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    自助グループのメンバーたち 「酒害の体験談 2」
                          

 2008年9月28日
  1,Aさん

 アルコール依存症のBと言います。小さいころから人の中にとけ込むのが苦手でした。幼稚園の時、お弁当を食べる前に手を洗うんですね。何人もがわあわあ言っとるんですけど、それを見ながらなんかおもしろくないんですよ。「何がおもしろいんじゃろう」みたいな。教室の中でも一人はずれたところにおるような気がずっとしてました。人気者やガキ大将から声をかけられるとうれしいんじゃけど、うまく話せんのですね。

 そのころ住んでいた家には風呂がないので銭湯に行ってたんです。僕は昭和40年生まれで、道は舗装されていなくて、水たまりがたくさんあり、畑のまわりには針金で囲いがしてあったんですね。銭湯からの帰り道に僕は水たまりに足を突っ込んで、家に着くまでに汚れてしまっては、親父にすごく怒られるんです。水たまりを避けて道の端っこを歩くと、針金にズボンを引っかけて、また怒られるんですよ。2、3歳だった弟が水たまりをよけれるのに、僕にはできんのです。僕は馬鹿なんかなという気がしました。

 親父が僕は暗いところが見えんのんじゃないかと気づいてくれたんですね。病院に行きまして、網膜色素変性症という病気だということがわかったんです。小学校に入る前でした。そのことで親父はすごく傷ついたんだと思います。親父はプライドの高い人だったから、家族に障害者がいることが許せんかったと思うんです。「うちの家にはそんな者はおらん。こういうことになったのはお前の家が」と母親にあたってました。

 僕の両親はすごく仲が悪くて、家の中では罵声と暴力が毎日ある家だったんで、子ども時代の僕と弟には家の中に安心できる場所がなかったですね。それでも、親父が帰ってくる前のちょっとした、母親と一緒におる時間はすごく落ち着いていた記憶があります。でも、弟が物心ついたころは、母親は酒にやられてしまってました。弟は「母親のいい思い出は全くない。恨みしかない」と言ってました。
 親父は決まった時間に帰ってくる人で、その時間が近づいてくるとどうなるかわかっとるので、母親は恐くて、だけど逃げ出すこともできんで、だから酒なしではおれんかったんだと思います。

 親父は医者から、僕が10歳前後で失明するだろうと聞いたので、それまではなるべく普通の子どもと同じような生活をさせてやりたいと思うたらしいんですよ。それで、小学校はどこに行くかということになった時に、盲学校ではなく、人数の少ない私立に入れれば、何かあった時には早く気づいてもらえるじゃろうということで、僕は私立の小学校に入学しました。

 でも、いじめられたんです。僕はいじめられるのがいやで、いじめるほうにまわりました。自分が助かるためにすごくひどいことをしました。今から思うと、小学生であれほどことができるかと思うくらいのことをやったですね。それは自分が助かるためです。いまだにターゲットになった人のことが気になります。一つ上の男の子と同級生の女の子なんですけど、似た雰囲気を持った人に出会うと、その人に何かできないかと思ったりするんです。

 小学校を卒業するころは視力が0・3ぐらいだったです。視力の矯正がきかない病気なんです。老眼鏡や虫眼鏡を使うと字が大きくなるんで読みやすくはなるんですけど、近視や乱視のメガネで矯正することはできないんです。そのことが自分は人と違うんだという気持ちを自分自身に植えつけていったと思います。

 中学に入ると性格も変わってきて、お調子もんで、おっちょこちょいみたいなところを隠すようになりました。だけど、目立ちたいという気持ちが強くて、変わった人間ではあったですね。何かにつけて人と対立することが多かったし、人から好かれることはなかったです。

 高校時代は学校を休むようになりました。人と会うのが面倒くさいんですね。人が自分と違うものの感じ方や考え方をするのがわからず、何でそんなふうにものを考えるのかが僕には理解できなくて、それがしんどかったです。
 そのころ、学校に行く前にウイスキーを飲むことをおぼえました。最初はポケットビンのキャップにちょこっとついで、なめるようにして飲んでたんです。だんだんと量が増えてきて、学校で「お前、酒臭いで」と言われたことも何回かありました。両親が酒を飲むので、酒は身近にあったんです。そのころ僕は、酒がこの世になかったらいいのにという気持ちを持ちながら、自分も酒に頼るという矛盾したことをしていたわけです。

 何とか高校を卒業させてもらいました。僕が生きていく道は、盲学校に入ってマッサージ師になり、できたら鍼灸の免許を取って、それで生活するという選択肢しかないのかなという感じでした。
 盲学校に入って最初に感じたことは、今までより楽だということです。夕方近くになると見えんようになるんですけど、見えないことを人に言いにくくて、見えんでも何とかごまかしていました。それがしんどかったですけど、盲学校には僕より目の悪い人がいるし、同じ病気の人もいたんです。がんばらんでもできんことはできんと言えばいいし、やれることをやればいいんだと思いました。
 盲学校に入った時、視力は0・1、0・2ぐらいあったですね。盲学校の中ではかなり見えるほうで、黒板の字を読んで、みんながノートする手伝いをさせてもらったりして、楽しい時もあったんです。だけど、自分に選択肢がないというのは引っかかってました。

 盲学校を出て、マッサージ師として働くようになりました。20歳で結婚して、子供が生まれたので、この仕事をやっていくしかないことになったんです。だけど、僕は自分の仕事が嫌いでしようがなかったです。「なんでおっさんのくさい足の裏をもまにゃいけんのや」と、平気で言ってました。自分はそんな人間じゃないと思ってたんですね。仕事をみっともなく感じてました。

 いやなことをやっていくにはお酒があると楽で、酒の量がどんどん増えていったんです。酒を飲んでいる時は人と話したりとか、冗談を言うたりもできるんじゃけど、素面になると、もとの自分よりももっと臆病になるんです。酒が一瞬でもきれるのがいやで、どんどん酒を飲む生活をしていく中で、仕事ができんようになりました。それで、嫁さんがどこからかお金を都合してくるようになっていったですね。23歳のころです。

 仕事をしたりせんかったりで、嫁さんに「仕事をせずに酒ばっかり飲んで」と言われてましたけど、自分としては精一杯やってみようと努めるんです。だけど、だめなんです。すぐに破綻してしまうんですよね。まず、起きて仕事に行くことができんし、行ってもトラブルを起こしてしまう。そういうことが続いて家にひきこもる。

 こういう自分でも何とか飯を食っていくとしたら、自分で開業するしかないな、それだったら酒を飲みながらでも、人にはごまかしてやっていけるんじゃないかと思ったのが26の時です。それで、鍼灸の免許を取るために1年間盲学校に戻ったんです。近くの酒屋でビールを買っては、学校のベランダで飲んでました。学校が終わって、夜ちょこっと仕事に行って、帰ってから勉強する。その時も焼酎を飲みながら問題集を広げてやってました。

 鍼灸の免許を取って開業しました。最初はおもしろかったです。俺にできることがあったんだと思いましたね。思ったよりお客さんが来てくれるし、俺、やれるんじゃないかと勘違いが始まったころです。酒の量も減って、夕方までは仕事して、それまでは酒に手をつけないでいるのも最初のうちはできてたんです。
 そのうちに思わぬ借金の話ができたりとかして、サラ金で一度借りると、なかなかきれいにはならんみたいですね。僕の子どものころも借金取りがよく来てました。そういう人たちが嫌いで、そういうとこで金を借りるのはそいつらを儲からせることじゃというのが自分の中にあったんです。自分が借金するのは嫌いなんじゃけど、嫁さんが僕らを食わすためにしてくれた借金です。それにいつも追いまわされているのがおもしろくなかったんじゃけど、何とかなりそうだと思えるようになったです。借金が返せようになると、借金取りとの応対も楽になるんですね。

 がんばり始めました。休まんかったですね。気がついたら、半年間1日も休まずに仕事をしてました。借金を返すのがおもしろかったし。だけど、全然、外に出んようになってたです。目が覚めたら仕事をして、仕事が終わったら酒飲むわけです。酒飲み出すと、僕は長いんです。だらだらと飲んで、知らんうちに寝とって、また朝になってと、それのくり返しで、外に出ていなかったんです。

 酒の量もどんどん増えて、酒を飲み始める時間も早くなっていったんです。最初のうちは9時まで飲まんかったのが、8時になり、6時まで我慢しよう、5時だからいいんじゃないかみたいになってきたんです。
 僕は飲み始めたら意識を失うまで飲むんですね。だから、いつどうやって寝たかはおぼえていないんです。目が覚めても、二日酔いで、身体が奈良漬けのようになっていて、変な臭気がしてくるのがわかるんです。それでも何とか仕事をしてたんですけど、いろんなことがどうしようもなくなってきました。

 僕は酒でごまかしとったから気づかんかったけど、嫁さんはかなり早いうちから、これじゃしようがないという気持ちがあったんじゃないかな。何回も別れ話が持ち上がりました。酒が入っている時は、「わかった、わかった。お前がそこまで言うんなら別れよう」と言うけど、素面に戻ると、「じゃ、俺はどうやって生きていけばいいんだ」と思うわけです。大きい危機は3回か4回あったんだけど、とうとう30歳すぎた時に嫁さんが子どもを連れて出ていったんです。その時も酒があれば何とかやっていけるだろうと思いました。

 そこから酒の量がさらに増えて、いろんなことがぐちゃぐちゃになりました。寂しさから女性関係ができたけど、つき合った女性ともめたりとか。僕は自分はまともだと思ってやっていたんだけど、にっちもさっちもいかんようになってきたんですね。逃げ道は酒しかなくて、酒さえあればいいんで、まともな食事をとってませんでした。牛乳にプロテインを溶いたものと栄養バランス食を食べるぐらいです。たまには野菜を食べにゃいけんと思うてお好み焼きを食べに行っても、何分の一か食べたら食べられんのですね。家で食べようと思って持って帰るんですけど、それも残してしまう。

 37歳の時に、ほんとににっちもさっちもいかなくなって、精神病院に入ることになりました。幻覚、幻聴が出だして、とてもじゃないけど耐えられんようになって、精神病院に逃げ込むしかないと思ったんですね。ちょっとでも酒のことを考えたら恐ろしくてしようがない。自分ではどうしていいかわからんようになって入院したんです。薬で安定した気分になったんですけど、そこで僕は暴れてしまうんですね。鎮静剤を打たれて保護室に入ったこともありました。3ヵ月で病院も逃げ出してしまったんです。

 入院する何ヵ月か前から、ある人に声をかけてもらって、老人の施設で仕事をさせてもらってたんです。退院するとすぐに、その職場に戻らしてもらいました。そのころの僕はおじいちゃん、おばあちゃんを見てると、ふっと憎たらしくなって、思い切りげんこつで殴ったらすごいことになるだろうな、というようなことを考えながらマッサージをしてたんです。自分でも恐くなるんだけど、おかしな考えがどこから出てくるかもわからんし、消すこともできんのです。
 僕はマッサージをしてて、おじいちゃん、おばあちゃんが喜んでくれて、「ありがとう」と言ってくれるのがうれしいから、そこに戻ったんです。入院してた間は、あれだけ嫌いだった仕事がしたいと、ほんとに思ってたんです。こんな俺に「ありがとう」と言ってくれる人がおったじゃないかと思ったら、仕事をやりたくて戻らせてもらったのに、すぐに変なことを考える。いきなりけとばしたらびっくりするじゃろうと、ふっと頭に浮かんできて、自分でドキドキしてしまうんですね。

 とてもじゃないけど、職場に復帰できる状態じゃなかったんです。自助グループでは1年は仕事をしないで休めと言うけど、ほんとその通りなんだなと、今になって思います。でも、その時は全然気がつかんかったです。

 職場に戻るのとほとんど同じころに自助グループにつながりました。病院を逃げ出したから、一人で酒をやめていくしかないと思って、アルコール依存症とかに詳しいイトコに相談したら、「お前は絶対に飲んでしまう。まず逃げ出した病院に戻って薬をもらい、今日からちゃんと飲むこと。そして、自助グループにつながること。この二つをしないと、1週間後には絶対に飲んどるぞ」と言われたんです。その晩にミーティングに出ました。それが4年と9ヵ月前です。それから飲んでません。

 ミーティングに初めて出た時も、盲学校に入った時と同じようにホッとしましたね。俺は生きていけるんじゃないかという気がしたんです。ひねくれ者で、人にとけこめんタイプで、傲慢と言ってもいいくらいにプライドが高くて、でもそういう自分と折り合いをつけて生きていけるかもしれないと思いました。酒が一瞬でもきれるのが恐かったんだけど、最初の一口を口にしなかったら、酒はそんなに僕を縛りつけるものじゃないことがわかってきました。

 飲みよったころは酒の奴隷じゃったと思います。酒は憎いぐらい嫌いだったんです。酒は母親を狂わせ、父親は暴力がある人だったけど、それも酒と関係があるし、僕がおかしくなったのも酒のせいだと思いたがってたので、酒が憎くてしようがなかったんです。それなのにその酒に縛りつけられて逃げ出せんようになっている自分が惨めで、情けなかったです。今はそうじゃないですね。最初の一口さえ手につけなかったら大丈夫なんだと自助グループで教えてもろうて、なんとか今日まで続けています。

 自分の一番の問題はアンバランスで、不安定で、グロテスクな自分と向き合って生きていかないといけない。でも、自助グループとつながることで少しはよくなっているんじゃないかなと思います。何でもないことがうれしく思えたりする時があるんですね。こういうのが平安なんかなと思える瞬間があると考えるようになりました。
 あの時、イトコが自助グループを勧めてくれなかったら、平安だとか幸せだとかいう気持は僕の中になかったと思うんです。そういうことを自助グループが教えてくれたように思います。ありがとうございました。

  2、Bさん

 アルコール依存症のCです。僕は高校の教員をしてまして、42歳です。まだ一人でぶらぶらしています。僕が抱えている問題はアルコール中毒、ウツ病、それからアダルトチルドレン、そして職業も問題だと思っています。

 今から考えると、親父もアダルトチルドレンだと思います。お酒が好きでして、飲んではトラブルを家に持って帰っておりました。弱いのにケンカするんですね。恐い人が家に来たりしていやでした。親父がゲエゲエもどすのに洗面器を持っとるのが僕の役割でしてね、洗面器にちり紙をしいたら、あとできれいに洗えるじゃないですか。そういうのを小さいころから知ってました。

 おふくろは京都のど田舎の生まれです。兄貴がいて、僕が生まれて、妹が生まれたんですが死産でした。だから、おふくろは水子供養をよくしてました。貧乏でね、おふくろはお金がないとずっと言ってました。実際、お金がなかったんだと思います。専業主婦で、僕たちの面倒をよく見てくれてました。今から考えるとよくやったなと思うんです。母の田舎に丸抱えされた生活を送っていた時期もあったようです。米とかお下がりの服とかを送ってくれたりしてたみたいです。

 おふくろと親父は3回離婚して結婚しとるんです。復縁した時は僕たちを身ごもっていた時でね、離婚と結婚を3回繰り返しとるんです。子どもを育てにゃいけんというので、家族のふりをしていたんだと思うんですね。ですから、僕は家庭というものに懐疑的なものがあるんです。みんな、子どもを育てたくないのに育ててるんじゃないかという。

 お酒を最初に飲んだのは小学校4年の時です。親父がビールを飲んでいて、便所に行ったすきに飲んだらうまくてね、お酒を好ましく思いました。これを飲んで親父がいつもあんなになるのかと思いました。それからはお酒に手を出しませんでした。

 大学に行くことになったんですが、パンフレットを取り寄せたら、入学金が30万、学費が70万、合わせて100万円いるという話になり、とてもじゃないけどあきらめてました。ところが、大阪のおばのところで生活させてもらって、大阪の教育大学に行くことになったんです。学費はかからなかったですね。生活状況を学校に言ったら、親父の収入では学費はいらないと言われたんです。寮に一年いたんですが、政治的環境が嫌で、おばのところに下宿させてもらうことになりました。
 大学に入ると、新入生歓迎から始まって、いろんな機会に飲まされました。酔ってる人を見よったら、くだまいたり、いびったり、殴ったりするのがいるじゃないですか。自分が親父みたいになりそうなのでいやでしたね。
 家から仕送りはなかったんですよ。見事なくらい一銭も送ってこんかったですね。奨学金とアルバイトで生活してました。家庭教師やスーパーのレジ打ち、甲子園に行って写真を撮って押し売りしたり、身体を動かしたらお金になったですね。大学2年の時、初めて一人酒をしておいしいなと思いましたね。家庭教師からの帰りに赤ちょうちんに入ったんです。うまかったです。お酒を飲むのが好きになりました。大学3年のころは月に30万円ぐらい稼いでましたから、お金の苦労はなかったです。毎晩酒盛りしてました。

 大学2年の時に母親が死にましてね。糖尿病がひどかったみたいで、腎臓がいかれて、最後は目が見えんようになり、一週間寝込んで死んでしまいました。兄貴の貯金が結構貯まっとったらしいんですが、一銭もないんです。数百万円の貯金がすっからかんになっとったんです。調べたらおふくろが全部使い込んどったんですね。
 どういう使い方をしとったかというと、健康食品や健康器具、浄水器とか羽毛布団とか、ああいうのを現金で買ってたんですね。店も専門のサポートの女の子をつけるわけですよ。その子にお金を貢いでいた形です。自動車学校に行かしたりとか、何かというとお金を渡しとったみたいですね。お袋は神様みたいな人じゃと思ってたのに、そんな不始末をしでかして死んでしまったわけです。もう責めようがないんですが、すごいいやな思いをしました。

 教員採用試験に落ちたので、広島に帰ってきたんです。1年間、三原で臨時採用の仕事をしました。ここからお酒の飲みようが変わってきたですね。教員になりたくてなっとるから仕事は苦じゃないし、給料は自分の好きに使えるから、いい思いをした時期です。連れが酔っぱらってバーでやくざと大立ちまわりをしまして、僕はケンカはしませんから、ニヤニヤしながら見とったりしてました。

 それから広島に帰り、3年間は昼間の学校に勤めました。そのあと8年間、夜間の学校でした。夜の10時すぎに高校のクラブが終わって、それから毎晩飲みに行ってました。当時はバブルが終わったあとぐらいで、羽振りのいい人が多かったのでずっとたかってました。3時とか4時まで飲んで、昼まで寝て、それから出勤ですから、何とかなってたんですね。

 そのあと昼の学校に変わりました。3時まで飲んで6時に起きにゃいけんじゃないですか。だから、全くお酒が抜けてない状態で学校に行きよりました。そんな生活が長く続くわけがないんで、ついに11月の初めに3日間ほど寝つづけ、そのため僕の所在がわからなくなったんです。あとで聞いたら、アルコール性の昏睡というのがあるそうです。

 上司が酒に問題があるに違いないと思って僕を病院に連れて行ってくれたんです。そしたら、アル中だということになったんですよ。医者に「アル中、帰れ」と言われましたからね。「お前みたいな者に使うとる時間はない。帰れ」と言われて、僕はどうしていいかわからんから、「それじゃ失礼します」と帰りかけたんです。そしたら「ちょっと待て」と言われて、聴診器を当ててもらって、「お前みたいなくされ人間はおらんでもええ」みたいなことを言われました。実は、昔その病院に急性アルコール中毒でかつぎこまれて点滴をしてもらったことがあったんです。

 その時はおとなしく薬をもらって帰りました。それでも僕は飲まんつもりは全くありませんからね、それから一週間あとにまた昏睡状態になったんです。今度は上司が医者に詳しく話したみたいで、「君はお酒をもう飲めないので、入院して治しなさい。ただ、入院するにしても目的はお酒の量を減らすことだ。趣味もないみたいだし、家族もおらんから、お酒を取り上げるのは気の毒なんで、そういうふうに診断書を書いて紹介状を作ってあげる。これを持って入院しなさい」とやさしく言ってくださったんですね。

 しかし、僕は精神病院に入りたくないと思いました。自分がアル中だとは思ってませんし、お酒を飲めんようになるのは絶対いやだったし、何よりも気違い病院だという先入観を持ってましたから、自分とは関係ないと思ってたんです。
 知り合いの保健室の先生に話を聞いてみたら、僕が紹介された病院は全部だめだと言われたんですよ。「出てこられんようになるよ」と言われたんですけど、医者にかからんわけにはいかないので、たまたま僕のうちに一番近くで、保健室の先生の知っていたクリニックにお世話になりました。

 ゆっくり話を聞いてくださって、「アルコール依存症ですね。一生治りません。私はよう治しません。AAという会があるので行きなさい」とパンフレットをくださいました。難しいことばかりが書いてあって、読んでもさっぱりわからんけど、僕にしてみたら、学校を休むのも申し訳なくて、このパンフを学校に見せたら仕方ないと思ってくれるかもしれんし、週に1回行ったら、あとの6日は飲んでもええわけじゃし、とりあえず行こうと思いました。
 クリニックに行ったのが月曜日で、水曜日にメンバーにならしてもらいました。クリニックで診てもらって、それから水曜日まではたまたま飲んでなかったんです。さすがに飲めんですよね。酒飲んだら精神病院ですからね。

 しばらくは飲まんつもりはなかったんですよ。それなのにほんと不思議なんですが、ミーティングに参加をさせてもらった日から、これまで主体的に自分でアルコールに触れたことはありません。35歳でやめてから7年間、一滴も飲んでないとは言えません。食べ物の中に入っとるものは身体に入れたことはあります。
 たとえばお菓子やドライフルーツを食べてふらふらになったこともあります。これがものすごく気になって、お酒を飲んだのではないかとびびって、ミーティングの仲間に聞いたことがあるんです。「わかって口にしたら飲んだことになるかもしれんけど、飲もうと思うて飲んだわけではないから、今回はお酒を飲んだことにはならんのじゃないか」と言ってもらって、ずいぶんホッとしたことがあります。おわかりのように僕は気が小さいんですね。で、お酒に頼ってたんじゃないかと思ってます。

 お酒を飲んで女の人にひどいことをしたこともたくさんあります。その反動かどうかわかりませんけど、女の人に対して臆病でびくびくしているんです。でも、お酒がとまってからは無茶苦茶をすることもなく過ごしています。
 お酒だけを飲むからいけないと言う人がいますけど、僕は食べながら飲んでました。一晩に食事を3回、4回する生活をずっとしてました。それでもアル中になってますから、あまり関係ないみたいですね。週のうち2日か3日、肝臓を休めるというのも当てにならないし、問題があると感じたらお酒はやめたほうがいいと思いますね。

 今の気持ちですが、お酒をやめてよかったと思います。「一生飲めませんよ」と言われた時にはどうしようと思ったんですけど、あまり大変なことではなかった。アルコール中毒になってよかったと思っているんです。
 もし「アル中じゃなかった」と言われたらどうするかなと考えたことがあります。「DNA鑑定の結果、アル中じゃありません。実は飲めます。上手に飲めばいいですよ」と、お医者さんが言うてくださったらどうするかなと考えたんですよ。そうなっても、たぶんもう飲まんじゃろうなあと思います。それは飲まん生活が結構いいからなんです。AAに思い切り飛びこんで、心からよかったと思っています。

 飲んどる時はお金のことが気になるし、人の目も気になる。それから運転が恐いんですよね。わかってもらえんだろうと思うんですけど、先に起こることに対してものすごく自信がなくて、何が起こるかわからんのが恐かったんです。そんな感じでいろんなことがすごく恐かったです。お酒がとまってからそういうことがあまりないんです。だから、「飲んでも大丈夫」とお医者さんから言われても大丈夫そうです。飲まずに命を全うしたいです。今はそんなふうに思ってます。

 親父は73歳ですけど、ヒモをやっています。恥ずかしいです。年をとってから人のいやがることばっかり言うんで嫌われているんです。かわいそうなんですが、人を幸せにすることができませんでしたね。

 先ほど、僕の問題点は職業だと言うたんじゃけど、ウツ病になったのも職業的なものがあるかもしれんのですね。自分の思いと違うことを言ったり、したりすることがあります。どうでもいいことをみんなでこだわって、生徒に対していろんなことを言うたりするんで、ものすごくきついです。それじゃ自分には教員という仕事はできないのかと言われると、それほどでもないような気がするんで、ずるずると辞められずにいます。

 ウツ病じゃし、仕事もうまくいかんし、身体の調子もよくないし、じゃけどちゃんと朝が来て、学校に行かしてもらって、一日のうち何回かほほえましいことが起きるように感じられるんですね。それだけで十分かなと思ったりします。最後にAAのメンバーぶって言うと、今日一日のソブライエティ(飲まない生き方)がAAのハイアーパワーによって与えられていると感じ、感謝です。これで終わります。

  3、Cさん

 私のニックネームはKと言います。昭和32年生まれで51歳です。アル中の人間は大体ウツを持っとるんですけど、私もウツ病です。でも、AAに参加してからウツは出ていません。

 私の家族は誰も飲まないんです。食事の時に酒が出てくる家庭ではなかったですね。おふくろの実家は飲んでましたけど、子どものころにお酒を勧められて飲んだことはありません。私が初めてお酒を飲んだのは高校の時だと思います。友だちの家に行った時にコークハイを飲んだ記憶んですね。それ一回きりで、酒を飲み出すようになったのは大学に入ってからですね。

 新入生歓迎コンパとかあるじゃないですか。わりと飲めるんです。強いんですね。先輩に飲まされて、途中でわからなくなり、目が覚めて「ここはどこ……?」と思ったら、部室に寝かされていたのをおぼえています。記憶がないんです。これが初めてのブラックアウトですね。
 それからは下宿しているやつのところで毎日のように飲むようになりました。飲めるやつばかりだったので、いつも酒盛りしてましたね。お金がなかったので、どこかに飲みに出かけることはほとんどなかったです。連れの下宿で飲んで、そのまま寝て、次の日は二日酔いで遅くまで寝てて、夕方になると元気になって、「今日も飲もうか」ということがよくありました。

 楽しいお酒でしたけど、今から考えるとおかしいなということはあったんです。私は車で通学してたんですけど、ある時、目が覚めたら自分の部屋にいるんですよ。昨日はあそこで飲んでいたけど車はどうなったんだと思って、すぐに車庫に行ったんですよ。ちゃんと車があって、傷はついていないということは、家までぶつけずに帰ったわけです。でも記憶にないんですよ。どうやって運転して帰ったんだということが何回かありました。学生の時はそんな感じでしたね。

 就職は土木の関係で、現場監督の仕事をしていました。若くても現場の長ですから、ちやほやされるんですよ。私はお山の大将になるのが好きなんです。20代から現場を持っていたので、私よりはるかに年上の人間が「どうしますか」と聞いてくるのがすごく気分よかったです。

 そのころは景気がよかったんで、給料も上がっていました。30歳で結婚して、加計の現場に行く前に子供が生まれました。あのころは土曜日と祭日は絶対仕事、日曜も忙しかったら仕事という感じだったんですよ。子どもが寝てる時に出かけ、子どもが寝てから帰るので、子どもと会う時間がなかったですね。子どもが私のことを忘れると思ったので、仕事を変わることになったんです。
 そのころから酒はおかしかったですよ。仕事が終わって帰るのに、酒を飲みながら車を運転してましたからね。ワンカップや缶ビールを飲みながら運転する。家に帰ったらまた飲む。32、3歳のころはそういう生活をしてました。でも、自分じゃおかしいとは思っていません。

 仕事を変わっても現場に出てたんです。いつまでも作業服を着て仕事をしたくないというのがあったんで、支店に帰してもらいました。スーツにネクタイで出勤するのが最初はうれしかったんですが、それが私にとって最悪でした。

 今までは現場のトップだったんです。現場のトップといっても、自分の会社の者は1人か2人しかいなかったんですけどね。それが支店に帰ったら上司がたくさんいるじゃないですか。それに15人ぐらいの部下の面倒を見なければならない。無理なんですよ。したことないから。
 今までも仕事に関してのストレスがあったんでしょうけど、あの時は自分でも「これはできないな」「おもしろくないな」「難しいな」と思う時があったんです。だんだん出社拒否になっていきました。

 そのころ、初めて精神科のクリニックに行ったんです。12、3年前のことですね。今もまだ通ってます。ウツの薬を最初は抱えるぐらいもらいました。今は一番軽い薬をちょっとだけです。

 私が出社拒否になると、上司もわかりますよね。職場でストレスがあるんだろう、やっぱり現場に出たほうがいいんじゃないかという話になって、また現場に出させてもらいました。今度は庄原の現場です。単身赴任でね、それがまた私にとってまずかったんです。

 最初の一年はわりとおもしろかったんですよ。うちの会社は私を入れて4人で、職員さんとも仲良くなって、わりとおもしろかったんですけど、1年たつと職員さんが替わりますよね。がらっとメンバーが替わって、人間関係が難しくなったのが私にとっては大きかったと思うんですね。

 そのころの私は40歳ぐらいですから、係長クラスは私より年下です。「これお願いします」と言われて、「できません」とは言えないんです。負けたような感じがするというか。ずっと現場を歩いてきた人間からすると、机の上で図面とパソコンだけでものを言われると、「お前らが現場の何を知っとるんか。お前らに負けるわけないだろう」という気になるわけです。それで、向こうから頼まれると、できないとは思っても「できません」とは絶対に言えないんで、どんどん仕事が山のようにたまっていくわけです。それで酒の量が増える一方になって、一年半ぐらいで職場を去ることになったんですよ。職場に全く出れないようになりましたから。

 最初のころは月曜に焼酎を1本買うたら、木曜の夜には余ってたんですよ。それがだんだん増えて、辞めるころには月曜日に焼酎を2本買うても、木曜の夜には足らんのですよ。1日に焼酎を5合以上は飲んでましたね。最後のころになると、いくら飲んでも寝れないんです。ある程度飲んで寝ようと思うじゃないですか。しかし、全く寝れないんですね。もうちょっと飲んだら寝れるんじゃないかと思って飲んでも寝れない。それが続くので仕事に出れなくなりました。
 役所の人もおかしいとわかるわけですよ。精神的に参っていると表情もおかしいんですね。二週間ぐらい休ませてもらったんです。休ませてもらっている間は家にいるので、仕事のことを何も考えないから楽だったんですよ。これなら仕事に行けるかもしれないと思って出たら、問題になっていたものは何一つ解決していないわけですから、また仕事に出れなくなり、それですぐ会社を辞めました。これ以上やると会社に迷惑をかけることになる。と思って辞めたんです。

 一年以上、仕事しませんでした。自分では酒に問題があるとは思ってないんで、家では酒を飲んでましたね。一年ちょっとたって仕事を始め、半年ぐらい続いたんですけど、仕事上のちょっとしたことでまた仕事に出れなくなり、それで7、8ヵ月休んだんです。そうして仕事に出たら、やっと出てきたかと期待されるのはうれしいんですけど、期待が大きすぎるんですよね。期待に応えられないと自分でもわかるんで、そこも辞めました。

 その時は自分でもショックだったですね。それからは自分の部屋にひきこもって酒を飲んでました。12月に仕事を辞めて、翌年の2月下旬にAAにつながったんですが、その間ずっと飲んでましたからね。人と会うのがいやだったです。電話に出ない。人が来ても会わない。ひきこもって、テレビを見ながら酒を飲んでました。朝起きたら、酒の量だけを気にして、「今日はこれで足りるじゃろうか。足らんかったら困るから買いに行ってから飲もう」というパターンが数ヵ月続いたわけです。

 その間、女房と親が心配していたんでしょうね、クリニックに女房と一緒に行ったんです。その時、女房とおふくろは「入院しないと治らない」と思っていたらしく、女房が先生に言ったんです。先生は「そこまでのことはないんじゃないですか」と返されて、「ここでAAのミーティングをやってますよ。出てみたらどうですか」とAAを勧められました。

 私は酒に問題があると思わないこともないけど、酒をやめようと思ったことはないんです。自分でも普通だとは思ってないですよ。でも、絶対やめたろうとか、「禁酒」と書いたとか、そういうことは全然ないんです。休肝日を持とうと思うけど、それが全くできない。週に1回は休もうと思いますよね。その日が来ると、今日でなく明日にすればいい。次の日も飲んだら、来週2回抜けばいいと、ずっと飲んでました。

 ミーティングも私は行く気がなかったんですけど、女房は先生から勧められたので行こうとするじゃないですか。着いたのはミーティングが終わるころだったです。その時に言われたのが、「アル中は病気です。一生治らない病気です」ということでした。
 ミーティングに出たくて来たわけじゃないというのが頭にあるので、話を聞こうとしたわけではないし、納得したおぼえもないんですけど、なぜか私はその日から酒を飲んでないんです。前の日までは、目が覚めたら酒を飲むという生活を数ヵ月していたのに、その日から7年半、酒を飲んでません。ミーティングでみなさんの話を聞いて、「これならやめれる」と思ったわけでも、「続けてみよう」と思ったわけでもないんです。でも、それから毎週ミーティングには行ってます。

 私にとってミーティングが重要だと思ったのは1年少したってからです。私には仕事をしなければということが頭にあるんですね。2、3ヵ月してから「仕事をしたい」とミーティングで言ってたんです。仲間には「まだ早い」と言われてました。9ヵ月ぐらいたった10月ごろに就職したんです。

 就職して半年ぐらいした時の現場責任者が私の大嫌いなタイプだったんですよ。ねちねちした言い方で私に文句を言うような奴だったんですね。私は今までは現場のトップだったわけですよ。今度は末端になるわけです。自分としてはそのギャップが大きかったですね。
 ミーティングで、「この一週間、こんなことがあってですね」とか、「あいつがこんなことを言った」とかを毎週言うことですごく楽になったんですよ。そんなこと家で言っても仕方ないですよね。AAでも私の人間関係や私の立場をわかってる人はいないので、話しても仕方ないと言えば仕方ないんですけど、「こんなことがあったんですよ」と気にいらなかったことを言うだけで、すごく楽になるというのを感じたんですよ。
 それまでも、ミーティングでは背負っているものをおろすんだと聞いとったんじゃけど、それがどういうことかわかってなかったし、体験してなかったのでわからなかったんです。楽になる体験をすると、ミーティングのありがたさを感じました。私がAAを続けているのは、酒がとまっているからということもありますけど、ミーティングで話をしたら楽になるという体験をしたからです。

 それからは水曜日には何があっても広島に帰ってきてミーティングに出席してます。どこにいても、どんなことがあっても、必ずミーティングに出ることに決めています。職場の者にもそのことは言ってます。5時までいたら間に合わない時は、「早めにあがります」と言って、とにかくミーティングに出る。遅刻の常習犯ですけど。

 AAでは「酒がとまっとるだけではだめ」と言われたんです。まずは酒をやめたいと思うんだけど、「酒だけやめても、以前の考え方だったらまた酒飲むじゃん」と言われて、最初のうちは何を言われているんか全くわからなかったですね。酒がとまっとるからいいと思ってたんです。
 でも、酒だけやめていても、昔と同じ考え方だったら絶対酒にいきますよ。私の場合は仕事でのストレスを酒に逃げていたわけです。酒だけやめているのは、それは酒を飲みたいのを我慢しとるだけでしょ。私は学校を卒業してからずっと土木の仕事をしています。今も同じ仕事をしとるわけですから、条件は今も昔も全く一緒なんですよ。今までと同じ対応の仕方をしよったら、絶対に酒に逃げますよ。間違いないです。人との接し方や考え方を変えないかぎり私は酒へ走ると思うんで、酒だけとまっていればいいわけではないと思うんですね。

 今も昔も同じ仕事をしているんですから、同じ出来事があるわけです。たとえば、人から頼まれてもできないものはできないですね。それを以前は「はい」と言ってたわけです。今は自分の意見が言える。できないことは「できません」と言うし、「明日までやっといて」と言われたら、「そりゃ無理です。2日か3日はかかるでしょう」と言います。相手が誰であろうと自分の主張をする。それが受け入れられなかったら、折り合いのつく線を探そうとして話をすると思うんですね。昔はそういう考えが全くなかったから、言われたら「はい」しかなかったですけど。

 同じ場面であっても、私自身の対応や受け取り方が変わって、少しは楽にすごせるようになったかなと思うんですね。それはAAで何かを教えてもらったり、誰かの話されたことが少しは頭に残っているのかもしれないなと思っています。

 「アル中になってよかった」と、初めてミーティングに行った時に聞いたんですよ。その時、「お前ら馬鹿じゃろう」と思いましたね。「アル中は一生治りません」と言ったろ。ということは、一生酒は飲めんということじゃろう。それなのになんで「アル中になってよかった」と言えるの……?と思ったんですよ。

 でも、今は私も「アル中になってよかった」と思っています。だって、こんなに楽に生きられるんですからね。人間関係も仕事面でも天国と地獄です。自分と合わん人間にはこちらから近づかないで、必要な時だけ接点を持つようにしています。仕事でも、昔は常に神経をとがらせて150%の力を出して仕事をしとりました。今はその半分ぐらいの気持ちでやってますけど、周囲からの不満は出ていないと思っています。自分だけそう思っとるかもしれんけど、自分がやるべき仕事、期限のある仕事などはきちんとしているつもりです。また、多くの仲間ができました。これも私にとってとても大きなものを手に入れたと思っています。

 このように「楽な生き方」「新しい生き方」「多くの仲間」を私に与えてくれたのがAAです。ですから、私は今、酒のない、人間関係の単純な第二の人生を歩んでいると思っています。こんなに多くのものを与えてくれ、人生をも変えてくれたAAをこれからも続けていきたいと思いますし、続けなければいけないと思っています。ありがとうございました。


(2008年9月28日に行われたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)