真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

孤独からの入信

我いま帰する所なく 孤独にして同伴なし
と罪人が訴えながら無間地獄に堕ちていく場面が『往生要集』にあります。地獄とは訴えても、泣きわめいても、うめいても、何の甲斐もない所、すなわち孤独です。
人間は一人では生きていけません。どうしても頼るものを求め、仲間を必要とします。特に悩みごとを抱えて苦しんでいる時、それを聞いてくれる人がいたらどれほど楽になることでしょう。しかしそういう人はなかなかいません。ですから私の話を聞いてくれる人がいて、その人がこうしたらどうかと言ったら信じ込もうとします。

たとえばセールスマンは話し上手で聞き上手です。その人は単に商売のために愛想よく親切に話しかけてくれるし、話を聞いてくれるのでしょう。それはわかっているんですが、この人は真剣に私のことを考えてくれるんだからこんなによくしてくれるんだ、と思いたいものです。その人を信じている限り私は独りぼっちではないからです。それで私もこの人の好意に応えなければならないと思い、いらない物でもつい買ってしまいます。

この種のカモにされる人たちは、儲かるかもしれないという期待よりも、自分が好かれ、大事な人物だと思われているのだという思いに負けて騙されると言ってよい。詐欺師が獲物の顔に求めるものは愚かさではなく孤独な表情だった。(ケロウ・チェズニー『ヴィクトリア朝の下層社会』)

『万能川柳名作濃縮版』に、こんな川柳があります。
イタズラの電話に3日ぶり話す
パンクした時だけ彼女TELをくれ
からかわれたり利用されていることがわかっていても、電話をもらったことが嬉しいのです。私に声をかけてくれる人は他にいないのですから。誰でもいい、私の話を聞いてもらえるなら、受け入れてもらえるなら、何でもする、騙されてもかまわない。

そんな心を山村暮鳥は「いのり」という詩で書いています。
 
つりばりぞ そらよりたれつ
 まぼろしの こがねのうをら
 さみしさに
 さみしさに
 そのはりをのみ

釣られてしまうことがわかっていても、孤独に耐えきれずに釣り針を飲み込む魚とは、私のことです。ですから、詐欺にひっかかるのは欲が深いとか愚かということばかりではないのです。このように孤独から逃れるために新興宗教に入信する場合が多いと思います。

かつて折伏に精を出した僕がいうのもなんですが、入信してくるときには、男女を問わず、みんな非常に純粋なのです。世の中をよくしたい、幸せな世の中にしたい、そして自分も幸せになりたい、と思って入ってくるんですから純真でないはずがない。(井田真木子「池田大作 欲望と被虐の中で」)

また新興宗教に入信する人たちの多くは真面目で純粋な人だそうです。空しいことで毎日が過ぎていくのは嫌だ、世の中どこかおかしい、何とかしなくては。苦しむ人を助けたい。人生の目的は何か、何のために生きているのか。そのように自分の生き方にこだわり、悩むのです。

しかし世間の風潮は、いかに楽しく、いかに儲けるか、です。人間いかに生きるべきかを問うていくことは時代遅れなのでしょう。世間の流れとは違っていることを自分でも知っています。ですから自分の悩みを話したく思っても、なかなか相手が見つかりません。下手に話せば嫌われることもあります。少なくとも、面白くない奴だと思われるでしょう。孤立せざるを得ません。

おまけに人に受け入れてもらえない、仲間に入れない。それは見捨てられた、取り残されたという感情ですし、自分の傍らには誰もいないという無力感です。本当に人から信頼されたい、あるいは信頼できる人に遇いたい。こういう願いを持ちながらも、どうしたらいいのかわからない。

それに対して、自分を受け入れてくれる場を見出した、信頼するに足る指導者に出会えた、通じ合える仲間を見つけた、ということになれば孤独ではなくなります。

実際にオウムに飛び込んでみておどろいたのは、自分と同じような悩み苦しみをもった人がじつに多く、しかもそうした悩みを包み隠さずに話しあうことのできる人ばかりだったことだ。僕はそれまで自分のなかで抱えもってきた精神的な問題を、一気に放出するような感じで話した。誰にも話さなかったことを、自由に、しかもかなり深く掘り下げて話すことができ、僕はとても満たされる思いがした。(高橋英利『オウムからの帰還』)

だからこそ、私をわかってくれる人にやっと出会えたとか、仲間とともにいるんだということは大きな喜びです。これは帰ることができる家を見出したということです。
共に語り、心の底から笑えるつき合いを人は求めているにもかかわらず、それが得られないで孤独でいる。だからそうした場を新興宗教やヤマギシ会といったカルト集団に求めるのでしょう。そして仲間を見出し、その中に入れてもらえたら、自分の居場所ができて、とりあえずは安心できます。といっても、いつ仲間はずれにされるかもしれない、また独りぼっちになるかもしれないという不安は心の底に残ります。

誰からも相手にされない、仲間から追い出されてしまう、という状態になることは恐怖です。なぜなら人から受け入れてもらえず拒絶されるのは、ある意味では死と同じことです。このことはイジメを考えれば理解してもらえるでしょう。
そこから脱退してやめてしまうことは仲間を失い、居場所を失うことです。そうなると違う仲間を求めて再びさまようことになります。ですからなかなかやめることはできません。仮に何かおかしなところを見つけても、出たくないばかりに目をつぶってしまうこともあります。こうしてどんなことでもするようになるのでしょう。