河合 和義さん 「私と手話」
                          2009年2月27日

 初めまして。河合と申します。今日は「私と手話」ということでお話しいたします。最近はテレビでも手話ニュースがあったり、NHKは土曜、日曜日には一時間手話に関する時間があります。アナログの放送にもずいぶん字幕が入るようになりました。
 テレビの番組欄に、四角に「字」とある番組については文字が出るようになっているんです。普通、私どもが見ているテレビでは見れなくて、アダプターを別に購入しないといけないんですけど。日本のテレビ会社もアメリカ向けには最初からその装置がついたテレビを出してるようです。だけど、日本ではあまり売れないということで作らなくなりました。字幕アダプターのスイッチを入れれば、教育テレビはほとんど字幕がついてますし、NHKのニュースとか民放のドラマも字幕が見れるようになってます。

 バスも次の停留所が文字で表示されるようになってますし、文字の案内がとても大きくなってきました。どれだけ使われているかわかりませんけれど、バスとか船には「筆談でご案内します」というステッカーが貼ってあったり、「筆談用具あります」とか書いてあります。

 そういう意味では、聞こえない人の暮らしやすさは10年前、20年前と比べるとずいぶん改善されてきたのかなと思います。

 私は兵庫県の生まれですが、大学に入るのに広島に来たもので、それまで手話とは関わりなかったんです。1970年に、聞こえる者を対象とした手話の定期的な講習会が初めて広島で開かれました。友達が手話をやってたもので、誘われて講習会に行き始めたのがきっかけで手話に関わるようになったんです。それから40年近くなります。ですから、「何で手話をやってるんですか」とか「手話を始められたきっかけは何ですか」と聞かれても、感心していただける材料が何もない。

 NHKで「みんなの手話」という講座が毎週あります。石原さんという初代の講師は、高校に通う電車の中で聞こえない女の子を見そめて、彼女と何とか話をしたいと思って手話を始めたという、人に説明する材料を持っていて、いつもこの話から始めています。
 僕はそういうのが何もなくて、逆にいい加減だから続いてきたのかなと思うところがあるんですね。

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 「手話は世界共通ですか」とよく聞かれますが、国によって違います。日本の手話が通用するのが韓国と台湾。韓国の手話のビデオを見てますと、手の動きは日本の手話と同じです。それは戦前、日本が朝鮮や台湾を占領していて、日本人が教師になって教えていたからなんですね。

 じゃあ、日本の手話はいつごろから始まったのかということですけど、聞こえない人は昔からいたんですね。日本で聾教育が始まったのが明治11年ですから、手話の始まりは1878年(明治11年)からと言われることも多いんですけど、実際にはそれ以前の歴史があったと思うんです。

 広島は島の多いところです。以前は島に橋が架かってなくて、狭い地域で身近な人同士で結婚していたためか、聞こえない人の出生率がいくらか高かった。視力障害の人も多かったですから、栄養状態ということもあったかと思うんですけど。
 そういうことで島独自の、島の中だけで通用する手話ができてるんですね。それこそ島の聞こえない人の手話を研究している人がいたぐらいです。聞こえる人の歴史と同じように聞こえない人の歴史もあるので、限られた区域で使われる身ぶりがあったと思うんです。

 今のように手話が一般的になったのは、明治になって聾教育が始まって、聞こえない人たちの集団ができてからです。今、使われている手話はそのころからだんだんまとまりかけたんではないかなと言われています。

 聾学校が義務教育になったのは戦後です。1948年(昭和23年)に聾学校や盲学校が義務教育になりました。そういう意味では、音声語も言葉ですから、歴史があって、いわれがあるんでしょうけど、音声語と比べると手話の場合は使われ始めてからの歴史が短いものですから、この言葉はこういうことで作られたというのがつかみやすい。言い伝えでもともとは何かというのがわかったりするんです。そうは言いましても、記憶している方もなくなられてきました。

 聞こえない人は「何で、何で」と聞くと怒るんです。「いちいちこの言葉は何でこういうふうに発音するかわかるか」と言われたら、「わからん」と答えると、「手話も一緒じゃ」と怒られるんです。それでも、地名のいわれを聞いているとおもしろいのがあって、今日は広島の町を表す手話について話をさせてもらおうと思います。

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 広島の地名というと、戦争や軍隊と結びついている手話が多いんです。それは広島が軍都だったということもあるんです。

 宇品の御幸通りは明治天皇が通ったということから名づけられたんでしょうけど、手話でも「天皇」「道」とすると御幸通りです。忠海もそうで、「忠義」「海」です。ところが、若い人だと「幸せ通り」で御幸通りになります。これは福屋も同じで、福屋は「幸せ」と音をそのままするんです。最近の若い人の手話は漢字からの転用や音(おん)の利用が多いです。
 でも、年配の人たちは見たものを表すことが多くて、福屋は「エレベーター」で表します。どうしてかというと、1929年(昭和4年)にできた福屋は広島にエレベーターがついた二番目のビルなんだそうです。当時はエレベーターが珍しいので、エレベーターに乗りに福屋へ行ったらしいんです。

 そんなのがいっぱい残っています。広島は「鳥居」で表します。宮島の鳥居。これは全国どこでも「広島」で通用するんです。鳥居という姓の人は手話でも「鳥居」になるわけですから、「名前を書け」と言われると、聞こえない方は「広島さん」と書く人が多かった。
 宮島はどうするのかというと、全国的には宮島も「鳥居」です。でも、広島に住んでいる私たちが宮島と広島が手話で一緒だったら話がこんがらがるので、お宮の屋根で表す「宮」という手話なんですね。それとか「鳥居」をしてぽんぽんと柏手を打つと宮島になるんです。このように手話には全国共通のものもあれば、ある地域だけ通用するものもあります。
 「鳥居」が広島なのは戦後の手話で、戦前は「ラッパ」です。ラッパを吹くしぐさをすると広島になります。たぶん軍隊のラッパです。広島は師団が置かれていたので。

 聞こえない人が住んでいたところの地名とか、わりに有名なものがあったところは独自の、漢字と関係ない表現が作られてる。たとえば、右手を口元にあてると広瀬町。日露戦争の時、ロシアの艦隊を動けなくするために旅順港に船を沈めたんですけど、広瀬少佐は「杉野、杉野」と杉野兵曹を探しているうちに戦死してしまいます。広瀬町は広瀬中佐とは関係ないんですが、口元に手をやって呼ぶ仕草をする。松江にも広瀬町があって、ここも広瀬中佐なんですね。

 それとか比治山は二つ表現がありまして、「聞く」+「山」と「明治」+「山」です。日清戦争の時に明治天皇が広島に来て生活していた御便殿が、明治天皇がなくなったあと比治山に移されたんだそうです。今も石の鳥居だけが残っています。毎年、聾学校の生徒は9月15日に比治山にお参りをしていたというんです。9月15日は日清戦争の時に、明治天皇が広島に着いた日です。9月15日になるとお参りに行っていたので、「明治天皇の山」というと比治山になる。
 「聞く」「山」というのは、大正6年から昭和3年にかけて比治山で正午の大砲をドンと撃っていたんですね。時報を知らせる山というので「聞く」「山」とするそうです。
 私は「聞く山」のほうが新しいのかと思ってたんですけれど、ドンと鳴るほうが古いらしいんですね。広島は安芸門徒の国ですから、それまでは学校の休みや行事は真宗の行事の時だったりしてたのが、昭和の初めぐらいから神道や皇室に関する行事に変わってきたと、広島の教育の歴史の本に書いてあります。もともと「聞く」「山」だったのが「明治」「山」に代わったのかもしれません。

 人の名前を表す手話が地名になることがあるんです。昔は聞こえない人の世界はとても狭かったんです。広島県は聾学校が三つあります。三つもある県は珍しくて、一つのところがほとんどです。そうすると、小学校に入るころから聾学校の寄宿舎で生活しながら、20歳ぐらいまで一緒に生活するわけです。とても狭い。

 こんなこと言うと怒られるかもしれませんが、ヤクザにしろ、詐欺のグループにしろ、聞こえない人だけの集団があるんです。手話をする聞こえる人が説明したらあやしいと思っても、聞こえない先輩から言われたら、おかしいことでもすぐに飛びついてしまう。私みたいにただ手話を勉強している者だといけませんけど、その人のお父さんとかが聞こえないと、「あれの子どもだから安心だ」というのがあるんです。ある意味では結束力が固いのと、逆にいえば世界が狭い。

 大分は手話では手のひらを下に向けて九州の形にし、手首の外側あたりが大分だから場所を表している、と説明されることが多いです。ですけど、大分の人に聞くと、そうじゃない。大分の金持ちの息子で聞こえない人が福岡の聾学校に通っていて、その子は小さい時から腕時計をはめていたので、手首のところで輪を作ると「あの子だ」ということになっていた。その子の名前の手話から住んでる地域を表す手話になって、大分になったんだと。だから、大分の人は腕時計をはめるあたりで表現しますが、全国的には形だけが残ったもんですから、九州のこのあたりが大分だからと言うと、説明としては納得しやすいので。

 人名が地名になるのは広島でもあります。江波は右手親指と人差し指で左手を挟む仕草で、「細い」という意味です。「細い」は江波に住んでいた掛谷さんが聾学校に入った時つけられたニックネームなんです。

 年配の聞こえない人たちは手話ネームがついているんです。聾学校に入ると、先輩がつけるらしいです。聾学校に入った時につけられたニックネームが、年を取っても、亡くなるまでその人の名前として聞こえない人の中では通用する。

 黒瀬町は手話だと「古い」です。古田さんという方の家が黒瀬だったので。あの男のところという感じだったと思うんですけど。

 呉は最近では指文字で「ク」「レ」としますが、これは呉市のマークだと言う人もいます。指文字というのは、手話には漢字のように意味がある言葉と、「あいうえお」を表す指文字とがあります。アメリカのABCをひらがなに当てはめて、アルファベットは26文字だから、足りない字は「きつね」の「き」だとか「ほかけぶね」の「ほ」とかで表しています。

 初めて出てくる言葉はどうしても指文字で表すことが多いです。たとえば、外国の地名だと指文字で表します。ワシントンとかニューヨークだとか、一般的によく使われる地名は、向こうで使われる手話の表現が日本でも使われつつありまが、まだまだ指文字で表すことが多いんですね。

 ある時期には海軍の水兵のセーラー服で呉という手話の時期もありましたし、「太鼓腹」で呉ということもありました。これは佐々木さんという方の体型で、佐々木さんを表すのに「太鼓腹」でやっていたのが、佐々木さんのところということで呉という地名になった。

 そういう意味では狭い。それが聞こえない人たちの暮らしの広がりと合わせて、聞こえる人とも交流が広がる中、だんだん変わってきたのが現状だと思うんです。

 これからは手話も音声語に近くなるというか、福屋が「幸せ屋」になったように、音声語の影響を受けて、音声語に近くなっていくと思いますね。
 手話が禁止されていた時代の反動から、そうはならない、手話だけでいくという聞こえない人たちのグループもあります。時計の振り子のように、あっち行ったりこっち行ったりしながら、ちょっとずつ変わっていくのかなと思っています。

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 聾学校は戦前、日本人たるもの、日本語をしゃべってわかるのが当たり前だということで、手話を使ってはダメだということになっていました。口話教育といって、口の動きを読み、声を出してという教育方法をされてました。

 戦前の沖縄の人の生活を書いている本を読むと、沖縄の方言を使うと札をぶら下げられる。札が日に何枚かたまると罰がある。自分がおわされた札を他の人にまわさないといけないので、わざと足を踏んで、「痛い」とか「やめろ」とかいう言葉を沖縄弁で言うと、「お前は琉球語を使った」ということで札が渡せる、というようなことが書いてありました。
 聾学校でも似たようなことがあったようです。昭和になってから手話が禁止されて、音声語で話すように指導されました。朝鮮でも名前を日本名にしろと言われた時期と一緒だと思うんです。聾学校では手話を使うなということで、手を動かすと両手に水を入れたバケツを持って立たされたとか、そんな体験話聞いたことがあります。

 今は聾学校でも先生は2、3年で配置換えになりますから、聾教育の専門家と言われる人がいなくて困ったりするんですけど、以前は聾学校に入ると定年になるまで聾学校一筋という先生が多かった。

 私が手話を習い始めたころにはろう学校奉職40年という先生方がおられて、そういう先生は「手話はダメだ」という考えでした。手話とは言わなかったですね。手真似とか。「手真似をすると言葉が発達しないからダメだ」という思いを持たれていた。それで何十年もやってきたんだから仕方ないと思いますけど。
 その時に言われていたのが手話の言葉数が少ないということです。音声語は数が多いけれども、手話は数が少ないので社会に出た時に対応できない、だから手話はダメだ、と。

 でも、暮らしと関係ないところで言葉は生まれてはこないので、たとえば私もパソコンを使うようになって、パソコンに関する言葉、マウスとかキーボードという言葉を使うようになってきた。

 自動車に関する言葉でも、たぶん聞こえる人も自動車学校に通い始めて自動車の運転に関する言葉を覚えたと思うんです。S字カーブだとかクランクだとか。
 前は聞こえない人は自動車の運転免許が取れなかったんです。免許を取れるようになったのは昭和47年ごろで、補聴器をつけてということでした。聞こえない人が運転免許を取れない時は、運転免許という手話はありましたけど、S字カーブとかクランクという手話は必要なかったわけです。

 手話の単語が少なかったのは、聞こえない人の暮らしの広がりが小さかったことを表しているんじゃないのかなと。 聞こえない人が聞こえない人の中だけで、他の聞こえる人との交流がないような時期には、言葉の数はそんなにいらなかったと思うんですね。

 それは今もありまして、私が妻のことを言う場合、「うちの嫁」とか「家内」とか「お母さん」とか、その場に応じて呼び方を変えますね。でも、聞こえない人は「奥さん」だけを使う人もとても多い。
 聞こえる人は、たとえば職場で上司と話していて、「家に帰って奥さんと相談してみます」とはあまり言いませんよね。ところが、聞こえない人はそういう時でも「奥さん」と言います。聞こえる者からみると、ええ年をした大人が外向けに言うなら「奥さん」とは言わずに「妻」とか言うのにと思うでしょうけど。「だから聞こえない人は常識が足りない」と言われることもあります。
 でも、聾学校に入って「奥さん」とか「お母さん」という言葉を教わると、小指を立てると「女」とか「妻」という意味で、これだけで聞こえない人は生活しているわけです。音でどう呼ぶかはあまり必要がないんです。

 最近は、聞こえない人が違う読み方をした場合には、その場で「こう読むんだよ」と伝えるほうが親切だ、それを伝えずにいると間違った読み方をずっとするからよくない、と言います。
 ずいぶん前に「北の湖」を「キタノコ」と言う人がいて、何のことを言ってるのかなとわからなかったことがあります。私たち自身も「湖」を「ウミ」と読むことはあまりないわけで、聞こえない人にとっては「キタノコ」と読もうと、「キタノウミ」と呼ぼうと、あの横綱と結びついたらそれでいいわけです。

 そういう誤解もいっぱいありますし、これまでの聞こえない人の世界の小ささもあって、誤解を生むようなところがあると思うんです。それでも、聞こえる人とのおつきあいも広がってきましたし、聞こえない人たちも高等教育を受けるようになってきましたのでこれからは、だんだんと変わっていくのかなと思っています。
 これくらいで終わります。ありがとうございました。

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(手話には二種類あると聞いたことがあるのですが))
 手話を「日本手話」と「日本語対応手話」とに分けて、聞こえない人が使うのは自然発生的な「日本手話」だと言う方もいます。でも、聾学校で教える「日本語対応手話」は「日本手話」と違うのかというと、そばで見てるとそんなに違うようにも思えないんですね。違うことを強調される人もいます。
 聾学校は教育の手段ですので多くは音声語が入れやすい表現を使っています。子どもが日本語を使えないといけないので、日本語が入りやすい指導の仕方をしていると思います。

(手話は見て覚えるのですか。どうやって聞こえない人と会話をしたらいいでしょうか)
 一年ぐらい手話を習ったら手話で会話ができます。聾学校に手話をまったく知らない先生が転任してくると、二、三ヵ月したら子どもたちと手話で会話しています。毎日、授業で手話をしないといけないので、手話サークルに行ったりして必死に勉強するわけです。手話も言葉ですから慣れていくしかないと思うんですよ。

 手話がわからなくても話をする方法は色々あります。聞こえない人と話をされる時に、手話ができないから話ができないとあきらめるのではなくて、字を書けば通用することも多いと思います。漢字を書かれると、聞こえる人は難しいかなと思って、ひらがなで書いたりすることが多いんですが、聞こえない人は読み方よりも、字の形だとか意味で覚えていることが多いです。
 たとえば、私が商売していて、日本語をしゃべれないお客さんが入ってくれば、売ろうとして一生懸命に説明するでしょう。それと同じです。ただ、どこまで通じているかは確認のしようがないので、相手に伝わったと思っても、違っているかもしれませんけ。でも、それは聞こえる者同士だってそうで、わかり合っているかどうかはわかりませんからね。

 聞こえない人にはたとえば「丁寧にしないといけないのでしょうか」という言い方はわかりにくいんです。「~してはいけないことはない」という言葉だと、手話では「ない」「ない」と「ない」が続いて、どっちなのというふうになってしまうので、「だめ」とか「いい」「かまわない」と表現することが多いんです。あまり丁寧に書くよりは短く書いてやりとりをする。その時に聞こえない人は手話をされるでしょうし、その中で覚えていったらいいと思うんですね。

 それと、聞こえない人は普段は聞こえる人の中で生活している人がほとんどです。ですから、聞こえない人が使う身ぶりとかジェスチャーは大体つかんでくれます。

 普段、手話をしている人には補聴器はほとんど役に立っていないと思います。両耳に補聴器をつけても、何か音がしているぐらいにしかわからないそうです。僕たちは生活の中で音を聞き分ける訓練をして大きくなっているじゃないですか。補聴器を使って音が入っても、それが意味と結びつかないという人もいるようです。

 私の妻は聞こえないんですけど、今、入院しています。最初、看護師さんはマスクをしたまま「今から熱を測ります」とか言ってたんです。でも、次に行った時に僕がメモ用紙を持っていて「お願いします」と置いていったら、「注射をします」とか「熱を測ります」というカードを作ってくださっていて、カードを見せてから熱を測っている。指文字を使う看護師さんがいてくださったり。
 手話ができる私がずっとそばにいたらコミュニケーションはもっとスムーズにいくかもしれませんが、看護師さんがカードを作ってくれることはなかったでしょうし、妻もいろいろと気をつかってもらって、という気持ちを持てなかったと思います。コミュニケーションがとれない中で、病院のスタッフが一生懸命考えてくださったので、私はとてもありがたかったなと思いました。

(手話は国によって違うということですが、聞こえない人が外国に行ったらどうやって意思の疎通を図るのでしょうか)
 聞こえない人は外国に行っても三日もあれば自由に話し合えると言われます。話をするのはたしかに聞こえる人よりは早いです。
 僕は聞こえない人たちと一緒にチェコに行ったことがあるんです。なんぼかは話が通じるんですが、「どこから来たんだ?」「日本から」という以上になってくると、聞こえない人同士が話しているのを「何?」と聞こえない人に通訳してもらうほうが多かったですね。
 感情を表す言葉は一つ一つ動作が違っていても、楽しい時の顔と悲しい時の顔はどこへ行ってもそんなには違わないわけですから、聞こえない人が通じ合えるのは早いかもしれません。

 ひがみ根性で言うと、日本での生活でも日ごろから十分には通じていないということがありますね。聞こえない人は聞こえる人に囲まれて生活しながら、そんなに通じているわけではない。ところが、聞こえる人はだいたい会話で通じるのに、外国に行ったら全く通じない。そういう感じと、普段から通じていない聞こえない人がよそへ行ったって同じことだから、通じたという感覚の度合いが聞こえない人と聞こえる人とでは違うのかなという思いもするんです。

(聞こえず見えない人はどうやってコミュニケーションするんでしょうか)
 もともと見えなくて聞こえなくなった方は指点字をします。指で点字を表す指点字。逆に、聞こえない人が見えなくなったら、触手話といいまして、手話をしている手を触ってコミュニケーションされることが多いようです。

(講演などで専門的な話を手話通訳するのは難しいのでしょうか)
 手話通訳者が話の内容をわかっていないと手話で表現できないです。もっとも、外国語の通訳の方は講演会があると事前に資料を請求されますが、手話通訳の場合はそこまではいっていません。手話通訳者ももっときびしさを持つ必要はあります。
 専門家同士の会話であれば、素人が通訳してもなんぼかは通じるかもしれませんけども、一般の人が聞きに来ていたら、専門的な話は通訳がいくらわかっていてもわからないのと同じで。

(障害者と健常者が一緒に勉強する統合教育についてどう思われますか)
 個人的には、基本は「一緒」がいいと思っています。でもろう学校では聞こえない人たち、手話をする人たちは自分たちの集団が作れるわけです。聞こえない人たちだけで集まれて、コミュニケーションができているという、自分たちの世界が作れるかなという気がしてるんです。

 聾学校には難聴の子も来ています。昔は、ちょっと聞こえたら聞こえる人たちと一緒のほうがいいというのがありました。でも、難聴の子どもは聞こえが悪いから、普通の学校だと自分だけ話に加われなかったりして孤立することがあるんですね。それで聾学校に来たほうが生き生きできるというので、聾学校に来る子もいます。
 先輩聾者の生き方を学ぶという意味での聾学校の良さもあるんですね。聞こえない人の文化みたいなものや、聞こえない人が誇りを持って生きていくことを学ぶ。

 統合教育を進めている国を見ても、聾学校だけは別にあったりします。たとえばスウェーデンでは統合教育がいいというので障害児学校をなくしたけれども、聾学校だけはまたできたんです。 
 統合教育にすべきだ、聾学校反対と言う人もいます。でも、本人や保護者が選ぶことができるのが大切でしょう。「来ちゃいけん」とか「これでないとダメだ」というようなやり方でなく、自分で選べることができるというのが大事だと思いますね。
(2009年2月27日に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)