真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  平川 宗信さん
  「真宗と社会問題
       念仏者は憲法・死刑問題にどう対応するか」

                           
 
2010年7月11日

  はじめに

 名古屋からまいりました平川でございます。法律とくに刑事法の研究・教育を職業としていまして、現在は中京大学で刑事関係の科目を担当しております。そのかたわら、25年ぐらい前からいくつかの市民活動に関わっています。一番関わりの深いのがメディアの問題です。マスメディアによって人権を侵害された報道被害者の方たちの支援をするということで、「報道被害者支援ネットワーク・東海」というグループを立ち上げて、現在、代表を務めております。それから、20年ほど前から死刑問題に関わりまして、「死刑廃止フォーラムinなごや」のメンバーとして活動を続けております。そして、最近は、「憲法改正手続法」が作られるような状況の中で、憲法問題にも関わらざるを得ないという気持ちになりまして、地域の九条の会に参加し、「真宗大谷派九条の会」の共同代表もお引き受けしています。今日は、「真宗と社会問題~~念仏者は憲法問題・死刑問題にどう対応するのか~~」というテーマで、真宗の立場から、念仏者と社会問題との関わりについてお話ししたいと思っております。

 ところで、私は真宗的な名前がついておりますので、坊さんだろうとか、お寺の出身だと思われるのですが、私の父は勤務医でして、普通のサラリーマン家庭に生まれ育ちました。大学で仏教や真宗を学んだわけでもありません。真宗は独学です。ただ、私の祖父さんがお西の寺の出でして、僧籍を持っておりました。祖父が私の名前を考えてくれましたので、真宗的な名前がついております。

 祖母は、妙好人のような人で、朝から晩まで一日中お念仏を称えておりました。私の小さいころによく面倒を見てくれたのですが、私の世話をしながらお念仏を称えていました。私を抱えてお風呂に入りながらナンマンダブ、寝る時も私を寝かしつけながらナンマンダブ、食事の時もナンマンダブという人でありました。私は祖母の念仏を聞きながら育った記憶があるわけです。私が真宗にひきつけられた意識の根底には祖母の念仏があるのではないかと、最近、感じています。そういう意味では、家の中で念仏の声を絶やさないことが大事ではないかと思うことであります。

 しかし、祖父母の影響でそのまますんなりと真宗の教えに入ったというわけではありません。どう生きていくのか、自分が生きる根拠をどこに求めるのかを高校生のころから考えるようになりまして、それで自然に仏教を勉強するようになりました。若いうちはわが力をたのむものですから、禅にひかれまして、坐禅をやってみたりもしました。ですけど、そんなことをしてもだめだということを次第に思い知らされまして、自力無効ということで、念仏の教えに落ち着きました。

 そんな中で、25年ぐらい前になりましょうか、和田稠先生に出会いました。名古屋に10年間ほど毎月おいでくださって、親鸞聖人の御消息、お手紙を講義してくださいました。その学習会に出させていただいたことは、私にとっては非常に大きな体験でした。和田先生との出会いがなければ現在の自分はないと、私としては感じています。私の法律学の先生は団藤重光という方でして、私を刑法学者として育ててくださったのは団藤先生である、私を人間として育ててくださったのは和田先生であると、感じているようなことです。
 今日、お話しすることも、和田先生から聞いたことを私なりに受けとめたところであります。私としては、和田先生から聞いたお話を展開しているつもりでおります。しかし、そうは言いましても、私がする話は私の理解になるわけでして、私の勝手な思い込み、自見(じけん)の覚悟にすぎません。ご批判いただければと思います。


  Ⅰ 真宗と社会問題

1 念仏者と社会問題――課題としての社会問題

 今日は「真宗と社会問題」という講題を出させていただきました。具体的な問題としては、円光寺さんの全戦没者追悼法要に際しての話ということで、憲法とくに平和主義や九条の問題、そしていのちの問題ということで死刑の問題について、若干の話をさせていただきたいと思っております。

 皆さまの中には、社会問題とか憲法とか死刑という問題が何で真宗、あるいは信心の課題になるのかと、疑問に感じられる方もおられるかと思います。従来、真宗の信心と言いますと、自己の問題、自分のあり方、あるいは自分の心のあり方を問うものと考えられてきました。「個の自覚」とか、「自己とは何ぞや」という言葉もしばしば使われています。信心とはそういうもので、社会とか法律制度を問うのは真宗の問題ではないという考えも、強いように思われます。今まで、真宗教団も靖国問題や部落差別の問題を課題として取り上げてきていますが、そういう問題に教団がなぜ取り組んでいかなきゃならんのだと言われる方も少なくないわけです。「自己とは何ぞや」という問題で手一杯で、同和や靖国なんかに関わっている暇はないとおっしゃった著名な先生もおられました。

 では、真宗の信心が社会問題と関係ないのかというと、私はそうではないと思います。たしかに、信心とは自己を問うもの、自己のあり方を問題にするものであることは間違いないことでして、社会を直接問題にすることが信心であるわけではない。それは、そうだと思います。しかし、そこで問われている自己、あるいは問うべき自己とは何なのかを考えると、その「自己」は社会の中で生きているわけです。自己を問うと言っても、社会の中で生きている自己を問うのでなければ、自己を問うことにはなりません。社会の中における自己の生き方を問うことが、自己を問うことになると思うのです。

 たまたま今日は参議院議員選挙の投票日ですが、われわれは、有権者として投票しなければなりません。そこで誰に投票するかは念仏者としての生き方と関係ないのか、誰に投票するかということと念仏とは別の話になるのかと言えば、私はそうではないと思います。誰に投票したかによって、自分だけでなく他の人の生活にもさまざまな影響が及んできます。そこに、念仏者としての考え方、あり方が当然あるはずだと思うのです。

 憲法問題に関しても、今年5月8日に「憲法改正手続法」が施行されました。もし、国会で憲法改正の発議がされれば、われわれは国民投票で投票しなければなりません。その時には、改正に賛成・反対のどちらに投票するのかという問題が起こってきます。そのことは念仏者としての生き方と関係ないのかと言えば、関係のない話ではないと思うのです。
 死刑制度についても、同じことが言えます。死刑は法制度であって、国会が作った法律で死刑制度が決められています。国会議員を選び、法制度を作っているのは、主権者であるわれわれ国民です。今は法律で死刑制度を維持していますが、われわれ国民が死刑はやめようと言えば、死刑制度はなくなります。ですから、死刑制度を維持しているのは、われわれです。そうすると、死刑制度を維持する人間であることをどう考えるのか、念仏者としてどうなのか、それが問われてきます。死刑制度の問題も、決して信心と関係ない話ではありません。

 自己と言っても、自己は真空中にただよっているわけではなく、社会、「世」の中に生きているのです。しかも自己は、抽象的な存在ではなく、「身」を持っているのです。和田先生は、よく「身が自己である」と言っておられました。最近、われわれは身を忘れているのではないか。身はこの世の中に存在している、身と世を共に考えていかなければならん。和田先生は、そのように話しておられました。

 自己が身として生きているということは、世界中とつながっているということです。たとえばチョコレートです。発展途上国でカカオ豆が栽培され、そのカカオ豆を原料としてチョコレートが作られています。カカオ豆が栽培されているところでは、幼い子どもたちが苛酷な労働に従事しています。その児童労働によって栽培・収穫されたカカオ豆が日本に輸入されて、われわれはそれで作られたチョコレートを食べているわけです。そういう形で、途上国の子どもたちと私自身がつながっています。
 百円ショップに行くと、百円でいろいろなものが買えます。あれも、途上国の人たちが安い賃金で作っているわけですね。その人たちは、厳しい生活を強いられている。そこで作られた製品をわれわれが買って生活している、ということがあります。われわれが普通に生活していることが、途上国の人たちの厳しい生活につながっている。そういうつながりを考えなければいけないと思います。
 国内の問題でも、日米安保体制は必要である、米軍基地は必要だと考えることによって、沖縄の米軍基地が固定化され、沖縄の人たちに基地を押しつけることになる。沖縄の現状を作っているのは、実は本土にいるわれわれだという問題もあります。

 これは、「世」が持っている構造です。われわれは、そういう構造の中に組み込まれることによって、その構造を支えている。そういう私のあり方を問うことが、自己を問うことではないのか。世と身とを切り離して、「自己とは何ぞや」と自己のあり方や心の持ちようを抽象的に考えたところで、むなしいだけだと思います。
 この世の中における自己の生き方を問うことは、念仏者として社会問題を課題として生きていくことです。その意味で、社会問題が、念仏者としてどう生きていくのかという信心の課題になっていく。社会問題を考えていく中でわれわれの信心が問われ、信心が確かめられてくる。そして、真宗とは何かが明らかになってくる。

 私は、自己を問うことは社会を問うことであり、社会問題を自己の問題として問うのが真宗ではないかと思っています。逆に言えば、自己を問わないで社会だけを問題にするのは、真宗ではない。それは、社会運動・政治運動であって、真宗の運動ではない。これが、真宗と社会問題との関係についての私の考え方です。


2 念仏者の社会活動の根拠――阿弥陀の還相回向

 念仏者としての社会問題への関わりは、真宗教学で言えば還相回向の問題だろうと思います。真宗は、往還の二回向の教えです。往相回向とは、阿弥陀から「念仏を申して信心を確立し、浄土往生しなさい」という呼びかけがなされているということです。そして、還相回向とは、「念仏に生きなさい、本願に生きなさい」と阿弥陀から呼びかけられているということです。これは、阿弥陀からの呼びかけの二つの面、二つの相であって、往還二回向は本来一つのものです。「浄土に往生しなさい」ということと「本願に生きなさい」ということは、一つのことです。本願に生きるということ以外に、浄土に生まれるということはありません。本願に生きることと浄土に生まれることは、一つのことだと思います。

 真宗の中では、どうすれば信心が確立できるか、どうすれば浄土往生できるかという往相回向に関わることは、今までもいろいろと語られてきました。しかし、浄土に往生したらどうなるのか、浄土に往生するとはどういうことなのか。そこで本願に生きることが始まるのだと言われるわけですが、それでは、本願に生きるとはどういうことなのか。そのような、還相回向に関わる部分は、あまり語られてきていないように思います。私は、そのことが今までの真宗のあり方の一つの問題ではないかと思うのです。
 念仏を申して信が確立されるということがあれば、本願に生きることが始まるはずです。それがなければ、本当の真宗の信心ではない。本願に生きるということがあれば、そこから社会問題に関わって取り組むことが自然に始まるはずです。その意味で、私は、念仏者の社会問題への取り組みは還相回向の問題である、念仏者の社会活動の根拠は阿弥陀からの回向にあると思うのです。


3 念仏者の社会活動の発現――批判・慙愧・しるし

 私は、社会に関わる念仏者の行動はどこから生まれてくるかを考えると、これは阿弥陀からの回向・批判から生じるということになるだろうと思うのです。
 同朋大学の尾畑文正先生が、『真宗仏教と現代社会』(福村出版)という著書の中で、真宗は批判仏教であり、浄土は根源的な批判原理であると言っておられます。浄土は、社会問題を生みだすこの世を批判してくる批判原理だと。この世は、火宅無常の世界である、穢土である。そして、穢土を支えているわれわれは、煩悩具足の凡夫である。そのように批判してくるのが浄土のはたらきなのだ、ということです。この社会とわれわれに対する批判の原点が、浄土であるわけです。『歎異抄』には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに」(聖典640頁)とあって、われわれは「煩悩具足の凡夫」であり、この社会は「火宅無常の世界」だと批判されています。そのような批判の原理・原点が浄土であるということを、尾畑先生は言っておられるわけです。

 われわれは、浄土に接しないと、この世が穢土であり「そらごとたわごと」の世界であることに気づかないのですね。この世に真実があるように思う。しかし、浄土に接することによって、この世が穢土であることを知らされてくる。そして、浄土に接することで、自分自身が――日ごろはいっぱしの人間だと思っているわけですが――「煩悩具足の凡夫」でしかないと思い知らされる。それが、浄土のはたらきです。

 そうすると、何が起こるかというと、慚愧ということが始まってきます。われわれは、慚愧することで人間に立ち返るのです。慚愧がなければ、人間ではなく畜生ということになります。『教行信証』には、『涅槃経』を引いて、「『無慙愧(むざんき)』は名づけて『人(にん)』とせず、名づけて『畜生(ちくしょう)』とす」(聖典257頁)とあります。浄土に接して自分が「罪悪深重煩悩熾盛」(『歎異抄』、聖典626頁)の身であると知らされた時には、そこに慚愧が生じます。そして、慚愧というのは、「慚愧の至りです」とひとこと言ってすむ話ではなく、慚愧に発する歩みが起きてこなければなりません。慚愧が行動にならなければいけない。行動にならなければ、本当の慚愧ではないでしょう。私は、この慚愧に発する行動が念仏者の社会との関わり、社会活動だと考えるのです。

 親鸞聖人は、御消息の中で、「仏のちかいをもきき、念仏ももうして、ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ」(聖典561頁)と言っておられます。仏の誓い、阿弥陀の願いを聞き、念仏申すことを長く続けていれば、この身の悪しきこと、この世の悪しきことを知らされてくると。そうすると、当然それを厭い捨てようとする「しるし」が出てくるはずである。いわば、慚愧に発する何らかの行動が出てくるはずである。親鸞聖人は、そのようにおっしゃっているのだと思います。まさに、この「この世のあしきことをいとうしるし」が、われわれと社会との関わりということになり、念仏者の社会活動になってくるのではないかと思うのです。


4 念仏者の社会活動の内容――慈悲の実践

 それでは、そういう「世をいとうしるし」としての念仏者の社会活動の具体的な中身は、どういうものなのでしょうか。

 念仏者の活動は、阿弥陀の願いをわが願いとして生きていく歩みです。還相回向に促された念仏者の歩みは、そういうものです。阿弥陀の願いとは何かと言えば、阿弥陀の大慈悲心です。そうすると、阿弥陀の慈悲を実践するのが、念仏者の社会活動であるということになってきます。では、慈悲とはどういうことなのかですが、『教行信証』の中に「苦を抜くを慈と曰(い)う。楽を与うるを悲と曰(い)う」(聖典293頁)とあります。「抜苦与楽」が、慈悲です。しかも、これは特定の人だけに関わる話ではなく、一切衆生に関わる話です。一切衆生の苦を抜き、楽を与えるのが、阿弥陀の大慈悲心です。われわれは、阿弥陀の大慈悲心をわが願いとしてこの世に生きていく。そういう歩みが始まることが、われわれの「世をいとうしるし」であり、念仏者の社会問題への関わりということになると思います。和田稠先生は、これを「世界を一つに生きたい、一つ世界を共に歩みたいという、いのちの根源的要求に基づく活動」という言い方をしておられました。そして、「阿弥陀の本願は、すべてのいのちに共通する根源的要求である」とも言っておられました。

 これは、世界中すべての人たちと共に生きるという、最近の言葉で言うと「連帯と共生」ですね、そういう歩みになってきます。世界のすべての人々とつながって、世界の人たちと一つの世界を生きる。そういう世界を目指して生きていく歩みになっていかざるを得ません。しばらく前から、アジアの仏教界に、エンゲイジド・ブディズム(Engaged Buddhism、「関わる仏教」「行動する仏教」)と言って、さまざまな社会問題に仏教徒として関わっていこうという動きがあります。ベトナム戦争以来のティック・ナット・ハン師の活動がそうですし、ビルマのアウンサンスーチーさんも熱心な仏教徒で、彼女の活動も「行動する仏教徒」としての活動です。そういうあり方が、仏教徒として願われてくることになると思います。

 余談になりますが、何年か前に名古屋の地下鉄に乗っていましたら、車内に――鉄道会社が出していたと思いますが――お伊勢さんの初詣の広告がありました。そのキャッチ・コピーに、「わたしと、わたしのまわりの人たちが、すこやかで、幸せでありますように」と書いてありました。いささか仰天しました。自分と自分のまわりの人たちだけが健康で幸せであればいいということですから、真宗から見ると首をかしげざるを得ません。しかし、たぶん、かなり多くの日本人がこのような意識を持っていて、それに乗っかって、このキャッチ・コピーの表現があると思うのです。
 真宗は、一切衆生の苦を抜いて楽を与えることを願います。わが身と周りの人たちが幸せであればいいという話ではありません。念仏を称えながら自分と自分の家族の健康と幸せだけを願っているのであれば、それは真宗ではないと私は思います。そこをきちんと押さえておかないといけないと思うのです。


5 念仏者の社会活動の形態――知る、語る、行動する

 念仏者として活動する場合、その具体的な形態・態様はどういうことになるのか、そのことも考えておかなければなりません。
 人間の行為は、身業(しんごう)・口業(くごう)・意業(いごう)の、「身(しん)口(く)意(い)の三業(さんごう)」です。人間が何かをする場合には、身口意の三業として現れます。身業は身体を動かすこと、口業は口で話すこと、意業は知ったり考えたりすることです。われわれが社会的に何かをする場合も、具体的には身口意の三業として現れることになります

 順序からいくと、まず意業の話になります。知って、考えることが大事です。世の中のことを知らなければ、話になりません。先ほどチョコレートや百円ショップの話をしましたが、チョコレートや百均商品の生産がどういう構造になっているかを知らなければ、自分自身がその構造の中に組み込まれていること、その構造の中で生きていることが分かりません。自分自身が社会とどのように関わっているのかに気付くためには、先ず社会のことを知らなければなりません。

 ところが、――メディアが偏っているなどとも言われますが――新聞やテレビを見ているだけでは、本当のことは分かりません。私は、三十年近くメディア問題に関わってきましたが、メディアは断片的な事実は報道するけれども何が真実かはほとんど伝えていない、「事実は報道するが真実は報道していない」ことを実感しています。それは、メディアの人たちが悪いというよりも、今の日本のメディアの仕組み、構造が、そういうクセを持っているのです。メディアのクセを理解した上で報道を見ないと、本当のところは分かりません。メディアが伝えられない部分、伝えにくい部分があるのです。そういう情報は、別ルートから入手するしかありません。そういうことをきちんと押さえて、何が真実かを探究し、知っていくことが大事です。メディア・リテラシーと言いますが、さまざまな情報を読み解いて真実を見きわめ、情報を活用する技術を身につけないと、本当のところを知ることはできません。このことについては、最近、『報道被害とメディア改革』(解放出版社)という本を出しましたので、関心のある方はお読みいただければと思います。

 最近、真宗大谷派教学研究所前所長の玉光順正先生のお話を聞いていましたら、第六願天眼通、第七願天耳通はメディア・リテラシーの問題だと言われて、なるほどと思いました。天眼通・天耳通といっても、遠くのものが見えたり聞こえたりするという話ではなくて、真実をどうやって知るかということなのですね。真実を知るということが第六願・第七願で問題にされていることで、たしかにメディア・リテラシーの問題につながります。

 そして、口業です。情報を入手したら、自分一人で抱えるのではなく、人に伝えることが大事です。入手した情報に基づいて、メディアが伝えないことや、自分で考えたことを人に伝えることです。個人的に話したり、インターネットで発信したり、集会を開いたりして、皆にアピールする。そういうことが重要です。

 そして、身業、行動することですね。しゃべっているだけでは不十分で、実践的な活動をしていくことが必要になってきます。NPOを立ち上げたりして積極的な社会活動をするということもありますが、ささやかなところで言えば、チョコレートを買うときにフェアトレード・チョコレートを買うというような実践・行動もあります。フェアトレード・チョコレートというのは、児童労働によらない適正な労働に適正な対価を払って輸入した原料で作ったチョコレートです。少々値段が高かったりしますが、そういう商品を買うようにする。そういうことをすることで世界と関わり、世界を変えていくことができるわけです。それが、われわれにとって慈悲の実践の意味をもつことになると思います。


6 念仏者の社会活動の性質――聖道の慈悲と浄土の慈悲

 そうは言っても、われわれが阿弥陀の慈悲を実践できるかを考えれば、できるはずがないと言わざるを得ません。社会活動に関わっていると、いろいろな問題があることが分かってきます。たとえば、戦乱、災害、貧困などで苦しんでいる人たちは、世界中に何十億といます。そういう人たちを救っていくことができるかを考えれば、自分ができることは極めてささやかなことでしかないのは分かりきっています。それに、自分が気づいた問題のすべてに関わろうとしたら、つぶれてしまいます。そういうことはできません。

 そこで、どうなるかと言えば、例えば平和活動ですと、時々非戦・反戦デモ――最近は「パレード」と言ったりしますが――に参加して、「俺は行った。行かない人よりはましだ、自分は一応やっている」と考えて、そこで満足する。われわれがやっていることは、せいぜいこの程度です。われわれのしている「慈悲の実践」は、言いわけ、あるいは自己満足でしかありません。

 そしてまた、われわれは凡夫ですから、自分の思いを捨てることができません。われわれは、自分がこうしたいとか、ああしたいとか、まず思うわけです。そういう自分の「思い」で活動していく。そして、「自分はしてあげた、善いことをした善い人だ」と思う。これは、善人意識でしかありません。やってあげている善人の自分と、やってもらっているかわいそうな人たちとを区別している。これは、差別です。「同情は差別だ」と言われますが、同情することは、自分は安全な高みにいて相手を下に見ることです。そういう差別的な心情になったりもするわけです。

 また、「思い」は、人によってさまざまで、同じ運動に関わっていても、人によって考えが違ってきます。それによって対立が起こってきますし、人間関係が崩れてしまうこともあります。同じ方向を目指しながら、場合によっては分裂していく。悲しいことですが、市民活動をしていれば、しばしば出くわす事態です。

 われわれがやっている「慈悲の実践」は、せいぜいその程度のことです。このことに気付かせてくださるのが、念仏です。私たちは、慈悲を実践しようと考えても、結局、慈悲をも私し(わたくし)てしまうのです。そういう人間の事実があります。それは、聖道の慈悲、「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」(『歎異抄』、聖典628頁)という慈悲です。われわれはそういう慈悲を離れられないわけです。しかしながら、聖道の慈悲は、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」(同)、「今生に(こんじよう)、いかに、いとおし不便(ふびん)とおもうとも、存知(ぞんち)のごとくたすけがたければ、この慈悲(じひ)始終なし」(同)です。親鸞聖人は、そんなことをしても切りがないよ、らちが明かないよと、教えてくださっています。

 ところが、念仏して、自分たちのしていることはそういうことでしかないと気付いたときには、実は、われわれは阿弥陀の本願の中に摂め取られているわけです。阿弥陀の本願の中に摂め取られなければ、そういうことに気付くことはできません。そうしますと、わが思いでしていることが、阿弥陀の本願に摂め取られることによって、阿弥陀のはたらきに転換することになります。そういうことが起こってきます。念仏によって、自分たちのしていることがそういうものでしかないと気付いたとき、われわれがしている相対有限な活動が、阿弥陀の本願に摂め取られ、阿弥陀の絶対無限の活動へと転換してくるのだと思うのです。
 親鸞聖人は、「慈悲(じひ)に聖(しょう)道(どう)・浄土(じょうど)のかわりめあり」(同)、「浄土(じょうど)の慈悲(じひ)というは、念仏して、いそぎ仏(ぶつ)になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益(りやく)するをいうべきなり」(同)と言っておられます。念仏することによって、われわれの聖道の慈悲の行ないが阿弥陀の浄土の大慈大悲のはたらきへと転換していくのだ、それが「かわりめ」だと。親鸞聖人は、そのように言っておられるのではないかと思います。


7 念仏者の社会活動のあり方――念仏と仮・偽の自覚

 われわれがしていることは、どこまでいっても真実ではあり得ません。自分としては一所懸命に本願をわが願いとして阿弥陀の大慈大悲を実践しようとしても、所詮、それは真実にはなり得ません。それは、せいぜい「仮(け)」であるか、場合によっては「偽(ぎ)」になります。われわれのしていることは、真実ではありえません。真実は、阿弥陀の側にだけあります。真実は、われわれの側にはないのです。われわれのしようとすることは、せいぜい、真実を相対の世界に映そうとするくらいのことです。しかし、それも、形だけのものになるわけですね。他の人々のために活動しているような格好をしながら、実際は自分の利益のためにやっている。外形的にはやっているように見えながら、中身は空っぽになりかねません。下手をすると、偽物になります。真宗とは似ても似つかぬものになってくる場合があります。念仏者の活動を名告りながら、実は単なる政治活動、社会活動でしかないということになれば、それは偽・偽物です。

 私は、このことを常に押さえながら活動していくのが念仏者の活動ではないかと思います。このことに気付かせてくださるのが念仏ですから、念仏者の活動は、常に念仏に聞きながらする活動と言わなければなりません。常に念仏を称え、念仏によって自己を問い直しながらするのが念仏者の活動であり、念仏者の社会における生き方であると思います。それがなければ、念仏者の活動とは言えないと思います。

 そこでわれわれが具体的に何をするのかは、本願に聞きながら自分で考えていくしかありません。真宗は、「これが正解だよ」と教えてくれる便利な教えではありません。選挙の時に誰に投票したらいいか、教えてくれるような教えではありません。自分で色々な情報を集め、本願に聞き、どうすることが阿弥陀の願いにかなうだろうかと自分で考えて、自分で決めていかなければならない。それが真宗の教えだと思います。オウム真理教のようなところに行けば、教祖が「これが正しい」と教えてくれて便利ですが、自分で考えることをせずに言われるままに従うというのは、危ないです。真宗は、誰かが教えてくれるのではなくて、自分で考えなければならない。真宗は、そういう教えだと思います。

 そしてまた、念仏者は、自分が正義になってはならない。念仏者の活動は、自分が正義に立って、反対する人や敵を倒す、そういう活動ではないと思います。市民活動に関わっていると、独善的正義感をふりまわし、我のみを正しいとして他の人を攻撃する人が少なくありません。真実は本願にあるのであってわれわれにはない、自分に正義があるわけではないと、常に自覚しながら活動していかなければならない。自分と違う意見を持っている人、異なる考えを持っている人、敵対する考えを持っている人たちに対しても、共に凡夫であるという立場に立って対応していくことが求められると思います。親鸞聖人は、御消息の中で、「念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとびとをば、あわれみをなし、不便(ふびん)におもうて、念仏をもねんごろにもうして、さまたげなさんを、たすけさせたまうべし」(聖典572頁)と、自分たちを弾圧してくる人たちのために念仏しなさいとおっしゃっています。本願は、そういう人たちにも届いているからです。念仏者の活動は、自分と対立する人たちのためにも祈っていく活動です。そして、すべての人々が本願に目覚めていくことを願いながらやっていく活動でなければならないと思います。

 そして、念仏者の活動は、希望を持って理想を実現する運動ではないと思います。一般の市民運動は、理想を持って、それが実現できるという希望を持ってやる運動です。真宗の運動は、そういうものではありません。この地上は、穢土です。穢土は、浄土にはなりません。この地上に浄土を実現することは、絶対に不可能です。したがって、念仏者の運動は、地上に浄土は実現できないという、ある意味で絶望の上に立った運動だと思います。絶望に立っていますから、それ以上意気消沈することはありません。ですから、いつまでも続けることができます。

 市民運動に関わっている人の多くは、何とかなるという希望があるうちは元気が良いのです。熱意を持って、一所懸命にやるのです。しかし、いくら頑張っても目標達成は無理だということになると、元気がなくなって、運動から離れていくのですね。私は、真宗の運動はそういうものではないと思います。あくまでも本願に立つことで、自分自身の念仏者としての「しるし」がこの世に残るという運動ですから、絶望の中でもどこまでも続けていける運動だと思います。

 そのように、自分でいろいろ考えながら判断し、行動していく中で、われわれは逸脱をすることもありますし、時として誤りを犯します。それにもかかわらず、そのようなわれわれに「それでいいんだよ」とおっしゃってくださっているのが、阿弥陀如来であります。それで、われわれは、本願を信じて、試行錯誤しながら、終わりのない歩みを続けていくことができます。私は、それが本願念仏の一番ありがたいところだと思っています。終わりのない歩みを続けていくことができることが、念仏者としての大いなる喜びであり、救いであると感じていることです。


  Ⅱ 真宗と法制度

1 仏法と世法――真俗二諦論と原理主義

 一般論はこのくらいにして、私の専門領域に属する法制度の問題――とくに憲法問題と死刑問題――を取り上げて、具体的に考えてみることにします。

 まず、真宗から法制度や法律を考える前提として、真宗が法制度や法律とどのように関わるのかについて、最初にお話ししておきたいと思います。真宗は、仏法です。そして、憲法や死刑制度などの法制度は、世間の法律に関わりますから、世法ということになります。したがって、真宗から憲法や死刑制度をどう見るかという問題は、昔から真宗の中でも言われてきた、仏法と世法の関係をどうとらえるのかという問題になります。
 この「仏法と世法」ということについては、古くから「真俗二諦論」という考え方があります。仏法を真諦(しんたい)、世法を俗諦(ぞくたい)ととらえて、真諦である仏法と俗諦である世法とは相資(そうし)相(そう)依(え)、つまり「相(あい)資(たす)け相(あい)依(よ)る」という相互支援・相互依存の関係にあると説かれたのが、真俗二諦論の考え方です。そして、仏法は内心にたくわえて社会生活では世間の法律に従いなさいとか、生きている間は世法に従い死んだあとは仏法で浄土往生というような言い方もされてきました。真俗二諦論では、仏法と世法は、それぞれ依存・協力関係にあるとされてきたわけです。

 この論理が何を意味するかと言いますと、仏法の名において世俗の権力を正当化するわけです。そして、その見返りとして、仏教教団が権力の保護を受ける。そういう形になっていたのが、真俗二諦論の実態です。その意味では、仏法が権力のポチになるという話ですね。こういう考え方は、本来の真宗の考えではないと思います。

 これとは逆の、「原理主義」という考え方があります。これは、一定の教義を絶対化して、それを世法によって人々に強制していくという考え方です。例えば、キリスト教の中には、この世界は神が作ったのだから進化論は間違いであるという、いわゆる「創造説」の教義を信奉する教派があります。創造説をとるキリスト教原理主義の人たちは、学校では創造説を教えるべきであり、進化論を教えることは法律で禁止すべきであると主張します。イスラム教には、女性はベールをかぶらなければならないという教義があるようです。イスラム原理主義の国では、女性がベールをかぶらないで歩いていたら捕まります。これは、言わば、特定の宗教が権力になることです。しかも、言葉になった特定の教義を権力で押し付けることになります。これは、教条主義です。真宗は、本願力をたのむのであって、権力という力に頼るわけではありません。したがって、原理主義的考え方は、真宗の考え方ではないと思います。


2 世法への批判としての真宗

 先ほど、浄土は批判原理であると言いました。私は、真宗における仏法と世法との関係は、仏法による世法への批判だと思います。浄土を批判原理として現在の法制度のあり方を常に批判し続けていくのが、仏法と世法の関係であると考えるわけです。
 真宗から見れば、憲法をはじめとする現在の法制度は、人間が作ったものであって、決して究極の真実ではありません。人間が作ったものとして、浄土からの批判を受けなければならないものです。常に、本願に照らして、現在の法制度が本願に応えているかを点検していかなければならないと思います。

 現在の法制度の中に本願にそれなりに応えている部分があるならば、そこは大切に守り育てていかなければならない。しかし、本願に照らしてまだ足りないとか、こうしなければいけないという部分があれば、法律の改正などで直していかなければならない。それなりに本願に応えている部分があるのに、それを本願に背く方向に変えようとする動きがあれば、念仏者は抵抗していかなければならない。私は、真宗と世法の関係を、そのような形でとらえていくべきだと思っています。


  Ⅲ 念仏者の憲法問題への対応

1 「憲法」とは何か――立憲主義と「法の支配」


 念仏者の憲法問題への対応について、お話ししたいと思います。
 先ほど、知ることが大事だと申しました。憲法の問題を考えるときにも、まず、憲法とはどういうものであるのか、また現在の日本国憲法がどういうものなのかを知らなければ、考えようがありません。まず、そのことを押さえておきたいと思います。

 そもそも、「憲法」とは一体何なのか。まず、このことが問題になります。「憲法」ということですが、『真宗聖典』の中にも聖徳太子の「十七条憲法」が入っております。あの時代から、「憲法」という言葉はあるわけです。では、十七条憲法の「憲法」と、日本国憲法の「憲法」とが同じものかと言えば、実は違うと言わなければなりません。どういうことかと言うと、「十七条憲法」は、朝廷の役人――当時の豪族・貴族ですが――に対して政治を行う際の心構えを諭したものであって、法律的なものというよりは、道徳的な訓戒、いわば一種の「お説教」的なものです。

 これに対して、現在使われている「憲法」という言葉は、翻訳語であって、英語で言えば〝constitution〟の翻訳です。〝constitution〟を日本語に訳す際に、それまでもあった「憲法」という言葉を借りてきたわけです。ですから、現在の「憲法」という言葉が何を意味するかを考える場合には、日本語の「憲法」という言葉を探究しても無駄で、元の西洋語である〝constitution〟の意味を探究しなければなりません。そして、この〝constitution〟が何を意味するかと言えば、最近よく「この国のかたち」という言葉が使われますが、いわば「この国のかたち」を決めた法規を意味します。もう少し正確に言えば、「国家という統治機構のあり方を決めた基本的な法規」ということになります。

 さらに、現在では、「憲法」という言葉は、単に「この国のかたち」を決めている法規としてだけではなく、「立憲主義」と結び付けてとらえられています。「立憲主義」ということが、「憲法」というものの本質とされているのです。「立憲主義」とは、憲法によって国家権力を制限して、国民の権利を保障するという考え方です。国家権力を制限して国民の権利を保障するために憲法を作った、憲法とはそういうものだというのが、立憲主義の考え方です。これは近代のヨーロッパで生まれた考え方で、そのような憲法でなければ近代憲法とは言えないというのが「立憲主義」です。

 立憲主義の基礎には、「法の支配」という考え方があります。これも翻訳語で、〝Rule of Law〟という言葉の翻訳です。この「法の支配」とはどういう考え方かと言えば、「国家権力といえども従わなければならない法がある」という考え方です。国家権力は自由に何でもしてよいということではなくて、国家権力といえども従わなければならない法がある、権力の上に立つ法があるということです。このような法を、「自然法」とも言います。人間が作った法――これを「人定法(じんていほう)」「実定法」などと言います――ではない、人間が法律を作る前に自然に存在している法、いわば理念としての法です。権力は、勝手に何でもしていいのではなくて、自然法には従わなければならない、自然法に基づいて法律を作らなければならないという考え方が、「法の支配」ということです。
 立憲主義は、自然法の内容を「憲法」という形で人間の作った法に転換する、その憲法に基づいて権力を制限し、法律を制定するという考え方です。このような仕組みがないと、権力が勝手なことをして、国民を苦しめることになります。それは、あってはならないことです。それを防ぐためには、権力の上に「自然法」というものを立てて、それで権力を縛らなければなりません。しかし、自然法は、人間が作ったものではないので、文字で書かれているわけではなく、そのままでは形がありません。そこで、人間が自然法を憲法の中に文章化して、それに従って法律を制定させることで権力を縛り、国民を守る。これが、立憲主義の考え方です。そのような憲法でなければ憲法ではないというのが、近代立憲主義の考えなのです。憲法は権力を制限して国民を守るためのものであるというのが、現在の憲法についての考え方です。

 ところで、「法治主義」あるいは「法治国」という言葉があります。これは、戦前から使われている言葉ですが、「法律による統治」つまり「国家は法律を作って統治しなければならない」、「国家は法律なしに勝手なことをしてはならない」という意味の言葉です。しかし、この論理では、法律なしにやってはいけないが、法律を作ればできるわけですね。ということは、法律を作ればよいのであって、その法律のあり方、内容を制限する論理にはなりません。そのような限界があります。例えば、ナチスの独裁は、「授権法」という法律によって行われました。また、ナチスは非人道的なことを沢山していますが、それも法律を作って行っています。単なる「法治主義」では、法律を作ればよい、法律の内容は問わないということになって、ナチスのようなことを防げません。

 しかし、「法の支配」の見地からは、ナチスがしたことは、法律を作って行ったのではあっても、より高次元の法である自然法に反することになります。それを憲法に規定しておけば、国家の非人道的な権力行使は食い止められる。そういう話になってきます。そのようなところから、第二次世界大戦後は、世界的に「法治主義」より「法の支配」が強調されるようになってきて、憲法を「法の支配」と結び付ける考え方が一般的になっています。


2 日本国憲法の基本性格――近代立憲主義憲法

 日本において立憲主義を取り入れた最初の憲法は、明治の大日本帝国憲法です。当時のヨーロッパでは「立憲主義」がとられていましたので、明治政府の人たちも、立憲主義に基づく憲法でなければ諸外国から憲法と見なされないということは、分かっていました。大日本帝国憲法制定の中心人物と言われる伊藤博文も、「抑憲(そもそも)法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」、つまり、憲法制定の目的は、一つには君権すなわち天皇の権力を制限し、二つには国民の権利を保護することにあると言っています。伊藤博文は、立憲主義の意味が分かっていて、憲法は権力を制限して人民の権利を保護するようなものでなければならない、そのような憲法でないとヨーロッパからは憲法と認められないということが、分かっていたのですね。現在でも「今の憲法は国民の権利ばかり保障していて義務が書かれていない」などという人がいますが、伊藤博文に笑われます。

 そのようなことで、大日本帝国憲法は、一応は立憲主義を取り入れた憲法と言うことができます。しかし、そうは言っても、大日本帝国憲法は、神権天皇制をとっていて、神聖にして犯すべからざる天皇が統治権を総攬して国家を統治するとしていました(1条・3条・4条)。そのため、天皇の権力には絶対的性格が認められることになり、天皇権力の制限と国民の権利の保護には大きな限界がありました。したがって、大日本帝国憲法は、見かけは立憲主義の形をとりましたが、その内実は天皇の権力を重視したものであって、立憲主義の憲法としては極めて不十分なものでした。

 現在の日本国憲法では、立憲主義がより徹底されています。それは、日本国憲法の前文にも現われています。前文は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と述べています。ここに、「人類普遍の原理」という言葉が出てきます。憲法前文は、立憲主義は人類普遍の原理であり、この憲法は人類普遍の原理である立憲主義の上に作られているということを、謳(うた)っています。そして、その上で、第13条以下にさまざまな人権保障規定を置いています。立憲主義に基づく憲法というのが、日本国憲法の基本性格です。


3 日本国憲法の三つの基本原理――国民主権・基本的人権・平和主義

 日本国憲法には、三つの基本原理があると言われます。それは、「国民主権」「基本的人権」「平和主義」の三つです。

 国民主権は、前文では、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と述べられています。そして、第1条の「主権の存する日本国民」という文言によって、条文の上でも、国民に主権があることが規定されています。

 基本的人権については、第11条以下に規定があります。第11条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」と規定しています。そして、第13条以下の条文で、さまざまの権利が保障されています。

 平和主義については、前文で、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、基本的な理念が謳われています。そして、第9条に、戦争の放棄(一項)と、戦力および交戦権の否認(二項)が規定されています。これは、ご承知のとおりです。


4 念仏者の日本国憲法への対応

 (1) 念仏者と立憲主義

 われわれの問題は、このような日本国憲法を念仏者としてどのように見ていくかということです。
 まず、立憲主義を念仏者の立場からどのように考えるかが問題になります。立憲主義の基礎にあるのは、権力を超える法がある、国家権力も法に従わなければならないという、「法の支配」、〝Rule of Law〟の原理です。この考え方をわれわれ念仏者はどう考えるのか、それが問題になります。

 仏教にも、「法の支配」と似たような思想があります。仏教には、「ダルマ」(Dharma、「法」)という観念があります。国家権力を超える「法」(ダルマ)がある、権力も「法」(ダルマ)に従って政治を行わなければならない、国王といえども「法」(ダルマ)には従わなければならないという考え方は、仏教の歴史の中にもあります。たとえば、アショーカ王という、古代インドの有名な王様がおります。アショーカ王は、ダルマを重んじて、ダルマに従って、ダルマに基づく政治を行なったと伝えられています。法(ダルマ)は権力を超えるものである、権力も法(ダルマ)には従わなければならないという考え方を、仏教は持っていると言えると思います。

 親鸞聖人は、『教行信証』の後序で、法然上人や親鸞聖人が流罪になった承元の(じようげん)法難について、「主上臣下、法に背(そむ)き義に違(い)し」(聖典398頁)と書いておられます。このような言葉で、当時の「主上」つまり天皇を批判している。天皇は「法」に背き「義」に違したという、厳しい批判を加えておられるのです。こういう言葉が出てくるということは、天皇といえども「法」や「義」には従わなければならないという考え方が親鸞聖人にはあった、ということを意味します。天皇は絶対権力者であって法にも義にも制約されないということであれば、このような批判は出てきません。天皇も法に従わなければならないにもかかわらず、法に背いて真宗を弾圧したと、親鸞聖人は告発しているわけです。ここから、親鸞聖人は天皇も「法」には従わなければならないという「法の支配」に類似した考えを持っておられたことが、読み取れると思います。先ほど、真宗は批判であると言いました。浄土は、世法・権力を批判していく批判原理だと思います。したがって、真宗には、浄土を権力に対する批判原理としてとらえ、それによって権力を制約していこうとする考え方があると言えると思います。その意味では、「法の支配」に類似した考え方があるように思います。

 もっとも、近代ヨーロッパの「法の支配」の思想と仏教のダルマの思想、あるいは親鸞聖人の「主上も法や義に従わなければならない」という思想が同じものなのか、それとも微妙に異なるものなのかという点については、私はまだ十分に分析していませんので、はっきりしたことは言えません。しかし、仏教、真宗の中に「法の支配」に通じるような考え方があるとは、言えるように思います。そのように見るならば、われわれ念仏者は、仏教の立場から、改めてもう一度、「法の支配」の理念をとらえ直してみる必要があるように思います。それは、世界における「法の支配」の深化にも大きく貢献できると思います。

 とはいえ、近代ヨーロッパは「法の支配」を実現する手段として立憲主義を生み出しましたが、仏教、真宗は、仏教的・真宗的な「法の支配」を実現する具体的手段を生み出すことはありませんでした。親鸞聖人も、「天皇も法には従わねばならない」と考えておられましたが、それを実現する具体的な法的手段については何も言っておられません。このことは、よく考える必要があるように思います。

 (2) 念仏者と国民主権

 次に、「国民主権」を念仏者の立場からどう考えるかという問題があります。
 真宗は、あくまでも個の自覚です。一人ひとりが自己を自覚していくのが、念仏者だと思います。その「個」とは何かと言えば、現代社会の中にいる個です。「個の自覚」とは、現代社会の中において自分自身を自覚して、そこで主体者として立つということだと思います。和田稠先生の言葉によれば、「今、この現前に自覚的主体となる」ということです。個の自覚とは、自覚的主体者になることだと。それも、この現実の中で自覚的主体として立つ、社会の中で社会とか関わりながら生きている一つの主体として存在することを自覚する。そうすると、自覚的主体者として現実の問題と積極的に関わっていくことが始まる。和田先生は、そういうことを言っておられました。

 念仏者は、まさに主体的にこの社会と関わっていかなければならないということです。この社会のあり方をどうするのか、日本の政治や、自分が生きている社会をどのようにしていくのか。それを人任せにして、人にお願いして決めてもらって、その結果が納得できないと陰で文句を言う。そういうことではなくて、社会のあり方を決めることを引き受けて、主体的にこの社会と関わっていく。そうでなければ、個の自覚に立つとは言えないということです。
 そうなると、この国をどうするかは、自分たちで決めていかねばならないことになるはずです。人任せにしないで、自分たちの国・社会をどうするかを自分たちで決めていくというのが、個の自覚に立った人間のあり方だと思います。その意味で、真宗の考え方は、国民主権・民主主義とつながっていくと思います。

 (3) 念仏者と基本的人権

 次の問題は、基本的人権を念仏者の立場からどう見ていくかです。
 基本的人権を考えていくときには、その根底には「人間の尊厳」があるということを押さえておく必要があります。このことについては、憲法第13条を見ていただきたいと思います。憲法第13条は、具体的に基本的人権を定めた基本規定とされているものです。第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定しています。ここでは、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」権利として規定されています。これらは、最も基本的な人権ということになります。

 そして、第13条は、その冒頭、これらの基本的人権について規定した文章の前に、「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を置いています。これは、すべての国民が個人として尊重されるから人権が保障される、基本的人権が保障される根拠は「個人の尊重」にある、ということを意味します。さらに、この「個人の尊重」の基礎には、「人間の尊厳」があります。すべての国民が個人として尊重されるのは、すべての人間が尊厳な存在とされるからです。人間は尊厳な存在であるからすべての国民は個人として尊重され、基本的人権が保障される。これが、憲法の基本的な考え方です。この意味で、基本的人権の根拠は、「人間の尊厳」にあるわけです。

 すべての人間が尊厳な存在であるならば、その尊厳が守られることが、人間にとって最も重要な課題になります。しかし、単に「人間の尊厳」ということを言うだけでは、人間の尊厳を守ることはできません。どうすれば人間の尊厳を守ることができるか、その方法をはっきりさせないと、人間の尊厳は守られません。人間は、生きて生活している存在です。したがって、人間の尊厳が守られるためには、すべての人間のいのちと暮らしが大切にされることが必要です。いのちと暮らしがおろそかにされていたのでは、人間の尊厳は保たれません。ですから、人間の尊厳が守られるためには、すべての人間のいのちと暮らしが保障されることが必要です。それで、生命、自由、幸福追求の権利等の基本的人権が保障されるわけです。基本的人権が保障されるのは、人間の尊厳を守るためなのです。私は、基本的人権はそれ自体が自己目的ではないと思っています。基本的人権を守ることによって、すべての人間の尊厳を守る。人間の尊厳を守るために、基本的人権を守る。その意味で、基本的人権は、人間の尊厳を守るための手段的なもの、仏教的な言い方をすれば方便的なものだと思います。

 このように基本的人権が「人間の尊厳」から出てくるとすると、はたして真宗において「人間の尊厳」ということが言えるのかが問題になってきます。真宗は、人間を煩悩にまみれた愚かな凡夫と見ます。「具縛の凡愚」(『唯信鈔文意』、聖典552頁)、「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」(『歎異抄』、聖典626頁)、「煩悩具足の凡夫」(同、聖典640頁)というのが、真宗の人間観です。このような凡夫に「尊厳」などということがありうるのかが、問題になってきます。
 私は、真宗においても「人間の尊厳」ということは言えると思っています。親鸞聖人は、『唯信鈔文意』の中で、「煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたる」(聖典552頁)、「かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとし」(聖典553頁)などと言っておられます。また、御消息には、「信心をえたるひとは諸仏とひとし」(聖典608頁)とあります。煩悩具足の凡夫であるわれわれが、そのままで無上大涅槃に至る、如来と等しい。石・瓦・礫のような我らが黄金になるのだと。そのように言っておられるのです。これは、まさに、「凡夫の尊厳」です。われわれは、たしかに凡夫である。われわれは、凡夫には違いないけれども、本願に摂め取られることによって尊厳な存在になる、凡夫だからこそ本願に願われた尊い存在なのだと、そのように親鸞聖人は言っておられるのだろうと、私は思うのです。

 親鸞聖人や蓮如上人の時代に真宗があれだけ広まったのは、真宗がすべての人間に尊厳性を認める教えだったからではないかと思います。親鸞聖人や蓮如上人の時代には、尊厳性を否定された人々が大勢いたわけです。親鸞聖人の『唯信鈔文意』には、「とうときひと、いやしきひと」(聖典552頁)、「屠沽(とこ)の下類」(同)という言葉があります。「いやしきひと」「下類」とされて差別されていた人が、大勢いた。そういう人々に対して、差別されていても、実は本願に願われた人間の尊厳があるのだと教えてくださったのが、真宗の教えだったと思うのです。だからこそ、当時、あれだけ大勢の人々の間に真宗が広まっていったのだろうと思います。
 私は、真宗の教えは、人間の尊厳を否定されていた人々にその尊厳性を回復させる教えだったと思っています。その意味では、真宗は、人間の尊厳を回復させる教えではないかと思うのです。私は、そのように考えるならば、真宗においても憲法の前提となっている「人間の尊厳」を認めることができると考えています。

 もっとも、ヨーロッパ的な意味で言われている「人間の尊厳」と真宗的な「人間の尊厳」「凡夫の尊厳」とが同じものであるかということになると、私もまだ十分に検討はしていません。われわれの立場から、改めて真宗における「人間の尊厳」を深く追究して、それをヨーロッパ的な意味で言われている「人間の尊厳」との関連で考えていく必要があると思います。

 (4) 念仏者と平和主義

 最後に、日本国憲法の平和主義を念仏者の立場からどう見るかについて、お話ししたいと思います。
 先ほど見たように、日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあります。この文章は、ヨーロッパ自然法思想に基づいて書かれたものです。しかし、私は、この表現に、真宗の考え方に通じるものを感じます。どういうことかと言いますと、「恒久の平和」という言葉がありますが、念仏者にとって恒久の平和とは何かと言えば、これは浄土であると思います。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」は、念仏者にとっては本願でありましょう。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と書いてありますが、なにゆえに「諸国民」は「平和を愛する」と言えるのか、その「公正と信義」をどうして「信頼」できるのか。それは、念仏者から見れば、すべての人間が本願に願われた存在であるからでありましょう。本願力は、すべての人間に及んでいる。だから、当然、すべての人間が平和を愛することになるはずである、ということですね。私は、それが真宗の考え方だと思います。

 そうだとすれば、「恒久の平和」を「浄土」と読み替え、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」を「本願」と読み替え、「平和を愛する」を「本願に願われた」と読み替えることができます。そうしますと、憲法前文のこの部分は、「日本国民は、浄土を念願し、本願を深く自覚するのであって、本願に願われた諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生活を保持しようと決意した」と読み替えることができます。このように読み替えると、この文章は、真宗の考え方に近いものになってきます。もちろん、もともとの憲法前文がこのような真宗的な意味をもっている、というわけではありません。しかし、憲法前文が言わんとしている考え方と、真宗の考え方には、かなり近いものがある。私は、そのように思うのです。

 そして、さらに憲法前文のその後には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあります。これも、もともとは、ヨーロッパ法思想の生存権とか、平和的生存権とか、そういう考え方に基づいて書かれている文章ではあります。しかし、ここで言っていることは、例えば、阿弥陀の第一願、「国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」という「無三悪趣」の願と重なっているように思われるのです。そして、この憲法前文の目指すところは、親鸞聖人の「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」(聖典五六九頁)という願いともつながってくるように思われるのです。そうなりますと、前文で述べられている考え方、願いは、真宗の願いと非常に近いところがあるということになります。そうであれば、われわれ念仏者は、これを評価して、真宗の立場、念仏者の立場から、より深めていくことが望まれるのはでないかと思われるのです。

 さらに、第9条を見てみると、戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否定を規定しているわけです。これが何を意味するかと言えば、「日本は軍隊によって人を殺すことはしない、兵隊に人を殺させることはしない」と言っていると理解することができると思います。釈尊は、『法句経』で、「殺してはならない。人に殺させてはならない」とおっしゃっています。いわゆる、「不殺生戒」です。第九条が言っている「日本は軍隊によって人を殺すことはしない、兵隊に人を殺させることはしない」ということは、この不殺生戒と重なり合っていると思います。そういう意味で、第九条の規定は、釈尊の説かれた不殺生戒を日本国として引き受けて、「日本国は不殺生国家になる、不殺生国家を目指す」ということを世界に宣言した宣言文として読むことができるのではないかと思います。『大無量寿経』には、「国豊民安、兵戈無用」(聖典78頁)――仏の教化の及ぶところ、国は豊かに人々は安らかになり、兵器を用いることもない――とあります。この世界と、第九条の目指す世界は共通しています。そのような『大無量寿経』の世界を目指していこうというのが、第九条である。そのように言えるのではないかと思います。

 日本国憲法の平和主義・第九条はなぜ生まれたのか、また、それに本願と共通するものがあるのはなぜなのか。そのことを考えると、それは、日本国憲法が十五年戦争の犠牲者のいのちの上に生まれた憲法だからだと言えるように思います。戦争で亡くなっていった方々は、一人ひとり、家族への思いとか、いろいろな思いを持って亡くなっていかれたのだろうと思います。そして、それぞれの思いはあったでしょうが、その亡くなっていかれた方々のいのちの根底にあった願いは何かと言えば、それは、「世界の人々が一つ世界を共に生きる世の中にしてほしい」という、それが、おそらく、亡くなっていった方々の共通する声なき叫びだったのではないかと思います。皆さん、家族などへのそれぞれの思いがあっただろうと思いますが、その根底を探っていけば、本願に通じるような、「すべての人間が共に生きていける世界を実現してほしい」という願いが、一番の根底に共通してあっただろうと思います。私は、その願いから生まれてきたのが現在の日本国憲法の平和主義・第九条ではないかと思うのです。戦争で亡くなっていかれた方たちのいのちの願いから生まれてきたから、この憲法の平和主義・第九条の規定が、本願に通じるような中身を持っている。そのように思うのです。

 真宗から見ると、憲法の平和主義・第九条は、日本は力を頼むのではない、本願をたのむ国家を目指すのだという宣言として理解することができると思います。これは、もちろん、念仏者以外には通じない話ではあります。しかし、われわれ念仏者としては、憲法の平和主義・第九条は、日本は武力を頼まない、その意味では自力を頼まない、本願力をたのむのだ、そういう国になるのだ、ということを言っていると受けとめていくことができると思うのです。

 他の人からは、本願なんて頼りないと言われるかもしれません。しかし、それでは軍事力はそんなに頼りになるものかと言えば、まことに頼りないものです。「安全保障のジレンマ」ということが言われます。軍事力に頼って自国の安全を守ろうとするとどうなるかと言えば、よその国よりも強い軍事力を持たないと安心できないわけですね。そうすると、お互いによその国より強い軍事力を持とうとする軍備増強競争になって、どんどんエスカレートしていきます。しかし、それには限界があるので、どこかで、これ以上は無理だ、これ以上の軍備増強はできない、ということになります。しかし、まだ向こうのほうが下だと思えば、今のうちに攻撃すれば勝てるかもしれないと考えます。そう考えたときには、そこで戦争が始まってしまいます。軍事力に頼って平和を守ろうとすると、軍備増強競争になり、それが破綻して戦争になっていくという、「安全保障のジレンマ」が起こってしまいます。軍事力に頼る安全保障は、危ないのです。私は、本願力をたのむ安全保障が一番頼り甲斐がある安全保障ではないかと思うのです。

 平和は軍事力では作れないことは、歴史が証明しています。本当に頼れるのは、自分たちの「力」、自力ではなく、本願他力です。平和を作る最も現実的な道は、軍備を拡大して「安全保障のジレンマ」に陥る道ではなく、本願国家の道ではないかと思います。世界は、非軍事的な方法で平和を維持していこうとする方向に徐々に進みつつあります。念仏者は、日本国憲法の平和主義と第九条の精神を世界に広めて、このような世界の動きに貢献すべきではないかと思います。


  Ⅳ 念仏者の死刑制度への対応

1 死刑制度の現状――日本と世界の動き


 「真宗と社会問題」の一つとして、念仏者の死刑制度への対応についても、簡単に触れておきたいと思います。資料(「死刑に異議あり」)に若干のデータを入れておきましたので、これを見ながらお聞きいただければと思います。

 たびたび言いましたように、事実を知らずにものごとを議論することはできません。死刑制度について考えるためには、死刑制度の現状を知る必要があります。ところが、日本の法務省は、死刑に関して強い秘密主義をとっていて、その現状を知ることは極めて困難です(補注1)。民主主義社会では、官庁が保有する情報は国民の共有財産でありまして、国民の議論の素材として公開されなければなりません。これが、「情報公開」ということです。封建時代の「知らしむべからず、依らしむべし」を思わせるような法務省の姿勢は、厳しく批判されなければならないと思います。初めに、このことを指摘しておきたいと思います。

 日本には、死刑制度があります。死刑が規定されている罪は、約二〇の罪です。その多くは人を死亡させたときに成立する罪ですが、内乱罪(刑法第77条第一項第一号)や外患誘致罪(刑法第81条)のように人が死亡していなくても死刑になる罪もあります。
 死刑は、拘置所の中で絞首して執行されます(刑法第11条)。いわゆる「絞首刑」です。執行を命令するのは法務大臣(刑事訴訟法第475条)ですが、いつ誰を執行するかを実際に決めているのは法務省の役人です。死刑が確定した順番に執行されているわけではないので、どういう基準で執行する順番や時期を決めているのかは、全く分かりません。

 死刑囚は、執行までは拘置所――刑務所ではありません――に収容されます。死刑囚がどのような処遇を受けているかは公表されていないのでよく分かりませんが、精神的・肉体的にかなりの極限状態にあることは確かなようです。執行するときも、当日の朝に告知されて、そのまま刑場へ連れて行かれるようで、家族との「最後のお別れ」もないようです。そのため、死刑囚は、常時、執行の恐怖にさらされていて、極度の緊張を強いられているのが実情のようです。

 日本には死刑制度がありますが、世界では死刑廃止の動きが進んでいます。とくに、1989年に国連でいわゆる「死刑廃止条約」が成立してから廃止国が増加していて、現在では、世界の約七割の国が、法律上または事実上死刑を廃止しています。アジアでも、廃止国が徐々に増えてきています。お隣の韓国も、事実上の廃止国になっています。

 日本では、人のいのちを奪う犯罪は、戦後一貫して減り続け、1990年代以降は低い水準で安定しています。しかし、死刑の執行は1990年代後半から徐々に増加(補注2)していますし、死刑の言渡しもここ数年著しく増えています。内閣府の世論調査でも、死刑の存置に賛成する意見が85パーセントを超えています。この世論調査には設問が必ずしも中立的でない等の問題もありますが、多くの国民が死刑を支持していることは、否定できないと思われます。これは、刑事政策的に見ると不合理な動きでして、世界の動向にも逆行しているように見えます。


2 念仏者の死刑制度への対応

 問題は、このような日本の死刑制度を念仏者はどう考えるかです。
 釈尊は、先ほど述べたように、『法句経』の中で、「殺してはならない。人に殺させてはならない」と、不殺生戒を説いておられます。死刑は、国が殺す、国が刑務官に殺させる制度です。仏教徒が死刑を支持することは、この言葉に反するというほかはないと思います。『大無量寿経』の第一願は、「国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」という「無三悪趣」の願です。「国が殺す、国が刑務官に殺させる」死刑制度のある国は、「地獄」ではないでしょうか。阿弥陀如来は、死刑のない国を願っているはずであります。

 ナーガールジュナ(龍樹菩薩)も、『ラトナーヴァリー』(宝行王正論)の中で、「慈悲は、ことに恐ろしい罪を犯した悪人たちに向けられねばなりません。このような憐れむべき人々こそ、心の高潔な人の慈悲にふさわしい対象でありますから。(略)事情を正しく考慮し判断して、たとえ罪深い殺人を犯した人々であっても、死刑に処することなく、また責苦を与えることなく、彼らを追放しなさい」(『大乗仏典14 龍樹論集』中央公論社、289頁)と言っておられます。

 親鸞聖人は、阿弥陀が「願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば」と説かれ、「悪人」が「もっとも往生の正因」だとする「悪人正因」を唱えておられます(『歎異抄』、聖典628頁~629頁)。また、承元の法難では、住蓮房・安楽房らの同朋・同行を死刑にされ、これを「猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す」(『教行信証』後序、聖典398頁)と厳しい言葉で批判しておられます。そのような親鸞聖人が、「悪人は死刑にしてもよい」と言われるとは思えません。

 私は、死刑制度は、善人意識に支えられた制度だろうと思います。多くの人は、自分は被害者になることはあっても加害者になることはないと思っています。そして、自分のような「善良な市民」を「極悪人」から守るためには、死刑が必要だと考えているのではないでしょうか。また、人々の間には、加害者の死刑を求めるのが死者への「はなむけ」、追善供養であって、後に残った者が加害者を死刑にしないと被害者が「浮かばれない」、「成仏できない」という感覚もあるように感じます。これも、自力作善してそれを死者に回向するという、自力を頼む善人意識だと思います。このような人々の意識が、85パーセント以上が死刑存置論という世論を形成し、死刑制度を支えているのではないでしょうか。

 しかし、前にも言ったように、すべての人間は、煩悩具足の凡夫、罪悪深重煩悩熾盛の衆生です。誰もが、加害者になることもあれば、被害者になることもあります。「自分は人を殺すようなことはしない」というのは、傲慢です。親鸞聖人は、「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』、聖典633頁)、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいをもすべし」(同、聖典634頁)と言っておられます。自分の心が良いから殺さないのではない、殺すのは「宿業」「業縁」のもよおしだというのが、親鸞聖人の人間観です。ここに立つならば、「人を殺すような極悪人は死刑にしてもよい」とは、とても言えないと思います。

 ところで、死刑に関しては、「死刑になるのは、その人の業だ。自業自得だ」と言われることがあります。しかし、私は、このような「業」の理解は、間違っていると思います。第一に、仏教の論理は、自己を問う自覚の論理であって、他者を論評するための論理ではありません。業も、自己の業の自覚として言われるものであって、他者について言うべきものではないと思います。第二に、「自業自得」「悪因苦果」は人間の行為に関する理法として言われるものであって、法制度によって人間が理法を代行・実現しようとするのは、傲慢だろうと思います。それに、何らかの犯罪に対する「苦果」が死刑でなければならない理由は、どこにもありません。「死刑になるのは自業自得だ」という論理は、「自己決定、自己責任」としてすべてを個人の問題にしてしまう近年の風潮と同質の論理のように思えます。それは、「業縁」を問題にする真宗の考え方ではありません。

 私は、死刑について「業」を言うのであれば、むしろ「死刑制度は私たちの業である」と言うべきではないかと思います。死刑制度は阿弥陀の願いに背くものであるにもかかわらず、私たちは、まだ死刑制度をなくせずにいます。死刑制度は、私たちの宿業のように見えます。しかし、宿業も、本願に出会うことで超えられていきます。私たちは、本願に出会い、自分が本願に背いていることに気付かされれば、慚愧(ざんき)せざるをえません。慚愧は、行動を伴います。私たちが、本願に出会い、死刑制度を支えている自分のあり方を本願から批判され、慚愧して本願に生きる歩みを始めれば、死刑制度を克服する道が開けてくるはずです。念仏者の死刑廃止へ向けての活動は、そのようなものではないでしょうか。それゆえ、死刑廃止の可能性は、私たちにではなく、本願にあるのだと思います。

 私は、死刑だけではなく、そもそも刑罰というもの自体が、人を苦しめるものであり、「抜苦与楽」の慈悲に反するもの、阿弥陀の願いに背くものだと思っています。阿弥陀の願いは、刑罰などというものがない世界を願っているはずです。
 しかし、人間の現段階で刑罰をすべてなくすことができるかと言えば、不可能と言わざるをえません。まだ、人間は、刑罰なしでやっていけるような状況にはありません。例えば、ハイチやソマリアに見られるように、災害や紛争で警察や刑務所が崩壊し、刑罰制度が実質的になくなってしまったところでは、理想のパラダイスが実現するどころか、弱肉強食の地獄が現出しています。刑罰制度がなくなって一番苦しむのは、力のない、弱い人々なのです。
 そうすると、刑罰制度というもの自体が、なくすべきだがなくせない、われわれの宿業だということになります。われわれは、そのことを慚愧せざるをえません。しかし、慚愧すれば、本願に生きる歩みが始まります。その歩みは、刑罰のない世界を目指そう、刑罰を少しでもなくそう、減らしていこう、いらない刑罰はなくそうという歩みになります。刑罰をすべてなくすことはできなくても、死刑はなくすことができるはずです。私は、死刑はいらない刑罰であり、死刑廃止は刑罰をなくしていく第一歩でもあると考えています。すでに、世界の七割の国・地域において、死刑なしで問題なく社会が動いています。それらの国と比較しても犯罪情勢が極めて良好な日本で、それと同じことができないはずはありません。


  おわりに

 長い時間をいただいて色々な話をさせていただきましたが、いずれも「私のおもい」であり、「自見の覚悟」に過ぎません。皆さまのご批判を受けて、さらに深めていきたいと思っております。ご静聴、ありがとうございました。

(本稿は、2010年7月11日に円光寺で行った講演のテープ起しに加筆・修正したものである。目で読んで分かりやすくするために表現や言い回しをかなり変えてあるが、話の内容は変わっていない。なお、死刑制度に関する部分は、録音されていなかったため、手元の講演原稿に基づいて補充したものであることをお断りしておく。)

(補注1) 本講演後の2010年8月に東京拘置所の刑場が初めてマスメディアに公開されたが、なお限定的な部分公開にとどまっている。死刑囚の処遇状況、執行決定の基準・プロセス、具体的な執行の状況等、公開されていない情報は、依然として非常に多い。

(補注2) 2009年の政権交代により就任した千葉景子法務大臣は、死刑廃止議員連盟のメンバーでもあったために、死刑の執行停止や死刑廃止への動きが出てくるのではないかと注目された。しかし、千葉法務大臣は、本講演直後の2010年7月に死刑執行を行った。千葉法務大臣は、同時に死刑に関する情報公開の拡大と死刑存廃の議論の開始を表明したが、どこまで情報公開が進むか、死刑存廃の国民的議論が展開されるかは、不透明である。その後、千葉法務大臣は、内閣改造により退任した。



  資料

日本国憲法(抄)
〔前文〕
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第一条〔天皇の地位・国民主権〕
 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
  (略)
第九条〔戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認〕
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
  (略)
第一一条〔基本的人権の享有と永久不可侵性〕
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第一二条〔自由及び権利の保持責任と濫用禁止〕
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第一三条〔個人の尊重、幸福追求権、公共の福祉〕
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


世界の死刑廃止国と存置国
  あらゆる犯罪に対して死刑を廃止している国:    95ヵ国
  通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国:   9ヵ国
  事実上の死刑廃止国(10年以上執行がない国):  35ヵ国
 法律上、事実上の死刑廃止国の合計:        139ヵ国
 死刑存置国:                         58ヵ国
             (2009年11月現在、アムネスティ・インターナショナル調査)


死刑制度に関する世論調査
 死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか。
  1 どんな場合でも死刑は廃止すべきである:   5・7%
  2 場合によっては死刑もやむをえない:     85・6%
  3 わからない・一概に言えない:           8・6%
          (2009年12月 内閣府「基本的法制度に関する世論調査」)