真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  仏教について

オウム真理教はニセモノの宗教で、仏教はホンモノの宗教だ、などという区別は、しょせん仏教者の独りよがりにすぎない。  末木文美士『仏教VS.倫理』



動物が迷信を知らないことは、ほとんどまちがいない。  H・ベルグソン『道徳と宗教の二源泉』



理想的な教師であるならヒントを与え、生徒に自分で考えさせて答えを出させる。しかし教祖はそれでは商売にならない。こちらがきっちり答えを出し、子羊を導いてやらなければならない。  篠田節子『仮想儀礼』



仏教は「道に迷ったもの」に正しい方角を指し示すものであって、道を歩くのは本人であるという前提がある。 植木雅俊『仏教、本当の教え』



あんたは仏法を喜んでるんやない。今の境遇がええから、それを喜んでるだけや。勘違いしたらあかん。今のええ境遇が全部くずれても、喜べるもんがあるなら、それがほんまに仏法を喜んでるこっちゃと思います。  松井憲一



命名とはすなわち、願いをこめることと近いはずだ。  伊坂幸太郎『
重力ピエロ



人間の一番深い本質的な願いは、生き合うていても、生き合いがわずらわしいといって逃げださなくてもいいような私になる道はないかということではないでしょうか。 広瀬杲



ひとことで浄土真宗の信心、浄土真宗の教えは何かと尋ねられるならば、私は眼を与えられることだと、こう言ってよいのでないかと思います。 広瀬杲



誰に代わってもらう必要もない大切な一生であったからだと。こう自分の一生をいただいてゆける眼、それが信心ということでありましょう。 広瀬杲



物は考えよう 心は持ちよう というのは宗教ではない。 久保山教善



仏法を本当に聞くようになると、眉間の縦じわが横じわになる。 曽我量深



仏法を聞くということは、自分のなかに巣食っている傲慢性に気がつくと同時に、他の人びとを仰ぎ見ていくという道に立つということだと思います。  蓑輪秀邦『真宗門徒になる



阿弥陀如来が全世界を救うというのは狭い仏教の考え方であって、大乗の広い教えでは、阿弥陀如来の教えに目覚めたものはみんな菩薩となってこの世を救うはたらきをするのだ。   蓑輪秀邦『真宗門徒になる



願生浄土という方向が立てば、いろいろな苦悩もあれば苦労もあるけれど、明るい顔して困っていける。方向がわからんと困ったままだ。  訓覇信雄『傑僧訓覇信雄



火事で本を焼き、本は紙でできている、紙は焼けるという平凡な言葉の意味が本当にわかった。一つの言葉がわかるために色々な犠牲、無駄を必要とする。  太田久紀『仏教の深層心理



人間は煩悩のかたまり。タドンのようなもので、磨いても美しくならず、細くなり、芯まで真っ黒。磨くのをやめて、火を点じてもらえば、真っ赤な熱を発散し、人に喜ばれる。  岸本鎌一



真っ黒な石墨に圧力と熱を加えるとダイヤモンドになる。圧力と熱を加えてくれるのは仏である。  岸本鎌一



ここではっきりと言っておきたい。仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない。それを聞くことによって人間の質が向上するようなものでもない。人間のありのままの姿を知らせ、それを問うものである。仏教に出会うことによって見えてくるものに対して、どう生きていくかは、一人一人が決めることなのである。こうでなければならないということが一切ないのが仏教である。ただ一つ、あなたは仏になりたいのか、と問いかけてくるのである。仏教が私たちに要求するのは、ただそれだけなのである。  竹橋太「本願」



迷い抜いた人であればこそ、その言葉が迷うている私のこころを打つのだ。 藤元正樹『浄土論講義



聞法は、何度聞いてもびっくりする。   山岡操



供養とは、そのものを大切にし、尊敬し、礼拝する心。  竹中智秀



私が家を支えとると思っておるから、肩がこる。飲んで遊んでほぐすが、すぐこる。支えとるという被害者意識で肩がこる。支えられとることに気づくところに始めて家族がある。すまんなあというところに親子がある。仏の教えを離れると親子、夫婦も他人の寄り合いです。 安田理深



宗教とは私たちに本当に大切なことは一体なんであるのかを教えるものです。生活の中心を明らかにするものです。  尾畑文正『歎異抄に学ぶ



ミリンダ王「ブッダは涅槃に入って、いないのだから、供養しても意味がないのではないか」
ナーガセーナ「そのとおり。しかしブッダの法にの法によって迷いを離れるではないか。だから供養には意味がある」  『ミリンダ王の問い



広く恩を知るがゆえに供養す。 『大智度論



願心のはたらく領域、本願がはたらいているところが浄土なのです。  児玉暁洋「地獄(戦争)と餓鬼(欠乏)と畜生(恐怖)の無い国に



神通力とは、この「神」は精神の神、こころのこと。それが通じあう。心を通わせあう能力のこと。相手の苦しみ、迷いがよくわかる。自分のことと同様にわかりあえる。  亀井鑛『日暮らし正信偈



長年お育てをいただきながら、私は仏法に似ているが仏法でないものを求めていたことに気づかしていただいた。  平木正則



念仏で弥陀と私とを関係づけるのではなくして、念仏によって私と弥陀との因縁というものを知らしていただく。   金子大栄



自分を照らし出したものを仏として仰ぐ。  金子大栄



生は偶然であり、死は必然である。   金子大栄



仏法を聴聞し念仏を申すようになったならば、人間の一生涯というものに無駄がなくなるのである。またどんなことをやっても無駄がない。  金子大栄



凡夫はなにごとにつけてもすぐ行き詰まってしまう。そこから真宗が始まるのだ。私たちの心のなかに、懺悔ということが生じてくる。その懺悔が不思議なことにふたたび仏道実践の勇気を奮い起こしてくれるのです。   京極逸蔵



凡夫はのう、教えより自分の考えのほうを大事にするからのう。   藤解照海



人は、そのまじめさと純粋さに、迷うものなのでしょう。四衢亮『時言



平和は論じるものでなく、生きるものなのでしょう。四衢亮『時言



大人というのは、その子どもの時代のことをすっかり忘れ、子どもがわからなくなった者です。四衢亮『時言



私たちの側に真実があるんじゃないんです。我々に真実がないから真実になっていこうということでもないんです。
私たちの側にあるのは事実です。真実とは事実を明らかにし、事実に目を覚まさせるはたらきが真実です。私たちが真実になるんではないんです。我々の側には目を覚まさせなければならない事実があります。  四衢亮



お寺の話は聞いても聞いてもすぐ忘れてしまいますとか、右の穴から入って左の穴からすぐ抜けてしまいますと言われます。これが我々の事実ならそうなんだと思います。忘れることを心配されることはありません。忘れるからまた聞けるんです。忘れずに覚えていたら、ああ、あの話は前に聞いたと思って、まじめに聞かなくなるほど横着なのが私たちです。忘れるということは非常に大事なことです。忘れるからまた聞けるわけです。  四衢亮



宗教は主観的事実である。主観的事実とは、其の事実の正確なると否とを、私共の各自の内心に尋ねて決定すべきものにして、彼の客観的事実の如く、私共が外物の関係、他人の意見等によりて、其の正否を断定すべきものではない。   清沢満之



じゃあ仏さまから与えられた生命だと言うんならば、仏さまから奪われても嫌とは言わないか。  桜部建



現代における愚かさは、知性なき愚かさではなく、知性に満ちた愚かさである。   藤元正樹



だれにもできないことが、ある人に可能と聞いて、それにだまされて迷うより、できないとして正しい教えに生きねばならない。   住岡夜晃



念仏して自己を充実し、国土の底に埋もるるをもって本懐とする。  住岡夜晃



私のような悪人ではと思う心、自力のはからいである。私のような悪人なればこそである。  住岡夜晃『難思録



罪悪感ならすわって考えてもできるか知らんが、機の深信は聞其名号信心歓喜と法を聞くより外には決して生まれては来ない。   住岡夜晃『難思録



「あるがままを受け取って念仏申す」ということは、ただ外に起きたことを、あるがままに受け取って念仏するだけではなく、内にまたどんなこころが起ころうと、内にどんな自分のすがたが見えようが、起きて来るままを受け取って念仏申すのである。   住岡夜晃『難思録



われわれは、少しでも割り切れぬことに出くわせば、何とかしてこれを割り切ろうとする。割り切ろうとするとは、白黒をはっきりして自分がよいものになろうとする。しかし人生は矛盾そのものであって、決してそのすべてを割り切ることは出来ない。そこで遂には行きづまる。   住岡夜晃『難思録



迷いとは、米を食って走り回る人間そのものである。死んだ人間は迷わない。  池田勇諦



釈尊の説法というのは、人間の夢を完全に破って、人間をして現実に帰らしめるということ以外に何もないのです。それ以外にもしあるのならば、それは仏法と言われる意味での宗教ではない。 広瀬杲『観経四帖疏講義』



教えに遇うことによって、教えなくしては生きることのできない自己を見出す。  広瀬杲『観経四帖疏講義



人間は苦しみに耐えることはできるのです。しかし人間は空しさに耐えることはできない。  広瀬杲『観経四帖疏講義



念仏というものは、念仏なき世界でなら、てんで問題にならぬことをも、時として問題化するものである。  信国淳『無量寿の目覚め



自分が自分自身を責め立てて苦しめるという心の状態、それを地獄と呼ぶ。  信国淳『いのちは誰のものか



この世はどこまでいっても独りぼっちで、悲しいことがあり、苦しいことがあるけれども、その悲しみの底にも、明るい光がさして、光の中で苦しまさせていただく。  正親含英『観経のこころ



どんな形であろうと、折があれば衣をまとい、お布施をもらうことのできる人間の生活は、厳しさなどとはおよそ程遠いものなのだ。   林暁宇『三味線婆ちゃん



つねに人より上位にいたい、人に頭を下げたくないという心を邪見驕慢という。
この人は、自分に少しでも悪い所があれば、人にいわれる前に自分で気づいて自分で直したいという殊勝な心の持ち主である。自分の問題は自分で気がつくはずと思っている。    堤日出雄「光明」4月号