真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  生きづらさについて

雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』光文社


速水敏彦『他人を見下す若者たち』講談社

中村うさぎ『私という病』新潮社

近藤恒夫『薬物依存を越えて』海拓舎

2009年に書いたものです

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一人では自分の存在価値を確立できないそうです。自分を肯定できるようになるには、まずは他人から肯定されることが必要で、他人から肯定されることがない人は自分を肯定できません。
萱野稔人さんは「まわりから認められたり、受け入れられたり、自分のいっていることをちゃんと聞いてもらったりして、はじめて自分の存在を支えることができる」と言っています。
『「生きづらさ」について』によると、ネットカフェ難民の若者は、両親が離婚してたり、虐待を受けたり、学校でいじめられたという人が多いそうです。人との関係の中で自己評価は高くなれば、低くもなるということだろうと思います。
速水敏彦さんも真の肯定感を持てない理由として、「人の自信というのはつまるところ、親しい人間関係にある周りの人たちから、承認され賞賛される経験を通して形成されることが多いからである。しかるに、そのような親密な周りの人たちが少ない社会では、個人の自信も形成されがたいのである」と、他人から肯定されることの重要さを指摘します。
中村うさぎさんは「私たちは、自分を肯定したいのである。社会的にも性的にも人間的にも、「私はこれでOK。ちゃんと、周囲の皆に認めてもらってるわ」と安心したいのである。仕事場の上司や同僚や後輩たち、取引先の人々、友人、恋人、家族から、自分の「存在意義」をそれぞれ肯定されて、初めて私たちは自分が一人前の人間であることを確認する」と言います。
人との関係は大切だということです。

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中村うさぎさんは47歳の時にデリヘル嬢を三日間します。いい歳したオバサンがいったい何を考えているのかと思いますが、『私という病』を読むと、なぜ中村うさぎさんがデリヘル嬢をする気になったのか、その気持ちが何となくわかります。中村うさぎさんは他人から求められることによって、「生まれた意義と生きる意味を見出そう」としたのだろうと思います。
ホストに金目当てのセックスをしていただいた中村うさぎさんは、「私はもう女としての価値はないの?」と思って、女としての自信を取り戻したい、そのためには男に求められる必要がある、と考えます。
「早い話が、私は男にムラムラされたいのである」

雨宮処凛さんも「右翼にいったのは、いまから分析すると、「誰にもどこにも必要とされてない」という心情とすごく関係があったと思います」と話しています。オウムのサリン事件から二年後ぐらいのころで、その右翼団体には元オウム信者が二人ぐらいいたそうです。
「オウムを脱会して日本の社会で生きようと思ったけれど、こんな日常には何の意味もない、という感じでうまく着地できない。(略)それまで「世界を救う」という大きな物語のなかにいた彼らは、結局、戻ってきて単純作業なんかしても、それで満たされるはずもない。(略)とはいえ、またオウムに戻るわけにはいかず、私たちのいた団体に入ってきたわけです」

ロン・ハワード『フロスト×ニクソン』という映画は、ウォーターゲート事件で辞任したニクソン前大統領にテレビ・インタビューする話です。ニクソンは中産階級の出身です。
いくら成功しても名門の奴らは認めてくれない、だから賞賛されるためには常に勝ち続けなければならない、ということをニクソンが言います。なぜか人から好かれないニクソンが必死で自己確認していると思うと、なんだかかわいそうになってくる映画でした。

近藤恒夫さんによると、シンナーやガス依存者本人は「自分はいい人間ではない」と思っている、つまり自尊感情が乏しい子が多いそうです。誘われると、「友達を失いたくない」という気持に負けて一緒にやってしまう。

リストカットも認めてほしいから、注目してほしいから何度もするんだそうです。ある人は「リストカットするのは誰かにかまってほしいからなんですよ。かまってほしい、見てほしい、ということですね。包帯やリストカットした傷跡を人に見せてね、「どうしたの」と聞かれたら、「実は昨日ね」という感じです」と話していました。で、何かあるたびにリストカットする。
リストカットが他者の注目を集める自己確認という行為だとしたら、自己確認のために自殺する場合があるかもしれません。自殺すれば、死ぬほどの苦しみだと人がわかってくれるだろうというような。

『私という病』を読むと、風俗へ行く男たちもこれまた自己確認ということになります。風俗嬢は私を拒まず、私や私の欲求をそのままを受け入れてくれる。そして、風俗嬢を蔑視することで自我を保つことができる。

福本博文『ワンダーゾーン』によると、自己啓発セミナーや心理療法などにはまる人の多くは、人づきあいの苦手な者、悩みを聞いてくれる人がいない者です。話し相手や相談相手がいれば、そんなところには行きません。
「ごく普通の人間は、日常の不満を友人にこぼしてゆく過程で共感を得たり、話し相手の反応によっては我が身の身勝手さに気づいてゆく」
人間関係が下手な人ほど、人に受け入れてもらいたい、人に認めてもらいたいという気持が強く、そのためにかえって人間関係がまずくなってしまいがちです。そこで、自己啓発セミナーなどで自分を変えようとするわけです。ところが、そうしたセミナーにはインチキが多いのも事実です。
もう一つ、そうした人の特徴。
「この催眠セミナーに参加した人々の共通点は、ことのほか依存心が強く、自分に対してまったく自信がもてないことである。セミナーさえ受ければ、自動的に新しい自分に生まれかわることができる、などと驚くほど安易に考えている」
悩みの深いわりには、お手軽に考えているわけです。


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つまりは、自己評価の低さを、男に求められたり、薬物で全能感を持ったり、宗教で救われたように思ったり、人を見下して優越感を抱いたりして補おうとするわけです。
しかし、男に求められればそれで自己確認欲求が満たされるかというと、そうはいかないことを中村うさぎさんは自覚しています。そこで自己確認のために買い物、プチ整形、ホストなど依存のはしごをするわけです。
「自分の欲しいものがわからない、という感覚は、私にとってお馴染みのものである」
他人から認められることによって自己確認しようとするのわけですが、一度認めてくれたらそれで十分だというわけにはいきません。常に他人が認めてくれないと安心できないのです。
みんながいつも私を認めてくれることは無理な注文だし、それにほめられることに慣れると、本当だろうか、内心はバカにしているのではと不安になる。他によって自己確認するわけですから、常に他人が自分をどう思っているかが気になります。

近藤恒夫さんは「依存症者とは、いつも自分以外の他人を気にしながら生きている人」と定義しています。アルコール依存症の自助グループの人が「今まではプライドが高くて、自己中で、人のことを考えずに生きてきました。そのくせ他人が自分をどう思っているかが気になる。アルコール依存症はみなそうなんです。自分を中心に世界がまわっていると思ってるから、人がどう思ってるかが気になるんです」と話すのを聞き、思わず「そう、そう」とうなずいてしまったことがあります。
じゃあ、どうなったらいいのでしょうか。どうなれば自分は満足するのか、それがわからない、ということは多くの人が感じていることではないかと思います。

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デリヘル嬢になった中村うさぎさんも客も、そして私も、他の何かによって自分の価値を確かめ、そうして自己評価を高めようとするわけです。しかし、宮城顗先生が「外道とは自分の外にあるものを支えとする道だ」と言われていますが、こうした自己確認のやり方ではいつまでたっても飢餓感が満たされることはありません。そのことはわかっていても、外のものによって満たそうとする。
他人に認めてもらうことで自己確認しようとするのは、自分の中に何もないからです。
中村うさぎさんは「自分の行為の動機が「自己確認」であることを知っています。問題は「どのような自己を確認したいのか」という点だ」とも言います。
しかし、自己評価の低い人に「自己とはなんぞや」と問うても、「そんなものありません」という答えが返ってくるのではないでしょうか。自分の中に何もないと思っているから、外から何かを持ってきて空白を埋めようとする。そんなことをしているうちに依存になってしまうのでしょう。

近藤恒夫さんによると、依存症者は心に飢えを抱えており、自分自身にはないパワーを自分の外に求めて飢えを満たそうとするそうです。それは他者からの賞賛や関心だったり、あるいは覚醒剤や酒だったりするわけです。
「私は、薬物依存とは「痛み」と「寂しさの痛み」の表現だと受けとめている。「痛み」とは身体的な痛みで、「寂しさの痛み」とは自分は学校や社会の中で必要とされていない、役に立たないという気分の悪さ、疎外感、虚しさ……という心の痛みである」
「覚醒剤やコカイン、シンナーなどの薬物は、耐え難かった身体の痛みや寂しさの痛みを、努力なしできわめて効率的に取り除いてくれる魔法のクスリなのである。そして、身体的な痛みと寂しさの痛みが強ければ強いほど効き目は大きく、薬物依存に陥りやすい」

中村うさぎさんは依存症について、「ガス漏れ不安からガス栓を何度も確認し、ついには外出できなくなってしまう強迫神経症に快感がプラスされた病が依存症だ」と説明しています。きわめてわかりやすいですね。
「己の不安を解消するための思い切った行為が強烈な快感を呼び、以後、ガス栓を確認するようにその行為を何度も何度も繰り返すのだが、それは「不安解消と恍惚感の確認の儀式」に過ぎず根本的な問題解決ではないから、あっという間に形骸化し、しかも儀式であるがゆえに何やら呪術的な強迫観念が生まれて、止められなくなってしまうのだ」

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香山リカ「心が傷つき、回復するということ」を読むと、中村うさぎさんのような人(私のような人でもある)が増えているらしいです。
診察室での相談を聞いていると、「現在生きている多くの人たちは、みんな何となく不本意な気持ちとか理不尽な気持ちを持っていると思うのです。自分は一生懸命やっているのに報われないという気持ちの人が今非常に多い」と香山リカさんは言います。
「私はまじめにやっているのに、私は頑張っているのになぜ幸せになれないんだ。こんなに頑張っているのに。こんなに一生懸命やっているのに」
だから、不本意な現状を認められない。でも認めざるを得なくなってくる。そうなると怒り(「どうして私がこんなひどい目に」)を感じる。そしてまた否認し、そして怒りを持つ。否認と怒りをずっとぐるぐる繰り返して、次の段階に行けない。

この「怒り」ということ、近藤恒夫さんが言う「恨み」と通じていると思います。
「もう一つ、薬物を理解するうえでキーワードとなるのは「恨み」の感情だ。薬物依存者の心の中は、自分ではコントロールのできない恨みの感情で満ちている。薬物依存者は家庭や学校、職場で、自分の思い通りにならなかった体験をたくさん抱えている。コンプレックスと言い換えてもいい。嫉妬や羨望、自己憐憫、高慢なども含むコンプレックスが、ドロドロとした恨みの感情になって、心の中に沈殿されたままになっている」
「やっかいなことに、薬物依存者はクスリを使い続けるために、この恨みさえも巧みに利用する。クスリを使うためには理由が必要だ。そこで、誰かを悪者にして恨みを晴らすために、クスリを使う。恨みが大きければ大きいほど、クスリを使い続けるためには好都合なのだ」

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怒りや怨みは、他人への攻撃(他者否定)や自分はダメなんだという自己憐憫(自己否定)につながります。怒りや恨みが内に向かえば依存症(薬物に限らず摂食障害とか)になるし、外に向かえば、たとえば動機のない通り魔事件になるのではないでしょうか。
萱野稔人さんは、自分を否定せざるを得ない状況では、「いきおい、自分をまともに扱ってくれない社会をうらんだり、さらには、自分の存在そのものを否定することに向かってしまう」と言っています。

井上理津子『さいごの遊郭 飛田』に、「今思うのは、飛田とその周辺に巣食う、貧困の連鎖であり、自己防衛のための差別がまかり通っていることである。
多くの「女の子」「おばちゃん」は、他の職業を選択することができないために、飛田で働いている。他の職業を選べないのは、連鎖する貧困に抗えないからだ。抗うためのベースとなる家庭教育、学校教育、社会教育が欠落した中に、育たざるを得なかった」とあります。そして、井上理津子さんは飛田で働くある女の子のことを書いています。
「ある女の子と、ミナミの居酒屋で会った時、彼女は生ビールのジョッキが汚れていたとアルバイトの若い女性を頭ごなしに怒り、料理の運び方がなっていない、客をバカにしているのかと声を荒げた。自分が〝上〟の位置にいるとの誇示と、普段抑圧下にいるストレスの発露だと思う。そうした幼稚な言動は、時として、差別言語となって露呈する。「あいつは朝鮮や」「あいつら部落や」「(生活)保護をもらう奴はクズや」といった耳を疑う言葉を、飛田とその周辺で、幾度となく耳にした。個別の問題ではなく、社会の責任だと思う」

萱野稔人さんは攻撃性についてもう少し詳しく話しています。
「一つは、承認が得られず自分の存在価値をなかなか見いだせない人たちが、それによって自分の評価をどんどん下げてしまい、けっきょく「自己責任」という考えに深く陥ってしまうという問題です。他人から認められたり必要とされたりすることがほとんどないから、自分はダメだと思い込み、「自己責任」の考えを強く内面化してしまう」
「もう一つは、認められない、居場所がないという状況に置かれた人が、その埋め合わせとして、自分の存在意義が保証されるような、より大きなアイデンティティへと向かうということがあります。それが、日本人というアイデンティティの主張や、ナショナリズムへとつながっていく」

ナショナリズムによって自己評価を高めようとするわけです。埋め合わせとなるものは日本人というアイデンティティやナショナリズムに限りません。往々にして他者に対して攻撃的になる。たとえばフランスでは、移民を排斥する極右が台頭していますが、萱野稔人さんによると「移民は出ていけ」と主張する極右を支持するのは貧困層なんだそうです。
「彼らは、仕事で移民たちと底辺での競争をさせられ、また、財政難ということでどんどん切り縮められる社会保障を移民たちと分け合わないといけない」
「彼らは、自分たちの生活を守るために、移民という、より不利な立場におかれている人たちを排除することに向かうわけです」
アメリカにおける黒人差別もそうです。裕福なひとよりも、貧乏な白人のほうが黒人を蔑視するそうです。生活の不満を黒人にぶつけているわけです。

これは対岸の問題ではなく、日本でも状況は同じです。
雨宮「実際に最底辺の現場で、アジアの人や他の貧しい国の人と働いていると、日本人であるということにしか拠り所がなくなってしまう」
萱野「底辺の労働現場で他国の人たちと働いていると、どうしても「このままいくと社会から脱落させられてしまうのではないか」という気持ちになって、「自分は、外国人のように社会の外側にいるのではない」ということを何とかして証明したくなりますよね。それを証明するために、日本人というナショナルなアイデンティティが呼びだされる。「自分は日本人なんだから、社会のこちら側にいるはずだ」と」
雨宮「小さなパイを外国人と奪い合わないといけない。そんな状況におかれれば、いきおい外国人に対する敵愾心を抱いたり、日本人であることになんとか拠り所を求めたり、「外国人は日本人とどこが違い、どこがダメなのか」を考えたりしてしまうでしょう」

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貧困層が外国人労働者を攻撃するのは、一種の「上見て暮らすな、下見て暮らせ」です。しかし、ナショナリズムも行き詰まると雨宮処凜さんは言います。
「右翼団体との出会いは大きなことでした。だけど、やっぱり長続きしないんですね。要は自分の生きづらさをごまかしているわけですから」
ごまかすということでは、ナショナリズムへの逃避もアルコール依存や薬物依存と変わらないわけです。

雨宮処凜さんが「私はずっと他人からの評価でしか自分の価値を確立できないと思っていて、いまもそういうところがあるんですが、そういった他者からの承認とか評価なしで、自分の価値を証明できる回路というのはあるんでしょうかね?」と尋ねたのに答えて、萱野稔人さんは「やっぱり、人から認められることが、自分の存在価値を証明する一番の回路だと思いますよ。もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ」と語っています。
親や学校、社会で認められるかどうか。そして、人とのつながり、関わり、そして居場所が必要です。

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「何をもって幸せとするかみたいなことに対して、今、価値観が非常に揺らいでいるわけですね」と香山リカさんは言っています。現実の生活の中でどうして価値を見いだすか、生きている意味を見つけるか、基本的な自信をどのようにしてつちかうか。自信だと思っても、自意識過剰にすぎないかもしれません。
「「私という病」は、私が死ぬまで抱えていかなくてはならない「自意識」という名の不治の病なのである」と中村うさぎさんは言いますが、ほんとその通りだなと思います。
ウィリアム・スローン・コフィン牧師の「私はオーケーじゃない。あなたもオーケーじゃない。だからこそオーケーなんだ」という言葉がありますが、いかに不条理な現実でもきちんと受け止めること。そこらに答えがあるような気がします。一人では難しいけど、みんなとだったらできるかもしれません。