真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  平野 修先生
相手を認めることは難しい。なぜなら自分の狭さを認めることが不可欠だからだ。

 

耳にも好き嫌いがあって、いつもほめ言葉ばかり聞きたがる。

 

念仏申すことで変わってくる。何が変わるかというと、私を中心として生きる人間が如来が主となって主人公が変わる。

 

念仏の信心というものは、ここにある自分自身が認められたということです。そしてそれが受け入れられる。

 

法然門下にあった人たちも、自分自身を無くする方向で仏教は考えられたり、少しでも向上して、あるべき理想的なところに自分自身を見出すことこそ仏教だと考えてしまって、念仏によって自分自身が成立するということ、認められ、受け入れられていくということを分からなくさせてしまったわけです。

 

往生というのは、自尊心から出られるのを言うのです。我々は自尊心という牢獄の中に閉じ込められているわけです。自尊心が破られれば、「自尊」ではなしに「世尊」ということが出てきます。
南無阿弥陀仏ということのいわれが心得られた心、それが信心である。その信心ということで、閉じ込められているところから出られる。
信心は決して深い宗教心であるとか、熱心な宗教心のことを言うのではありません。

 

いろんな違いをもつ人間の中にあって、一つだと言えるものがある。違いの真っ只中にあって、「一緒だ」と言えるものを我々に開くもの、それが念仏であるというのなら、念仏を通して「一」を見出した心を「信心」と言っていいかと思うのですね。
「一」を定義しますと、基盤という意味を持ち、基礎という意味を持ちます。そして同時に、「そこから始まる」という意味を持ちます。
基盤とか基礎とかいう意味は、「私」ということが成り立つ基礎・基盤をいうのです。そして、そこから自分の生活が始まっていくという意味を表す。
「私」は基盤や基礎というものを持ち合わせていないのです。基礎も基盤も持っていないために、疑い・恐れ・不安を免れない。

 

真宗はすがりつくということはありません。真宗はすがりつかせないのです。すがりつく必要もないのです。真宗は立たせるわけです。

 

真実報土の往生ととぐるとは、ここに自らの足がしっかりと地面につきましたということです。

 

目を覚まさせようというのが「念仏せよ」という本願の本意であります。どうにもならないからすがるという意味ではありません。

 

念仏が何か応えてくれるはずだ。努力に報いてくれるはずだという立場で、我々はものを考えるわけです。これが自力の立場です。

 

彼岸とはさとりを表す言葉です。智慧によって彼の岸に渡る(さとる)。では彼の岸とはどんな岸か。浄土という世界です。

 

自力の反対語は他力ではありません。懈怠です。

 

「後悔のない生き方をしよう」とか言うでしょう。後悔のないような生き方があったら教えてほしいです。