理を満たしてくれない。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(『ローマの信徒への手紙』)
昔は宗教が科学でした。災害や病気の原因を教え、災害から免れ、病気を治す方法を宗教は教えてくれました。
また、災厄は信仰心が足りなかった、自分の行いが悪かったなどと考えるのが普通でした。自分の過去の行いだけでなく、前世や先祖の行いもバチの対象でした。
しかし、現代では病気は細菌やウィルスが原因であり、多くの人は神のせいだとは考えないと思います。
本多峰子さんは、われわれの苦しみは神の罰であるという見方は、苦難にあう者は罪があるという偏見につながる可能性があり、取るべきではないと否定します。たとえば、ハンセン病は天刑病と言われていました。
しかし、ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』でイヴァンが言うように、子供が神によって罰せられるのはおかしいです。
b「すべては神の神秘であり、人間の知の及ぶものではない。すべてに神の摂理があると信じて受け入れるべきである」
神の摂理とは、神の計画であり、その計画によって目標に導くことです。『神は悪の問題に答えられるか』に、神の摂理について書かれています。
我々は全体の中のごく一部しか見ることができないから、なぜという疑問を生じる。しかし、私たちには説明がつかないことも、神には説明ができる。終末には苦しみの意味がすべてが明らかになり、苦しんだ人たちも些細に思えるようになる。今は完成に至る道の途中にすぎない。
D・B・クレイビル、S・M・ノルト、D・L・ウィーバー-ザーカー『アーミッシュの赦し』にこうあります。
神は人に選択の自由を与えているが、最終的な支配者は神であり、特定の目的のために何かを起こしたり、起こるのを許したりすることがある。神が描く全体像をもし見られるならば、現時点で現れた悪は、やがてより大きな善に取り込まれるはずである。神が司る世界では、悪が起こる理由を知りえない。
パウロ「わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる」(『コリントの信徒への手紙』)
ジェフリー・S・ローゼンタール『それはあくまで偶然です 運と迷信の統計学』はそうした考えを批判しています。
「神は私たちに自由意志を与えた。だから、戦争や殺人や迫害といった、人間によって引き起こされた悲劇は説明がつくと言う人もいる。けれど、人間ではなく自然の力によって引き起こされた悲劇はどうなのか? 全知全能で、無限の慈悲心を持つ神がいるのなら、そのような悲劇はどうすれば説明がつくのか? 悪魔の仕業だとか、私たちを試す神のやり方だとか、神は私たちにはとうてい理解できない奇妙で謎めいた形で振る舞うといか主張する人もいるかもしれない。けれど、こうした返答のどれ一つとして、あまり説得力があるようには思えない。むしろその逆で、良いことはすべて神のおかげとしながら、悪いことはいっさい神のせいではないとする、「バイアスのかかった観察」の運の罠という欠陥を抱えている」
運の罠とは、間違った結論を引き出させかねない状況のことです。
永井隆『長崎の鐘』(昭和24年刊)に、長崎への原爆投下は神の摂理だと書かれているそうです。
「米軍の飛行士は浦上を狙つたのではなく、神の摂理によつて爆弾がこの地にもち来たらされたものと解釈されないこともありますまい。(略)これまで幾度も終戦の機会はあつたし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかつたから神は未だこれを善しと容れ給わなかつたのでありましよう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人間の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下させ給うたのであります」
原爆によって死傷した多くの人たちは戦争を終結させるためだったと、永井隆は考えたのです。これほどの犠牲者を神はなぜ必要としたのか理解不能です。
ジェフリー・S・ローゼンタールが言うように、なぜ災害で大勢が死亡するのか、なぜ戦争で大勢が殺されるのか、そうしたことの理由が終末ですべてが明らかになるという説明は説得力がないように思います。
c「神は人間に自由意志を与えた。人間はその自由意志の濫用で堕罪を犯し、それゆえいま悪がある。(アウグスティヌスの立場)」
アウグスティヌスは悪がなぜ存在するかという疑問の答えとして、自由意志論を提唱しました。
自由意志論を「神義論の諸相」は次のように説明します。
「この世界に存在する悪や苦難は神が作り出したものではない。神の創造した世界にはもともと悪や苦難は存在しなかった。神は人間に自由意志を与えた。自由意志とは道徳的に意味のある決断において善か悪のいずれかを自発的に選び取る能力である。神は人間に善も悪も行い得る能力を授けて、自由に行為するように任せた。しかし、残念ながら人間が自由意志を濫用し、道徳悪を、従って苦難を作り出した。
神は人間に自由意志を与えると同時に、善ばかりを選び取るように強制することはできなかった。自由と強制は論理的矛盾であり、同時に存在することはできない。いかに神でも論理的矛盾を犯すことはできない」
神は人間に自由意志を与えた。人間は神の操り人形ではない。人間が自分の意志で悪を行うことを選んだのだから、神には悪や苦しみに対する責任がない。とがめられるのは人間である。
C・S・ルイス「神は全能であるが、神の全能もこの堕罪を防ぐことはできなかった」
自由意志を与えながら、堕罪を犯させないように人間を縛るのは、自由を与え、同時に自由を与えないという論理の矛盾である。
「神義論の諸相」に、反有神論者の批判への反論が紹介されています。
「全能者は何でもできる」という主張は誤りであり、いかに全能者といえども論理的な矛盾(丸い四角を作るといったような)を犯すことはできない。全能で絶対善なる存在者であっても、何らかの悪を排除したためにより大きな善まで排除することになる、あるいはより大きな悪が発生することになる場合、その悪を排除しないと考えられる(逆に言えば、より大きな善の発生に貢献する場合、より大きな悪の発生を阻止する場合、より小さな悪は容認される)。
タイムトラベルしてヒトラーを子供の時に殺したら、世界はもっとひどい状態になったという歴史改変SFのような考えです。
児童虐待という悪を排除して生じる、より大きな悪があるのかと思います。ナチによるユダヤ人虐殺も小さな悪とは言えません。
自由意志論に対する反論が「悪の問題にむかう」に4つあげられています。
ⅰ 自由意志で善のみ行なう者もありうるはずだし、全能の神ならばそのような者のみを作れたはずである。
ⅱ 悪が全くない無垢の状態に作られたものが悪を行なうということは矛盾している。
ⅲ 自由はそれほど与えられていない。人間はそれほど自由ではない。
ⅳ 生物の進化などを見れば人間の進化も、低次から高次へと完成に近づくと見るほうが自然であり、人間がまず完全な形で作られ、堕罪を犯し、それを贖うために神の御子が受肉して十字架にかかったという教義自体信じられない。
自由意志論にはいろんな疑問が浮かびます。
常に善を選ぶ存在として人間をなぜ造らなかったのか。
人間は知識や能力が不完全で判断ミスや失敗を繰り返し犯す。
犯罪被害者は自分の意志で犯罪に巻き込まれるわけではない。
赤ん坊は善や悪を選択できない。
どの選択肢を選んでも悪を生み出すこともある。
ウイリアム・スタイロン『ソフィーの選択』では、強制収容所でソフィーは息子と娘のどちらをガス室に送るか選べと言われます。選ばなければ2人ともガス室へ送られます。
ジャン・バルジャンは飢えた子供のためにパンを盗みました。
依存症者は自分の意志で依存をやめることは困難です。
そもそも、人間は常に善を選ぶことができるものでしょうか。パウロの言葉です。
「肉の望むところは御霊に逆らい、御霊の望むところは肉に逆らう」(『ガラテヤ人への手紙』)
「わが欲するところはこれをなさず、かえって我が憎むところはこれをなすなり」(『ローマ人への手紙』)
「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているのですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」
夏目漱石『こゝろ』を引用するまでもなく、人間は何をするかわからない存在です。人間にいつも最善の選択ができるわけではありません。なぜ神は人間を不完全なものとして造ったのかと思います。
スティーヴン・T・デイヴィス編『神は悪の問題に答えられるか』は、もし神が悪を防ぐことができ、しかも防ぎたいと思うのならば、なぜ悪は存在するのかという問いに、5人の神学者がそれぞれの悪の問題についての考えを論じ、そして他の4人がそれを批判し、さらに批判への反論が書かれています。
有神論とは、「世界は全能かつ完全に善なる一個の存在によって創造されたのだ、という信念」です。
有神論はキリスト教だけでなく、ユダヤ教やイスラム教もそうです。
スティーヴン・T・デイヴィス「自由意志と悪」
スティーヴン・T・デイヴィスは自由意志論者だそうです。
神が宇宙を作った主な目的は2つある。
・有り得る限り最高の宇宙を作ること。
道徳の善と自然の善が道徳悪と自然悪とに有り得る限り最善のバランスで勝っている宇宙を作ること。
・神に造られた人間が神を愛し神に従う決心をするような宇宙を作ること。
神はもともと悪のない世界を作り、人間を、自由な道徳的選択ができる仕組みを備えて、自由意志論者の自由をもつように作った。
人間は神に従うこともできた。
自由に善を行う可能性には、必然的に、自由に悪を行う可能性が伴う。
しかし、人間は罪に堕ちてしまった。
道徳悪の存在についてとがめられるべきは神ではない。
私たちを自由にした神の政策決定は賢いのです。私たちが自由に行為できるということは結局は、たとえ私たちが時に誤るとしても、私たちがいつでも良いことばかりをするようにプログラムされた無実の自動人形として作られたよりも、良い結果を生むからです。神の決断は、賢かったことが判明するでしょう。最終的にそこから生まれる善がきっと、そこから生まれる悪を凌駕するからです。終末には、神が最良の道を選んだことが明らかになるでしょう。
自由意志論の弁護者が主張しなければならないことは2つ
・最終的に存在するだろう悪の量は最終的な善の量に凌駕されるだろうということ。
・善が悪を上まわるという好ましいバランスが神によって得られるには、これが唯一の道であったということ。
世界に存在するすべての道徳悪は神が創造した自由な道徳的行為者の選択による。そして、神が創造し得たいかなる他の世界も、この現実世界に実現されるだろう善と悪の釣り合いよりも良い善悪のバランスをもつことはなかっただろう。
反対意見
①なぜ全能の創造主が常に自由に善を選ぶ自由な生き物を作れなかったのか。
②人間が創造された時には、道徳的に完全に善だったなら、人が罪を犯すという事実をどう説明するか。
③道徳悪の存在を説明できたとしても、自然悪については説明できない。
これらの反論に対するデイヴィスの説明は、ある命題が論理的に正しいか正しくないかを論じているだけのように感じます。
自然悪への神の介入は頻繁にあってはならない。
人間が楽しい経験しかしない世界では、物事には善いものと悪いものがあるという道徳意識はほとんどか全くない。
他の人に対する同情や、他の人を助ける機会もなくなる。
神を愛し神に従う理由もほとんど感じなくなる。
苦難を通しての成長もなくなる。
「自然悪―病気の痛み、自然災害の突発的で予測不可能な破壊、老齢による衰弱、差し迫った死―は人間の自己満足を取り去ります。自然悪は人間を謙遜にし、自分の弱さを認識させ、現世の物質のはかなさを考えさせ、彼の愛情をこの世のものから離し来世のものに向けさせます」
このエレオノーア・スタンプの言葉をスティーヴン・T・デイヴィスは引用し、こう説明しています。
「神の創造の目的のためには、いくらかの自然悪が存在しなければならないということです」
何万人もが死亡する地震がありますが、これは「いくらかの自然悪」なのでしょうか。
アルヴィン・プランティンガのように、サタンのせいにしたほうがましです。
サタンが神に反抗して、できる限りの破壊行為をしてきた。その結果が自然悪である。
災害や伝染病といった自然悪を生き延びた人なら、自然悪から教訓を学ぶかもしれません。
では、死んでしまった人はどうなのか。
終末で神の御心が明らかとなり、天国で贖われるそうです。
悪の力は依然として世界に存在します。その最終的敗北は、キリストの再来まで起こらないでしょう。それで、私たちは、悪がはびこる時代に生きて、私たちの最終的な贖いを待ち望んでいるのです。
贖いの道は2つある。
・悪の中には、神の御国の偉大な善を生み出す契機として神に用いられるものもあるでしょう。
・神の御国では、すべての悪が克服され、超越され、霞んで些細に見えるようになるでしょう。
第二について、人々は神の御国の視点から振り返って、過去の苦しみはすべて、どれほどそれが厳しく長く不当に課せられたものであろうとも、克服され、もはら問題ではないとわかるでしょう。
パウロ「ローマの信徒への手紙」
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」
D・Z・フィリップスは反論に、『ヨブ記』のヨブは最後には多くの子供を持つからといって、めでたしだとは言えないと書いています。
「子供が取り替え可能な部品のように考えるのは、精神的には、機械的で野蛮です」
戦争や環境破壊で人類が滅亡しても、天国で贖われたら、それでめでたしということかもしれません。
④成長の糧論「悪の存在は人間の成長の糧となり、人間を完成に導くために不可欠である。(イレナエウスの立場)」
本多峰子「悪の問題にむかう」に、イレナエウス(130年頃~202年)の見解が述べられています。(イレナエウスはラテン語、ギリシャ語だとエイレナイオス)
アウグスティヌスが堕罪前の人間は完全であったと考えたのに対し、イレナエウスは人間は不完全であり、善と悪とを両方とも体験することによって、善をよりよく理解するようになり、成長し完成に至る、と見る。
ジョン・ヒックはアウグスティヌスの自由意志論の立場に異議を唱え、イレナエウスの立場をとって、二段階創造説を提唱しました。
二段階創造説を三宅威仁「神義論の諸相」にこのように説明します。
人間はまず神の「形」に造られ、次第に「似姿」になっていく。
第1段階 進化の過程の末にこの世界にホモ・サピエンスが登場した。これが人類創造の第1段階であり、人間が神の「形」として創造された。
第2段階 神の「似姿」になったときに神を知り、常に善を行う可能性を現実化できるようになる。
ジョン・ヒック「エイレナイオス型神義論」(『神は悪の問題に答えられるか』)はこのように説明しています。
なぜ神は人間を善で自由な存在として創らなかったのか。
なぜ人類は最初からすべての徳をもって創らなかったのか。
不完全でまだ発達途上の被造物として創らねばならなかったか。
それは、苦難を経験することで完全な存在になるから。
人生を未完成な人間が成熟した成人に仕上げられる神が用意した場と見る。
神の目的が最も価値のある種類の道徳的善を具現する有限な人間を創造することだとすれば、困難と誘惑を努力で克服して正しい決断を積み上げた結果、形成された徳は、苦労せずに得られた徳よりも価値がある。
悪は、困難に耐え、立ち向かい、打ち勝ち、克服することによって人間の成長を促すために不可欠とされる。
自然悪は、互いに助け合い、思いやり愛し合うことを求める世界には欠かせない。
危害を加えられたり、痛みや苦しみを受けたりすることのない状況では、善い行為と悪い行為の区別は存在しない。
世界に避けるべき危険もなく、勝ち得るべき報いもなければ、人間の知性や想像力の進歩も全くなく、科学も芸術も、文明も文化もなかっただろう。
つまりは、神はこの世界は試練の中で人格を鍛え上げていく場にしたから、困難や危険、悩みや苦しみがなければならない。
人間は誤った行為をして、人や自分を傷つける経験をして、人格的に成長する。
だから、神は悪の存在を認めた、ということです。
本多峰子「悪の問題にむかう」に、ジョン・ヒックへの批判がまとめられています。
ⅰ この理論は、生まれてすぐに殺されてしまった赤ん坊や幼児の苦難を正当化できない。魂を成長させるどころか逆に精神的に人間を立ち直れなくするほどの苦痛にも何ら答えとならない。精神障害を伴う病気などはどう考えればよいのか。
ⅱ なぜ、神は何億年もかけて人間を完成に導かねばならなかったのか。その何億年の間には、おそらく全く不必要な苦難がたくさんあったのではないか。
ⅲ ⅰと関連して、世界には、人間の精神的成長のためならば、これほどの量の、しかも、これほどひどい、人間の人間性を破壊するほどの苦痛は必要だろうか。
これらの批判にジョン・ヒックは、エイレナイオス型神義論が前提とする神の目的の実現は、人が死後も生存し、最終的な状態に向かって成長することを想定しており、終末の成就なしにはこの神義論は成り立たないと、天国を持ち出す。
人間は成長するために生まれてきたのであり、苦難は成長するための糧であるというジョン・ヒックの考えにいくつかの疑問を持ちます。
『ソフィーの選択』のソフィーは、ガス室に送る子供を選択し、そうして自殺することで成長したのでしょうか。
もしもそうだったら、子供たちはソフィーが成長するための手段になります。
成長を促すものだと悪の正当化をしているとしか思えません。
「創世記」にある神の創造説と、生命が十数億年をかけて進化したという進化論の両立は困難だと思います。
神がホモ・サピエンスを創造したのなら、どうしてアウストラロピテクスやホモ・エレクトス、ネアンデルタール人など人類と無関係なのでしょうか。
ジョン・ヒックは個人の成長と人類の完成をごっちゃにしていると思います。
キリスト教は生まれ変わりを説かないので、せいぜい百年という一回限りの人生で完全に成長することはあり得ません。
死んだ時点で完成していないのに、終末で急に完成するというのも変な話です。
生まれてすぐに死んだ赤ん坊はどういう経験を学ぶのでしょう。
虐待されて育つより、もっといい経験のほうが成長を促すと思います。
二段階創造説は、生まれ変わりをくり返しながら霊性の向上させ、最終的に完成するというニューエイジやスピリチュアルと似ています。
人類が成長するとしても、アブラハムから何千年か経ってるのに、現在の状況を見ると、人類が完全な存在になるまでには無限の時間がかかりそうです。
そもそも、人間は成長するものでしょうか。
終末とは最後の審判です。
ユダヤ教の天国とキリスト教の天国は同じか、異なるか。
あるいは両方が併存しているか、どちらか一つだけか。
もしもキリスト教の天国しかないとしたら、アウシュビッツで殺されたユダヤ人は地獄へ堕ちるのか。
キリスト教でも、カトリックとプロテスタントと東方教会の天国は別々に存在しているのか。
プロテスタントには多くの宗派があるが、それぞれの教えに合った天国があるのか。
創造説を信じるキリスト教徒と、進化論を信じるキリスト教徒、どちらも天国に行けるのか。
聖書に書かれていることはすべて歴史上の事実であるとは信じる聖書根本主義のキリスト教徒と、そのようには考えないキリスト教徒は天国に生まれることができるのか。
⑤「この世は、理論的にあり得る限りで最善の世界である」
本多峰子「悪の問題にむかう」に、ライプニッツは善と悪とのつり合いを考えれば「ありうる最高の世界だ」と言っているとあります。
スティーヴン・T・デイヴィスは『神は悪の問題に答えられるか』でこう書いています。
「この世界を造ることにおいて、神の方針が結局は最善だったと分かるだろうと考えることには何ら論理的にも道徳的にも不適当なことはないと思っています。」
スティーヴン・T・デイヴィスは新聞やテレビを見ないのでしょうか。
戦争に巻き込まれて命からがら難民キャンプに逃れる人たち。
国民を虐殺する親米独裁政権を支援するアメリカ。
ソマリアやハイチのような無政府状態の国。
そうしたことを知らないのでしょうか。
⑥自由意志論と成長の糧論との混合
本多峰子さんによると、リチャード・スウィンバーンは、人間の自由意志とそれに伴う責任の価値を、自由な選択を誤った時に生じる悪の深刻さを差し引いてもなおあまりある大きな善だと考える。
人生には勝つ者がいれば必ず負けるものもあり、それが論理的必然である。
その論理的必然のため、全能かつ善なる神でさえ、何もかもが善である世界を作ることはできない。
われわれはさまざまな選択をしながら、成長してゆく。
その選択において、善をなす可能性は多くの場合、悪の存在によって可能になる。
苦難は苦しむ本人には勇敢な行為と精神形成の機会を与えるものであり、他人のためになることもある。
それを考慮すると、全体として、苦難がないよりもあったほうが良い。
すべての苦難が報われる天国の存在を想定し、死後の埋め合わせと報いがある可能性を示唆している。
ジョン・K・ロス「抗議の神義論」(『神は悪の問題に答えられるか』)は、神義論が人間の苦難を、よりよいを成就するための道具と見なすことを批判しています。
赤ちゃんがエイズになるということを別の言葉に置き換えると、虐待された子供、災害で死んだ子供、餓死した子供、そんな子供たちは何を学ぶのでしょうか。
言論の自由がない独裁国家に生まれ、逮捕されて拷問によって死亡することを自分で選ぶ人などいません。
生き延びた人の中には精神的に成長する人もいるかもしれませんが、心の傷が一生残る人は少なくありません。
悪が自分が成長するための手段なら、他人の不幸を利用することにならないでしょうか。
小さな悪という言葉は費用対効果であり、これくらいの悪なら許されるということになります。
本多峰子さんは「世界にはなぜ悪があるのか、神は、もし存在するならば、なぜ悪の存在を許すのか、ということには、結論は出ていない。」と書いています。
神が完璧だという前提では、悪があることに対して神の義を主張しようとする試みはいずれも批判を免れてはいない。
⑦抗議の神義論
デヴィッド・レイ・グリフィンとジョン・K・ロスは、『神は悪の問題に答えられるか』で、この世に悪があることは神に責任があると主張します。
デヴィッド・レイ・グリフィンは神の全能を否定。
ジョン・K・ロスは神の完全な善性を否定。
全能であり完全に善である神は起こることをすべてはっきりと知っていて、創造の決断をしたという前提の神義論より、神は有限だとするほうが納得できます。
プロセス神学は、神は有限であり、全知でも全能でもないという考えです。
ヒュームやジョン・スチュアート・ミルも有限な神だと説いています。
ジョン・K・ロスは神義論の欠点をこう説明します。
「ほとんどの神義論は、悪を正当化するという致命的な欠点があります。(略)多くを言いすぎる傾向は、全ての苦難は受けるに値するものであると示そうとする神義論にはっきりとみられます。言い足りない傾向は神の測り知れない知恵と善に訴えて、幸福な結末を確約しようとする試みが見られます。」
完全な善である神は善しか創造したはずがないのであるから、悪の起源は説明できない。
アダムが自由意志で神に背いたわけですが、悪を選ぶ資質は持って生まれたものでしょうか、それとも後天的に生じたのでしょうか。
前者なら神は悪をアダムと一緒に創造したわけでしょうし、後天的なら子孫には遺伝しないので、原罪があると言われても困ってしまいます。
どちらにしても、アダムの間違った選択のために人類全体が苦しまなければならないというのは納得できません。
また、誰もが天国に生まれることができるという万人救済論が正しいとしたら、最後の審判は必要ないことになります。
地獄に堕ちる者がいるとしたら、地獄の苦を神は創造したことになります。
ジョン・K・ロスは神を否定しているわけではありません。
神を否定するからではなく、そのような抵抗が絶望から身を守るためにどうしても必要だからと認識しているからです。
抗議の神義論の原型は『ヨブ記』らしいです。
「ヨブは神を絶対的に信じつつ、その一方で、自分の苦難の原因が神であることもまた、疑っていません。そして、神に反抗しつつ、しかも従い続けようとしているのです。」
神を否定せず問い続ける、否定しないが免責もしない。
宗教は一人称、私にとって、ということだと思っています。
そのことは私にとって何なのか、どう受け止めるのか、ということです。
しかし、神は客観的実在だと考える人にとって、宗教は三人称です。
それだと、なぜ悪が存在するのかという問題が生じます。
神は全能か、限界があるか。終末にはすべてが明らかにされ報われるのか。
「どうしてこんな目に遭うのだろうか」という問いは、答えを得るための問いではなく、問い続け考えていくための問いだと思います。
ケネス・スーリンは、我々ができるのは、「われわれは、悪と苦しみを克服するために何をしているか」でしかないと言っているそうです。
スタンダール「神のできる唯一の弁解は、神が存在しないということだけだ」
カミュ「世界で起こっていることに神は責任があるかどうか」
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