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  田中 慈照さん 「暴力の連鎖を越えて」
                          2008年3月29日

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 こんにちは、四国のお寺で住職をしております田中慈照と申します。私ははっきり死刑は廃止すべきだと、100%確信的に思っています。しかし、一般的には死刑は必要だという人の声が大きいと思います。真宗大谷派では、死刑の執行があるたびに宗務総長が執行停止を求める声明を出していまして、死刑賛成ではありません。けれども、それぞれが寺に帰りましたら、やっぱり死刑は必要だという意見の人もたくさんいます。

 死刑制度には17~8年ぐらい前から関わっておって、自分にとっても大きな問題になってます。そのころは高松におりましたので、高松拘置所に私の連れ合いと一緒に死刑判決を受けた人、何人かに会いに行ったり、裁判の支援をしたりして走りまわっていました。

 面会していた人が3人、昨年からばたばたと執行されました。一人は昨年の4月27日に執行されたTさんです。何度か面会に行きましたし、文通もしてました。その次に、昨年12月7日にIさんが執行になりました。この人は私の連れ合いがずっと文通しておりまして、Iさんを中心に獄中から来た文章を集めまして、交流誌を作っていました。そういう関係でさまざまな影響を受けておりました。そして今年の2月1日にMさん。この人は高松拘置所にいた時に会って交流してました。
 私としては執行されたことがかなりショックで、話をする元気もなかったんですけど、そのことも含めて整理できたらなと思っております。

死刑を廃止したいと思ってずっとやってきたわけですけれど、この18年間で死刑は執行停止にも廃止にもならなかった。彼らを生かすことができなかったわけです。今までしてきたことを通して私が何を感じ、そしてどんなことを考えていくのか、これからの課題だと思います。
 政策として存置か廃止かではなく、死刑廃止とはどういうことを主張しているのか、死刑廃止の思想と言いますか、死刑廃止という考えとは何なのかということをあらためて考えてみたいと思っております。

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 まずは私自身が死刑の問題にどうして関心を持ったのか、死刑のことを考えるようになったのかということをお話ししたいと思います。

 私は1950年生まれです。大学受験に失敗して東京で浪人生活を過ごした1968年は、ベトナム戦争反対運動や大学紛争が起こっていた時代です。あのころはいつもどこかでデモがありましたから、東京にいてデモを見たことのない人はいないだろうと思います。予備校でもベ平連のデモに参加したのがたくさんいたんです。

 私は池袋に住んどりましたから、新宿がすぐ近くでした。68年10月21日、私がいつも乗っていた山手線がストップしたんです。その日は国際反戦デーで、東京の各地で反戦デモが行われ、新宿に集まった学生が駅になだれ込んで機動隊とぶつかり、電車がとまってしまったんです。夜中まで何万人というデモが続きました。私は帰れなくなったので見物しておったんですけど、つい調子に乗ってデモに参加したわけです。
 気がついたら、騒乱罪が適用されたとみんなが言ってます。私は何のことかわからないまま、みるみるうちに機動隊に取り囲まれて、結局逮捕されました。四谷署に引っ張っていかれてずいぶんいじめられたわけです。両手に墨をつけられて指紋を採られ、写真を撮られ、調書を取られました。18歳で東京に出て、右も左もわからないところでそういう経験をしたわけです。

 ちょうど同じ時期に、連続射殺魔108号事件がありました。68年10月に東京のプリンスホテルで警備員が射殺され、そのあと京都の八坂神社で、そして函館と名古屋でタクシーの運転手がピストルで殺された、4件の連続殺人事件があったんです。
 4ヵ月後に永山則夫という19歳の少年が逮捕されました。その少年が捕まった時に勤めていたのは、私がよく行ってた新宿のゴーゴー喫茶だったんです。自分と同い年のやせて小柄な少年がピストルで4人を殺して逮捕された。自分の身のまわりにいたかもしれない人が事件を起こしたということが、私の中に強烈に残ったんです。

 私は大学に行かずに山谷に行き、そこでいろんな友人を持つことができました。その時、山谷で活動していた武田和夫さんから永山則夫の話を聞くことになったんです。

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 永山則夫が獄中で書いた文章が「辺境」という雑誌に載ったんです。「辺境」は井上光晴さんが編集していた、差別問題に焦点をあてた文学の雑誌でした。その文章を読んで衝撃を受けました。最初に出版されたのは『無知の涙』という本で、私と同世代にかなりのショックを与え、みんな夢中で読んだわけです。

 永山則夫が銃を持ってさまよった時の文章が武田さんの『死者はまた闘う』という本に引用されていますので、それを読んでみます。

「わたしの故郷で消える覚悟で帰ったが、死ねずして函館行きのドン行に乗る。このone weekどうしてさまよったかわからない。わたしは生きる。せめて二十才のその日まで。罪を、最悪の罪を犯しても、せめて残された日々を、満たされなかった金で生きるときめた。母よ、わたしの兄弟、兄、姉、妹よ、許しは乞わぬがわたしは生きる。寒い北国の最後を、最後のと思われる短い秋で、わたしはそう決める」

 あの当時、永山則夫と同じように先行きがわからない気持ちを持った人間にとって、永山則夫はある種のインパクトがありました。4人の人を殺したということだけじゃなくて、時代のどうしようもなさの中で、何かしらインパクトのある語りを永山則夫は持っていた気がするんですね。妙なもんですけれども、自分と彼は遠くないなという感じを受けました。

 永山則夫は中学を卒業して集団就職で東京にやって来たんですけど、転々と仕事を変えるわけです。横浜の寿町で港湾荷役の仕事をしたり、夜は映画館で寝泊まりしてました。そんな中で、たまたま盗みに入った米軍ハウスで護身用の小さな銃を見つけ、その銃を手にして2ヵ月の間に4人を殺してしまう。
 自殺しようと思って北海道に行くけれども、また東京に帰ってくる。最後にやけになって静岡の銀行に入るわけです。その前に盗みに入った家で貯金通帳と印鑑を盗み、それで換金しようと銀行に行った時に銀行員に見破られ、警察に通報されたけれども逃亡するという事件を起こしています。そのあと、東京に行って捕まってる。

 なんで彼が静岡での事件で捕まらなかったのかということが、あとで裁判で問題になってきます。4件の殺人事件を犯して、全国的に警察が捜査しているのにもかかわらず、静岡事件では逮捕されませんでした。

 事件の時に永山則夫が19歳であったということ、社会的に同情される余地があったということで、「死刑にするのはかわいそうだ」という同情をかっていたのはたしかです。永山則夫は幼児期に非常に不幸な日々を送っています。お父さんは家をかえりみず、お母さんは子供を放棄する。そんな中で一人の人間として生きていくだけの力がないままに中学を卒業して、集団就職で東京に出てきた。
 それだけじゃなくて、永山則夫には永山個人の持っていた独特の考えがあって、この事件を特殊なものにしていたという気がします。

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 私が山谷にいた時に、山谷で活動していた武田和夫さんという人が永山則夫の支援をしていたんです。武田和夫さんから永山則夫の「反省=共立運動」とか読ませていただきました。永山則夫から届いた手紙に小さな論文があって、何が書かれていたかというと、「百円泥棒について」という題の文章でした。人が犯罪を犯した、犯罪の責任はどこにあるのかということで、面白いことを言っとるわけです。

「ある人が百円の金に困って盗み、その金を使ってパン屋の店先でパンをかじっているところを捕らえられた。この場合、どこに問題があるのか?」

 パンを盗んだ人が悪いというのは一般的な自己責任論です。もう一つは、社会の側が悪いという考えがあります。百円の金に困って盗みをせざるを得ない社会がおかしいじゃないか。社会福祉的な発想からすれば、社会が問題となってくる。

 永山則夫はそういうことを言ってるんじゃないんだと。百円のお金がなくて困っている人がいて、困っていることを知ってて、あるいは知らずして、彼に百円の金を渡すこともできないことに問題があるんだ。そういうふうに問題を立てたわけです。つまり、一人の人が何らかの犯罪をしてしまうのは、その人がただ単に貧困であるとか、職がないとかいうことだけでなく、その人を支えるべき人間の関係がまったく断たれているところに問題があるというふうに考えたわけです。

 犯罪という行為に対して、本当はその時代を生きているあらゆる人間に関係存在としての責任があるにも関わらず、その責任は個人に帰させられる。あるいは、本人の生育歴に問題があるとするならば、その環境に責任を負わせる。もっとえげつない例を言えば、精神的におかしいということで精神鑑定をして、社会的不適格者だという烙印を押す。
 すべての人はその社会における関係の中に置かれているがゆえに、罪に値する行為は関係存在そのものが問われなければならないのではないかというのが、永山則夫の考え方です。

 もう一点言えば、人間にはそれぞれ生きてきた歴史がある。永山則夫だったら19年間の歴史がある。永山則夫がピストルを手に入れてからわずか2ヵ月の間に4件の事件を起こした。その2ヵ月の間で全人生を判定するのか。それとも、その人間の全人生の歴史においてその人を見るのか。そういうことを問うていったんですね。

 だから、永山則夫の問題に関わることは、永山則夫の罪がどうだとかいうんでなくて、この人と私の関係はどうなのかということが常に問われている、と武田和夫さんは書いているんですね。

 普通、事件を起こした場合には、その事件を起こした人間に関わるのは警察官か検察官、次には弁護士ですね。もっと言えば刑務官。普通の人はほとんど関わらない。限られた人間の関係の中で罪を犯した人間は生活しなければならない。そういう関係は対等な関係ではないです。一方的な関係ですね。力の強い者が弱い者を説得する関係です。
 そういう関係におかれた時に、罪を犯した人間は共感性を持つことができません。つまり、相手に従属した形でしか自分の意見を言えない。相手に迎合した形でしか自分というものがあり得ない。

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 永山則夫自身は自分のことを自分の本に〝連続射殺魔〟(!)永山則夫」と署名てたんです。獄中で学習することで人間として回復しようとした。にもかかわらず、死刑によって殺すという正反対のことが行われたという気がいたします。

 永山則夫が獄中で学習して何を発見したかというと、自分は相手が憎いと思って殺したわけではない、自分が殺した人たちは自分と同じように社会を生きてきた人間なんだ、その人間を4人も殺してしまった、ということです。永山則夫が殺した運転手に子供がおったんです。父親がいないという、自分が味わったのと同じ苦しみを子供に与えたということで、初めて人を殺した自分を見ることができた。その中で、自分の罪に向き合っていったのではないかと思うんですね。

 死刑になるだろうと思いながらも、何で一生懸命勉強し、文章を書いていったのかというと、自分の起こした事件の原因は何だったのかを自分なりに確かめていこうとしたのではないかと、今になれば思うわけですね。
 獄中に追いやられて初めて、なぜ自分が殺してしまったのかを自覚的に考える場が与えられた。事件を自覚すると同時に、自分の社会に置かれた条件も発見していったということでないかと思うんです。

 そういう意味では、加害者が自分自身に向き合う契機が、獄中に入って初めて本を読み、ゆっくり考える時間を持つことになって初めて生じたというのは皮肉としか言いようがないんですけど、そこで初めて人間となったのかもしれないなという気がするわけですね。

 そして永山則夫は、自分が社会で生きてていいのかということを問うた。つまり、殺人事件を4件犯した死刑囚が死刑制度を問うということは、自分自身を抹殺しようとする社会に対して、私を生かすのか殺すのか、その根拠を社会に問うたんじゃないかと思います。

 それまでは死刑廃止の論調の主要な部分は、冤罪で死刑になるのは絶対に間違いなんだから死刑はあってはならないという意見が一般的でした。冤罪とは裁判の仕組みからいってなくなりません。冤罪があるから死刑反対。
 だけども、永山則夫がおそらく初めて、人を殺すという取り返しのつかない罪を犯した人間が、それでもなおかつ生きるだけの根拠をこの社会が持っているのかどうかを、死刑を執行される側から問うたという意味で画期的なことでないかと思います。

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 永山則夫は一審で死刑判決を受けます。二審では、先ほど言いました静岡の銀行で捕まらず、起訴もされなかったけど、こういう事件を起こしたんだからちゃんと静岡事件を裁判しなさいということを基本的な方針とした。
 その時になぜ捕まらなかったのか。それは国が犯人像を特定しながら泳がせていたんではないかという疑問があるわけです。永山則夫はその時19歳でしたから、20歳になるのを待って逮捕しようとしたのでないか。事件当時、未成年であっても死刑になる事件として注目されていました。

 その背景を言えば、当時、法務省は少年法を改正しようとしたんです。1968年、69年は学生運動で大量の逮捕者が出た時期です。18歳まで成人と同じように起訴して罰則を強化する方針だった。そのため永山則夫を泳がせていたのではないかと考えられるわけです。

 結論から言うと、静岡事件は裁判では取り上げられませんでした。しかし、永山則夫が劣悪な環境に育ったこと、印税を被害者遺族に送金していること、そして獄中結婚しておとなしくなったことなどから、二審では無期に減刑されました。そのあと検察は最高裁に上告して、最高裁は高裁へ差し戻し判決。もう一度高裁で審理をやり直して死刑になるわけです。

 そういう点では、光市事件とは裁判の歩みが似ているし、世間のクローズアップのされ方も似ている。もっと言えば、背景にあるのが厳罰主義と少年法の改正という点では、40年前の話ですけれども、光市事件と似ているなという気がします。ただ、あの当時と今と違っているのは、被害者が前面に出て「死刑にしてください」と言っていることです。

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 永山則夫は被害者への謝罪を最初からしています。永山則夫を支援する人は継続的に被害者の家に行って、永山則夫が今こう考えていますと伝えていたそうです。そして、自分の生い立ちについての文章を出版することによって原稿料や印税が入ってきましたので、支援者に頼んで被害者に弁済金を受け取ってもらってほしいと、支援者は何度も足を運んでいました。2件の被害者には弁済金を受け取ってもらい、2件の遺族はどうしても受け取ってもらえなかったそうです。被害者のことをまったく考えない支援運動というわけではなかったと思ってます。

 永山則夫の裁判を通して出てきたのは、償うという形で生きるとはどうすることかということです。償っていく中で人間が変わっていく、そのことによって死刑を停止、あるいは廃止することはできないのかという考え方を社会に提起した最初の例だと思います。

 そして、犯罪行為を個人の責任に負わせるのではなく、その人の生育過程にいろんな人が関わっているのだから、事件後にさまざまな人が関わる中で新たな人間形成ができるんでないかという可能性を問うていた気がするんです。

 永山則夫が出てくることによって、その後の事件では犯罪を犯した人に弁護士以外の人が面会して関わる例が増えてきました。それはなぜかというと、事件をとらえ直すことが、逆に私たちの社会の過酷な価値観であるとか、人間関係を貧しさとかをあぶり出してくるからです。

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 事件が起きるのは、社会のゆがみが個人に大きな負担をかけていて、その中で起きている。とするならば、なぜ私が事件を起こした人に関わっていくのかというと、私は今のところ犯罪を犯していないんだけれども、ひょっとしたら私も同じような条件下に置かれた場合は、同じことをやってしまうかもしれないなと感じるからなんですね。そういうことを私たちに想像させてしまうことがあるんです。

 永山則夫はたまたま盗みに入ったら、ピストルと弾を見つけた。それをポケットに入れて帰るわけですね。のちに彼は言っているんですけども、68年の10月21日、「目の前で、人が機動隊にメチャメチャに袋叩きにあっているんだ。ひどいもんだった。俺はピストルを持ってたから余程撃ってやろうかと思ったけど、思い止まった」と言ってるんです。

 あのころ、爆弾を作って使った人は何人もおるわけです。もっと言えば、学生運動の対立するグループで鉄パイプや角材で殴り合って殺した例もあるわけです。なぜ私がそこでしていないのか。たまたまそういう縁に会わなかっただけではないかなと思うんですね。
 たまたま知り合った人たちが政治活動をしていて、たまたま現場に居合わせてしまう人もいた。その時、殺してしまうほうになるか、命を失うか、それもたまたまなんですよ。犯罪を犯した人にすべての責任を負わせることになっています。でも、それですませていいのか、何とかならないものかという思いがあるわけです。

 個人的な傾向かもしれませんけど、加害者の立場で考えるというのが私にはあるんですよ。父は厳格な人間で、体罰を受けていました。私はたまたま宗教に頭を突っ込んだので、昔のいろんなことを思い出して、ひどい状態だったと今にして思います。
 小学校の時、二度こういうことをしているんですね。ある時、下の弟を映画館の暗いところで殴ったんですよ。ひょっと見ると、向こうにも弟がいる。違う子を殴ってたんです。殴られた子はびっくりしたと思います。もう一回は、同級生の女の子を池に突き落としたことがあるんです。なぜ自分がそんなことをしたのか、今ならわかります。自分の中にある、体罰を受けたストレスみたいなものがすきを狙って出てきたんですよ。

 少年が事件を起こすとわかる気がするんですよ。岡山駅で人を突き落として殺した子でも、社会に対する憎しみとか、さまざまなものをずっと持っていたのかなと思って、気の毒だと思ってしまうんです。どうしてそんなことをしたのか、本人にもわからないと思います。何でそういうことをしたのか、本人自身もその原因を明らかにすることが大事だと思うんですよ。でないと、事件が本人にとっても謎のままなんです。子供らがちゃんとした形で自分の言葉を作り出していくようにしていかないといけないと思っています。

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 永山則夫にとって必要だったのは本当の友達だったろうと思います。武田和夫さんを通して山谷の労働者が面会に行ったことがあるんです。その労働者は中学を卒業すると東京に出てきて、山谷での労働者解放運動がなければ野垂れ死にをしていたかもしれない人なんです。彼と海水浴に行ったことがあるんですけど、タオルをかけていました。入れ墨を彫っているからなんですね。ヤクザの運転手をしていた時に彫ったらしいんです。恥ずかしいからタオルで見せないようにしている。おまけにアルコール中毒でした。あのころ彼は22、3歳だったから、その年ですでに過酷な人生を送ってきていたわけです。
 その彼が永山則夫に面会して、永山則夫は「自分が『無知の涙』を通して伝えたかった人に初めて出会えた。もっと早く会いたかった」と言ったそうです。つまり、過酷な状況で育った人たちが自分の仲間を見つけることが困難で、むしろそういう人同士が殺し合ったり奪い合ったりするのが現状です。

 そのために永山則夫は言葉を使う。まず、自分たちの現状はどういう状態なのか。現状をどのように打ち返していくのか。生きるために言葉を持つことができなかった人たちに言葉を与えようとしました。

 永山則夫は自分のことをルンプロ、ルンペンプロレタリアートと言ってましたけど、左翼から相手にされない、学問もない、そういうルンプロが学べる学校を作りたい、そのためのテキストを作りたいと言ってたんですね。それが永山則夫自身を回復させる道筋でもあったと思うんです。
 永山則夫は処刑の直前、「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、特にペルーの貧しい子どもたちに使ってほしい」と遺言していたんですけど、それは必然的なことだったわけです。

 この社会の持っている、人を育てることのできない貧しさを痛いほど永山則夫は感じている。そういう人間の解放が彼にとっての一番大きな軸だったんだなと思います。そういう人々が解放されない社会とは何なのかという問いが根底にあるんですね。

 武田和夫さんは、なぜ永山則夫は社会に殺意を抱いたのかということの原因になる事件を引用しています。

「そんな夏のある日の昼、桜木町駅前の野毛のタマリ場近くを流れる大きなドブ河でで、もっと腹の虫がいい時に見るべきものを見て、聞いてしまった。―わたしは、橋の上でゲラゲラ笑うバカどもとともに、それを見ていた。そのドブ河でアル中みたいな人が、泥でまっ黒になりながら泳いでいたのだ。駅前の若い警官が、同僚に縄でしばってもらいながら、その人を助けに行くと当人はふりきって逃げるようにバシャバシャと泳ぐ。それを見ている橋の上の連中は、大笑いする。やっとつかまえて岸に上げようとすると、ふりきってまたまん中まで泳いでいく。「あはは、また」と橋の上の連中はまた笑う。オレは「この野郎!!!」と思った。オレはドカチン姿でなく、普通のモスブルーと紺に近いズボンとポロシャツ姿で、それを見ていたので、笑う連中はドカチンと気がつかなかったらしい。いや、気がついても笑ったかも知れん。オレはオヤジがああして殺されていったのだと思った。オヤジはオレが中学一年の時、岐阜のある町でポケットに十円玉一コを残し、野垂れ死にした。この日のアル中を見て近い将来オレもああして殺されていくのだと思った。無性に腹がたった」


 この時に社会全体に殺意を抱いたと、永山則夫は書いているんです。ドブ河を泳いでいる人を自分だと思った。だから、笑っている市民に対して殺意を抱いた。

 武田和夫さんは灘高校から東大の法学部に入った人です。東大闘争に参加し、ドロップアウトして山谷に来たんです。
 武田さんはこの文章を読んだ時に、自分は橋の上で笑っていた人間だと感じたんですね。そこで社会との断絶を見なければ、殺す側ということがわからない。格差社会の中で、笑っている側にはわからないんですね。どこかで憎悪を持つ人がいても、その人のことがまったく見えなくなっている。

 そういう人を社会の側が不適格者だと排除する。事件が起こると再びその人を排除し、時には死刑という形で抹殺する。それ以前にすでに排除されていたことを社会が気づかない。そういうことが起きているのではないか。
 そうじゃない方向に向けていくには、この社会をどのように作っていくかということを考えていくしかないというのが死刑廃止運動の底にあるんでないかなと思っています。

 つまり、どういう社会を私たちが作っていくのか、このことを死刑、あるいは死刑判決を受けた人を軸として考えていくことが、本来の死刑廃止運動のあり方でないかなという気がします。

 ただ死刑がなくなるだけでなくて、人を殺す行動に出てしまう人間をどうしたら作らなくてすむのか。作らなくてすむ社会、人間関係、教育システムを生み出していくのかということを問う流れが死刑廃止を支えている。それがないと、死刑が応報、報復になる。それが永山則夫の問題提起なんです。

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 あと何点か補足したいのは、死刑が議論される時に表に出ない声がいくつかあることです。一つは、加害者にも親兄弟、親族がいるということ、そして死刑を執行する刑務官の問題です。

 加害者の家族はほとんど表に出ることがない。出たらバッシングしかないですから。たまたま死刑事件に何件か関わったことで、私は加害者のお子さんや親に会う機会を持つことができました。この人たちは家族が死刑判決を受けてどういう気持ちなんだろうかと思ったわけです。
 ほとんどは遺体を引き取らない。自分たちの生活がいっぱいいっぱいだから。そういうのが実情です。事件を起こした人の家族を支えることが世間の中ではないわけですよ。引っ越したくても、家を持っている人は引っ越すことができない。
 Iさんの娘さんは、父親が事件を起こしたというので結婚の話がつぶれて、そのあと結婚され、子供を連れて面会に行ってたんです。けれども、子供が小学校に上がるころには子供を連れて面会に行かなくなった。なんでかというと、事情がわからんから面会に行けたんですけど、子供がわかるようになると会わせられない。
 執行後、娘さんは遺体を引き取りに行かれたんですけど、刑務官が親切でちゃんとお骨拾いまでつき合ってくださったそうです。どんな人であろうと死はつらいですね。お骨は娘さんが田舎のお墓に持って行かれましたが、そういう方は珍しいです。
 どんな罪を犯したとしても一人の人間が生きて、死んで、その人のことを思いつづける人がいるんです。

 もう一点は、刑務官のことです。死刑は自然死ではないですね。何かすごく虚しい気持ちが起きる。脱力感という感じを僕は受けた。刑務官がどういう気持ちなんだろうかと思うんです。

 坂本敏夫さんという、広島拘置所でも刑務官を務めた方が、「論座」3月号に刑務官を辞めたあとなぜ死刑について話しだしたのかを書いているんです。

「1997年8月1日、東京は快晴だった。午前10時すぎ、私は出版の打ち合わせのため、御茶ノ水駅から神保町に向かって歩いていたが、急に吐き気とめまいにおそわれた。徹夜続きだったので、暑さに負けたのだろうと思いながら路上にしゃがみ込んだ。その時、突然脳裏に東京拘置所の独居房舎が、連続射殺魔永山則夫の顔が浮かんだ。白いシャツ姿で足を組みながら座卓に向かい、執筆している横顔だ。実に不思議だが、ちょうどその時、東京拘置所の処刑場で永山則夫が殺されてなるものかと力を振り絞って刑務官数人の制圧を振りきろうとしていたのだった。永山は全身に無数の打撲傷と擦過傷をおい、無残な姿で処刑されたことを、のちに関係者から伝え聞いた。東京拘置所は三日後に、生前、関係のあった弁護士に永山の残した遺留品の数々を引き渡した。おそらく遺体は見せられなかったのだろう。私にとって、作家として名声を博し、印税をペルーの貧しい子供たちにと、新たなる決意で執筆にいそしんでいた男が処刑されたことは言いようのない悲しみだった。私が死刑に向き合い、死刑は野蛮な刑罰であるという情報を提供しようと決意したのはこの時である」

 刑務官自身がこんなふうに言ってるわけです。何年も死刑囚の生活を身近で見ている刑務官がその死刑囚を殺すのはどうかということをちゃんと議論の俎上に乗せて考えるべきでないかと思います。

 罪を償うことは必要だし、そのためにさまざまな罰則が与えられることも当然のことです。しかし、それしても死刑という形で命を奪う必要まであるのだろうかとは思うんです。死刑というのは過酷すぎる。せめて命を奪わずに生きて償う方法はないだろうかというのが、私の考えです。
 死刑によって問題を解決するのではなく、そのことですまされてはならんことがあるんでないかなという気がしますね。死刑制度によって誰が満足するのか、納得いくものがあるのかなという気がいたします。
 まとまりませんけど、以上で終わります。ありがとうございました。

(2008年3月29日に行われたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)