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   犯罪報道

 浅野健一 『犯罪報道の犯罪』 講談社文庫

神戸の小学生連続殺人事件の容疑者である中学三年生の顔写真をある雑誌が掲載しました。それについて賛否両論の意見があります。賛成の人は「名前や顔が公けになることは、それ自体が罰であり社会的制裁だ」とか、「加害者の人権よりも被害者の人権を尊重にすべきだ」と言います。

しかし、そうした意見には賛成できません。どんな人であっても人権を尊重すべきです。例外を作れば、人権がだんだんと制約されていくからです。

逮捕された人が無実かもしれません。松本サリン事件の河野さんがその例です。
冤罪なのに犯人にされた人や家族が受ける被害は甚大です。家庭が崩壊し、仕事を失うことも珍しくありません。無実だと判明しても、その損失を取り返すことは難しいです。
ところが、犯人扱いをしたマスコミなどは責任を取ろうとはしません。そもそも、憲法では刑が確定するまではあくまでも無罪と見なされます。犯人扱いをしてはいけないのです。

また有罪であっても、人をさらし者にする権利は我々にはありません。加害者にも家族がいます。特に子供は大きな影響を受けます。
それなのに、容疑者の実名や顔写真が公開されますし、場合によっては経歴、住所、仕事、職場などまで報道することがあります。匿名で報道された少年事件でも、実名や写真を掲載する週刊誌があります。
ネットはもっとひどい状態です。加害者だけでなく、家族の名前や住所、電話番号まで拡散されます。時には、全然無関係の人の写真が間違ってネット上に出ることもあります。
慰安婦報道にかかわった元朝日新聞記者がネット上で攻撃され、高校生の長女の写真が名前とともにネット上にさらされ、「売国奴の娘」「自殺するまで追い込む」などと中傷されました。

学校でのイジメを問題にしながら、いじめた本人や家族の名前や写真をネットでさらすように、加害者の家族を集団リンチのようにして責めます。自分がしていることが悪質なイジメであることだとわかっていないのでしょう。加害者の家族が自殺しても、こうした人やマスコミはやりすぎたと反省しているようには思えません。

加害者ばかりではありません。被害者に対しても同じことが言えます。
被害者の人権がないがしろにされていると言いながら、被害者の私生活を暴き出すことも珍しいことではありません。つくば市の医師の妻子殺しや東京電力の女性社員殺し、桶川市のストーカー殺人事件など、こうした例はいくらでもあります。これからも増え続けることでしょう。

匿名でいやがらせの手紙、電話、ネットへの書き込みをする人は、犯罪被害者にも遠慮しません。被害者宅にいやがらせの電話をし、手紙を出します。被害者が損害賠償の請求をすると、「子どもの命を金で売るのか」といった誹謗中傷を受けます。

踏切事故でお子さんを亡くした人がJRに賠償請求をしました。その踏切は以前にも死亡事故があったのに、警報機すらついていませんでした。
実名報道だったために、2ちゃんねるでは「親がバカだから子どももバカなんだ」などと中傷する書き込みが大量に書かれました。事故の状況をまったく知らず、誤解しているのに、平気で被害者を傷つける書き込みをするわけです。
裁判は原告の勝訴となりました。「バカと書いてまずかったな」と少しは反省したらいいのですが。

犯罪の報道の場合、殺された人は実名、写真入りで報道されますが、怪我をした人は匿名です。なぜでしょうか。家族にとってみれば、死んだということで大きく傷つけられることに加えて、さらし者にされるわけですから、二度殺されるようなものではないでしょうか。
第三者である我々が名前や顔を知りたがるのは単なる好奇心であり、野次馬根性、のぞき趣味にすぎません。すべて他人事だと思っているからです。

『犯罪報道の犯罪』を読んで、当然のことだと思っていた実名報道が、多くの人の生活を壊し、時には自殺にまで追い込んでいることを教えられました。スウェーデンでは匿名報道が原則(政治家の汚職など権力者の犯罪は別)なんだそうです。

「加害者に人権はない」と言う人は、自分は絶対間違ったことはしていないし、これからもしない、と思っているのでしょう。自分自身が正義であり、善である、間違えることや失敗することはないと、高みに立って裁いているようです。
しかし、自分は悪いことはしないと言いきることができるでしょうか。自分は大丈夫と確信している人でも、家族や親戚などに罪を犯す人はいないとは言い切れないでしょう。

犯罪報道では被害者はもちろん、被疑者も基本的には匿名にすべきだと思います。続編である『匿名報道』や『犯罪報道の再犯』なども合わせて読んでいただけたらと思います。