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 木村 無相さん

               

『歎異抄を生きて』光雲社
              
『歎異抄を味わう』光雲社

  じかづけに

波がヒタヒタ
うちよせる
かわいた岸に
うちよせる
かわいた砂に
うちよせる

み名がヒタヒタ
うちよせる
かわいた心に
うちよせる
かわいた胸に
うちよせる

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ



  なつかしき

みんな死ぬる
人とおもえば
なつかしき



  雪がふる

雪がふる
雪がふる
雪がふるふる
雪がふる
煩悩無尽と
雪がふる

雪がふる
雪がふる
雪がふるふる
雪がふる
大悲無倦と
雪がふる



信者になったらおしまいだ
信者になれぬそのままで
ナンマンダブツ
ナンマンダブツ




親鸞の場合は「ハラを立てる、欲をおこす、ウソを言う」あらゆる「煩悩」を「悪」とも言うのですよ。言うというより、「悪」と感じるのですよ。感じずにおれんところに「悪」があり、その自分が「悪人」というわけですよ。



お手紙の「人はなんで生きるのやろ」、これについては、ギリギリのところでは、ムー(無相)にはわからんのですよ。ムーには本当は、生きてるから生きてるので、別に意味は考えられない、わからないというほかないんですよ。
たよりないことですが、花も草も虫も、ライオンも、皆、意味なしに、生きてるんでないでしょうか。
そして、死ぬとき、枯れるときが来たら、枯れ、死に―。まことにたよりない話ですが。



「お礼の言葉なし」、または「お詫びの言葉なし」「喜びの言葉なし」「悲しみの言葉なし」といった人間の言葉ではなんとも言いあらわしようのない時に、ムー(無相)の信仰の方では、「ナムアミダブツ」と言うのです。人間の言うに言えぬあらゆる感情を「ナムアミダブツ」と、こう声にするのです。



「生きている価値」といったことは、客観的に「これこれのことをしたら生きてる価値がある」というふうに決められるものであろうか。
ムー(無相)には、どうも、「生きてる価値」といったものは、至って、主観的なものではないかと、思われるんだけれどどうであろうか?
人間というものは、聖人君子でなく、普通の人間というものは、「自分のため」ということを度外視して、無視して、「人のため」ばかりを思って、生きられるものだろうか、ということであります。
私も、かつては、「自分のため」でなく、「人のため」ばかりを思い、「人のためばかりをしよう」と思って、努力したことでありました。
結局は、ムーとしては落第だったのです。
ムーは、「人のため」ばかりというような生き方は出来ず、「自分のため」が中心という生き方しか出来ない人間であると、つくづく思いしらされたのでありました。
普通の人間は、自分のため、といった自己中心的な生き方しか、普通には出来ないのではないだろうか。
たとえ、そうした生き方は、「生きる価値がない」という生き方にしても。
「生きてる価値」があってもなくても、こうでなければ生きられないのが、私の現実ですと、言わざるを得ないのが、私の生活の事実なのです。
「生きてる価値」を感じるような生き方の型が、一定して客観的にあるのではなく、「生きてる価値」とか「生きる意義」とか、「生きる価値」とかいったものは、「自分のため」という現実の生活の中で、自分が主観的に見出してゆくほかないものであると、ムーは言いたいのであります。



人間が価値的に生きるには、問題とか、苦悩が大切と思うことです。苦悩するところに「人間」がある―。
もちろん「楽」もあるが、「楽」は、喜んで受けて問題にしませんからねえ。
人間、生きてるだけで生きてる「価値」ありであるまいか。ギリギリのところでいえば。



浄土真宗というようなものは、あらゆる、勇ましい宗教のおちこぼれのための「宗教」といっていいのです。



私の心底は助かる身になってと願うておりました。
助かる身にはなれぬ、なれぬまんまお念仏申せとのおさとしと拝聴いたします。



仏法の話や、念仏の話をするような資格が全然ないオタガイであるというところが、オタガイ二人で、仏法の話をし、念仏の話をすることが出来る、まったくの無資格の資格だと思うことですよ、私は。



常に凡夫は「及第」の身としたがってならず、それを常に「落第」の身と知らしめてやまざる常否定の智慧こそ、信心の智慧といわれるものではないでしょうか。



手も足も出ないということですが、どう手を出そうと、どう足を出そうと、どっちにしても、もともと落第の身ですから、足を出しても出さなくても、手を出しても出さなくても、どっちにしても「落第」はかわりないことを知らせていただかねばならぬことかと思うことです。



世の中のことは、なるようにしかならぬが、また、なるようになってゆくものであります。



「これが信心だ!」と実体的にとらえようとすると、そんな「信心」は無く、ただ無信の身にお念仏があるだけで、ただ口に、声に、オームの如く、発音念仏があるだけのことでありました。そのほかに、実体的に「信心」をさがすから、「得られん得られん」といわなければならないのです。



七十七歳の今ごろになって、やっと、相撲でいえば「念仏往生」について、やっと、片目があいたかなという感がして、ありがたいことです。



仮面かぶっているので、皆さんよくしてくれるが、ほんとのことわかったら皆逃げ出すでしょう。来なくなるでしょう。しかたありません。
それは、正に「自業自得」ですから。
だから、ひとに自分と通じた性格がチラチラなりと見えると、ぞっとします。自分の本性見せられるようで。