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  藤間 哲祐さん 「真宗入門 念仏申す生活」
                            2014年7月9日

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 山陽教区の駐在教導をしております藤間と申します。今日は「真宗入門 念仏申す生活」という題を出させていただきました。

 このたびは戦没者追悼法要でございます。私どもは真宗門徒ですから、ただ追悼をするのではなく、あらためて仏教の教えを聞きましょうということが法要の趣旨です。亡くなった方が迷わないように、ということではないんですね。迷っているのは誰かというと、生きている私たちだというのが仏教の教えです。

 新聞やテレビに今日の運勢が載っています。「蟹座の人は今日は30点です」と書いてあるのを見るだけで、気分が落ち込んだりします。7割以上の人がそういう占いを信じているのが、私たちの迷いの証拠です。迷っている私が仏の教えを聞いて、生まれた意義と生きる喜びを見出していく。

 戦没者追悼法要とは、まことの平和を願うということです。国会で安全保障法案の審議がされていますが、戦争のできる国になりつつあると危惧します。国の動きがどうなっていくのかを真宗門徒として案じていく。

 南無阿弥陀仏がまことの平和の原理になることは間違いないと思うんですね。宗教が求めるところはまことの平和であり、まことの平等です。昨今の政治情勢を真宗門徒としてどう考えたらいいのかということを、親鸞聖人の教えに照らしてみることが必要です。

 『大無量寿経』には「仏の遊履(ゆうり)したまうところの国邑丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災厲(さいれい)起こらず。国豊かに民安し。兵戈(ひょうが)用いることなし」(仏さまの教えが国中に浸透するところ、国は豊かに民は平穏となり、武器をとって争う必要がない)と説かれています。私たちのご先祖も深く平和を願っているのではないでしょうか。

 お釈迦さまも「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」と、『法句経』におっしゃっています。これは仏教に生きる平和の精神です。

 親鸞聖人も平和の願いをお手紙に書かれています。
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそうろう」(救いをいただいている人は、仏のご恩に報いるためにお念仏を申しましょう。そして、平穏な世の中であってほしい、南無阿弥陀仏の教えが広まってもらいたいと願うものです)

 宗教って何のためにあるのか。絶対の幸福、絶対の平等、絶対の平和を実現するのが仏法の力だと思うんですね。そうなっていない私をどうするかが仏教の課題です。何をやっているんだ、空しいなという気持ちが、私たちの心でありますが、そういう私たちの気持ちを仏さまはご存じだからこそ、どうにかしないといけないというので、仏教が興されたわけです。そういう心を私たちもいただくということです。

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 みなさんが南無阿弥陀仏という言葉をいつおぼえたかというと、思いだせないんじゃないですか。学校で習ったわけではないですね。おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんから何となく教わったんじゃないでしょうか。

 私どもが縁あって南無阿弥陀仏と申しておりますけれど、南無阿弥陀仏はどういう意味なのか、そこを聞いていくのが仏の教えを聞くことです。

 南無阿弥陀仏は呪文とかじゃないんですね。仏さまの名前です。私の友人が「お経には意味があったのか」と言ってました。漢文をただ読むだけですからね。しかし、ちゃんと意味があるんです。

 南無阿弥陀仏という字自体には意味はありません。インドの言葉であるサンスクリットの「ナムアミターバ」や「ナムアミターユス」という言葉の発音を、中国人が漢字に当てはめたのが南無阿弥陀仏です。たとえば「夜露死苦」と書いて「よろしく」と読ませるようなものです。音写といいます。

 『正信偈』の最初の二句の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」は南無阿弥陀仏と同じ意味です。今でもインドでは「ナマステ」と挨拶します。「あなたを尊敬します」ということが南無の語源です。「南無」は「帰命」という意味です。帰命とはおまかせしますということです。全身全霊を込めて仏さまにおまかせする。

 何があっても文句を言わないというのが「おまかせする」の本来の意味なんですけど、今の「たのむ」とか「まかせる」は軽くなっています。「君、この仕事をまかせたよ」と頼んだのに、あとで「何だ、これは」と文句をつけます。頼んだからには何も文句を言いません、あなたにお願いしたんですから、ということが本来の「たのむ」です。

 南無阿弥陀仏とは、阿弥陀如来に私の全身全霊、人生のすべてをまかせます、仏さまの願いにもとづいて生きます、という表明でもあるんです。

 阿弥陀如来には二種類のはたらきがあります。アミターバ(光)とアミターユス(寿)です。「ア」は否定の意味で、「ミタ」は量ですから、アミタとは無量ということです。無限な光、無限の寿(いのち)の仏さまが阿弥陀如来です。ですから、「無量寿如来」は無限なる寿の仏さま。「不可思議光」は人間の思い、はからいを超えた光。その仏さまに私は帰命しますというのが、南無阿弥陀仏の意味なんですね。

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 無量光や無量寿はたとえです。光とは仏さまの智慧を表します。光が当たるというのは、道理がわかるということです。道理がわからなければ愚痴を言います。「何で私がこんな目に遭わなきゃいけないのか」と、「なんで、なんで」と言うのは道理がわからないからです。そのときは暗い気持ちになる。

 この「なんで」が光に照らされ、「そういうことなのか」と道理にうなずくのが智慧をいただいたということなんですね。マンガで、どういうことかと考えて、「わかった」というときに頭の上に電球の絵が描かれます。光をいただくと明るくなるので、自分が何者かがわかる。

 如来の智慧をいただくことによって、だんだん頭がよくなってきて、「南無阿弥陀仏と申している私はえらいね」とほめられるということじゃありません。私という存在がどういう人間かがわかるかということが、如来の智慧をいただくことなんですね。

 では、どういう人間か。朝から晩まで、嫉み、そねみ、愚痴、そういうことしか私の口から出てこない、ずっと迷い続けの私だということがわかる。我執の存在だということがわかる。それが如来の智慧をたまわることです。

 自力の根性がいかに深いかを知らしてもらうんです。自力の根性とは、自分の努力とかじゃなくて、自分さえよければという、自分がかわいい心です。たとえば、旅行に行って記念写真を撮る。その写真はどこから見ますか。まず自分を探します。どんな顔で映っているか気になる。これは、自分が一番かわいいからです。

 あるいは、お寺に参ってイスに座りますね。トイレに行って、帰ってきたときに他の人が自分が座っていたイスに座っていると、なんて思うか。「私のイスを盗られた」と思いますね。そのイスは自分のものではないのに、ちょっと座っていただけで、自分のイスだと思ってしまう。

 その我執の心に憎しみの心がからむと、自分を傷つけ、相手をも傷つけてしまう。自分で自分を苦しめている自力我執の心、自己中心性の心を自力というんですね。

 他力というのが仏さまのお心です。南無阿弥陀仏と申すところに、自分ほど愚かな者はいないという眼(まなこ)をいただく。自分の我執の根深さを見させていただく。それが光のはたらきなんですね。

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 寿(いのち)は何かというと、如来の大悲の心です。迷っている人を思うがゆえに、仏さまは無量寿とならんと誓われたんです。

 他の宗派の本尊は座っている像が多いですが、浄土真宗の本尊、阿弥陀さんは立ち姿です。これは迷いの衆生を救おうと立ち上がったということを意味します。横から見ると、ちょっと前向きになっているんですね。ふんぞり返っている姿ではないし、座っているわけでもない。南無阿弥陀仏の大悲の心を表しています。

 どういうことかというと、障害を持った子供が生まれて、この子のために長生きしなければいけないという気持ちは、親のやさしい心じゃないですかね。単に長生きをしたいというのではなく、この子のために、ということですね。無量寿の心と通じるものがあるように思います。

 そうなると、私が今、元気でいるのは我が子のおかげなんだなということになるんですね。自分で頑張ったんでなく、子供に生かされてきたんだ。そういうのが無量寿の大悲の心です。

 大悲の心は、単にかわいそうだなという心ではありません。慈悲の慈は「友情」という意味で、悲とは「うめき声」です。苦しみを共有する。

 溺れている人を見つけて、「かわいそうだな」というのが大悲ではなく、見つけたとたんに助けに行こうとする、そういうのが大悲の心です。ですから、人間が大悲の心を実践するのは難しいですね。私たちが人を救おうとしても、自分の生活があるし、面倒になったりして流されてしまう。人間の限界です。

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 南無阿弥陀仏は仏さまの名前なんですね。私たちの名前は親の願いが名前になっています。友衣子という名前の人が自己紹介のときに、「親が友だちと着るものに困らないようにという願いでつけてくれました」と言っていました。親の願いがこもっている名前なんだなと思うわけですよね。

 名前は単なる記号ではなくて、そこには願いがあるし、はたらきがあるんですね。名前を呼ぶときにどういう気持ちがわいてくるか。好きな人の名前を言うと、好きな人を思う気持ちになるし、嫌いな人の名前だと、「この野郎」という気持ちがわいてくる。「梅干し」と聞いたら、口の中につばが出てきます。名前が私に影響を与えている。

 南無阿弥陀仏と称えるときに、どういう心を私たちがいただいているか。無限なる智慧と無限なる大悲の心を私たちはいただいているんです。私たちは如来の心をいただいて生かされているんだと教えられます。そのことに対して、「ありがとうございます」と感謝の心が出てくるのが南無阿弥陀仏です。「ありがとう」と言えるというのが自分自身の救いになるんだと思います。

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 曽我量深という先生の言葉をご紹介します。ロサンゼルスで法話したとき、ある女性の「私の母が来れなかったので、代わりに私が聞きに来たんですけど、お話が難しすぎてわかりませんでした。今日のお話の要点を書いてもらえませんか」という要望に応えて書かれたのが、「佛様とは」という文章です。

1、仏様とはどんな人か
 答、仏様は、われは南無阿弥陀仏と申すものであると名のっておいでになります。
2、その仏様はどこに居られるか
 われを南無阿弥陀仏と念じ称へる人の直前においでになります。
3、そんならその仏を私達が念ずるにはどのような方法がありますか。
 南無阿弥陀仏と、一念疑なく自力のはからひをすてヽ静なる心をもって、仏願くはこの罪深き私をたすけましませと念ずるのであります。
 これはだれでも、どこにゐても、いつでも、かなしい場合でも、うれしい場合でもたやすく自由に仏を念ずることができるのです。
 この念が現前する時いかなる煩悩妄念が襲ひ来っても内心の平和は絶對にやぶれません。是を真の救済と申します。 以 上

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 「仏様とはどんな人か」と「その仏様はどこに居られるか」という問いに曽我量深先生は、仏さまは南無阿弥陀仏という言葉となって私たちにはたらきかけていると答えています。仏さまは迷いの私のそばに常におられるということです。「見捨てず、選ばず、嫌わず」の心が南無阿弥陀仏です。

 南無阿弥陀仏は平等です。「あの人が称えるとありがたく思えるけど、この人が称える念仏はなんだか嘘くさい」ということは間違いです。仏さまのはたらきだから、どんな人が称える念仏も平等です。小さいお子さんが称える「まんまんさん」も、大僧正が称える念仏も同じです。大人も子供も、どんな職業の人も、南無阿弥陀仏を称えるところに仏さまはおられる。

 南無阿弥陀仏と称えられるのは、そこに南無阿弥陀仏と称えてもらいたいという願いがあるからです。

 私たちが「お父さん」「お母さん」と名前が呼べるのは、「お父さん、お母さんと呼んでほしい」という願いがあるからじゃないでしょうか。子供が生まれて言葉をかける。子供が「お父さん」「お母さん」と呼べた瞬間が願いが完成した姿です。

 そうすると、南無阿弥陀仏を申せるというのは、どれほどの長い歴史が南無阿弥陀仏の一言につまっているかということです。

 三番目の「仏を念ずるにはどんな方法がありますか」という問いに、南無阿弥陀仏と申す心に疑いがないと答えています。「掃除しなさい」と言われて、「はい、はい」と言うのは不服があるからでしょ。「はい」と答えるのは疑いがないということです。

 「自力のはからひをすてヽ」とはどういうことか。自力我執の根性だとわかるというのが、捨てるということだと思います。知っているときは、自力我執に振り回されていないときです。

 眠っている人は自分が眠っているとわからないけれど、起きたときに眠っていたと気づく。気づいたときには眠っていない。
 酔っぱらいは「おれは酔っていない」と言いますが、さほど酔っていないと「酔ったな」と思います。本当に迷っている人は自分が迷っていると気づいていない。
 警察の人が「一番だまされやすい人は、自分はだまされないと思っている人です」と言われていました。私は大丈夫だと思っている人が多いので、毎年、詐欺の被害に遭う人が増えるわけです。

 私が何者かを知ることが、仏さまの智慧をたまわるということです。「こんな私はつまらない」と思うのは、自力我執の判断ですけど、つまらないと思う前に「つまらない私だ」と気づくというところに、如来の智慧をいただいている。ありがたいと気づいたのが智慧をたまわった証拠です。

「これはだれでも、どこにゐても、いつでも、かなしい場合でも、うれしい場合でもたやすく自由に仏を念ずることができるのです」
 誰でもできる。どこでもできる。いつでもできる。これが浄土真宗が盛んになった理由です。南無阿弥陀仏はお寺やお墓だけでなくて、どこで称えてもいい。心の中で称えてもいい。いつでも称えることができる。練習しなくてもできる。

 浄土真宗の修行は南無阿弥陀仏を称えながら生活するということです。こういうのはテレビ受けしないんです。滝に打たれたり、四国の八十八か所を参ったりすると、何かしている気がします。浄土真宗は絵にはならないけど、本当の価値がある。

 たとえば、空気があることを私たちは意識しません。でも、空気がなければ私たちは生きられません。しかも、お礼を言わなくても提供してもらえますし、何の文句も言わない。これはありがたく、不可思議なことじゃないでしょうか。私たちを支えているはたらきを教えてもらうのが智慧のはたらきです。
「この念が現前する時いかなる煩悩妄念が襲ひ来っても内心の平和は絶對にやぶれません。是を真の救済と申します」

 念仏で口をふさげば、妄念妄想は口から出ません。念仏を申したときは悪口を言う必要がない。「南無阿弥陀仏を申す生活はおだやかだ」と言われます。
 悪人の家庭は平和だが、善人の家庭は争いが絶えないと、清沢満之先生はたとえ話をされています。なぜかというと、悪人の家庭は何かあったら、お互いが「私が悪かった」と謝る。ところが、「私は正しい。あなたが悪い」というのが善人根性ですから、善人の家庭ではお互いが責め合うので、争いが絶えない。「悪人だなあ」と気づかされるのが浄土真宗の教えです。

 曽我量深先生は「善人は暗い顔をしている。悪人は明るい顔をしている」と話されたそうです。善人は、人にほめられよう、よく見られようとしていろんな知恵をめぐらすので、額に縦じわが寄ります。悪人は悪口を言われると、「はい、そうです」と頭が下がる。それが明るい心です。隠すことは何もない。

 浄土真宗の南無阿弥陀仏は「はい、そうです」とうなずける心です。これが本当のおたすけです。幸運が舞い込んでくるのではない。自分が愚かだと気づく。その愚かな私が空気や水の恵みをいただいて生かされていることに感謝する。生きていることに感謝できるのが仏教の救いなんです。

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 私事ではありますが、最近、結婚いたしました。仏前結婚式です。司婚者の言葉で印象に残っているのが、「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」(人間の身は受けがたいけれども、今すでに受けている。仏法は聞き難いけれど、今すでに聞いている)という三帰依文の最初の言葉についての話です。

 二人が結ばれる。今まで縁もゆかりもなかった者が結婚するのは、不可思議なことなんだ。両親を初めとしていろんな人、そしてさまざま出来事のお育てがあるから、二人の出会いがあるんだ。そういうお話でした。

 出会いの背景には、自分が思うよりもずっと深い歴史があるんです。これを仏教では宿縁といいます。宿は過去、昔ということです。私が生まれてから今までだけでなく、生まれる以前からの歴史です。

 出会いの連続ですね。両親の出会い。祖父母の出会い。出会っている歴史のたまものが私だと。夫婦の出会いだけではなく、親子の出会い、友だちとの出会いもそうだし、みなさんがこの法座に来られたということも宿縁のもよおしです。

 お寺に参ろうと思っても、急用ができて行けないことがあるし、行く気はなかったけど誘われたからという人がいるかもしれない。いろんな出会いの背景には宿縁がある。それをどういただくかです。

 仏教におけるさとりとは宿縁を知ることです。人生が開けてくるとか、超能力が身につくとか、願い事が叶うとか、悪霊が消えるとか、そうしたことは仏教の救いではないんですね。人間として生まれてきた出会いを喜べる。そのことを教えるのが浄土真宗です。

 生まれて当たり前、なんでこんな両親のもとに生まれたのかと不満を持つのが、人間の我執の根性です。
 教えに出会うことによって、朝、目が覚める、ご飯を食べる、歩く、そのことを喜べる心をたまわるんですね。
 諸行無常ですから、毎日違う出会いがあるはずです。当たり前でなかったと、教えによって気づかされていくんです。そういうお話を結婚式でいただきました。

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 南無阿弥陀仏と申すところにまことの救済があります。まことの救済とは、無限なる智慧と大悲をいただくことです。

 親鸞聖人の教えで注目すべきことは、仏さまの大悲を凡夫の私が実践できるということです。仏ではないけれども、仏さまのお仕事をさせていただく。それを「大悲を行ずる」といいます。

「いかんが名づけて「大悲」とする。もし専ら念仏相続して断えざれば、その命終に随いて定んで安楽に生ぜん。もしよく展転してあい勧めて念仏を行ぜしむる者は、これらをことごとく、大悲を行ずる人と名づく」(どういう人を大悲を行ずる人というのか。念仏を申し続け、命が終わったときに極楽浄土に生まれる。お念仏を勧め、自らも念仏を申す人が大悲を行ずる人という)

 仏さまが迷いの衆生をあわれんで、私たちが思う以前から仏さまが思ってくださる。念仏を申すことが仏の仕事をしていることになるということです。なぜかというと、この身体に如来の大悲をいただいているからです。

「「仏身をみるものは、仏心をみたてまつる。仏心というは、大慈悲これなり」(観経)。仏心はわれらを愍念したまうこと骨髄にとおりて、そみつきたまえり。たとえば、火のすみに、おこりつきたるがごとし。はなたんとするとも、はなるべからず」(仏を見るものは仏心を見る。仏の心とは大悲の心だ。仏の心は私たちをずっと思っていてくださり、離れない。それは、炭に火がつけば、炭と火は離れないようなものだ)

 凡夫の身体に如来の大悲の火がつくと、如来の大悲と凡夫の身は離れない。南無阿弥陀仏の心が私の身体にしみわたっているから、頭では忘れていても、身体で覚えているということです。

 私の知人が仏教系の施設でヘルパーをしています。そこは勤行の時間があるんですね。認知症になって自分や家族の名前を忘れても、衣を着た僧侶を見ると、手を合わせて南無阿弥陀仏と称えるそうです。南無阿弥陀仏だけは忘れていない。
 人間の最後に残るのは南無阿弥陀仏なんですね。南無阿弥陀仏と申せるというのは、私の記憶であるし、先祖から受け継いできた記憶でもあるんです。

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 親鸞聖人は先生の法然上人に出会って念仏を申す身となり、如来の大悲をいただかれるようになったんです。親鸞聖人も大悲を実践している人だなと思う文章が『御臨末の御書』です。親鸞聖人の遺言だと伝えられています。

「一人居て喜ばば二人とおもふべし。二人居て喜ばば三人とおもふべし。その一人は親鸞なり」(一人で念仏を申すときには二人いると思え。二人で教えを喜んでいるときは三人と思え。その一人は私、親鸞である)

 親鸞聖人は南無阿弥陀仏と申すところにおられるんですね。南無阿弥陀仏の中に親鸞聖人もいるし、先祖の願いもつまっています。

 親鸞聖人が苦しい人の気持ちをよくご存じだという話もあります。
「人間の八苦のなかに、さきにいうところの愛別離苦、これもっとも切なり。(略)かなしみにかなしみをそうるようには、ゆめゆめとぶらうべからず。もししからば、とぶらいたるにはあらで、いよいよわびしめたるにてあるべし。酒はこれ、忘憂の名あり。これをすすめて、わらうほどになぐさめて、さるべし。さてこそとぶらいたるにてあれと、おおせありき」(人の苦しみには八苦といって、八種類ある。その一つが愛しい人と別れなければいけない愛別離苦の苦しみだ。悲しんでいる最中の人にかえって悲しみを深めるようなことはしてはいけない。お酒は憂いを忘れるという別名がある。お酒を飲むと心がほぐれるから、遺族が笑うようになれば去りなさい)

 お葬式があり、残された方とどう接すればいいのか。「人は必ず死ぬんです。そんなに悲しまなくていいですよ」とか「仏教は縁起の教えで」とか、つい言ってしまいます。病気になったことのない人は、病気の人の苦しみがわからないので、「がんばれ」とか「気持ちの持ちようだ」と慰めます。

 ところが、親しい人を亡くしたり、自分が病気をして苦しい思いをすれば、「大変だな」という気持ちを持つようになります。
 これは親鸞聖人が愛別離苦の気持ちをわかっているということですね。悲しみに寄り添う心です。それは親鸞聖人がいい人だからというわけではなくて、如来の大悲の心をいただいているからじゃないでしょうか。

 子供に「死んだらどこへ行くの」と聞かれて、「阿弥陀仏の極楽浄土に行くんだ」と言えることが大切だと思います。私どもは信心をいただいて、命終わるときに極楽浄土に行くんだ。このことが、今を生きる安心につながるんです。

 亡くなった人たちは私に教えを説いている。それは何かというと、どんな人も必ず死ぬんだということです。自分の身をもってそのことを教えてくださった。その亡くなった人の教えを私たちがどのようにいただいていくかです。

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 私たちが念仏を申すこと自体が如来の大悲を伝えることになるんです。念仏を自分自身がいただかないと、その念仏も伝わらない。

 風邪とウイルスということでたとえると、自分が風邪を引けば、勝手にウイルスが仕事をして、風邪をうつしてしまいますよね。南無阿弥陀仏のウイルスに感染しないと、念仏の教えは伝わらない。

 親鸞聖人は越後に流罪になりましたが、そのことで念仏の教えが越後や関東に伝わりました。南無阿弥陀仏によってそういう道を歩ませてもらうことになったんです。念仏申すことで教えを伝えるという仕事をさせてもらっている。

 『無量寿経』にも、お釈迦さまが念仏の教えを伝えてもらいたいと説かれています。
「我が滅度の後をもってまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲哀愍をもって特にこの経を留めて止住すること百歳せん」(私がこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。将来、教えが失われることがないように、特に南無阿弥陀仏の教えが説かれてあるこの経典を百年間とどめておこう)

 百年とは人の寿命ですから、私が生きている間、ということです。私が死ぬまでに念仏の教えを次の人にリレーする。そうすることが次々と続いていくことによって、この百年は永遠になります。

 親鸞聖人も『教行信証』の最後に「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえな」(まことの言葉を集めて、極楽往生できるように助けよう。なぜかといえば、先に生まれた者は後輩を導き、後に生まれた人は先輩を尋ねてほしい。そうして連続して尽きることがないように南無阿弥陀仏の教えを伝えてもらいたい。迷いの衆生を尽くしたいからだ)

 教えが伝わっていくことも大悲のはたらきなんですね。私がお念仏を申すようになったのは、お釈迦さま以前から続いてきた宿縁の出会いの連続があるからこそなんです。そして、私が念仏を申すことによって、また教えが伝えられていく。その中で生きる意味をいただき、喜びになる。

 先ほど、善人の家には争いが絶えないが、悪人の家は平和と話しましたが、念仏を申すところの内心の平和が、平和の原理になるんじゃないでしょうか。
 自分が正しい、正義なんだということが私たちをまどわせているんですね。正義をふりかざすんじゃなくて、我が身の愚かさに気づいていく教えにこそ平和の礎が築かれていくんでないかと思うわけです。

 真宗における一番の要は、お念仏の心をいただく、それ以外にはないんですね。仏の心をいただき、念仏を申す生活が平和への道ではないかと思います。今日はありがとうございました。
(2014年7月9日に行われました戦没者追悼法要でのお話をまとめたものです)