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  藤本 愛吉さん 「親鸞聖人に聞く」
                            2013年4月7日

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 みなさん、こんにちは。三重県から来ました藤本愛吉と申します。もともとは愛知県の農家の生まれです。24歳の時に、通信教育で学校の先生の資格を取れることを知りました。願書を出しました。合格でした。その学校は願書さえ出せば合格するんです。

 社会人をしながら、夏休みに東京のその大学に40日間行きましてね、授業を受けるんです。私はインド哲学史という授業を取っていましたけれど、授業の始めに先生が数珠をもたれましてね、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と手を合わされた。びっくりしました。

 私の家は真宗大谷派の門徒で、小さいときにはお寺に行って『正信偈』を習いました。なぜ行ったかというとお菓子をくれたからです。門徒なんですけど、教えは全然関係なかった。ところが、その先生に触れた瞬間に私の人生が変わったんです。

 それまでは、人間、そう大したことはないと、えらそうにしてました。今もえらそうにしてますけど。私は愛知県三好市(前は三好町ですが)で青年時代はいろいろ関わりましてね、ずい分鼻高々な態度だったんですよね。これも今もですね。

 人間ってね、ちょっと地位が高いとついつい力んでしまうんですね。それで、人間みんな同じようなもんで大したことないわいと思って、人生を見とったんですけど、「なんまんだぶつ」の先生にはもう驚きましたね。先生が廊下を歩いとるときから、「なんだ、この人は」と思ってね、瞬間に私はこの先生にあこがれました。この人は僕にないものを持ってるなと。これが私の親鸞聖人との出会いの縁なんです。

 その先生は静かに「みなさん、人は二度生まれますよ。一度目はお母さんのお腹から。ちょうど鳥の卵のように殻をもって生まれてくるんですよ」と話されました。牛や馬は胞衣をかぶってますよね、薄い膜を。人間も牛や馬と同じように生まれてくるときに膜をかぶっているんですよ。

 鳥は生まれるときに卵の殻を持ってますね。でも、それだけでは鳥になれません。先生は「雛になって、殻を破って、大気を吸って、親鳥になって初めて、鳥は命の完成です。みなさんも仏さまの教えに出会って、ああ、人はこういう尊い性質を持っとるんだなあと目が覚めて、目覚めて初めて、生まれてきてよかった、生きてきてよかったと、こう言える人生になるんですよ」と。

 やんちゃな私が先生の言葉に聞き惚れました。なんで聞き惚れたか。40年前を思い出すと、その先生は本物でした。言葉と自分との間に距離がない。言ってることそのことがその人そのものでした。そういう人に初めて出会った。24歳まで何千人、何万人と人に会ってもね、こういうふうに仏さんの教えに目覚めてる人に会ったことがなかったんです。

 先生の言葉がすうっと私に入ってくる。今まで聞いたことのない響きがあったこともあってか、私は初めてノートを取りました。仏教の言葉ですので難しいけどね、とにかくひたすらノートを取りました。後からノートを見返したら間違いだらけですけどね、清書し直して、今も大事に持ってます。

 その先生の教えが「人は二度生まれます。一度目はお母さんのお腹から、もう一度目は教えに出会って、これが人間に生まれた本当の目的かとうなずけたときです。それで初めて目が覚めて、ああ、生まれてきてよかった、生きていてよかったと言えるんですよ。どうぞ学びを深めてください。テストで単位をとるためじゃないですよ」ということでした。それが24歳のときです。

 当時、その学校には四千人ほどの同級生がいました。通信教育生はものすごい生徒数なんですね。学校の中をたくさんの人が動いとるんですよ。だけど、4年間経って卒業したのは本当に少なかったです。それくらい通信教育は大変でした。

 私も卒業したんですけど、その内実はひどかったんです。友だちに学校の先生になりたいっていう素敵な女性がいましてね、会社を一年ごとに辞めて、幼小中高の資格を全部取った。2年間で大体64単位レポートを書くんですけど、私は2年経ってもまだ3通しか書けてなかった。その女性と仲良くなったら、「愛吉さん、私のレポート貸してあげるからね、これよかったら使って」と言われて、一気に私は単位を取ったんです。だから、私は怪しい先生なんですけどね。

 28歳で卒業してね、36歳まで学校の先生をやっておりました。先生になると子どもたちが目の前にいますので、真剣にならざるを得ないです。1年生、2年生、3年生を持つことが多かった。おもしろかったです。

 だけど、教師をしている間も仏さまの教えが気になって、京都へ行っては本を、10年以上かな、何百冊と買って読みました。なんとか悟りたいと思ってこつこつやりましたけど、私はなかなか悟れません。胸に「ああ」という喜びがね。親鸞聖人の『正信偈』には「能発一念喜愛心」、教えに目覚めると喜びの一念がわいてきますよ、とある。でも、私には小さな喜びはあっても、「ああ、よかった」というところまで行かないんです。

 36歳のとき、そのころ平均寿命が72歳でしたかね。当時アパートに一人で住んでました。ふと空を見たら星がきれいに見えて、「もう36歳か。人生の真ん中に来たなあ」と思ってね。それで私は夜空見ながら、人生に悔いはないかと考えたんですね。

 好きな学校の先生になって、子どもたちに慕われて、親からも信頼されて、友達の先生たちからも校長先生たちとも仲良くなってね、夢のような学校生活でした。だけど、悔いがあったんですね。ひとつだけ。それが仏さんの教えにまだ目覚めてないという悔いなんです。


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 悔いがないかと考えるときは、だいたい自分の身近な人がなくなったことを思い出すんです。私は、小さいころに可愛がっていたタマという猫をなくしたときが一番初めに泣いたときです。ワンワン泣いた。銀行の行員がカブで轢(ひ)いちゃったんです。「お母ちゃん、タマは」って聞いたら、「今な、銀行のおじさんが轢いちゃったから、袋に入れて、お墓に行って埋めとる」って言うんですよ。お墓の近くの桜の木の下で二人の銀行員さんがスコップで穴掘って猫を埋めている。ワンワン泣いたら、銀行員さんもそのあと、夜にお菓子をたくさん持ってきて「すいませんでした」と謝っておられた。それが私の生き物は死ぬんだということを初めて深く知ったときです。

 それから、ランニングのパートナーだったペロっていう雑種の小さな犬が毛が抜ける病気になったときです。そのころ兄が結婚して子どもができたんです。そしたら兄が「愛吉、ちょっと来い」「なんや」「俺、赤ちゃん産まれたろ」「そうやな、かわいいな」「だけど、お前の大事なペロって毛が抜けとるだろ。あれ病気だろ」「うーん、だけど獣医もいないし、金もないしな。一応狂犬病の注射打っとるし、いいじゃないか」って言ったらね、兄貴は「やっぱりちょっと心配なんや」ってね。結局、兄貴は保健所に渡してくれんかって言うわけです。

 ペロは私と何年間も一緒に走ってきて、帰ってくるとワンって言ってひっくり返って、おなか見せてですね、それくらい仲良かったけど、私は「わかったよ」と言ってね。保健所に電話したら、その日の夜に「くぅーん、くぅーん」て泣くんですよ。犬がどうしてわかるか知らないけど、「くぅーん、くぅーん」って、夜中じゅう泣いてました。

 朝になったら保健所のオジサンが軽トラックで来て、針金を丸くしたやつ持ってましてね、それを首にちょっとかけて、しゅーとしめると犬は口が開けなくなるんですね。口が開くと危ないですからね。ペロを抱きかかえて檻へ入れて、「連れて行きますよ。病気が治っても誰も引き取り手がいなければ、わかっとるかい、君」って言われてね、すごくつらかった。その時に犬のペロと目が合ったんですよ。また「くぅーん、くぅーん」って泣くんです。そういう中で私は保健所の人に「お願いします」って言って送ったんです。ああ、ペロには悪いことしたなと、今もそう思っています。

 それから姉の死です。姉が「お父さん、結婚するから」と言ったら、親父が「ダメだ」って反対したんですよ。そしたら姉は「お父さんに喜ばれるような結婚するから。ゴメンね」って家を出ていきました。

 姉が結婚して一年ぐらいしたころ、名古屋から電話があって、親父がおふくろに「名古屋へ行くぞ」と二人で出かけたんですね。そしたら、夕方遅く親父が帰ってきて、私がトイレに入っていたら、トイレの横で、生涯でただ一度父の泣き声を聞いたんですよ。「うおー」ってね。おふくろは遅く帰ってきたので、「かあちゃん、とうちゃんがどえらい泣いとったぞ。何があったんや」と聞いたら、おふくろも泣きだしてね、「姉ちゃんが死んだんや」と。

 赤ちゃんが産まれるときにへその緒を巻いとって、それがわからんでね、どっちかが助からんという状況になって父が呼ばれたんです。それで父はお医者さんに「このままじゃどっちかしか助かりません。決断してください」と言われて、父はあえいでいる姉に向かって「○○、どっちにする」って本人に選ばせたんだそうです。そしたら姉ちゃんは「私が死んでいくけど、この子を助けて」って言ってね、そのようにしたんだそうです。そういうことがあったんです。

 それで親父は帰ってきて、「うおー」と泣いたんです。そのときに私は「勘当だ」ってひどく怒っていた親父も、胸の奥では姉を深く愛していたんだと、今、父の年齢と同じくらいになって思うんです。

 小さい子どもさんをなくした歌が、みなさんよくご存じの「シャボン玉」の歌だと聞いています。詩を作った野口雨情の子どもさんか親戚の子どもさんがなくなったときに作った歌だということです。歌ってみます。ご一緒にどうぞ。

 
シャボン玉飛んだ
 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで
 こわれて消えた

 シャボン玉消えた
 飛ばずに消えた
 産まれてすぐに
 こわれて消えた

 風、風、吹くな
 シャボン玉飛ばそ



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 そういうことを思う中で、私に「悔いはないか」という思いが湧いてきたんですね。(好きなものになれた。なりたかった先生になれた。子どもは素晴らしい。先生も仲良しだった。校長先生からも愛されとる。言うことのない人生なのに、ひとつ足らないものがある。仏さんの教えがまだ胸に落ちてこない)

 専修学院といって、京都のお坊さんの学校にいい先生がおるとわかったもんですから、僕みたいな人間は先生につかないと仏さんの教えは届かないなと思って、思い切って兄に「お坊さんの学校でどうしても仏さんの教えを学びたい」と相談したんです。

 兄は高校に行けなくて、15歳から働いて、僕たちを育ててくれたんです。親代わりでした。私が高校行くのも兄が金を出してくれたからなんです。その兄が怒りましてね、「何考えとる。どうしても行くって言うなら、もうええ、帰って来ても家がないと思え」と言うし、おふくろは泣くしね。非常に気まずい雰囲気でした。

 でも、僕は「ごめん、自分の人生を全うしたいから」って頭さげて、お坊さんの学校の門を叩いたんです。その学校では仏法を生活全体で学んでいる先生方に出会いました。それにいっぱいいるんですよ、真剣に勉強しとる人がね。それは入って気がついたことです。私は、仏法を学ぶ人がたくさんおるんだと知りました。そうして、初めて浄土真宗の教えを生活全体で学ぶ場に来て、(ああ、来てよかった)と思いました。そのときに学んだことをお話しして、みなさんと一緒に考えたいと思います。


  4 共に仏の教えを学ぶ中で

 まずはじめに物種(ものだね)吉兵衛(きちべえ)さんという方の言葉を紹介します。江戸時代の末期から明治の初めに生きた人です。

「寝ている人の目を覚ますのはやさしいが、目をあけて寝ている人の目を覚ますのはむずかしい。」


 どういうことかと言うと、私たちの耳はなかなか教えを聞かないというんです。寝てる人に「おい起きろよ」と言ったら、「おお、サンキュー」と目を覚ます。だけど、目を開けて寝ている人は「俺は間違いがない。聞く必要ない。学ぶ必要がない」と思い込んでいるから、何を言っても「自分には関係がない」と思っていて、そういう人に仏さんの教えを届けるのは難しい。俺はわかっとると思ってる人は素直に教えに耳を傾けない。自分は寝ていない、起きていると思っとるというんです。味わいのある言葉ですね。

 だけど、仏さんは「あんた、仏法が聞こえてないだろ。それを寝てるって言うんだよ。目を覚ませ、目を覚ませ」と教えてくれてるというんですよ。吉兵衛さんも目を開けて寝ていたんですね、きっと。それがふっと、ああ、何にも知らんかったなあって気づいて、ようやく目が覚めたんですよ。それでこういうことが言えるんですかね。

 真宗門徒は全国にものすごくたくさんいると言われています。だけどね、親鸞聖人のことを本当に自分の人生になくてはならん人として学ぶ人はどうでしょうか。私も耳が痛いところです。「うちは門徒や」と言っても、じゃあ、親鸞聖人から何を学んだかというと、なかなか言えないんです。『正信偈』のお勤めをするでしょ。でも、『正信偈』の中身になかなか入っていけないんですね。


  5 親鸞聖人の大切にされた言葉

 京都へ行って聴いたはじめの言葉は「真実は阿弥陀如来の御こころなり」(『一念多念文意』にある親鸞聖人の言葉です)ということです。阿弥陀さんのところに真実があるんだ。阿弥陀さんのことを学ぶと真実ということがわかってくるんだ。真実ということが私たちの願っていることなんだと。

 私はある先生から作家の椎名麟三さんの「人間は本当の愛を求めている。だけど、本当の愛かを確かめることは勇気がいるから誰もしない」というような言葉を教えてもらいました。好きになった相手に、「あなた、私のことを本当に愛しているの」と3回聞かれたら、自分の胸がどう知られるか。そういうことを椎名麟三さんが書いているんです。

 私が京都へ行って二年経ってから、結婚して養子になってお寺に入ったんですね。私は愛吉。妻になった人はMと言います。私たちは結婚して28年ちょっと経ちますけど、Mさんに愛を確認したことがなかったんです。私はMさんから「あなた」と言われたことがないんです。「おとうさん」とも言われてない。どう言われるか。28年間ずっと「愛吉さん」。私は「Mさん」「Mヤン」と呼んでいます。

 「Mさん、「愛吉さん、私のこと愛してる?」と言ってくれる?」と頼んだら、冷たくぶっきらぼうに言いました。「愛吉さん、私のこと本当に愛してる?」私は愛してるから結婚したんですね。「そうに決まってる」と自信をもって答えました。で、
「Mさん、もう一回、「本当に愛してる?」と言ってくれる?」
「わかった、わかった。愛吉さん、私のこと本当に本当に愛してる?」
 自信があったのに、二回聞かれると、グラグラッとなるんですよ。

 中国では「3」は満たされた数なんだと、間違いがないか確かめるのに三度問うというようなことを、吉川幸次郎さんが書かれていました。それで「もう一回言ってくれる?」と頼んだら、「面倒くさいね」と言いながら、「愛吉さん、本当に、本当に、本当に愛してる?」と聞かれたら、愛しているのはMさんではなくて、自分だったんですね。ばれちゃうんです。

 Mさんと最初にデートしたのは、本願寺の御影堂です。Mさんは親鸞聖人のほうをみて正座していたんです。御影堂は暗いでしょ。品よく見えてね。きれいな正座をしている方だと思って喜んだんです。そういう方を私はいいなあと思う心をもっているんですね。それでいいなあと思ったんです。

 その時に事件があったんですね。結婚してしばらくして、「愛吉さん、どうして私を選んだの」「君が御影堂で座っていたとき、後ろ姿がきれいだった。おまけにはいていたズボンがモンペだったろ」暗いですからそう見えたんですよ。そしたら彼女は怒りましてね、「あれはね、あなたと見合いをするために、デパートで買ったフランス製の4万円もしたズボンなのよ」と。思いちがいだったんです。

 あとで知るんですけど、私から見た彼女は派手好きなんですよ。私は地味好きです。地味だと思っていたMさんが私は好きだったんです。それなのにMさんが派手な服を着てるとね、どうしてもいやになっちゃう。なんでかというと、地味な人が好きだという根性で見ているわけですから。

 それで僕は、その人をそのまま愛する愛じゃなくて、自分の思いを愛してるんだなとわかったんです。それで少し目が覚めました。自分がどんな心で関わっているんだろうと、自分の心を彼女を通して知らされたんですね。


  6 教えの言葉に知らされて

 その後も事件がいろいろとあるんですよ。私は学校の先生の前は町の勤労青少年ホームの指導員をしていました。そこに働く女性が多勢来てまして、私はもてたんです。記憶ではスポーツはまあまあできたし、頭もいいと思ってたしね。

 その女性たちが「愛ちゃん、結婚決まったんだってね。お祝いしたげる」って、子持ちの女性たちがお祝いしてくれました。「愛ちゃん、よかったね。結婚できて。ずっと一人もんかなと思ったんよ」とイヤミを言うんですね。「はなむけに愛ちゃんに何を伝えようかと思ってね、愛ちゃん、結婚は難しいよ」とえらそうに言うんですよ。
「愛ちゃん、自分のことわかってる?」
「何を言いたいんだ」
「愛ちゃんは愛がいっぱいあると思ってるでしょ。私たちと一緒に長野に旅行に行ったときに、旅館に着いて部屋の手配をしてくれたり、明日の予定を説明してくれたり、とても責任感の強い人だと思っていたよ。だけど愛ちゃん、あの時、旅館で火事があったでしょ」「知らんな」「そうね、人間っていやなことは忘れちゃうもんね。旅館で火事があったときに、愛ちゃんは大きな声で「火事だ! 逃げろ!」って言ったんよ。それで私たちみんな助かったんよ」「よかったねえ」やっぱり僕は責任感があるなと思ってたら、彼女が「だけど愛ちゃんね、あの時「火事だ!」と言ったのは、愛ちゃん、旅館の外だったよ。一人だけ先に逃げていたよ」

 愛のなさがばれていたんですね。無意識のうちにやっちゃうんです。責任感があるという僕の自信が一ぺんに吹っ飛びました。
「愛ちゃんは本当はエゴイストだからね、自分が一番かわいい人間なんだよ。愛がないんだよ。そういう自分をよく知っていてね」と言われました。
 そしたら別のおとなしかった女性が「あたしも言っていいかしら」と言うんです。
「なんかね」
「火事のときにね、愛ちゃんの履いていた靴、玄関にあったお客さんの一番いい靴を履いてたよ」

 それほど私は自分のことが見えていないんですね。それを仏さまは言われるんですね。蓮如さんは「人のわろき事は、能く能くみゆるなり」と言います。目は外に向かっていますからね。だけど、「わがみのわろき事は、おぼえざるものなり」、自分のことは見えないよと、蓮如さんは書かれています。

 彼女たちは蓮如さんを勉強したわけではないですけど、火事を通して「愛ちゃんの本当の根性を知ったよ」と言ったわけです。
「結婚という大きな人生の場に立ったらね、同じことをやるよ。そのとき愛ちゃんが「おれはできる」と思って力むと、嫁さんはつらいよ。愛ちゃん、本当はエゴイストだからね」
 そういうことを言われました。


  7 教えと共に生きる

 榎本栄一さんという方が、私たちの命は本当はこうなっているんだということを「花」という詩に書いています。私たちは本当は一人ひとりかけがえのない尊さを持って生まれてきたと言われるんです。そのことを榎本さんは詩で表現されています。

 
私は梅
 あなたは桃
 花のいのちは
 どこかで一つにとけ合っている
 とけ合いながら
 私は梅に咲き
 あなたは桃に咲く


 これが命の世界ですと。ちょっと読み替えます。

 
私は愛吉
 あなたはM
 二人の命はどこかで一つにとけ合っている
 とけ合いながら
 私は愛吉に咲き
 あなたはMに咲く


 私とMさんは28年間生きてきて、こうなるといいんですが。新婚の当時はそうでした。そう見えました。あれから、という言葉は置いときます。


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 親鸞聖人がなぜ「真実は阿弥陀如来の御こころなり」とおっしゃったのか。先ほど、自分は立派な人間だと思っていたけど、火事のときに正体が暴露したと話しました。命が一つに解け合うようにならないんですね。私たちの「日ごろの心」はそうさせないものを持っている。松本梶丸先生がこういう話をされています。

 ご法事に行ったときのことです。このごろはそういう家がほとんどなくなりましたが、農家は田の字作りといって、ふすまを全部外すと聞法の場になるんです。その家もそういう形を持っている数少ない家の一つです。そのうえ、この家の自慢の庭があるんです。
 法事の日に少し早めに行って、ここの家のおばあちゃんと外縁(そとのき)に座ってお茶をいただいていたわけです。庭の隅には大きなケヤキの木が茂っていて、苔むした庭に実に美しい木漏れ日による光と影を作るんですね。だから私はこの庭にケヤキが一本あることで結構だなと思っていたんです。それで「この庭にこのケヤキが一本あることで結構やね」とほめんたんです。
 そしたらおばあちゃんは途端に機嫌が悪くなりました。「何が結構なこっちゃ。今朝もご法事やと思うて、朝4時に起きて掃除した。ところが、あれを見なさい。わしは秋になると、今年こそ切ろうかと思うとる。このケヤキ一本のために業わいて、業わいて」
 しかし、私は思いだしたのです。7月の初めにその家に用事があって行ったことがあったのです。そしたら、このおばあちゃんは私に「このケヤキ一本あるおかげで、一夏暑さ知らずや」と言ったのです。人間というのは身勝手なもんですね。
 ある時は、「このケヤキ一本あるために、業わいて、業わいて」、またある時には「このケヤキ一本あるおかげで」と。これ、悪いわけではありません。人間の煩悩の所為です。
 「おばあちゃんはそう言えば、「夏はこのケヤキ一本あるおかげで」と言うとったんやないか。それがどうして今は「このケヤキ一本あるために」となるのかな」と聞いたら、おばあちゃんは「あん時はあん時、今は今や」と。

 すなおですね。「あん時はあん時、今は今や」という心を、私たちの日常生活の中で腹の底にしっかり持っているんです。だから、綾小路きみまろさんが「あれから40年」と言うんです。

 つまり、だんなさんや奥さんが自分の間に合う、自分の都合にいい時は「愛吉さん、おかえり」新婚さんのころはそうでした。玄関を開けた瞬間に「おかえりなさい」と返ってきたんですよ。今は「ただいま」と言っても、すなおな返事がなかなかないです。台所にいるんですよ。もう一度「ただいま」。返事がない。三回は言わなくちゃと思って、「た、だ、い、ま」心を込めて言ったら、返ってきた言葉が「うるさい」。二十何年か前は「愛吉さん、お帰り」誰も見てなきゃ抱きしめてくれたんですよ。今は「うるさい。それ以上言うと放り出すよ」と。えらい違いです。

 ある高校生の川柳に
「地獄だな 言葉通じぬ人たちが いやでも同じ家に住むとは」
というのがあります。

 家族でありながら、だんだん言葉が通じなくなってきて、部屋に閉じこもり、一緒にいてもしゃべらなくなる。そういう事態が起きている。

 「あん時はあん時、今は今や」という心が私たちの心を牛耳っているかぎり、高校生の川柳のように、日常生活の中で地獄を作るんですと言われます。

 仏さまの教えでは命は一つのところで生きているんです。一緒に生きていたら、僕は梅で咲き、Mさんは桃で咲くような温かい心でお互いを認め合って、「お疲れさま」と言える関係が本当なんですよ。ましてやがんばって働いてきたお父さんがね、年をとってくたくたくになって退職したら、「ようこそ働いてきてくださいました。これからは私が面倒を見させてもらいます」「長い間苦労をかけたなあ。悪かったなあ。ちょっとずつ手伝わせてもらうよ」というふうになればいいですが、そうはならない。

 この間、70歳以上のおじいさんの勉強会に行ったら、「女房としゃべりたくない。うちにおりたくない」と言うわけです。「この前、つい女房に言ってしまった。やることなすことがのろい。目も当てられない。「お前、ボケたなあ」と言ってしまった」そしたら、優しかった奥さんがなんと言ったか。「あんたのほうがボケや」子どもたちは外に出てね、二人だけになって、二人だけの食事になのに、食べる前に「ボケたなあ」という言葉が出てしまった。そうしてことの顛末(てんまつ)は行き違いになっていくことが多いんですね。

 ボケたことが一番胸にこたえているのは本人なんです。またその人の気持ちがわかっていくのが観音さまのはたらきなんです。相手の気持ちを受けとめてあげる。仏さまの教えを学んでいくと、そういうことを知らせてもらいます。

 年をとると、だんだん体が動かなくなって、20分で掃除ができたのが、しんどい思いをして30分、40分とかかるようになるんです。すると朝早く起きないといけないとかで、それをされる奥さんの気持ちはわかっているんですよ、どこかで。

 でも、出てくる言葉が「ボケたな」。奥さんも夫ががんばって働いてきて大変なことはわかっているのに、「あんたのほうがボケや」。出てくる言葉が相手を思いやる言葉にならん。ののしる言葉に変わっちゃう。

 その元が「あん時はあん時、今は今や」です。自分の都合でね、夏は「ケヤキ一本あるおかげで助かった」、秋は「このケヤキ一本あるために腹立って」。ケヤキが悪いわけじゃない。そんなことを言われたらケヤキは大変です。ケヤキは自然の命を生きているんですけど、それを見ている私たちに自分の都合という心が動いていますからね。

 あるおじいさんは「70歳になって部屋の様子が変わった」と言うんです。「仕事を辞めるまでは、洋服ダンスを開けると9割が僕の服だった。女房はうちにいたから1割だった。一年経つごとに、わしの9割が8割から7割になって、女房の服が2割から3割。今、わしのは2割で、女房が8割だ」と。「いいじゃないですか。それまで奥さんが1割だった時の気持ちがわかっていなかったということになりませんか」「そりゃそうだけど、あまりにも露骨じゃないか。おまけにビールが純生から発泡酒に変わった。おかずも減った」とぼやくんです。

 老いてからの時間は大事な時間ですよ。深く人生を味わう時間ともなるのに、だんだんと「なんでこうなんだろう」ということになる。

 私たちが仏さまの教えを聞いていると、どこに問題があるかがわかるようになります。なぜ一緒に暮らしている家族が言葉が通じないような地獄を作るのか。なぜ自然に生きているケヤキが、おばあちゃんの都合で夏はありがたい、冬は業わいてと、そういう心になってくるのか。それは煩悩のせいだと。私たちが煩悩という、自分を中心に物事を見ている目がある限り、条件によって心はころころ変わりますよと、仏さまは教えてくれているんですね。


  9 見返りを求める心と見返りを求めない「ただ」の心

 もう一つみなさんに紹介したいのは、『次郎物語』を書いた下村湖人という方の「心窓をひらく」という文章です。条件をつけてものを見ている心と、条件をつけないで寄り添っている心が綴られています。

   進という少年が、学校へ出かけるとき、前夜書きつけた紙片を二つに折って、お母さんの机の上にそっとおいて、学校へ出かけていきました。紙片には、次のように書いてありました。

    かんじよう書き(請求書)
 1 市場にお使いに行きちん     十円
 1 お母さんのあんまちん      十円
 1 お庭のはきちん         十円
 1 妹を教会につれて行きちん    十円
 1 婦人会のときのおるすばんちん  十円
    ごうけい          五十円
                進
 お母さんへ

 進のお母さんは、これをご覧になってニッコリなさいました。そして、その日の夕食のときには、今朝のかんじょう書きと、五十円が、ちゃんと机の上にのっていました。進は大喜びで、お金を貯金箱に入れました。
 その翌日です。進がご飯を食べようとすると、テーブルの上に一枚の紙があります。開いてみると、それはお母さんのかんじょう書きでした。

    お母さんのかんじょう書き
 1 高い熱が出てハシカにかかったときの看病代    ただ
 1 学校の本代、ノート代、エンピツ代     みんなただ
 1 まいにちのおべんとう代             ただ
 1 さむい日に着るオーバー代            ただ
 1 進さんが生まれてから、今日までのおせわ代 みんなただ
     ごうけい                  ただ
                       お母さん
  進さんへ

 お母さんと進さんの心は違ってますね。進さんは条件をつけて、手伝うけどお金ちょうだい。ところがお母さんは、子どもは私に授かった子どもだ、ただ、ただ、みんなただ、見返りを求めない。そういう無償の愛がここにはあるんですね。

 観音さまの愛は、どんな子どもにも元気よく素直に育ってほしい、願いだけをかけて見返りを求めない愛なんですよと。だから、昔からお母さんのことを大地の母と言いますね。大地の母はどんなものもみんな育てようとします。育ってくださいよと祈るような思いが大地ですね。それがお母さんの心だと言われるんです。

 「心窓をひらく」のお母さんはほほえましく見ながら、子どもに50円をちゃんとあげてね、私も請求書を出すよ、だけどみんなただだよと。

 私たちは昔からそういう形で母親を見ておったんですね。僕の先生が話されてたことですけど、戦時中、貧乏だった時に、母がなけなしのスイトン汁を作ってくれた、70何年生きてきて今までで一番おいしいという思い出があるのはそのスイトン汁だ、と言われました。先生は言った。「それは誰にもない愛があるからです。愛があるスイトンを私は食べたんです」と。

 井上ひさしさんの組曲『虐殺』という劇のなかに「カタカタまわる 胸の映写機」という言葉があります。人は胸の一番奥に映写機を持っている。「胸の映写機」とは忘れることのできない、人間の深い記憶です。その劇のなかで女優さんが「私の中の映写機はお母さんが甘い饅頭を持ってきた時。兄弟姉妹が自分が食べないのにすなおにみんな私にくれた。それが一番心に残っている」そういう見返りを求めない愛があるんですね。

 これはお母さんの愛にそういう深い愛を記していますけど、お母さんも、そういう命の深い愛にもよおされてそうされているのかもしれませんね。


 10 仏さまから案じられている私たちの日ごろの心

 昨年末、私の母は98歳でなくなりました。あるときに兄の息子がね、おばあちゃんは歩くの大変だから、病院に楽に行けるようにと考えて、二台の車を一台に減らして、ドアが横にすうっと開く車に変えてくれたんです。

 僕は「ありがとうな」と甥に言ったら、そこにいた私の母が「愛吉、あれはな、わしがずっとお正月にこづかいをやったからだ」と言ったんです。こういうのを「恩かけ根性」と言うんだそうです。甥もね、「おばあちゃん、それだけは言っちゃいかんよ」と言うてたしなめたんですけど。私たちは関係を壊(こわ)すのは一瞬です。壊れるような心で関係しているのかもしれませんね。

 最後にもう一つ、ある中学生の作文を東井義男先生が紹介されています。

 ぼくは、大人のけんかくらい、わけのわからないものはないと思う。七不思議のひとつだ。何でもないつまらないことで始まるうえに、それの起こるや疾風のごとく、とんでもないところまで発展する。
 ぼくの家ではよく、夕飯のときに起こる。たくわんがひとつひとつ、よく切れていないと、お父さんがぶつぶつ言うと、お母さんが、あんたの月給いくらだと思うんですか、などと言う。
 するとお父さんは荒々しい声で、お前の世帯もちが悪いからだなどと言う。あんなすり減った、まな板の上で切れない包丁で切れば、たくわんがつながっているのは、あたりまえなのに、とんでもないことを言い出してけんかになる。
 そして、そもそも23年前のあのとき、柳の木の下で、おまえと会わなければ、こんなことにはならなかったと言う。すると、片方も負けずに私だって、あのとき、あなたと出会ったのが不幸せのもとだったなどと、わけのわからないことを言い返す。
 そして夕飯がすんだあとまで重苦しい空気が残る。そんなときは、妹はプイと立って、机に向かって本を読むような様子だが、同じページをながめているだけで、頭には入らないらしい。ぼくはそっとぬけ出し近所の友だちの家へ行って、遅くまで遊んでくることにしている。

 家が家でなくなっていくんですね。タクアンが切れていないだけですよ。私はこういうのを読みまして、先ほど「眠っている人を起こすのはやさしいが、目を開けて寝ている人を起こすのは難しい」と言いましたけど、日常生活のなかで「今日はお寺に参ろう」と誰も言いません。ちゃんとなごやかにやっていますよと言いますけど、それじゃ実際、家のなかはどうなっているかというと、「物言えば唇寒し」という言葉があります。この少年の家のようにだんだんとものが言えなくなってしまう。高校生の川柳の「地獄だな」という句が思い合わされます。

 そんなことがなぜ起きたのかというと、私たちは自分の心が「あん時はあん時、今は今」という根性があるからですよと教えられます。そのことを私の出会った先生が、僕たちの心を「てるてる坊主」は表現していると教えてくれました。歌ってみます。知っておられる方はご一緒にどうぞ。

1.てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  いつかの夢の 空のように
  晴れたら金の鈴あげよ


 自分の要求のとおりにしてくれたら金の鈴をあげるよ。これ、条件つきの根性ですね。ご主人のボーナスが多いと「今日はご苦労さま」、少ないと「なに、この給料」とか言ってね。つまり、役に立つか立たないかで相手を見てしまうんですね。

2.てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  私の願いを 聞いたなら
  あまいお酒を たんと飲ましょ


 3番の歌詞はきついんです。

3.てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  それでも曇って 泣いたなら
  そなたの首を チョンと切るぞ


 私も妻のMさんから返事もしてもらえないほどよく首を切られてます。そのMさんと同じ「てるてる坊主」の心を私ももっていますけど、やはり「ただいま」と言って帰ります……。

 私たちは何かあると、(人生とはこんなもんだ)と思うことがあります。だけど、仏さまからすると、みんな尊い、かけがえのない命、存在なんです。共なる命の愛を成就する、花と開く人生なんですよというんです。私の出会った先生は

  浄土などといいますと、特別なことのように聞こえますが、「心は浄土に居(こ)す」ということは、「実語」にうなずくことのできたものは、生命(いのち)あるものはすべて同じ一つの生命を生きているものだ、ということがはっきりとうなずけた、ということなんです。だれもみなが同じ一つの生命を生きておるものだ、ということが一つ決定したんですね。だから生命をもっておるものはすべて平等で親しいものたちだ、と。それは一匹の蟻であろうと、一羽の鳩であろうと、一匹の蟻の生命と一羽の鳩の生命と一人の人間の生命は平等で同じ尊いものだ、ということですね。ほんとうにかけがえのない重いものだ、ということです。そういうことにうなずけたのですね。そのことこそが心に浄土が開けた、ということなんです。 (竹中智秀先生)

と言われています。先生は私たちの結婚に際して、次の言葉をおくってくれました。

「苦楽を共にし 深く深く 生きていこう」

 「てるてる坊主の心」ですぐ自分の都合で関係を切る心のなかに、先生の言葉を思うときは、「苦労をかけているなあ」ということを思いながら生活をしています。

 私たちは快適な暮らしを求めて、いよいよ大変な方向に行っているんじゃないか。一つ間違うと取り返しのつかないようなところに行ってしまうんじゃないかと思うことがあります。福島にいる私の友人は、学校で教室の窓を開けれない生活をしていました。子どもたちは運動場で遊べない、走れない生活でした。水も飲めないというときもありました。今も大変な生活が続いています。この悲しくつらい現実を本当に大事にしていかなくてはという思いです。また、ますます仏さまの教えを深く深く聞いていかなくてはならないと痛切に思います。


 高いところにのぼると、いつもいるところがどんなところかをよく見ることができますね。遠くに立って、自分を離れたところから、自分や自分のいるところを見ることが大切なんだと教えてもらいました。(注①)


 この詩は笠木透さんが仕事で高いところへのぼったときに見えて感じたことを書かれたそうです。それが歌になっていますので歌ってみたいと思います。

1.生きている鳥たちが
  生きて飛びまわる空を
  あなたに残しておいて
  やれるだろうか 父さんは
     
目をとじてごらんなさい
      山が見えるでしょう
      近づいてごらんなさい
      コブシの花があるでしょう


2.生きている魚たちが
  生きて泳ぎ回る川を
  あなたに残しておいて
  やれるだろうか 父さんは
     
目をとじてごらんなさい
      野原が見えるでしょう
      近づいてごらんなさい
      リンドウの花があるでしょう


3.生きている君たちが
  生きて走り回る土を
  あなたに残しておいて
  やれるだろうか 父さんは
     
目をとじてごらんなさい
      山が見えるでしょう
      近づいてごらんなさい
      コブシの花があるでしょう


 私たちが生きているというのは、みんなと一緒に生きているんです。どこで何があっても影響し合っている。だからこそお互いを大事にしていこうねと。そういうふうに仏さまから、またなくなった人たちから願いがかけられているとお聞きしました。そういうことを勉強させてもらっています。
 これで終わります。

注①
  山の上に登って下を見ると、小高い所へ登って、自分の住んでいる町なり、家なりを眼の下に見る時の気持ちというのはね、家の中にいる時とだいぶ違うでしょう。家の中に住んでいる時は、ゴテゴテとした中で生活しておるんですから、このことを思い、あのことを思い、絶えず騒ぎ回っておるわけですわ。ところがそこに、小高い山の中に登って、そして自分の住まいのある町なり、自分の家の中とかを見下ろす時には、全然心境が変わってくるでしょう。静かな気持ちになって、日頃の生活が逆にわかってくるわけだ。日頃、いつもこせこせとして生活しているけれども、そういう日頃の自分の生活している、生活のすがたというものを向こうにおいて、高い山の向こうにおいて見下ろしてみる。自己の生との、自己との距離。
 この距離というのが大事なんですよ。時々山の上に登って、自分の生活を顧みなければならない。自分の生活というものを、その時その時の思いによって、自分の生活のことをいうのでなく、自分の生活の全体像というものを眺めるということ。
 そういう、生活の全体を目の前に置いて、それを眺める。その場合、自分の生活から、自分の心が高い所から見下ろすというかな、そういう姿勢にならなきゃならない。それを、自分の生活を客観的に見る、ということですね。
 そういう時間というものが私たちには必要なんだ。そうしないと、その時その時の中に流されてしまうんだ。つまり流転(るてん)の生なんていいますのはね、これは本当に高い所から眺めるからわかるわけだ。高い所から眺めて初めて、流転の生がわかるわけだ。
  (信国淳 のぶくにあつし)

(2013年4月7日の釈尊降誕会でのお話をまとめたものです。文責 藤本愛吉)