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 石井 和由さん 「息子のガン死」
                 
         

2004年11月27日

 私は正念寺の門徒、石井和由と申します。昭和24年生まれで、55歳になりました。
 私の手を見てください。右の人差し指がないでしょう。私の指を見たら、この人は指がないんだとすぐわかるから、どうしたのかな、切ったのかなと思いますよね。
 だけど、人間というものは外から見ただけじゃ、何を考えているのか、どういうことがあったのかわからないですね。悩みとかいうのは全くわからない。話を聞かしてもらって初めて、そういうことなんかということがわかるんです。

 ここに来さしていただいたご縁は、推進員研修会でパネラーをやらしていただいたことです。私は自分のことはあまり言いたくないんですけど、今から五年前に息子をガンでなくしまして、その話をしたんです。

 息子は学校を出てからいろんな職業に就いたんですけど、私が大工を三十何年やってますから、息子が「お父さん、大工になりたい」と言ってくれたんです。「そんなことはせんでもいい」と言いながらも、内心はうれしかったですね。「じゃ、やりたければやんな」ということで、一緒に仕事しながら教えました。大工の修業は厳しいんです。だから、怒ったりもしたし、いろんなことがありました。

 一年ぐらいたった時ですか、腰が痛いと言うんです。ヘルニアだろうかとか考えて、いろんな病院に行ったんですけど、わからない。三ヵ月たってもまだ痛いと言うから、総合病院に入院して、それでも原因がわかるまで一ヵ月かかりました。

 お医者さんが「胃ガンです。余命はあと三ヵ月」と診断を言いました。まだ24歳ですよ。まさか24でガンになるとはとても考えないですよね。

 苦しい日々です。三ヵ月をどうやって過ごせば。過ごせばじゃない。どうやって生きていけばいいのか。もう死ぬのはわかっている。なんもできない。中国から漢方とかいろんな薬を取り寄せたりして、できるだけのことはしようと思ったんです。

 こっちは藁をもつかみたい気持ちだから、その時にね、祈祷師と言うんですか、お祈りしたら何とかというのに行ったんです。医者がさじを投げたんだから、そういうところしか行くところがない。

 お寺みたいなところでした。90歳ぐらいの老人がいて、私の名前と生年月日を言っただけで、すべてを当てるんです。住んどる方角とか、先祖とか。それが不思議と当たるんです。こっちがそう思い込んでるから、ちょっと違ってても合わせるからなんでしょうけどね。
 そして「治る」と言われたんです。「もう大丈夫。治る。心配するな」とね。その言葉を聞いたとたんに、そりゃ楽になったね。ほんとに光を見たというか、生きる望みを持った。治るんだ。大丈夫なんだ。

 それで普段の生活に戻れたんです。二ヵ月ぐらいは何とかその言葉を信じて生きてきました。しかし、容態は悪くなるばかり。結局、お医者さんの言うとおり、三ヵ月後に息子はなくなりました。

 嘘でもなんでも「治る」という言葉を聞かせてもらったから、二ヵ月間をなんとか生活できたんかなあと。そう思うと、祈祷師の嘘を責める気持ちにはなれんかったですね。

 逆に医者を恨むことがある。なんで一ヵ月もわからんかったんか、もう少し早く見つけてくれたらと思うよね。説明によると、胃の外側にできたからわからなかったいうことだけど。


 順番というたらいけんけど、それまでは親が先に逝くもんだとばかり思ってました。
 親戚が大竹にあって、子供のころ夏休みには泊まりに行ってたんです。海で遊ぶのがとても面白かったですね。
 私が8歳の時、姉と妹と三人で海へ行って遊んでいたら、6歳の妹が溺れてしまって、親戚のお兄さんが助けに行ったんですけど、一緒になくなったんです。私は二人が沈んでいくところを見たんですよ。

 息子をなくして初めて、子どもをなくすという気持ちがわかりましたね。私の両親もつらかっただろうなと。

 息子がまだ生きていて、お寺にまだ縁がなかったころですが、推進員養成講座というのに誘われるまま、しようがなく行ったんです。その時に座談会で、ある人が「子供が死んだら代わりに自分が死んでやりたい」ということを言われたんです。

 その時、私は思うたね。「そんなことはないでしょう。石川五右衛門という大泥棒がおって、釜ゆでにされたでしょう。その時に子供も一緒に釜ゆでされて、最初は子供を上に持ち上げていたけど、しまいには熱くてたまらなくなって、子供の上に乗ったじゃないですか」というようなことを言ったんです。

 そういうふうにしか感じなかったんですよ、子供が死ぬということに対して。でも、今は「代わりに死んでやりたい」という気持ちがよくわかる。

 ある時、食堂で食べてたら、こんな言い方は失礼だけど、でっかいおばさんが入ってきたんよ。こんなドンブリに二杯ご飯食べよるんよね。これも人間なんだな。じゃ、なぜこの人が生きていて、うちの子供が死んだのか。そんなことまで思うんです。

 そしてまだいけないことは、同じようにお子さんをなくされた親御さんを見ると、安心するんですよ。不思議と。同じつらい目にあっているんだけど、安心するんです。同じ気持ちなんだとね。気の毒にと思うて、安心感が出てくる。これはいけないことだと思うけど、現実の私の気持ちです。


 11月29日に息子がなくなったんです。それから何もする気が起きない。何をしてもしようがない。人にも会いたくない。生きる望みがない。
 死のうということは何回考えたかわからない。しかしながら、妻がおり、娘もいる。それを残して逝くと、またつらい思いをさせるんじゃないか。そう思ったら、自分で命を絶つということはできなかったですね。

 酒飲んで寝てばかりいた。妻が近所の人と話しているのを聞いて、「お前は悲しくないんか」と怒ったら、「うちだってつらいんよ」。夫婦でも心の中はわからない。

 ふと、京都に行ってみようかなと。「京都へ行ってくるけ」「何しに行くん」「ちょっと行きたいんよ」
 普通の格好で、何も持たずに京都へ。どうしていいかわからんですよね。その晩、宿に泊まって思ったのは、「そうだ、京都を歩こうじゃないか」ということです。

 朝8時に出て、夜の6時まで、一日40キロ、京都中をずうっと歩いたですよ。観光めぐりじゃないんだから、ただ歩く。てくてく歩いた。いいんですよね。知っとる人がいないから。みな知らん人でしょう。ただ歩くばっかし。暑くてまたずれができる。それでも平気だね。

 お寺に行ったら、じいっと座っている方をずいぶん見ました。人間というものは顔じゃ気持ちはわからない。でもそういう人を見ると、自分だけではないんだ、この人も何かつらいことがあるんだという感じがしましたね。
 一歩一歩歩くことによって何かを感じました。お金もなくなったし、帰ってきた。すぐお寺にお参りして、お墓にお参りして、そこから少しずつ気持ちが落ち着いてきたように感じます。


 それから、お寺にご縁をいただいた。子供が小学校の時、お寺の鐘を撞きよったいうことを住職が話されて、それを聞いたらわしも撞こうかねと思って。毎晩夕方6時。もう三年やっています。

 命日の29日には夕方の5時半に参ってもらうんですよ。お寺さんがお経をあげて、お茶を飲みながら話しているのを、「ほいじゃ、お寺に行ってきます」言うて、わしが鐘を撞きにお寺へ行くんです。やはり寺に参りゃ手も合わせるし、法座にも行くようになる。でも、まだ真宗のことはよくわかりません。

 こんなご縁なんかなくてもいい。ご縁がなかったら、つまり息子が死んでいなかったらここまで苦しむことはない。そう強く感じた。

 一番思うのは、人間、苦しみとか悲しみとかいろんなことがある。ご縁があるほど悪い。そんなご縁をいただくのがいやなら、生まれてこなければよかった。産まんほうがよかった。結婚せにゃよかった。私も生まれてこなきゃよかった。人とつき合わないのがいい。ご縁があるから別れるのがつらい。最終的には生まれてこんかったら、なにもない。

 しかしながら、自分は生きさせてもろうとる。だけども、生まれてきて、そして生きとるのは事実でしょ。でも、生きとるのがつらい。なげいたって、あがいたってしょうがないけど、自分じゃどうしようもできない。その時に仏の力、つまり他力本願ですよね。おかげさまという言葉に、まことそうかなあという気がしてきました。

 それはなぜかというと、自力じゃない。力じゃないね。何かを与えていただいているんですよ。人が生きさせてくれとるんだ。そういう気持ちがするわけです。

 さっき話した、推進員研修会の時に言ったことは、今年の原爆の日に秋葉市長がアメリカのことを「唯我独尊だ」と言おうとしたということなんです。私は、おかしなことを言う、唯我独尊の意味がわかっていないと思いまして、住職に言ったら、「それはおかしい。抗議しようじゃないか」ということになったんですけど、8月6日の三日前のことだったから、今から手紙を書いても間に合わない。どうやったらいいかと思ってたら、西本願寺のほうから抗議があったんですね。そこであわてふためいた市長は「自己中心主義」と変えたんです。

 「唯我独尊」はそんな意味じゃないですね。生まれさせていただいたありがたいこの命は尊いものなんだという意味なのに、「自己中心主義」という言葉と同じような意味で使うというお粗末な話です。

 確実に自分はありがたい命を生かされとるという気持ちを持てると、おかげさまという感謝の気持ちが湧いてくるんです。供養ということはどういうもんかはっきりはわかりません。いろんな人の話を聞くけど、生きていることが供養じゃないのかと思うんです。
 寂しいだけじゃだめ。もう少し強く生きなきゃだめ。そうしなくちゃ子供も喜んでくれない。「おやじ、まだそんなことやってるのか」、そういう声が聞こえる。


 お内仏には朝晩手を合わすし、お墓には命日に参ります。なくなった当初は、朝昼晩と毎日行きよったからね。今は命日しか行かなくなった。自分が少しでも楽になったんじゃと思うんですよ。

 でも、いろんなお話を聞いたり、お経をあげたりするけど、元の自分には戻ることはないです。落ち着くということはない。息子が死んでから本当に笑ったことがないですね。心から笑ったことはまったくない。これは一生続くでしょう。

 普段は遊ぶ時は遊ぶ、話をする時は話をする、飲む時は飲むで、ワイワイやっているけれど、それは作り事といってはいけないけど、そうしないと生きていけないよね。

 がんばることはできないけどね、なんとか生きれるんじゃないか。生きさせてもらう間だけは元気で、夫婦仲良くやろうと心に決めるんじゃけど、あくる朝起きるとケンカしてる。そんなもんですけど、でもそれがほんまだと思うんですよ。

 がんばることはいらん。がんばっちゃいけん。あと何年生きさせてもらうかわからんけど、命ある限り生きさせていただきましょう。生かさせてもらう感謝の気持ちを持てたらなあと思います。
 子供がそういうことになって、いやな縁だけど、しんどいながらも生きさせてもらうこの命を与えられたことが、自分の身になればと思うことだけで、どうにかならないもんかと思うても、まだどうにもならないんだけどね。


 息子が死んで、娘は神戸へお嫁に行きました。残っているのは私と妻と妻のお母さんの三人。お母さんは86歳ですから、もう長くはない。そして私がなくなり、妻がなくなれば、石井という家はこれでなくなるんです。

 息子が継いでほしいというのが、私の願いだったんですね。ところが死んでしまった。だから、娘に養子をもらいたいと思ったんです。でもそれは自分の思いであって、娘は好きな人のところへ行った。これはしようがないんです。責めることはできない。だったら次に、孫が早くほしい、そう思った。しかし孫ができない。これも自分の思いなんですね。

 頭のどこかにあるね。ああすればよかったのにとか、言われたとおりにすればよかったのかと。拭い去れんというか、消えんものが残っとる。こういう思いもどうしようもない。

 人間は凡夫なんだけど、こういう気持ちは誰にでもあると思うんですよ。仏さまのような生き方はできないんです。それに近づけさせていただきたいという気持ちはあります。仏さまのように生きている人がうらやましい。それも私の思いですけどね。


 キサゴータミーという女の人の話があるでしょう。子供が死んで泣いているキサゴータミーが、「どうかこの子を助けてください」と言うわけですよ。だけど、もう死んでるんだからどうしようもない。「お釈迦様のところに行きなさい」と教えてもらって、お釈迦様に「助けてください」とたのむわけです。そしたらお釈迦様は「よしわかった。助けてあげよう。今まで死んだ人がいない家に行ってケシ粒をもらってきてごらん」と言われた。

 どこを探しても、誰も死んでいない家なんかない。「お宅ではどなたかなくなっていますか」と尋ねたら、父が死んだとか、夫が死んだとか、子供が死んだとか、そういう話になる。いろんな人の話を聞く中で、キサゴータミーはいろんなことに気づくんだね。そしてお釈迦様の弟子になったという話を聞きました。

 たくさんの人が死んでいる、その上に自分がいるんですよ。うちの仏間はにぎやかですよ。子供に両親におじいちゃんに妹、五人の写真が飾ってある。お内仏に手を合わせると、上から五人の写真が私を見ているんです。「もう少ししたら行くよ」と言うてても、まだ生きさせてもろうとる。

 お浄土に帰るというけど、ようわからんね。『阿弥陀経』には極楽浄土はいいところだと書いてあるでしょ。そんないいところだったら、進んで行けばいいのにね。

 だけど、唯円さんが親鸞聖人に「極楽はそんなにいいところなのに、すぐ行きたいと思わないのはなぜでしょうか」と聞いたら、聖人は「わしもそう思う」と言われたです。

 私が死んで行って、子供がおったらおるし、おらんかったらしょうがない。会えるかどうかはわからんよね。わからんけええんだろ。それは気の持ちようよ。死んで会えるんだと思ったら、それを信じていきゃええんじゃと思うんよ。

 真宗の教えを聞いても、死んでどうなるかわからん。新興宗教へ行ったらわかる。あれが一番わかりやすい。嘘かほんとかわからんけど。だけど、わかったらつまらん。「あんたは何月何日に死ぬ」という結果がわかったら生きる気がせんもんね。


 とりとめもない話になりましたけど、こういう話をするのは初めてです。ちょろっとは言ったことはあったけど、これだけ話したことはなかった。家でも息子のことはほとんど話さんね。話したくない。

 息子が死んで人から「かわいそう」とかいろんなことを言ってもらうけど、わかってもらえるわけはないんですよ、幸せな人には。だから言わない。言ってもしようがない。「そうか、そりゃ悪かったね」ぐらいだから、なんにも言わんほうがいい。

 だから、私はなくなられた家に行っても、なんも言わない。ただ目で挨拶するだけ。もうそれだけで十分です。いらんこと言う必要はまったくない。

 4年前に、近所にクマさんという人が引っ越してきたんですよ。60すぎの人だけど、脳卒中になって、店がつぶれてしまった。しようがないから奥さんの実家に帰ったわけです。
 おばあちゃんがおるんですよ、口うるさいのが。おばあちゃんがあれこれ言うんです。クマさんは仕事はないしで、ものすごく気兼ねして、だから毎日のようにうちに来てたんです。私とは兄弟のように仲がよかった。

 そのクマさんが今月なくなったんです。肺ガンです。手術できない。「検査どうだった」と聞いたら泣くんですよ。ぼろぼろ。「だめだ、俺もう死ぬんだ」。これも言いようがなかったですね。

 妻も10年前にガンになりましてね。あん時はびっくりしたね。もうだめかと思うた。早かったけ、手術できた。胃を四分の三切ったんですけどね。あん時も目の前が真っ白になった。

 他人事じゃないことがわからないんだよ。「なくなられたんだね。かわいそうに」ですんでしまう。クマさんもああいうご縁がなかったら、「クマさん死んだんだね」としか思わないもの。

 まだ言いたいことはたくさんありますけど、これで終わります。今日の出会いを感謝させていただきます。ありがとうございました。


(2004年11月27日に行われたひろの会でのお話をまとめたものです)