真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  林 辰彦さん 「私の出遇った人たち」
                             
 2003年6月28日

 ただいまご紹介いただきました林辰彦です。能美島の大柿町に住んでいます。39歳、縁なくまだ独身でございます。職業は大工をしております。兄も大工で、兄弟二人でがんばっています。
 今日の講題は「私の出遇った人たち」ということで、今までの人生の中で出遇った、大切な二人の師について話をさせていただきます。

 私は真宗大谷派の明慶寺というお寺に、小学校の5年の時から通い始めまして、今年で28年目になります。その間には、京都の東本願寺に奉仕団として14回上山しましたし、インドにも3回行ってきました。
 なんで寺に参る気になったんかということをよく聞かれるわけなんですけど、きっかけはと言いますと、小学校5年の時にお寺の近くに友人がおって、よく遊びに行っとったんですね。
 ある日、遊ぶたねがのうて、ポケーとしとると、
「お寺に行こうや」
「なんでお寺に行くんなら」
「ジョカリがあるんじゃ」
「なんや、そりゃ」
「まあええ。行かんかい」
と言うので、お寺に行ったんです。
 ジョカリいうのは、テニスのボールに6mぐらいのひもがついとりまして、それをテニスのラケットで打って、打ったら返ってきますよね。それを何回打ったかとゆうて遊ぶのがジョカリなんです。
 お寺の遊具を置いてあるところから勝手に出してきて、こりゃおもしろいと、夢中になって遊びよったんです。
 1時間ぐらいしたら、明慶寺の、そのころはまだ若院だった長坂公一住職が「あんたらこっちへ来んさいや」と呼んでくれまして、台所で葬式まんじゅうとサイダーを出してくれたんです。それをすぐに「いただきます」と言ってたいらげたんです。
 今は、「なんかあげるけ来んさい」言うても、今の子どもは来ませんがね、あのころはなんか食べれるとゆうたらうれしかったもんです。
 遊びに行って、まんじゅう食べらしてくれるんですから、「こりゃええ」と思いましてですね、それからはその友人に自分のほうから「お寺に行かんかいや」と誘うたりするようになりまして、ついには私ひとりでも行くようになりました。
 そのころ日曜学校というて、明慶寺では日曜の朝8時から、『正信偈』のおつとめをした後、レクレーションをして、お菓子を食べるということをしちょったんです。それにも参加するようになりました。
 花まつりには人形劇をやったりしました。自分たちで作るんですよ、発泡スチロールやらでね。花まつりの法要があった後、宴会があるんですが、その前に子どもらで人形劇をやったんです。夏には盆踊りとか、海水浴に連れて行ってもろうたり、いろんなことをしたんです。
 中学3年の時に、真宗中学生奉仕団で初めて本願寺に行きました。同朋会運動が厳しいころでしたんで、一緒に行った三人が座談会で怒ってしまいまして、ものを言わんようになってしまってね、班の担当の伊藤行学先生がずいぶん困ってしまった思い出があります。
 高校は地元の高校に行きました。しかし、高校の三年間にお寺には一切参っとらんのです。なんでか言うたら、中学3年の終わりごろ、お寺に用もないのに行ったら、御院さんにちょっと悲しゅうなることを言われましてね。
 御院さんが草を刈りよって、
「手伝うてや」
言うけ、手伝うとったんです。すると、私のはさみがカチャカチャ音がするんですよね。その音がおかしい言うて、
「もうちょっとザクッザクッという音をさしんさい」
と言うけえね、「横着しよるようなことを言うの、このおっちゃんは」と思うて、はあ行かん。それで高校の三年間は行かんかったんです。
 しかし、三年間行かんかったことが、今から思うと大きなミソになったんです。中学校の終わりから高校時代ゆうたら、一番悩む時期ですよね。その時期に悩みを打ち明けるところであるお寺に自分から参らんようになってしもうたわけですから、今度は自分から求めにゃならん。私は心の支えがほしかったんです。
 それでまず、キリスト教をかじったんです。じゃが、アダムとイブ、カインとアベル、そこらへんのところがどうもわからんのうと思うてですね、これはだめで、次に生長の家をかじったんです。
 生長の家は冊子を出しとるでしょ。それを読みましたら、非常にわかりやすいんです。わかりやすいもんですから、こりゃええと思うて、錬成道場へ行ったんです。行ったんですけどね、朝、起きたら、ご皇室の皆さんに最敬礼とか、いろいろあったもんでね、そこらへんのところが、内容は素晴らしいんじゃけど、どうも好きになれんで、これもだめ。
 で、今度は三原の仏通寺へ行きまして、体験入学して、僧侶の人と一緒に座禅や作務をしたりしたんです。じゃが、生活しながら禅宗はできんと思うたですね。家から全く出てしまわんといかん、じゃけど僧侶になる気はなかったんで、これもだめでした。
 どうも「これだっ」というものになかなか出会えんで、そうこうしよるうちに卒業してしもうたんです。
 卒業した時に進路が決まっとらんかったんです。父親が大工だったもんで、父親の手伝いをしながら進路を考えましょうということになりました。そのころ兄は武者修行で広島市内の工務店に出されとりました。
 お寺参りを再開したのは、高校出て、フラフラしとりましたから、創価学会の人が私を勧誘しに来たんです。創価学会の人が悪い言うんじゃないですよ。私は日蓮聖人は好きなんです。だけど創価学会いうのはどうも好かんで、ほいじゃお寺に通うてみたら、小さな島ですからね、あれはお寺に通いよるわ思うて、あきらめよるんじゃないか思うてですね、で、お寺にまた通い出したんです。つまり、創価学会から逃げるためにお寺参りを再開したわけです。

 二十歳になった年の三月に、私が仕事をしよる目の前で、父が急に脳血栓でひっくり返りましてね、はじめは冗談しよるんかなあと思ったら、白まなこに点の目になって、目をむいちょるもんじゃから、こりゃおおごとじゃと思って、それから呉の国立病院に入院しましたが、とうとう一言もものを言わんままに死にました。
 そん時は悲しかったですね。悲しいんですけど、それと同時に家の大黒柱がおらんようになったわけです。支えがない。不安でたまらんわけです。
 しかもその時、請け負うちょった家が棟上げの一ヵ月前になっとったんです。それをどうにか建てて、家主さんに渡さにゃならん。悲しんどる間がなかったんです。
 兄貴は武者修行からすぐに帰ったんですけど、しかし私らじゃまだまだできん。こりゃどうしょうか言よったら、その時六十歳を越えちょった藤原直芳いう、もう引退しようか考えよった棟梁さんを材木屋さんが引っ張ってくれました。
「棟上げと屋根しまうまで、わしが手伝うちゃるけん。それから後は、内装はわれら二人でできよう」
ということになってですね、助けてもらいまして、どうにか渡すことができ、難題を乗り越えることができました。
 それがきっかけで、すんなり藤原棟梁のところへ兄弟二人で弟子入りしまして、私にとって長坂住職と並ぶ、大切な人生の師にめぐり会うこととなったんです。
 弟子入りしてから半年は、ずうっと毎日怒られよったです。自分は大工に向いとらんのんじゃないか、他の仕事に就いたほうがええんじゃないかと真剣に悩みましたし、二年間、父親の手伝いをしよったのに、いかに自分が甘えちょったかいうことがようわかりました。
 そのころは、その悩みを解決してもらうために夜遅うまでお寺に参って、御院さんに、ああじゃ、こうじゃ、わけのわからんことを話しに行ったんです。じゃが、御院さんははぐらかす。はぐらかしとったんじゃなくて、私がわからんかっただけかもしれませんがね、いくら話しても、問題は解決せんわけです。それで、棟梁からは怒られる。
 それなのにお寺に行ったのは、聞いてもらいたかったんでしょうね。聞いてもらえるところはお寺しかなかったんでしょうね。
 もちろん友人と酒飲んでごまかすことはしましたけどね、それじゃ物足りないものがあったんでしょう。それじゃ解決にはならんかったんでしょうね。
 とゆうても、友人と話すのは楽しいんですけど、お寺で説教聞いちょるほうがよっぽどつらい。わからんけ。
 毎月、夜の法座に参とったんですが、ご講師の先生の話はほとんどわからんかったですね。先生の話の後、座談会するんですけど、2年ぐらいただの一言もしゃべらんかったです。2年ぐらいして初めて、
「先生、南無阿弥陀仏ゆうてなんなんですか」
言うて聞いたんです。
 棟梁に怒られる、悩む、寺に参る、住職夫婦に打ち明ける、ご講師の話を聞く、わからん、仕事する、また怒られる、の繰り返しじゃったです。
 今から思えば、棟梁もあのくらい怒ったぐらいでよう我慢したのうと思うぐらい、気の長い人じゃったんじゃあるんですね。気長う大工仕事を教えてくれました。
 例を出すと、トイレの天井のまわりのふちがありますね、あれを入れる仕事をするということになりまして、
「ええか、こういうふうにするんぞ。わかったの。ほいじゃ、やってみい」
と、朝、説明してもろうて始めたんです。で、三時間ぐらいして、いざはめるということになったら、間違うとったんです。ほいでまあ、これはおおごとになったわいと思いながら、棟梁のところに行って、
「すいません。間違うちょりました」
言うたら、
「なにぃ」
と怒りあげられましてですね、それから現場にある残りの材料から同じ材料を引っ張ってきて、
「ほいじゃ、これでもう一ぺんやれ」
と、またやらすんです。
 ほいで昼になります。二時ごろはめる段になって、また間違うちょったんです。また泣きそうになりながら、棟梁のところへ行って、
「すいません。また間違うちょりました」
「なんじゃあ、われぇ」
と怒りあげられてですね、普通ならそこで、「やめっ、わしがやる」ということになるでしょ。ところが、今度は材料を買いに行って、またわしにやらすんです。どうやってでもやらすんです。
 私はその日、仕事は全然できんかったし、材料は二つパーにしたんですから、棟梁に日当をもらうどころか、損害賠償を払わにゃいけんぐらいだったんですけど、月末になったら、ちゃんとその日の日当を、そのころはまだ日当が5000円じゃったんですけどね、きっちり日当が給料袋の中に入っとりました。
 それでも二年ぐらいしてくると、ちょっとは怒られん日も多いようになりまして、だいぶ落ち着いてきたんです。
 間違えても、どんな失敗やらかしても、何べんでもそうやってやらせるわけですから、いくら大工の素質が薄い私でも、どうにか大工らしいものに今はなってます。
「われみたいな大工の素質のなあ人間に、大工を教えるんは初めてじゃわい」
と、棟梁がぼやいたこともありました。ずいぶん御世話になりました。

 棟梁は仕事中は厳しいんですが、しかしレクレーションを楽しむということがすごく好きで、リクレーションを楽しむことにかけては天下一品でしたね。
 私らの仕事というのは、仕事をするはしから木をきざんだ残材、ゴミが出るんです。一軒の家の材木をきざんだら、ごっぽり山のようにたまるんです。
 すると、「よーし」言うて、そのゴミを作業場の隅で3時ごろから焼き出すんです。で、5時半ごろになったら、ちょうどええおき火になるんで、そしたら、ブロック並べて、その上に金網おいて、
「おい林、焼き肉とビール買うてこい。バーベキューやるぞ」
と言うてですね、バーベキューやり出すんです。
 作業場の目の前に散髪屋さんがあるんですが、よう知っとるけ、「コップ借ってこい」言うんで、コップ借って、ビール飲みます。
 常会の人もよう知っちょるけ、ああ、やり出したかと言うて出てくるんです。通る人でも、知った人が「わしもよばらしてくれんさいや」言いながら集まって、ボヤキ会が始まります。そこらのうわさ話から、政治の不満とかいろんな話が出るんです。酒をしこたま飲んで、10時ごろまで話をしたです。
 そんなんが年に3~4回はあったですね。私はそれで鍛えられて、酒が好きになったんですがね。
 ある時は、仕事にマツタケ取りの名人の左官屋さんが来ちょったんです。10時の休みになって、話をしよって、
「今年はマツタケはどがあかいの」
と言うたら、その左官屋さんが
「今年はよう取れるわいの。昨日取ったんで」
「何本ぐらいなら」
「10本取ったわいの」
「なにぃ、そがいに取れるんかあ。おい、道具しまえ。マツタケ取りに行く」
言うて、家主さんにも
「あんた行かんかい」
「ほうかい。わしも連れてってくれんさいや」
 今じゃったら怒られますよ。棟梁がそういう人だと知っとって家を建てらすんじゃけ、そういうのを楽しむんですね、家主さんも。
 ほいで、山へ行って取ったんです、マツタケ。ぶわっとなるくらいあったですね。晩には家主さんの家でマツタケ会が始まりまして、それでまたボヤキ会になるんです。そういうリクレーションをずいぶん楽しむ人でした。
 酒がすすむと必ず、戦争の話や戦後のどさくさを乗り越えてきた苦労話が始まるんです。戦争の話をあれだけユーモアを交えて話をする人に、私はいまだに出会うたことがないですね。
 棟梁は軍に招集されて、上海で終戦を迎えとるんです。輸送船で上海へ行く途中、済州島の沖で撃沈されて、命からがら生き延びたいう話やら、海軍の特攻隊、爆弾つみあげたボートで敵艦にぶち当たるというぶんです。これの訓練受けて、上海行ったんです。まあ、どうにか順番が回ってくる前に終戦なったそうです。
 それとよく話をしよったのがですね、戦前、戦中は国のため、天皇陛下のために戦争したんじゃに、負けたんじゃけしょうがないんじゃあるんじゃが、戦争が終わったらほったらかしで、わしら自分で自分の生計を立てるのにほんま苦労したいう、終戦直後の苦労話です。その話をずいぶん聞かしてもらいました。
 そして、戦後、高度成長期を経て、ぜいたくが当たり前になった現在を嘆きながら、たいがい、話の最後に言うんが、
「人生はいつも真剣勝負じゃ。ほいじゃが、そがあに気ぃ入れて生きる必要もなあで」
 これが正解、これは間違い、いうような教育を受けてきた私には、「いっつも真剣勝負」言うのに、「気ぃ入れて生きんでもええんじゃ」言うのが、非常にわかりにくかったんですけど、いつも聞きよって、棟梁の生きざまを見よったら、何かわかってきましてですね、ずいぶん楽になりました。それからはいろんな人とつき合えるようになりました。
 棟梁もいろんな人とつき合う人だったんですが、私もいろんな人とつき合うようになりまして、主義主張が違う、政治イデオロギーが違うような人とでもつき合いよるんです。

 しかし、棟梁じゃけね、やっぱり怖いわけですよ。仕事中はピリピリして、なかなか気が許せんかったんですけど、私が26歳の時、棟梁が墓を作ることになったんです。
「わしゃ分家じゃけ、墓を作らにゃいけんようになったんじゃがのう、林、墓をどがあに切りゃえんかいのう」
と言うて、私に相談するんです。
 どしてか言うたらですね、私が長年お寺へ通うちょるけ、墓のことをちいたあ知っちょるんじゃないか思うて、聞いたんですね。
 それで、
「あ、棟梁。真宗大谷派じゃったらの、仏石に何々家ゆうて名前書かんのがほんまなんと!」
「おっ、どういうことなら」
「倶会一処ゆうて書いちょるんがあるじゃろ。墓に入って、みんなが極楽行って一緒になるんじゃわいのう」(お浄土言うてもわからんですけえね)
「ほうか。そうゆうことなんか」
「じゃけの、南無阿弥陀仏と書いて、どしても家の名前入れたかったら、下の台のところに藤原家ゆうて入れてくれゆうことらしいわいの」
「ほうか、南無阿弥陀仏ゆうて入れるんか。よし、ええこと聞いたぞ。わしゃ、ありがとうないんじゃけえの、南無阿弥陀仏ゆうて、生きとる間に絶対言わんけえの。墓にゃ南無阿弥陀仏ゆうて入れて、そこに入ろうて」
と、棟梁が言うたんです。
 そして、いざ墓上げの時に、
「われがの、今度墓上げの時に住職を連れてきての、その後にうちでよばれ」
と言われたもんですから、御院さんを連れてですね、島の山あいにある墓へ行ったんです。
 そして見てみたら、仏石に「南無阿弥陀仏」と入って、台座に「藤原家」って彫ってあるんですね。
 棟梁に、
「ほんまに南無阿弥陀仏ゆうて入れたんじゃのう」
言うたら、棟梁は満面の笑顔で、
「ほうよ。どうな。えかろうがいや、われ。われが言うたけんの、入れたんど。えかろうがいや」
ゆうて、私に言うんです。
 私はうれしゅうてね。まだ26歳で、よう怒られよったころです。仕事での私の力は信じちょらんです。じゃけど、長年のお寺通いを棟梁は信じてくれとったんです。お寺通いの姿勢は信じてくれちょったということで、これがものすごくうれしゅうてですね、それからはぼろかす怒られても、あんまり腹が立たんようになって、一生懸命に怒ってくれよるんじゃと思うて、素直に聞けるようになりました。

 さて、父が亡くなったということは、林建築の棟梁をなくすと同時に、林家としての主人がおらんようになったわけですから、ものの通し方とか、常会のつき合い方とか、家と家とのつき合い方、すじの通し方があるじゃないですか、それを兄と私がせにゃいけんようになったんです。
 そういうのはどがあなハウツー本にも出てないですからね、これはほとんど藤原棟梁に教えてもらいました。
 いろんなことがあったんですけど、22歳の時に家と家とのつき合いを大失敗したことがありまして、わびを入れにゃいけんことがあったんです。
 棟梁のところに相談しに行って、
「こがあなことになったんじゃが」
言うたら、
「そんならのう、われの親戚のえらい人にの、この前、あがなことがあったんじゃが、すいませんでした言うてもろうて、それからわれが酒持って、それじゃったら3本じゃの、3本持って、わびに行け。受け取ったら、ええんど。じゃが、たぶん取らん思う。取らんかったら、暮れに歳暮送っちょけ。それでええ」
 はあ、そうするんか思うてですね、その通りにしたんです。
 ほしたら、まことその人は酒を受け取らんかった。取らんかったけ、暮れに歳暮を送ったんです。そしたらお礼の電話がかかってきましてですね、
「まあ、林さん。ほんま若いのに、お寺に参るだけあってしっかりしとられますねえ」
と言われたんです。
 それからは、何があってもすぐ棟梁に聞きに行って、言われたとおりにしたんです。ほしたら何もかもうまくいったです。
 そのたんびに、「若いのにしっかりしとる」ゆうことになるんですね。その後にいつも言葉がついてくるんです。「やっぱりお寺参るだけあって違うわ」いう言葉が続くんですね。
 正直、それを言われるたんびに、私、複雑になったんです。うちの住職、そんなこと教えてくれりゃあせんのです。お寺はそんなことを聞くとこではないんです。お寺は常に仏教を基本とした生き方、ものの見方、そういうことを切磋琢磨していくところであって、常会のつき合い方とか、すじの通し方を聞くところじゃないんですからね、言われるたんびに複雑な心境になってました。

 そんな、実生活を生きることではすごく頼りにしていて、これからもずうっと私にアドバイスしてくれるもんと思ってた棟梁も、私が32歳の時に、弟子入り12年目じゃったんですが、あっさりと肺ガンで亡くなってしまいました。
 ずいぶん頼りにしとりましたからね、寂しかったです。寂しいて、寂しいて、また不安になったんです。その時は半年、どん底に落ちたような感じでしたね。
 それでいろいろ考えたんですが、棟梁にすじの通し方とか、実生活を生きるいろんなこと聞いとりますし、仕事ももちろん棟梁に教わったんですから、それで生きていけるんです。そういう棟梁の言うたことを、事あるたんびに思い出しては対処しながら生きていくゆうことが、棟梁が私の中に生きちょるゆうことになるんじゃないかと思うたんです。
 じゃけ、わしが棟梁のことを思う思う生きることが、棟梁が生きちょることになるんじゃけ、こりゃ、わしが一生懸命生きりゃええんじゃ、ただそれでええんじゃわい。
 で、半年後ぐらいにそう観念しまして、どうにか乗り越えていくことができました。

 そういう中で、町おこし運動とか、建設労働組合の組合活動とか、人権問題、平和運動する人とかですね、その他いろんな知り合いができてきたんです。
 いろんな人とのつき合いの中で、いろんなトラブルもあったんですけど、しかし、そういういろんな人とつき合うことができたのは、物事の見方とゆうか、考えの基本を投げかけてくれた長坂住職がおったけえじゃと思います。
 うちの住職は、相談しに行っても、答えてくれんのです。悩みごとに現実的な答えをくれんのです。ヒントを出すんですね。ヒントじゃなかったかもしれん。一生懸命、私に教えよるつもりで、私がわからんだけの話じゃったんかもしれませんけどね。
 そのヒントを家に持って帰って考える。もちろん仕事中でも考える。わからん。落ち込む。問いが生まれる。お寺に参って御院さんや奥さんと話をする。こうじゃないんと言うてくれるですけどね、わからん。考えながら仕事する。
 そういう繰り返しで、この年まで来ました。しかし、事あるごとに住職に聞いてきたことや、ものの見方が、今になっちょるんじゃないかと思うんです。

 ずっとお寺に行きよりますと、一緒に聞きながら生きていく仲間がほしくなるんですね。自分だけで聞くよりか、共に聞き、考えていく人がほしいと思いまして、推進員になりました。30歳の時です。
 真宗大谷派では同朋会運動の推進員という制度がありまして、率先してお寺を支えるということをするんです。推進員養成講座というのを5回ぐらい講習を受けて、本山で免許をもらうようになっとるんです。その講座に参加しまして、9年前に推進員になりました。
 それからはお寺のいろんな行事に率先して参加し、門徒さんらにも「今度お参りがあるから行きましょうや」とか言うたりしながら、微力ながらお寺を支えていくようになったんです。
 そして、若院が帰ってきましたのを機に、6年前に仏教青年会を再結成しました。再結成したゆうても、会長林辰彦、会員坪崎正文、この二人だけだったんです。それが今は、どうにか細々とですが、10人ぐらいになっとります。
 しかし、その10人のうち、お寺に参って説教を聞くゆうのは、3~4人のもんです。あとはレクレーションをしますので、お寺の草刈った後、飲んだり、そんな感じでひっぱりよるわけなんですけどね。

 その仏教青年会の活動がえんやっと軌道に乗りだしたころの3年前、一生懸命仏青の活動をしてくれよった仲間で、大工の盟友でもあるKさんいう人が、私の二つ年上なんですけど、雪の日にガードレールにぶつかりまして、亡くなったんです。
 事故が起きたんが夜の10時ごろじゃったんですが、その直前まで私、いっしょにおったんです。組合活動や仏青について、いろいろ話をしよったんです。
「雪が降り出したけ、帰ろうや」
言うたら、
「帰らん。もうちいとおるわ」
言うんで、私はほっといて帰ったんです。
 忘れもしません、朝の4時ごろ警察から電話がかかってきまして、
「Kさんが交通事故で亡くなられたんですが、あなたは最後に一緒におられた人でないですか」
言うのを聞いて、すぐ大原署行ったら、いろいろ事情聴取を受けて、それからKさんとこ行って、国立呉病院から帰るのを待っちょったんです。
 じゃが、雪で交通渋滞になっちょるもんじゃけ、昼ごろ帰るゆうことになって、家には帰らんと、亡骸は明慶寺に直接移して、お寺で葬式するということになりまして、お寺で待っちょったんです。
 で、亡骸が帰ってきまして、すぐ職人さんの若手がそろって集まってきまして、みんなで抱えて同朋会館の中に安置したんです。
 Kさんのお父さんの手で棺がはずされまして、その瞬間、兄貴分の大工のHさんが、
「トヨ、なんしよる。早よ起きや。なんしよるんなら」
言うた瞬間、はあもう涙とまらんですね。あの晩、なんで一緒に帰らんかったんか思うと、ガクンと落ちこんだんです。

 今度はですね、悲しみを乗り越えようとか、悲しみをまぎらわそうとかするより、悲しみたいだけ悲しもうということにして、放り投げたんです。自分を放り投げたというかね。で、悲しいまま、私は私で今できることをする。
 そうしたらね、今度は起き上がるのが早かったです。その時の放り投げるというのが、今クセになっとります。
 なんでもええけ、みなまかして、わしゃ一生懸命生きりゃええんじゃ。悲しい時は悲しみゃええし、楽しい時は楽しゅうすりゃええし、笑いたい時は笑やええんじゃし、怒りたい時は怒りゃええんじゃ。後はほんまにまかしときゃええんじゃ。何があっても、苦しゅうても、楽しゅうても、悲しゅうても、その時その時をすべてまかせて、すべてを投げ出して、自分は自分なりに生きるしかないんじゃ。
 そう思うたら、すごく楽になりましたですね。
 もしかしたら、わしゃ、なんかにまかしよるんじゃないか。こりゃ阿弥陀さんにまかしとるんかの。
 そう思うてですね、そしたら念仏が出るようになりました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。最近はそんな感じです。

 ほいじゃが、
「南無阿弥陀仏言うたらなんですか」
「なんで南無阿弥陀仏言いよるんですか」
聞かれたら、私は一応その意味は聞いとるんですが、
「いや、ただ南無阿弥陀仏言やあえんですよ」
いう感じでしか答えられんですね。
 私は真宗の教えがわからんのです。ただ、問うていく姿勢は変らんと思います。これからも親鸞聖人の話が聞きたいので、それでお寺に行きよります。
 なんでお寺に参るんのと、いついき聞かれよるんです。私もわからんのですが、親鸞聖人という人に非常に魅力を感じるんですよね。親鸞聖人の魅力を知ってからは、親鸞聖人の話を聞きたい、ただそれだけのことなんです。
 特に私が二十代のころに魅力を感じたのは、女犯の問題です。親鸞聖人も女の人に悩むんです。私も二十代の前半、性欲がわき立っとって悩んだ時期ですから、親鸞聖人も悩んどったんじゃと聞いてですね、お坊さんじゃにそういうことを一生懸命に悩んで、ついに結婚までするわけですからね、そういうところにすごく魅力を感じまして、親鸞聖人の話を聞きにお寺に行きました。
 親鸞聖人を知れば知るほど魅力を感じるんですよ。字も読めん関東の農民に念仏広めるんです。その姿いうのは、農民がドブ板の上をはいずり回りよったら、自分もドブ板の上をはいずり回ってという、そういうふうに思うわけです。

 ということで、現在に到っております。これからもいろいろあるでしょうし、そのたびに悩み苦しむと思いますけど、今言うたような感じで阿弥陀さんにまかせて、自分は自分なりにその時その時を一生懸命生きていきたいと考えております。
 どうもありがとうございました。


(2003年6月28日に行われたひろの会でのお話をまとめたものです)