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  オウム真理教
 生きがいについて(信者の言葉)

                                       
カルマの法則
村上春樹 『約束された場所で』 講談社

高橋英利 『オウムからの帰還』 草思社

カナリアの会 『オウムをやめた私たち』 岩波書店


大泉実成 『麻原彰晃を信じる人々』 洋泉社

村上春樹『約束された場所で』、高橋英利『オウムからの帰還』、カナリアの会『オウムをやめた私たち』では、オウムの信者や元信者がオウムや麻原について語っています。
麻原彰晃とはいったい何者なのでしょうか。詐欺師、俗物、悪人だと割り切ってしまえば、なぜ多くの信者がついていき、犯罪が明らかになっても、教団にとどまる信者がいるのはなぜか理解できません。


  1 オウム真理教の魅力

なぜオウムに入信したか、オウムではどういう修行や仕事をしたのか、麻原はどういう人物か、なぜやめたのか、あるいはなぜまだ留まっているのか。
これらの本を読むと、オウム真理教の魅力として
 悩みごとに対する答え
 きちんとした修行法によって得られる神秘体験
 麻原の指導力、人間性の魅力
 心の底から語り合える仲間
があげられています。これは新興宗教すべてに言えることです。


  2 入信の動機

オウム真理教に入信する人たちは他人や社会との違和感を持っています。自分はみんなと違っている、異質なんだと感じています。みんなが夢中になっていることに価値を見いだせない。だから話が合わない。
考え込んでしまう性格の人、理屈っぽい人、社会の不平等への怒りを覚えている人、そういう人が多いようです。

 高校生になると、話の中心になるのはだいたい遊びの話です。でも私はそのようなことにはまったく価値を見いだせなかったんです。だからそういう話に加わることができませんでした。

 心を開いて話せるような相手はいません。みんな受験勉強に熱中しているか、あるいは がらっと違って車とか野球の話とかばかりです。

 勉強自体は苦手ではなかったんだけれど、勉強することになんだかすごく抵抗がありました。つまり自分が学びたいということと、学校で教わることがあまりにも違っていて。


ですからオウムに入信する動機はまじめです。
村上春樹さんは
 オウムの場合、そこに入るにあたっては、ちゃんとその「善き動機」というのがあるわけですね。そして善き目的というのもある
と言っています。


  3 師と仲間

 オウムの本を読んでいちばん心地よかったのは、「この世界は悪い世界である」とはっきり書かれていたことです。僕はそれを読んですごく嬉しかった。こんなひどい不平等な社会は滅んでしまったほうがいいと僕もずっと思っていましたし。ただし僕が「世の中なんてあっさり滅んでしまえばいいんだ」と考えているのに対して、麻原彰晃はそうじゃなくて、「修行して解脱すれば、この悪い世界を変えることができるんだ」と言っているのです。これを読んで僕は燃え上がるような気持ちを持ちました。この人の弟子になって、この人のために尽くしてみたいと思ったんです。そのためなら現世的な夢も欲も希望もみんな捨ててもかまわないと思いました。

 実際にオウムに飛び込んでみておどろいたのは、自分と同じような悩み苦しみをもった人がじつに多く、しかもそうした悩みを包み隠さずに話しあうことのできる人ばかりだったことだ。僕はそれまで自分のなかで抱えもってきた精神的な問題を、一気に放出するような感じで話した。誰にも話さなかったことを、自由に、しかもかなり深く掘り下げて話すことができ、僕はとても満たされる思いがした。

オウムに入信することで仲間と師を見出した、つまり自分の居場所を見つけたわけです。


  4 疑問への答え

親や教師は疑問や悩みごとを質問してもきちんと答えてくれなかったり、突っ込んで聞くと怒ったりしたのに、オウムでは「
何事によらず受けた質問に対しては、実にきれいにさっと答えを返しています」。

 疑問もないんです。どんな疑問にも全部答えがあるんですよ。全部解けてしまっている。こんなことをやったらこうなるというようなね。どんな質問をしてもちゃんとすぐに答えが返ってきます。それですっぽりはまっちゃったんです。

 辛いことがあっても、その意味がいちいち細かく説明されているわけですからね。


何か疑問があった場合、なるべく簡単にわかりやすく説明してもらいたいと私たちは思います。でも河合隼雄によると「
全部説明がつく論理なんてものは絶対だめなんです。そやけど、普通の人は全部説明できるものが好きなんですよ」ということです。
悩み事を解決する方法を教えてくれる宗教はアヤシイと考えたらいいと思います。


  5 カルマの法則

どういう答えかというと、カルマということですべてを説明します。

 たとえばなにか悪いことが起こっても「あ、カルマが落ちた。よかったね」って言って、みんなで喜んだりします。失敗しても叱られても、なんでも「これで私の汚れが落ちたんだ」になってしまう。

 よくまわりの友だちなんかともそういうことを話しましたよ。ああいうの変だよねって。しかしそうは言っても最後には、「そういうことを考えるのは結局自分の汚れなんだ」とか「カルマなんだ」とかいうように納得して、そこで話で終わっちゃう。だから何か疑問が頭に浮かんでも、悪いことは全部自分の汚れ、逆に良いことがあると、「これはグルのおかげだ」ということになっていたと思います。


ですから人がどういう形で死のうともカルマなんだから必然だと受けとめます。そして次の生でいいところに生まれればいいということになります。

 論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんですだからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います。

 親しい女性信者に質問してみたんです。「これだけいっぱい信者が死ぬというのは、いくらなんでも不自然じゃないか」って。そしたら彼女は「いや、そういう人たちは死んでもいいのよ。尊師は四十億年後に弥勒菩薩となって生まれ変わって、今死んだ人間の魂を引き上げてくださるんだから」と言いました。なんか無茶苦茶な話だなと僕は思いました。



  6 神秘体験

信者が麻原彰晃の教えが真実だと思い込んだのは、麻原の教えの通りに修行したら神秘体験を経験したからです。
元信徒の
広瀬健一死刑囚が「学生の皆さまへ」という手記を書いています。どうしてオウム真理教にはまったかというと、それは神秘体験の影響が大きそうです。

 私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした

「宗教的経験」とは神秘体験です。

広瀬健一は高校三年生のときに「生まれた意味」の問題を明確に意識するようになり、たまたま麻原彰晃の著作を読みます。
 偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みました.(略)
 本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一か月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
 眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
「クンダリニーの覚醒―」
 意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
 続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーとのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。(略)
 私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意思に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
 クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。

本を読んだだけで神秘体験を経験するとは驚きです。滝本太郎弁護士によると、中川智正死刑囚は子供のころから神秘体験を経験しているそうです。
 同人に特異なことは、幼いころからさまざまな「神秘体験」をしてきており、これが不安のままに成長してきたところ、麻原彰晃に出会ってしまったということであった。被告人としては、実際に前生の自分を見ていて、日常的に物理的に麻原彰晃が光っており、麻原彰晃を見ると心臓が喜び同心円状に体に広がっていった、と言うのである。(略)法廷で麻原を見るとやはり光り輝いて見えると言うのである(「オウム裁判10年を振り返る」)

広瀬健一死刑囚は出家した後にこういう体験をしています。
 私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立位の姿勢から体を床に投げだしての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
 この集中修行において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした。


また、入信後にこういう経験もしています。
 当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。この感覚の後には、気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした。

苦界、すなわち地獄の実在を信じ、より一層、麻原に帰依するようになったわけです
多くの信徒がこうした宗教的経験をすることで、「オウムは真実だ」と確信したのです。

広瀬健一死刑囚がオウム真理教に入信したのは、麻原の著書に
「複数のグル(修行の指導者)の指導を受けると、その異なるエネルギーの影響で精神が分裂する」と書いてあったからです。
実際、神秘体験によって「精神が分裂」することがあるそうです。たとえば真光。

 霊障とは怨霊など先祖の霊が現在の自分人生の邪魔をしている現象のことです。霊動とは手が自然に震えたり、涙が出たり、自分の意志には反して身体が動く現象のことです。浮霊とはその名の通り霊が現れる現象のことです。そこで起こる体の動きを霊動と定義しております。
が、私は霊動はただ手が震えたり、涙が出てくる程度のもの全般を霊動と言っております。浮霊すると目つきや言葉遣い、体力までもおかしくなります。はっきり言ってあのような状態の人を今思い出しているだけでも恐いです。

高橋紳吾『超能力と霊能者』に、S教団の手かざし治療を受けて憑依状態になって女性(B子)のことが書かれている。
 親戚の女性に勧められて、S教団の道場へでかけ、「○○のわざ」という手かざし治療をうけた。(略)そのときはなんとなく頭が軽くなり、気分が好転した。その日いらいよく眠れるようになったので、以後、会社の帰りに何度も立ち寄り、手かざし治療をうけるようになった。
三度目に行ったところ、B子の合掌している手が震えだし、しだいに身体が前後左右に揺れるようになった。それが「浮霊」現象で、B子に憑いている霊が浮かんできたことを示していると教えられた。またB子自身も他者に「○○のわざ」を行なうことができると言われた。
あるとき、妹にこれを行なっている最中、かざしている自分の手が勝手に動きだし、止まらなくなった。そして「私は○○という武士である」と言い、顔つきがすっかりかわって、激しく身体をゆさぶり、夜の街へ裸足で飛びだしていった。驚いた妹が追いかけ自宅に連れもどしたが、それからも「私は○○(祖母)です」と言ってみたり、架空の誰かに向かって会話するなどの興奮がおさまらなくなった。親戚の女性が駆けつけたり、教団の指導者が訪れて「わざ」をかけたが効果なく、一層激しく暴れるので父親に精神科へ連れてこられた。(略)診断は祈祷性精神病。もっとも教団のその後の弁明によればこれは「神鍛え」の状態であって、もっと熟練した導士に治療をうければなにも精神科に行く必要などなかったということになるらしい。

高橋紳吾氏によれば、このような事例に遭遇する精神科医は少なくないそうです。広瀬健一死刑囚の失敗は指導者の選択、相談する相手を間違ったということです。

大泉実成さんはオウム真理教の公開セミナーに参加して、三か月の修行をします。太り気味の体重が減り、タバコがほしくなくなり、酒量が減ります。神秘体験も経験しました。
信者がなかなか退会しないのは、信者のためのきちんとした修行法を麻原が作り出したこと、そしてそれを行うことで何らかの体験を得ることができるからではないかと、大泉実成さんは言います。

(麻原は)何らかのグルとしてのパワーと能力を持っていることは間違いないと思う。
彼は「慢」が人一倍強い性格だった。その「慢」が教団運営を続ける過程で肥大し、「最終解脱者」と自称し、ハルマゲドン予言をし、強引な布施集めに走らせたのではないか。そしてその「慢」はある時から被害妄想に転化し、その反動が武装化を生み、「他者」を巻き込む結果になってしまったのではないだろうか。


ニューエイジやスピリチュアル、あるいは宗教団体の中には、神秘体験を経験させようと瞑想などを勧めているところがあります。しかし、神秘体験を目的とすべきではありませんし、それにのめり込むことは危険です。要注意です。
また、麻原が人間を越えた存在だと信じている信者は、何かあっと驚くことをするに違いないと思っているのかもしれません。しかし、麻原がどんな能力を持っているにしても、人間に違いはありませんから、限界はあるのです。


  7 思考停止(自分で考えない)

確かに普通に考えれば無茶苦茶です。しかしそのことに気づかない。思考停止に陥っているのです。そして疑問を持つことは麻原や教えを疑うことだから疑問を持ってはいけないと思い込んでいるのです。

まわりにいる信者に「教団のこういうところはちょっとおかしいと思いませんか?」と疑問をぶっつけても、「それは教団についていくしかないですよ」という通り一遍の答えしか返ってきません。だから僕は、これはかなりの幹部の人にあたってみないとだめだと思ったんです。(略)
そしたら飯田エリ子さんが言いました。「私たちもそれは同じなのよ。でもグルについていくしか、私たちには道はないのよ」よと。
「あなたはグルのことがよくわからないのに、どうしてそのグルについていけるんですか?」と僕は彼女になおも質問しました。答えはやっぱり同じでした。「グルを信じて、とにかくついていくしかないの」ということです。


これは河合隼雄さんに言わせると「
絶対帰依です。これは楽といえば楽でいいです。この人たちを見ていると、世界に対して「これはなんか変だ」と疑問をもっているわけです、みんな。で、その「何か変だ」というのは、「これはカルマだ」ということで全部きれいに説明がついてしまうわけです。何も考えないし、言われたとおりにしていればいい。楽だし責任はないけど自由ではありません」

そう、オウムの信者たちは自由から、責任から逃避しているわけです。


  8 責任逃避

出家したすぐの時期には「功徳を積む」と言うんですが、主にこういう奉仕作業をやります。少しは修行もしますが、ほとんど作業です。でも教員のときとは違って、人間関係のしがらみなんて何も考えなくていいし、責任みたいなものもありません。いちばん下について、普通の会社の新入社員のように、上からやれと言われたことをひとつひとつやっていればいいだけです。精神的にほんとに楽だったです。

指示が出たらみんなでさっと動くとか、そういうのってあるじゃないですか。こういうの楽だなあって思いました。自分で何も考えなくていいわけですからね。言われたことをそのままやっていればいい。自分の人生がどうのこうのなんて、いちいち考える必要がないんです。


(出家をする動機として)
自分でものを考えなくていい。決断しなくていいというのはやはり大きかった。任せとけばいいんだぁって。指示があって、その指示通りに動けばいいんです。そしてその指示は解脱をしているという麻原さんから出ているわけですから、すべてはきちんと考えられているんです。

そういうオウムの人たちのことを、村上春樹さんは、
(オウムの人たちは)
みんな多かれ少なかれ「指示待ち」状態なんです。どっかから指示が来るのを待っている。指示がないというのは「自由な状態」ではなくて、彼らにとってはあくまで暫定的な状態なんです。
と言います。
なんだかBC級戦犯は似ていると思いませんか。実行したという罪はあります。しかし命令されたらその通りに行動するのが当然だと思い込んでいるのですから、責任があるのかどうか。


  9 無関心

オウムような閉じられた世界に入り込み、自分というものを捨ててしまうと、外の世界に関心を持たなくなります。

オウムの人たちの感覚から行くと、(地下鉄サリン事件をオウムが)やったやってないというのとは関係なく、それよりも自分が修行するかどうかが問題なんです。どういうふうに内側の開発をおこなっていくか、それが重要です。オウムがやったかやってないかよりも。

外の世界に無関心だということは、出家しているということで他の人に対して優越感を持つことと通じると思います。

教団の人はつい現世の人たちを見下ろしてしまうんです。ああ、みんなあれこれと苦しんでるな、でも自分たちは平気だみたいな。

サマナ(出家)の人たちって、徹底的に外の世界を嫌っているんです。外の世界で普通に生活している人たちのことを凡夫って言うんですが、凡夫は地獄に落ちるしかないんだとか、さんざん悪いことを言います。出家修行者なんて、たとえば外で他人の車にぶっつけたって、悪いとも思いません。こっちは真理の実践者なんだという感じで、相手を上から見下ろしています。

入信の動機がいかに立派なものであっても、結局は自分のことしか考えないという状態になってしまっているのです。


  10 誰でも可能性はある

オウムの人は特殊な人ばかりだとか、悪い奴だ、として排除していいものでしょうか。
河合隼雄さんは
つまり社会が健全に生きているということは、そういう人たちのいるポジションがあるということなんです。それをね、みんな間違って考えて、そういう人たちを排除すれば社会は健全になると思っている。これは大間違いなんです。そういう場所が今の社会にはなさすぎます。
と言っています。

そして村上春樹さんは
現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです。
と言います。

なんだか煩悩即菩提、煩悩がなければ真実に生きたいと願うこともない、ということと通じますね。

我々はオウム真理教にしろ死刑になるようなことをした人にしろ、そういう人をとんでもない奴だ、自分とは全く違う人種だ、と否定します。そのことで自分は大丈夫だと安心したいわけです。しかしオウム真理教が他者を排除して自分たちだけの世界に閉じこもったように、私たちもそういう人たちを排除したなら、結局同じことをしていることになるのではないでしょうか。


大泉実成さんは事件を報道するマスコミに批判の目を向けています。マスコミにとって大切なのは事実ではなく、大衆の興味をひく物語なのです。それは松本サリン事件の第一通報者である河野さんを犯人扱いした態度によく示されています。そして、我々一般大衆は自分たちとは異なったものに対して理解しようとはせず、常識を武器として抑圧します。

オウムを生んだのは、紛れもなくわれわれが属しているこの社会なのだ。彼らを一方的にパッシングするだけでは、なにも解決しないのは明らかである。

大泉実成さんにはエホバの証人の仲間になってその内実を書いた『説得』という面白い本があります。