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  浅田 正作さん「骨道を行く」
                                         1990年1月

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 ただいまご紹介いただきました浅田でございます。初めて名古屋へ出てまいりました。田舎もんでございます。どっちを向いてもわからんもんが、便利な時代でございまして、高速バスでやってまいりまして、そしてちゃんとこの座へ立たせていただくことができました。新年早々にこんな田舎もんの話をお聞きくださいますことを、本当に光栄に存じます。

 実はお招きをいただいた時も申し上げたことですけれど、全く人さまにお話しできるような器でもなく、とてもできませんと、ご辞退すればそれまでだったと思います。しかし、それでは今日まで大きなお育てをいただき、そしてなおかつ法衣までいただく身があまりにも無責任のように思われ、ほんとに田舎もんの愚痴極まりない話を、皆さんのお叱りを覚悟のうえでお受けしたようなわけでございます。

 今もご紹介の中にありましたように、石川県松任市の本誓寺という寺の役僧を勤めております。家は本誓寺から一キロほど離れた町はずれにあります。毎日本誓寺と家の間を行ったり来たりしています。

 本誓寺の住職は松本梶丸さんという先生です。私はいつも梶丸さん、梶丸さん、とお呼びしとるんです。私にはかけがえのない大事な先生です。本誓寺は松任周辺では一番大きな、そして歴史的にも古い寺であり、そういう寺に身を置いて一筋に、教え一筋に歩もうとすれば、そこにいろんな葛藤があり、ご苦労があります。私はそういう梶丸さんにひかれて、真実、教えに生きる厳しさを教えられてきました。家の者にも言うことでございますが、いい人に巡り遇えた、そのお陰でいい友だちがたくさんできた、ということをいつも私自身の喜びにしております。この席にもそうしたご縁でおいでくださった方もございます。ほんとに何よりの幸せでなかろうかと自分で思っています。


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 「骨道を行く」という
講題ですが、一昨年(一九八八年)の暮れに京都の法蔵館から念仏詩集『骨道を行く』を、梶丸さんのお力によって出版させていただきました。この詩集の題名を今日は講題にさせていただいたんです。

 この骨道という言葉は宮城顗先生、この詩集の序文を書いていただきました先生から教えていただいた言葉です。これは先生がご自身の厳しい求道生活の中で、『法顕伝』という中国の僧侶の伝記を読まれて出遇われた言葉であると承っております。私たちに先立って念仏道を歩んでいかれたたくさんの先達の足跡を、この骨道という言葉が表現しとるように思われるんです。

 親鸞聖人が、「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり。」と仰せられて、賀古の教信沙弥をお手本にされたと
改邪鈔』にあります。そういうことなどが思いあわされるんでございます。

 法顕という人は今から千六百年ほど前の方です。孫悟空の『西遊記』に出てくる玄奘三蔵法師よりも三百年前に、前後十六年かかってインドへ経典を取りに行って来られた方です。シルクロードを通って行かれたわけです。シルクロードは今はもうすっかり観光化されているそうですけども、当時は道なき道を自分の身体だけ、足だけが頼りだったと、『法顕伝』という本に書いてあります。

 「上に飛鳥なく、下に走獣なし」。つまり、行けども行けども砂漠で砂ばかり。空を飛ぶ鳥も、地上を走る獣もいない。いくら見まわしても何の生き物の影も見えん。そういう所でわずかに太陽を見て方角を知り、「唯、死人の枯骨を以って、標識と為すのみ」。目印になるものはなく、ただ死人の古びた骨を道しるべとするだけだ。この言葉で宮城先生は日頃いだいておられた骨道という言葉に出遇われたと話してくださったんです。

 私自身、今日までのお育ての中で、こんな砂漠の旅ではなかったけれども、私に先立っていろんな業苦や逆境の中で、それを大きな機縁として人間としてのまことを呼び覚まされた、そんな人びとの血と涙の歩みに、どれだけこの我が身を恥じ、励まされ、力づけられてきたことか知れません。その大きな導きをいただいた歩みを骨道という言葉で表現したわけでございます。

 もともと私は何にも聞く気もない人間でございました。それを聞く身にさせていただいたということは不思議というほかございません。そこに真実の教えがあり、その教えを伝承してくださったたくさんの先達の歩みが、私には骨道という言葉でいただけるわけでございます。


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 私にとって忘れられないのは、何にも聞く気のなかった私に聞法の手引きをしてくれた養父のことです。私は浅田の家に養子に入ったのでございます。私の養父は亡くなって二十年経ちます。九十才の天寿を全うして亡くなったんですけど、本当に人並みはずれた宿業の身を生きた人でした。

「お前にはお前ではなくてはならん任務がある」
という言葉が私の養父の座右の言葉でした。小柄な女のような体つきの人でした。男に生まれながら、年頃になっても一人前の男になれなかったんです。そのことで悩み、何度も自殺を考えたそうです。その果てにこの言葉に出会った。それを転機にして自殺を思いとどまったと、よく話してくれました。

 不幸な結婚で離縁して親元にいた人を嫁さんにもらって、自分の生家を継いだわけです。子供の生まれるはずもなく、妹の子供を養子にして育てたわけです。とても学校の成績もよく、スポーツも万能だったそうです。成長を楽しみにしていたらしいんです。それが昔の旧制中学の、今も全国の高校相撲大会が金沢でありますが、その前身の中学相撲大会に主将として出て、相手を死なせる事故を起こしたわけです。それがショックで、かりそめの病気になって、あっけなく死んでしまったんです。

 「わしは我が折れた。欲も得もないようになった」ということをよく言ってました。もうどうなってもいいと思うたけども、養子に来てくれる人があって、そして私の家内を嫁にもらったというんです。

 なんかどうなってもいいけれんどもろうた、というと無責任のように聞こえますけれども、「お前にはお前ではなくてはならん任務がある」。ただその言葉に従ったわけです。自分はどうなってもいいんだ、自分には自分でなくてはならん任務がある。

 私は養父にとっては三度目の、それも晩年になってからの養子です。家内に女の子が一人おったこともあり、私は結婚した明くる日から、養父は「父ちゃん、父ちゃん」と呼んでました。

 いつも言うことが、「あれが死んでくれたからこそ、二度目の養子に来てくれた人も死んでくれたからこそ、父ちゃんに来てもらえたんや」と言うんです。思えば養父の生涯も、私の先に養子に入った二人の人たちも、それから養父の連れ合いになった人の悲しみも、この私一人に仏法を聞かせるためやった、そのための骨道やったなあ、ということが思われるんです。

けど、そのころは変わったこと言う人やなあ、というようなことで、その心を測りかねておりました。


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 戦争で人生を狂わせたのは私一人ではございません。お恥ずかしい愚痴話になりますけども、私がソ連に抑留されて帰ってきたのは昭和二十三年でした。復員して帰ってきても、自分の家になるはずだった家に都会に出とった兄貴が帰ってきて、要するに私はうちにはいらん者になっとったんです。

 私は農家の四男に生まれたんです。家は地主から借りた田んぼで米作って、それで生活を立てとったわけです。けれども、働いても、働いても次々と子供ができました。私にはたくさん兄弟がいます。それで両親はいつも借金に追われ続ける貧しさでした。一番上の兄貴も小学校を出るとすぐ京都に年季奉公へ出て、その給料を盆暮れの借金の返済にするために送っていたんです。で、私の兄弟は上から順番に義務教育さえすめば、みな兄にならって都会に職を求めて出ていきました。とてもこんな百姓しとってもどうにもならんということです。私は病気ばっかりしておりましたんで取り残されたんです。そして両親のそばで農業をやっとったお陰で、どうかこうか成人できたような始末です。そういう者も兵隊にとられるような時勢だったわけです。

 農家の跡取りとして働き手だったわけですが、兵隊にとられたもんで、両親にすれば帰ってくるかこんかわからんし、自分ら年いったし、農業をやめて兄貴の所へ行くか、兄貴に来てもろうて田んぼしてもらうか、ということだったんです。まだ空襲は始まってなかったけども、不安定な時代になりつつあった時に、帰った方がよかろう、食べるものもあるしということで、兄貴が帰っておったんです。

 それは復員する前に承知しとったんです。だけども私にとってショックだったのは、私の将来について一番心配もし、力にもなってくれると思っておった父が、帰ってきた時にはいなかったんです。私を迎えてくれる人の中に父の姿が見えず、その死を知らされた時は呆然となりました。白骨となった父と対面した時には、ただ悔しくて、悔しくて、ほんとに苦労し続けで、貧しさに追われ続けて、息つく暇もなく死んでしまった父が悔しくて。日焼けして真っ黒になって、目と歯だけが光ってました。そんな父でした。その顔が今でもまぶたから消えないんです。働き続けてあっけなく死んだ父の一生は一体何やったのか。そういうことを白骨の前で悔しさに涙に濡れながら、それにつけて自分は父のような惨めな一生は送りたくないということを思ったんです。

 浅はかでした。何と親不孝な愚か者だったかと思います。豊かさの中で驕りたかぶった生活よりも、貧しさを引き受けて懸命に生きた父の生涯がどれだけ尊いものだったかということも考えられなかった心の貧しさが、白骨となった父へ、ご苦労をかけましたの一言のお礼も言えなかった自分が、今でも悔やまれます。

 それで兄の家で、農作業に慣れん兄の手伝いをもしていたんですけれども、年老いた母に心配もかけられず、自分の将来を一人で思い悩んでおった私に、縁談がきたわけです。当時、私の家内は農繁期を前にして、年老いた養父と三つになる女の子、この子は今、二人の息子をもって私と一緒に暮らしておりますけれども、それだけのものを抱えて働き手を探していたわけです。

 私も結婚するについてはいろんな夢や希望もありましたけれども、あの当時はまだ食糧や物資もなく、そういう贅沢の言える時ではございません。そして農業より他に知らん自分にとって、やっぱり農業をやっていけるということで、心に染まん再婚の相手との結婚に踏み切ったわけです。それができたのも養父となった人が、この人なら安心してものが言える、頼れる人やなあ、と感じたからです。この人と暮らしている嫁さんなら間違いもなかろうと思ったんです。しかし家内とは一月たたんうちに自分のそれが希望的観測に過ぎなかったということがわかったんです。それでもまだ甘いことを考えておりました。愛情さえあればいつかはきっと家内と幸せな日が来ると思っておったんです。


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 そんなことで自分の新しい生活が始まったんです。けれども浅田の家は専業農家として自立するには経営面積が足りなかったんです。それで私は麦や菜種などの水田二毛作をはじめ、野菜作りや畜産、乳牛などいろんなことをやりました。それが失敗をすればもちろんですが、うまくいっても豊作貧乏です。来る年も、来る年も、借金が増えるばっかりなんです。で、どうにもならんようになって、現金収入を求めて鋳物工場の工員になったんです。四十過ぎてからふりだしに戻ったんです。

 現場では若い見習い工やアルバイトの学生に混じり、単純で激しい肉体労働の毎日であり、得られる収入はそのころの最低賃金です。友だちにはすでに会社の社長や重役だったり、学校の校長目前の人もいました。市会議員や市役所の特別管理職など、それぞれに社会的に責任のある地位についている人もいるんです。情けなくて同窓会にも行けなかった。

 そんな私が一日の仕事に疲れて惨めな思いで帰っても、家内にはそれが当たり前のことです。その家庭のさびしさ、何がなくても暖かい家庭が欲しいという、小さな願いも夢のまた夢でした。なんで肩身の狭い養子なんかになってしもうたんやろ。そういうことが悔やまれました。なんでこんなことになったんかなあ。泣くに泣けん日が続きました。

 思い通りにならんのがこの娑婆と言います。私はそれまでどうにもならんいろんな愚痴や恨み、腹立ちをいつも養父にぶつけていました。本当に申し訳ないことをしておりました。誰よりも安心してものが言えたんです。家内だ
ったら、逆にあれがまずかった、これが悪かったで、結局愚痴られて二人で喧嘩するのが落ちです。それよりもそういう愚痴や恨みを言うと、決まって帰ってくる言葉が、
「父ちゃん、思い通りにならんのが娑婆や、このボンのくび(方言・くび根っこ)はどこ行っても離れん」
と言うんです。宿業と言うんですね。取り付く島がないんですね、こういう言葉を言われても。

 でも、私のやったこと、してきたことに、あれがよかった、これが悪かった、ということは、ただの一言も言ったことはありません。そういうところからものを見ていなかったんです。そして私の苦しみを受け取ってくれたんです。そして落ち込んどる私に、ぽつぽつと自分のたどってきた厳しい人生と、そしてこの教えに遇えた喜びを話してくれたんです。その言葉の重さでようやく自分を支えておりました。

 それもしかし、それまででした。自分の一生はいくら頑張ってもこんな惨めなもんやったんかと思うと、父の白骨の前に誓ったことの破れた無念さで、もうめちゃめちゃになったんです。


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 『一念多念文意』というお聖教の中で親鸞聖人は、
「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして…」
と言われます。その「いかり、はらだち、そねみ、ねたみ」がもろに出てきたんです、私の中から。そのために自分もずたずたに傷つきました。養父や家内にも本当に迷惑をかけたんです。地獄でした。このまま生きとっても、死んでも、救われんのです。

 いろんな地獄がございましょう。試験地獄も地獄でしょう。交通地獄も地獄でしょう。私にとって地獄とは、我が身の無明、煩悩からもろに出てくる「いかり、はらだち、そねみ、ねたみ」の妄念の炎にこの身を焼かれ、永劫に救われようのない業苦に七転八倒する、そのことでした。

 私は地獄の業苦の中で、養父に向かってひょっと、
「息子が死んで自分が助かって、そんでええんか」
という言葉が飛び出したんです。それまでは言うてはならんことやと思うてました。これ言うたらなんぼの養父でも傷つくやろ。言うてはならんと思うてました。もうそういう分別もなくなったというよりも、口から飛び出た言葉です。そしたらすかさず答えてくれました。
「あれは死んどらん」
と言うんです。
「このわしのここ(胸)に今も生きとる」
 はっきりそう言いました。

 その言葉にはっと胸つかれました。ああ、この人はこんな深い悲しみの中で生きとったんか、いうことに初めて気がつきました。自分は今までこんな悲しい人によくもいろんなことを、愚痴や恨みを言うてきたなあ、と。

 目から鱗が落ちたという言葉がありますが、世界がひっくり返りました。これでよかったんや、と思ったんです。思い通りにひとつもならなかったのも、このことひとつ気づくためだったと。今までの地獄の苦しみがあとかたもなく消えたんです。解放された安らかさと押し寄せる感動に大声をあげて泣きました。

 『骨道を行く』に、

   〈人に遇う〉

  みんなこわれた
  なんにもならなかった
  だが 私の先に
  そのことを喜びとして
  歩いてゆく人がいた

という詩があるんです。説明いらんと思いますけれど、そこで私は初めて、私と同じ悲しみを私に先立って歩いとった養父に出遇うたんです。それまでの養父は私にとっていくら安心してものが言え、いくら頼りになる人であっても、私は私、養父は養父でした。それが初めてその垣根が取れたんです。そして今まで周りの人に関わってきた自分の身勝手な生きざまが思い知らされました。「自己を知れ」ということをよく言ってました。そういう言葉から養父の平生聞かしてくれとったいろんな仏法の言葉が一つ一つうなずけていけたんです。


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 本当にお恥ずかしい愚痴話を申し上げました。皆さんの中にはもっともっと厳しい人生を歩んでおられる方もおありだろうと思います。そうでなくても、今までの人生を何の苦もなく楽々と生きてこられた方はなかろうと思います。

 仏さまの教えの中に一切皆苦という言葉があるんです。仏教には四法印といいまして、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静、この四つが仏教の旗印です。その中の一切皆苦ということは、要するに我々は逃れようのない苦の中にある、一切が苦だ、ということを言っとるわけです。そこから私は逃げることばっかり考えていたように思うんです。

 経済的なゆとりができれば、あれもしたい、これもしたい、ということでがむしゃらに生きとったわけです。しかしいくら豊かになってもやっぱり苦だったんです。現在の豊かな恵まれた時代の中にあって、やっぱり皆さん一人一人「おかげさま」と言える世界が見つかればともかくも、そうじゃないかぎり何もかもが苦です。だから、早めに追いつめられて逃げ場なしになってよかったなあと、今、思います。

 誰もがその逃げ場のない世界を歩んでいる仲間でした。私が戦争にかり出されたために再び会うことのできなかった父も、私の先を歩んでいたんでした。私も何を恐れようか。もうこの逃げも隠れもできん一筋道を、一本道を力の限り歩もうと、決着がついたんです。

 だがこれは私がそういう人間に生まれ変わったということではございません。私のような者がどんな決着をつけようと、どんな立派なことを思い立とうと、そんなもんが末通るわけがないんです。もしそんなに簡単に人間が生まれ変われるようだったら、仏さまの本願も名号も、教えを聞く必要もなく、私がよき師、よき友に恵まれるということもなかったと思われます。

 骨道という言葉の意味をお聞き取りいただけたかと思いますが、大体そういうことをお話ししたかったわけです。


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 それで私は私の迷いの深さを思い知らされたことから、教えが聞きたいという要求に突き動かされておりました。そして養父が深く帰依していた先生の教えを聞くようになったんですが、まもなくその先生が喉頭ガンが悪化して亡くなられて、がっかりしたんです。どこへ行けばいいかわからんのです。どこへ行ってでも聞こうという気にはなれんのです。これも養父の影響を受けたんだと思います。

 とにかくいい先生を求めとったんですけど、どんな先生がいいかわかるはずがないんです。で、たまたま今ご厄介になっとる松任の本誓寺で「歎異抄の会」があるから行って聞いてみんかと言われたもんで、ほんなら行ってみるかというくらいのつもりで行ったんです。それが梶丸さんとのご縁の始まりでした。

 そのころは梶丸さんも私たちと一緒に聞法されておりました。まだ法話に立たれるということはございませんでした。その会で『歎異抄』の話の講師をされた方は梶丸さんの従兄で出雲路暁寂という先生です。本当に素晴らしい法話でした。その素晴らしさに酔うたようになっとったんです。そして一月に一回の聞法会に通うのが、それだけが生きがいといいますか、楽しみといいますか、そういうことでおったんです。

 けれども、そのうちに聞法をしとる自分と現実の自分との隔たりがやりきれんようになってきたんです。皆さんもそういうご経験はございませんでしょうか。聞法しとる時の喜びと、現実の生活の中の苦しみが矛盾するんです。そしてあの躍り上がるような感動がだんだん薄れて、そして状況は全く変わらんのです。

 他の宗教やったら、金もうかったとか、幸せがまいこんだとか言います。私が聞法するようになっても当たり前のことですけれども、会社へ行けばやっぱり下っ端で、ろくな給料もらえんのです。世間的にはやっぱり子持ちの女と結婚した肩身の狭い養子です。そして、なんもかもこんでよかった、とひっくり返って決着のついたはずの世界が元の木阿弥になりました。

 そんなら、もうやめた、仏法聞くのやめた、言えるかというと、仏法やめてどこも行くとこないんです。やっぱり仏法やめたら生きても死んでもいけんのです。本当に私にとって新しい苦しみが増えたんです。


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 この本ができた時に、去年(1989年)の2月ごろでしたか、聞法友だちが出版記念の祝賀会を金沢で催してくれました。その時に、その当時の私を知っとる人がお祝いの言葉の中で言いました。
「浅田はネクラもネクラ、真っ黒けのネクラやった。いつも暗い顔しておりよった」

 その通りやったと思うんです。聞かしてもらえば原因はすべて自分にあるんです。思うようにならんのは生きとる証拠なんです。出てくる「いかり、はらだち、そねみ、ねたみ」も、今までは向こう先見ずに養父にぶつけとればよかったんです。それもできんのです。自分のあきらめの悪さ、執念深さをもてあましとりました。

 聞法の歩みというのは、行ったり戻ったり、らせんを描いて進んでいくんやと、皆さんも聞かれとると思いますが、私のはそんなにはなりませんでした。らせんを描いて地獄へ、地獄へ堕ちていく自分がいつも感じられるんです。

 それで私は何しとったかというと、暇さえありゃ何か書いとったんです。この指にたこができとります。今日まで鉛筆離した日はございません。教えられたこと、気づいたこと、これまでの自分の歩みを確かめてみたかったんです。

 小学校も病気ばっかりしとって満足に出ていないんですから、初めのうちは何を書いたか、後から読んで自分でもわからなかったです。やっとる間に文の作り方を覚えたようなもんです。

 この詩集のあとがきにもちょっと書きましたけれど、そのうちに梶丸さんが毎月出される聞法会の案内状に書かれている八木重吉や山村暮鳥というような詩人の詩に刺激されて、詩作のまねごとを始めました。お恥ずかしいことですけれども、それも初めは書いては破り、書いては破りでした。心に残り、自分もほっと心に納得できるといいますか、本当にこのとおりやと思えるような詩はたまにしかできませんでした。とにかく鉛筆持って紙にむこうとるか、仏法の本読むか、そんなところへ閉じこもっとるよりほかなかったんです。

 この詩集に、

   〈悲痛〉
  
  ひとつになれない
  私が 分裂している
  この悲痛が
  私を歩ませている

という詩がございます。要するに、どうしようもない身の事実を知りながら、その事実が引き受けられないんです。その苦しさを書くことによって慰めてました。

 もし梶丸さんという人に出遇えなかったら、私はどんな仏法の受け止め方をしとったかわかりません。聴聞すると、なるほどそうやったと気づかされ、うなずかしめられる。それが大きな救いであり、その聞法の喜びがこの生きにくい世の中を生きていく大きな力になるんですけれども、同時にそれが我が身の悲嘆を忘れる大きな落とし穴でもあるわけです。


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 聞き難い教えに遇いえた喜びが、皮肉にもまた自分の方向を誤らせるんです。自分の聴聞してきた教えに間違いはないという思いが、知らず知らずのうちに「ものしりがお」に、さも自分が正義の味方みたいな顔をしてはばからんようになるんです。

 私はやがていろんな社会問題に、これは聴聞したおかげなんでしょう、興味を持つようになりました。特に教育問題、そしてその時分に燃え上がった本山問題、それから再軍備とか、改憲論争とか、そういうことのとてもやかましい時でした。地元の北国新聞の投書欄に名前が知られるほど、書いて書いて書きまくりました。本当に今思うと恥ずかしいことしとったと思うんです。「からまわり」という詩があるんです。

  私の願いは なんだったのか
  フッと 気がついたら
  こんな私にかけられた
  大きな願いに
  立ちあがっていたはずの私が
  からまわりしていた

 自分のいただいた教えに間違いはないという思いが、このどうしようもない自分までも善しとしてしまうんです。そして他を批判するわけです。今でもそれをやります。ほんとに怖いことです。

 新聞投書しとると、そういう自分が見えてきて、見えてきて、どうしようものうて、いつの間にやらやめてしまいました。

 梶丸さんがいつも言われます。法話に行って一番怖いのはいつの間にか人に聞かそうとする姿勢になることだ、と言うんです。自分が聞く身ということを忘れて、人に聞かそうとするほど傲慢なことはない。仏法に証しされた罪悪深重、煩悩熾盛の自分を語ればいいんだ、といつも言われます。


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 梶丸さんは年に四回ほど「一本道」という本誓寺の寺報を出されます。その中に梶丸さんの主張らしいものは一言もございません。みんな自分が出遇われた、いただかれた人の言葉です。それを物足りなく、梶丸さんの言葉を書くべきだと言う人もあります。けれども私はそういう梶丸さんが好きです。いつも聞く身に立っておられるんです。

 どんだけ深い学問がある人か、確かな信心をいただいた人かは、どなたのお話を聞いても私にはわかりません。だからたとえ大学教授であろうと、宗門の高い地位にある立派な人であろうと、私の場合、先生を選ぶ基準にはなりません。

 人は梶丸さんを親切ないい人や、わかりやすい話してくれる先生や、とか言います。その通りですけれども、そんな理解では、自分はあの方の真似もできん、大体あの方は自分とは違うんだと、せっかくのご縁なのに自分から梶丸さんとの間に距離をおいてしまうわけです。そして時にはその理解がはずれたら、梶丸さんもちょっとおかしいんでないか、ということになるわけです。

 梶丸さんも病気されたり、子供さんのことなど、心配事もあり、いろいろ問題を持っておられます。だが先生と仰ぐ人をちゃんと持っておられます。私は梶丸さんを通してその先生の教えを受け取るんです。その先生にも先生がおられます。それは、ずうっとさかのぼっていけば、蓮如上人に到り、親鸞聖人に到り、さらになお七高僧をたどって釈尊、阿弥陀如来に到りつくわけです。

 つまり弥陀如来の本願成就によって回向された名号、すなわちお念仏の教えに今、私が煩悩具足の凡夫と証しされとるんです。その浄土真宗の伝承の歴史を私はどこで実感できるかと言いますと、養父や梶丸さんなくしては今日の私はないという事実からです。

 梶丸さんがいつも言われることですが、真宗の教えというものは必ず人を通して、よき人を通して、教えられた人から教えられて育っていくものだと言われます。その浄土真宗の伝承の歴史を七人の高僧方をあげて、初めて明らかにされたのが親鸞聖人だと教えていただきました。

「誰のおかげでこの身になれた、ご開山さま蓮如さま、次第相承の善知識、御恩尊い南無阿弥陀仏」

 これは松任市から少し離れた小松市の山奥の名もない、自分の名前も書けない森ひなというおばあさんの言葉ですけども、そこに浄土真宗の伝承の歴史を我が身に受けておればこそ、こんな言葉も出てくると思われます。

 この名古屋も尾張門徒と言われて、浄土真宗にご縁の深い土地柄とうかがっております。私のいる北陸地方も昔から真宗王国と言われて、お念仏が土の中に染みこんどると言われてきたんです。金沢の市内に入れば他宗派のお寺はあります。そやけど一歩農村部へ出れば、小さな町、小さな村、どこへ行きましても、全部と言っていいくらい浄土真宗のお寺でございます。

 このお念仏が土の中まで染みこんどると言われてきたことが、近頃になってやっとただ事でなかったなあと思われるんです。


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 ずいぶん前のことですけれども、木村無相さんが本誓寺へ来られて、いろいろお話をうかがいました。その時に木村無相さんが
「あんたたちはいい所に住んどられるね」
ということを言われました。
「私なんかこのお念仏に出遇うまでどれだけ尋ね歩いたことか」

 そういう言葉を聞きながら、私はその時分はその言葉がまだうなずけてなかったです。真宗王国とは名ばかり。それよりも無相さんみたいに、どこにおってもご縁のある人はあるし、ない人はないんや。仏法を葬式や法事の道具にしとる。こんなとこのどこがいいんや。それぐらいにしか思えなかったんです。

 しかし、そうではございませんでした。もし私のような者が真宗のご縁のない所で絶望しとったら、無相さんのようになれるはずもないんです。お念仏が染みこんどる北陸の大地に生まれ育てられてきたからこそと、今は思われるんです。

 世の中がだいぶん移り変わりまして、私の住んどる所でも、仏法のお座というのがわずかに昔の名残をとどめとるだけです。私の子供の頃は農閑期にもなれば、あちらの村、こちらの在所からお座を告げる太鼓の音が聞こえたものです。そしてどんな貧しい家でも、いい悪いは別として、大きな仏壇があり、家の中の戸障子を外すと、近所の人が集まって法座の開かれる間取りになっとりました。お寺だけでなく、一般の家が仏法聴聞の道場だったんです。今の新しい家はそんなことはできません。ドアとか壁で一部屋一部屋区切ってしもうて、一軒の家の中でも家族のつながりが拒まれとるようなことが感じられます。

 私の両親なども早くから仏法聴聞に足を運んでいました。冬の夜なんか近所の人を呼んで、いろりを囲んでお聴聞していました。しかし、そんな中で育ちながら、私は母が口癖のように称えるお念仏と、貧しさゆえに口をついて出たんでしょう、「苦の娑婆じゃ」、その言葉を聞くのが本当にいやでした。また言う、と。あんなこと言うとって生きとる楽しみあるんやろか。そう腹ん中で反発していました。「わかきとき、仏法はたしなめ」と蓮如さんが仰せられます。本当にその通りだと思いますけれども、私はそんな真似もできんのでした。

 だからこそ余計に浄土真宗の土地柄に生まれてよかったと思われるんです。聞きとうのうても聞こえてくるんです。たしなむ心がのうても仏法が染みこんでくるんです。正直言うて、私は仏法があんまり好きじゃなかったんです。「苦の娑婆じゃ、当てにならん娑婆じゃ」。こんな言葉が好きな人がおるでしょうか。「何がいいやら悪いやらおまかせじゃ」。こんな言葉を抵抗なく聞ける人がいるでしょうか。

 こんな言葉がいつもどこかから聞こえてくるのが、真実の教えに培われている所の、お念仏が土の中に染みこんどる所の精神的風土だったと思われるんです。

 こういう言葉が聞こえなくなりましたね。豊かさゆえのためでしょうか。そして何でも自分の思いのままになるように思うて、人さまの迷惑も平気な人が増えとるように思うんです。どこ行っても立派な学校がたくさんできたんですが、人間にとって一番大事な「自己とは何ぞや」という根本問題が日本の教育の中から見失われておるんではないでしょうか。その結果、個人の権利とか自由ばっかりが強調されて、日本人の精神的な荒廃が進んどるように思うんです。民主主義が悪いとは思われません。個人の権利や自由も大事だと思います。しかしそれだったらなおさらのこと、人間というものを見通した、明らかに見極めたお念仏の教えを大事にせんならんのでないかと思うんです。

 それが真宗大谷派の同朋会運動であったろうと思うんです。私も金沢教区のたすきをかけて本山まで何べんも行ったんですが、今振り返ってみると、私はどこに親鸞聖人を拝んどったんやろうかと思われます。

 遠い七百何十年前の親鸞聖人をたずねることも大事だと思います。立派な先生方のお話を、教えをいただくことも大事だと思います。しかし私は大事なことを見落としていたように思うんです。それはわずか二、三十年前までは、私たちの親やじいさん、ばあさんが生きとった時、その申すお念仏の中に親鸞聖人が生きとられたと思うんです。どこ行ってもお念仏聞こえとったんです。それが同朋会運動をやりながらお念仏が聞こえんようなったんです。同朋会運動でのうて、宗門の民主化運動やっとったんでないかということをひそかに思うわけです。

 去年の本山の報恩講にお参りになった人が言ってました。もうあれは報恩講さんじゃない、観光やお祭りや、どこへ行ってもお念仏の声はせん、がさがさ、がさがさと弁当食べる音や菓子箱開く音やら、わやわや、やかましいだけや、あのお御堂の格天井にわーんと響いとったお念仏はどこへ行ったんやろか。そういうことをその人は言ってました。

 私たちはもう一ぺん私たちの親やじいさん、ばあさんの言うとったことを聞き直さんならんのじゃないかな。繰り返すようですけれども、「苦の娑婆じゃ、なるようにしかならんのじゃ、おまかせじゃ」。そう言いながらお念仏しとりました。こんな言葉、美しい言葉でも、人を感心させる言葉でもございません。意気地のない人間の泣き言のようにも聞こえますが、厳しい封建時代を宿業のままに生きるよりほかなかった民衆が、聞法の喜びの中で大悲を仰ぎ、冷めた目で人間を見すえてきた言葉だと思います。

 私たちに先立って骨道を歩んでいった、名もない人びとによって語り継がれた素朴な言葉の中にこそ、「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」と仰せられた親鸞聖人が生きておられたと思うんです。

 これまでの自分を振り返ると、間違いだらけでした。北陸の大地に生まれたおかげで、その風土の中に育てられてきたおかげで、その間違いに気づかされていただきながら、これからも歩みたいと思っています。


  13

 近ごろ私はテレビでいろんな魚とか鳥とか牛とか、ああいう生き物がいっぺんにたくさん生まれたり、群をなして生きておるのを見ると、あの物言わん生き物は自分で望んで魚や虫なんかに生まれたんやろかということを思うんです。それは人間も同じですけれども。

 こないだ聞いたんですけど、日本人が一生の間に平均して三十二頭の牛を食べる計算になるそうです。牛だけでそうだとすれば、豚もニワトリも魚も米も野菜も、みんな人間の食料になるものは、全部いのちのあるもんです。その生き物を殺して食べていかねば生きていけない我々でございます。

 私たちが人間に生まれてきて他の生き物と違う一番かなめは、他の動物にない仏法を聞き分ける耳をいただいてきたことだと教えていただきました。そして親鸞聖人は、
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ。」
と、『歎異抄』の十五章に述べられてあります。さとりを開くとは仏さまの位につくことです。すなわち私たちは来生において仏さまになる身として今尊い供養を受けているんだということを思うんです。しかし私たちはそんな尊い供養を受けるような生きざまをしとるやろうか、と思うんです。

 この詩集に「只もらい」という詩を載せてあります。

  魚買うた リンゴ買うた
  その金
  自分の仲間の人間に
  払ったが
  魚に リンゴに
  金払った人間は誰もいない

 私たちは他の生き物から只もらいしとるんです。ご供養を受けとるんです。

 仏の十号といって、仏さまは十の呼び名を持っておられます。その中には応供という名前があるんです。供養を受けられるもの、という意味です。供養を受ける値のない自分が尊い供養を受けとることが空恐ろしい気がします。

 本願寺に上山奉仕に行かれた方はご存じでしょう。食事の時に言う言葉があります。
「み光のもと われ今さいわいに この浄き食をうく いただきます」
「われ今 この浄き食を終わりて 心ゆたかに力身にみつ ごちそうさまでした」

 私は一年間、専修学院におったんですが、毎日三度の食事の時にこの言葉を言うのが一番こたえました。これ言うたんびに頭をどつかれるような思いでした。身勝手なもんで、腹の空いた時やうまいもんのある時には、「いただきます」や「ごちそうさま」も出ますが。

 こんな思いは理屈では説明できんと思うんですけれど、私は長い間、本当に長い間、どこをどう迷うていたかわかりませんが、本当に深い迷いの中を迷いに迷い、迷い続けて、たまたま今、今生において人間に生まれてきたように思うんです。

「おばあさん、いくつになった」
と聞かれて、
「わしゃ阿弥陀さんと同い年やわい」
と言うたおばあさんがおられたそうですけども、私もそんなような気がするんです。ただ阿弥陀さんと違うところは、阿弥陀さんはさとりの世界から呼び続けでございました。私は迷いの世界に迷い続けとったんでございます。

 私たちはある時生まれ、ある時死んでいく、ただそんだけのいのちではない、無量寿のいのちをいただいておる、いろんな聖教からそういうことを教えていただいとるんですけれども、ややもすれば私の根性の中に、生きとる間だけ楽しければそれでいんでないか、そういう気持ちがちらちらと動きます。自分に対して本当に無責任なことだなあと恥ずかしい思いです。

 『唯信鈔』の一番しまいにある言葉ですけれど、私はいつもいただいとるんです。
「今生ゆめのうちのちぎりをしるべとして、来世さとりのまえの縁をむすばんとなり。われおくれば人にみちびかれ、われさきだたば人をみちびかん。生生に善友となりて、たがいに仏道を修せしめ、世世に知識として、ともに迷執をたたん。」

 「今生ゆめのうちのちぎり」。梶丸さんのお母さんは夢子というお名前でした。梶丸さんは亡くなったお母さんにこの『唯信鈔』の文から法名をとられ、今生院釈尼幼夢という院号法名を送られました。お母さんへの深い追慕の気持ちがこもっていると思うんです。

 過ぎ去ってしまえば何もかもが、太閤秀吉ならずとも「夢のまた夢」でございます。この夢のうちの出遇いを手がかりとして「来生さとりのまえの縁」を結べよ、ということを教えてくださっているんだと思います。そういうことを呼びかけられているんだと思います。

 今晩はその尊い夢の中のご縁を本当にありがとうございました。今後ともよき先生、よき友として皆さんのお導きをお願いして終わらせていただきます。ありがとうございました。

(1990(平成2)年1月に名古屋別院で行われた人生講座でのお話をまとめたものです)