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  古谷 智さん「仏法を日々の暮らしの中に」
2016年8月4日

  1

 みなさん、こんにちは。私の名前は「ふるや」と言われることが多いですが、「こや」と申します。大分の津久見市からまいりました。ミカンとセメントの町です。私は坊さんになりたてなんです。といっても、実家はお寺で、得度は9歳の時にしました。大学は大谷大学ですから、ニセ坊主ではありません。正式な坊さんです。去年まで32年間、小学校の教員をしていました。今は弟が住職をしている寺で法務の手伝いをしています。

 新米の坊さんですがお盆のお参りは小学校5年生のときからしていました。最初は嫌でした。知らない家に行ってですね、覚えたてのお経を一生懸命にあげて、終わったらジュースをもらいました。最初はいいんですけど、二、三軒参ると、もうゲップが出て、「遠慮せんと飲まんかい」と言われると、ジュースを飲まんと帰れんのかと思ったりしました。初盆の家に行くと、片づいた座敷に通されて、お参りの人は多いし、僕みたいな者がお経をあげていいんだろうか、場違いなところに来たなと思いました。緊張ばかりであまりいい思い出は残ってないです。

 教員になっても、お盆のお参りは手伝ってました。夏休みですから学校は休みなんですね。お参りするときに、いつも心の片隅に思ってたことがあるんです。それはですね、私のようにお寺のことも勉強していないし、お経の意味もようわからん者が、お経をあげて、お布施をいただいていいのかなと、中学生のころから思ってました。抵抗があったんですね。大人になってもそう思ってました。

 教員をしていても、たまにはお寺の学習会に行ってました。あるとき、「私のような者がちょっとお経をあげてお布施をもらうことに抵抗がある」ということを話したら、講師の先生が「いいじゃないか」と言われたんです。

「真宗におけるお盆の意味がわかるかね」
「よく知らないんです」
「真宗では迎え火や送り火はしない。先祖供養ではなく、亡き人を偲んで、そのことを通して我が身を問うこと、自分の課題と向き合うことが大事なんだ」

 私も耳学問でそういうことを聞いたことはあったんです。「そうですね」と言ったら、講師は続けざまにこう言います。

「君の課題は何なんだ。そうやってお布施をいただいていいのかなと自分で思っているんだろ。そこから一歩歩み出そうとしているか。君の今の課題は何なんだ」

 言わなきゃよかったと思いましたね。困ってたら講師がさらに突っ込んできました。

「君は小学校の先生でしたね」
「そうです」
「君は子供たちに仏法を語ったことがあるか」
「いや、特に意識してはしゃべってません」
「どうしてだ。なぜ語らないんだ」
「私は大して勉強していませんし、それに公教育では特定の宗教教育は禁止されています」
「何を言い訳をしてるんだ。誰が学校で『正信偈』をあげさせろと言ったんだ。誰が帰りの会で「恩徳讃」を歌わせろと言ったんだ。誰が南無阿弥陀仏の意味を子供に教えろと言ったか。そんなことを言っているんじゃない。君もお寺に生まれてご縁をいただいたんだから、仏法を聞いて、ああそうだったな、そうだよなと、うなずいたことやハッとしたことが一つや二つはあるだろう。それをなんで語らないんだ」

 それで気づいたんです。私は公立の小学校に勤めているから、真宗の話をどこかで避けていたということはたしかにあるかもしれないなと。

「法律で特定の宗教教育は禁止されているけれども、宗教的な情操は大切にしなければいけないと書いてあるじゃないか。どうしてそれをしないのか。お布施をいただくことをためらっているだけなら、ただそれだけのことだ。君の課題は子供たちに語ることから始まるんじゃないのか」

 こう言われて、妙に納得しました。亡くなった人じゃなくて自分の問題だということは聞いてたんですけれど、「そうか」と納得しました。せっかくお寺に生まれ、仏法を聞いてるんだから、それを子どもに話そうと思ったんです。で、話したんですよ。

  2

 最初に話をしたのは、『歎異抄』の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということです。いわゆる悪人正機と言われるものです。高校の教科書にも出てきます。善人が救われるんなら、悪人はなおさら救われる。これは高校のころからひっかかっていたんです。

 子どもは難しい話をすると、すぐにあくびが出ます。「はよう終わらんかな」と時計を見だすんです。難しい仏教用語は使われん。子どもにどう語ろうかなと思って考えました。ということで、

「いい人が幸せになれるのなら、悪い人は」と黒板に書きました。
「さあ、この後、昔のえらいお坊さんは何と言ったと思う?」

 親鸞とは言いませんよ、特定の宗教教育はいけませんから。
 子どもは「簡単じゃ。不幸になる」と言うんです。「お坊さんだから、地獄に堕ちると言ったんじゃないか」と言う子もいました。
「そりゃ違う。じゃあ答えを書くぞ」

「いい人が幸せになれるのなら、悪い人はもっと幸せになれる」

 こう書いたんですね。すぐさま子どもたちからブーイングですよ。
「そのお坊さん間違うとる。そんなわけないやん。先生、万引きとかイジメをしたほうが幸せになるってこと?」
「なるほど、そうとったか」

 やんちゃな子がまずバカみたいなことを言いだすんです。
「そりゃそうじゃ。お金を払わんで取ったから、それが幸せいうことじゃねえか」
「ここで言う『いい人』と『悪い人』はみんなが思っているのとはちょっと違う。だからカギカッコをつけたんだ。
 これがどういう意味なのか、これから先生が話す」

 やんちゃな子なんかは、「おっ、俺は幸せになれるかもしれん」と思って聞くわけです。
「よし、例をあげるぞ。AとBの家庭がある。まずAの家庭から話そう。お母さんが花瓶を買って家に帰ると電話が鳴ってた。」
 最近はこの話は使えなくなったんです。固定電話のない家が少しずつ増えてきました。

「電話が鳴っているので、あわてて花瓶を玄関に置いて電話に出た。友達からの久しぶりの電話だったもんだから、お母さん、つい長電話になってしまい買ってきた花瓶のことはすっかり忘れてしまい夕食の準備を始めた。
 次にお父さんが帰ってきて、花瓶に気がついた。『こんなところに花瓶がある。お母さんが花瓶を置きっぱなしにして』と思ったんだけど、思っただけでそのまま居間に行ってしまった。
 最後に息子が帰ってくる。そしたら、花瓶をガチャンと割ってしまった。ガチャンの音でお母さんが気づいて慌てて玄関に跳んでいく。
『せっかく買ってきた花瓶なのに。どうしてあんたはいつもそうなんね。花瓶があるくらい見たらわかるでしょ』
 息子も負けていません。
『こんなところに花瓶があったら誰だって割るよ』
『何が誰だって割る、よ!見たらわかるでしょ、花瓶があるのが』
『だって……』
『割ったのはあなたでしょ。ごめんなさいを言いなさい』
『うるさいなあ、ごめんなさい!』
『なに! そんな謝り方、謝ったことにならないわよ』
『謝ったからいいじゃん』
 そこに居間で聞いていたお父さんが出てきた。
『玄関先で何をわあわあ言よるんか。隣近所に聞こえよる。みっともない。もうやめろ』
 そしたらお母さんがカチンときた。
『何がやめろよ、ごめんなさいも言えない子どもが育ちよるんよ。日ごろは親らしいことは一つもせんくせに。あんたも親なら、ここに来てしつけたらどうよ』
 これにはお父さんもムカッとして、
『なんでそんなこと言われにゃいけんのか。仕事して疲れて帰ってきて!』
お母さんも負けてない。
『何が仕事よ。どうせパチンコでもしてきたんじゃろう』
『見ちょりもせんで、何でそんなことを言うんじゃ』
 親子ゲンカに夫婦ゲンカも加わって、その日の夕食は誰も口をきかない。
『なんでこんな奴と一緒になったんだろう』とお互い心の中で罵り合う。子どもも『俺の母ちゃんいつも怒ってばっかり』と愚痴る。

一方、Bの家はガチャンと割るところまでは一緒です。お母さんが来て、『大丈夫? 怪我なかった?』と聞くと、子どももすかさず『ごめんなさい』と謝った。すると、お母さんも『いいのよ、花瓶を玄関に置きっぱなしにしていたお母さんが悪いんだから。あなたに怪我がなくてよかった。花瓶はまた買い直せばいいんだから』と返す。
 その会話を居間で聞いていたお父さんが『その花瓶なら俺も気がついていたんだ。俺が片づけていたら息子も割らんですんだのに。俺も悪かった』とお父さんまで詫びた。で、その日は和気藹々楽しい夕餉のひとときとなった。」

 この話には元ネタがありまして、清沢満之という先生の本の中にあるんです。こういう話を子どもにしたんです。

「AとBの家庭は何が違うんかな」
 こう聞いたら、やんちゃな子がすぐに手を上げましたよ。「簡単じゃ」と言うんです。子どもの発想は豊かですよ。大人が想像せんことを言いますからね。何て言ったと思いますか。
 胸を張って「花瓶の値段が違う」と言ったんです。
 予想してなかったですね。やんちゃな子が解説するんですよ。

「Aの花瓶は高かった。Bのほうは安かったんじゃ。百円ショップで買うたんじゃ。だから怒られんかった」
 そういうこと、たしかにあるなと思いましたね。ここで教師が用意していた答えと違うからといって一蹴してはいけません。せっかく自信をもって言ったんですから。

「それも正解じゃ。でも、どっちも花瓶の値段は千円にしようか。さあ何が違うんか」
 高学年にもなると気づきます。
「Aの家は全部人のせいにする。自分の悪いところは棚に上げて、人のせいにする。Bのほうは自分が悪かったと全員が言っている」

 Aの家庭は自分を善しとしている。「あんたが悪い」「あんたが気をつけにゃいけん」と相手を責める。私もそうですが皆さんの家庭でもそういうことありませんか。「うちの嫁が……」と話しだすおばあさんがいますけど。ここで言う「いい人」というのは、いつも自分を善しとして相手が悪いと責める人です。「悪い人」というのは、自分が悪かったと、すっと言える人のことです。

「ごめんなさい、ごめんなさい。その一言が言えません。ごめんなさい」
 こんな詩がありますけど、なかなか「ごめんなさい」が出てこない。人間はすぐに自分を善しとしてしまいがちです。

 AとBの家庭では花瓶が割れたという同じ事実が起こっている。いうならば不幸な出来事です。Aの家庭はこの不幸な出来事で家族の絆にひびが入った。Bの家庭は不幸な出来事が起こったにもかかわらず、そのことを通して家族のつながりが深まった。
「Bのほうが幸せになっているじゃないか。そうだと思わないか」

 そしたら「はぁ~お寺は葬式をするだけじゃないんだなあ」と言う子がいました。「誰がそういうことを言ったんか。お寺ではな、生き方の勉強をするじゃ」と言っときました。

 この話は思わぬ効果がありました。私はその当時、生徒指導の担当してたんです。コンビニの店長さんから電話がかかってきて、

「最近、小学生の万引きが多くて困っている。子供を捕まえて親を呼んだところが、逆ギレされた。『お金払います。でも、うちの子だけじゃないんでしょ。どうしてうちの子だけ捕まえるんですか。学校には言わないでくださいね』と言われました」
「そうですか」
「子どもの万引きは対応が難しい。学校のほうでもよろしくお願いします」と頼まれました。

 なんとかせにゃいかんなと思って考えたのがですね、自分のことをまず言わにゃいかんということです。実は、私は大学で寮に入っていたころ、自転車を盗んだことがあるんです。いいわけを言うと、古い、ライトもつかないような自転車でした。ところがライトがつかなかったもんですから、パトカーに呼び止められたんですよ。「これは君のかね」と聞かれて、「道に落ちてました」と答えてしまったんですね。「盗った」とは言わないんですよ。人間、やっぱりいい子になろうとするんですね。悪かったとはすぐに言えないんです。

 教員になったら子どもにはこのことは絶対に言われんと思ってました。そりゃそうでしょ。学校の先生が自転車を盗んだことがあると知られたら、これは大変なことになると思いましたから。「担任、代えてください」と言われます。だけど、コンビニでの万引きについて学習するには、万引きする者の気持ちになって話さないといけない。それで子どもたちに自転車を盗んだ話をしました。

 最初に、「コンビニの店長さんが最近万引きが多いと困っている。万引きをするのを見たり、したことのある奴はおらんか」と言いました。子どもたちは「知らん」という顔をします。
「実はな、先生は自転車を盗んだことがある。そのことを学習会で話したら、講師の先生から『君はえらいね』と言われたんだ。びっくりした。盗みをしてまさか褒められるとは思わなかった。
『この中でそのことを知っている人がいるのかね』
『誰も知らないと思います』
『誰も知らないのに、君は盗んだことを自ら言った。それは本当に悪かったと思っているからじゃないか。人間は普通ごまかす。人間は長く生きていたら、人に言えないことの一つや二つはある』」
「『それに気づいているか、気づかないふりをするかだ。君はそれを今、言った。それは人間としてとても大事なことだ。人間はそういうことをして成長していくものじゃないか。間違わない者はいないよ。失敗しない者もいない。間違ったとき、失敗したときにどう気づいていくかが大事なんじゃないか。
 人間はきっかけさえあれば何をしでかすかわからない。でも、こういうご縁を通すことで、きっかけは減っていくんじゃないか。これでいいのかと立ち止まることができる。こういう気づきはたくさんしてほしい』」

 子どもにこの話をしたんです。そして「前に話した花瓶のことを覚えているか」と言いました。
「人間は都合の悪いことはすぐ『知らん』と否定する。誰も見ていなかったら大概「知らん」と言う。目撃者がいたら何と言う?『私だけじゃねえ』だな。『あいつもやった』とか、自分が悪いとはなかなか認めない。先生もそうだ」

「それじゃ幸せになれない。先生は『自分が悪かった』と気づいていくことが大切だと思って、自転車を盗んだことをみんなに言ったんだ」

 子どもたちはそれに応えてくれましたね。「万引きをしたことのある人」と聞いたら、36人のクラスでしたが、何人手を挙げたと思いますか。8人でした。多さにびっくりしましたが「ありがとう」と言いました。

「みんなも万引きをしてはいけないと思ってたんだと思う。その気持ちを大切にしてほしい。手を挙げなかった人は、今日のことを外で『知ってる? ○○ちゃんが万引きしたんよ』とか言うんじゃないぞ。学習して、ここだったら手を挙げられると、みんなを信用してくれたんだから、その思いを大切にしないといけない。外で言うことは絶対許さん!」

 親には懇談会のときにこの話をしました。どの子が万引きをしていたかだけは伏せて。すると懇談の後、ある親が、
「子どもが先生はすごいと言ってました。何がすごいのかと聞いたら、言われんと言うんです。こんな話をしてくれてたんですね」と言ってくれました。子どもたちに伝わったんだなと思ってうれしかったです。中には「うちの子どもは手を挙げたじゃろうか」と聞く親がいましたが「それは言われん。親子の信頼関係を築いてから聞いてください。それが一番大切なことじゃないでしょうか」と返答しました。

 その会の最後にですね、こういう話をしました。学校では「100点、やったあ。お前は?」「50点」「勝ったぁ」と、比べて喜ぶんです。みんな100点だとあんまりうれしくない。自分だけ100点の方がうれしい。60点でも、周りがそれ以下だったらやっぱりうれしい。比べて喜ぶというのは本当の幸せではない。

「比べて喜ぶことはないか。あいつのところに比べて俺の家は金持ちだからいいとか、家が大きくていいのうとか、足が速くていいとか、女子にもてていいとか。人と比べて喜ぶのは本当の幸せじゃない。何にも比べてない。自分はこういう人間だったなあと気づいて、そのままで幸福を感じる。比べない喜びがいっぱいあるか。そういう喜びにたくさん気づいていこうな」
 こういうふうにしめくくったんです。

 万引きの話には後日談があります。そのときは手を挙げることができなかった子が次の日、日記に書いてきました。
「私も一度だけ万引きをしたことがあります。お父さんが『万引きをするような奴は人間のクズだ』と言ったことがあるので『私は人間のクズになってしまった』とずっと気になっていました。でも、今日の先生の話を聞いて救われた気持ちになりました。手を挙げようと思ったけど、みんなの目が怖くて挙げることができませんでした。ごめんなさい。私も人間として成長したいです」
 この子は、いわゆる気立てのいい子です。正義感も強く、万引きなどまずしないだろうと思ってしまうような子でした。

  3

 こんなことがあったんです。お盆にあるお宅にお参りしたら、そこのおばあちゃんが「私はひどい目に遭ったんじゃ。最近の子どもは困る」と言ってね、「どうしたんですか」と聞くと、こういう話をするわけです。

 津久見市にはつくみん公園という市民の憩いの場があります。おばあちゃんもよく散歩に行っていた。子どもも遊びに来る。公園のベンチに座っていたら、遊んでいた子どもが言い合いを始めたんですね。逃げていった女の子を男の子は追いかけて、おばあちゃんの近くまで来たとき「待て、クソババア」と女の子に言ったんだそうです。目の前で言われたものだから、おばあさんはびっくりして心臓が止まるかと思ったと言うんです。さらにとどめの一言です。

「死ね!!!」
 びっくりしたうえに「死ね」とまで言われたものですから物凄く落ち込んでしまったそうです。
「三日間ぐらい気分が悪かった。もう公園に行きたくない。必ず学校で注意してください。最近の子どもはどうしてあんなに口が悪いんですか」
「すいません」と頭を下げたんですけど、子どもに注意するのを忘れてました。夏休みだったですから。

 半年経った正月に、こちらでは正月にも一軒一軒お参りするんですが、おばあちゃんの家に行ったら、そのおばあちゃんが
「子ども見つかりましたか?」と聞いてくるので、「おばあちゃん、忘れとった」と正直に言いました。そしたら、「もう言わんでいい。実はな」と話し出したんです。

 しばらくして公園に行ったら、またその子がおったので、すぐにベンチから立って帰ろうとした。すると、その子が「ばあちゃん」と追いかけてきた。聞こえんふりをしてそそくさと帰ろうしたけど、小学生のほうが足が早いですからね、追いつかれたんです。何を言われるのかと思ってたら「ばあちゃん、これ」と巾着袋を持ってきてくれた。慌てていたからおばあちゃんベンチに忘れてたんです。「ありがとう」と言ったら、今度もとどめの一言があったんです。「ばあちゃん、長生きしてな」と言ってくれたんですね。

 そのことをおばあちゃんはうれしそうに話すんです。なんか反省してて「気をつけにゃいけんな。お寺の話で聞いたことがある。つき合って、きちんとその人を判断せにゃいけん。一つのことで決めつけちゃいけんな」
 「最近の子どもは」という言葉はよく聞きます。その後に続く言葉は必ず子どもの悪口です。「先生は大変じゃろう。最近の子どもは……」と言われます。しかし、「最近の子どもは困ったもんだ」という言葉はローマ帝国のころからあったそうです。やっぱり「最近の大人は」と自分たちにはなかなか目が向きません。

  4

 こんな質問をされたことがあります。仮にA子としましょう。32年間教員をして後にも先にもこんな質問をした子はA子しかいません。その質問とは
「宗教って何?」
です。

 私が坊さんだということを知っています。先生やってておまけに坊さん…A子は「先生ならわかるやろう」という顔をしていました。口が裂けても「わからん」とは言えません。
 私がどう答えたかは後で言いますが、聞かれたときは答えが見つかっていませんでした。
 この質問は3学期にされました。
 A子は最初まったく私に近づきませんでした。というより避けていました。落ち込みましたね。何もしていないのに避けられる。加齢臭でもするのかと、つれあいに匂わせたこともありました。

 A子はいつも一人でいました。授業中は全く手を挙げませんでした。黙り込んだままです。休み時間は一人教室でイラストを描いたり、図書室で本を読んだりしていました。しばらくは有効な手だてもなくそっとしていました。

 ところで子どもの問題行動には二つあります。一つは反社会的行動で、いわゆる非行です。もう一つは非社会的行動です。不登校、ひきこもりといったことです。

 私たちがまず問題にするのは、どうしても反社会的行動なんです。目に見えて人に迷惑をかけますから対処しないといけないし、保護者も「どうにかしてください」と頼んできますから、指導したりして直接かかわります。

 非社会的なほうはどうしても後回しになります。何もしゃべらないだけですから授業を妨害するわけではないし、学校を休むわけですから人に迷惑をかけることもない。だから後回しになって、ケアがなかなかできないということがあります。

 さあ、どうしたもんかなと。よく休んだりもしてましたので、家にもちょくちょく訪問するんですけど、しゃべってくれないので会話ができない。肩を落として帰るわけであります。どうしたらいいのかなと思ってたんですね。厄介だなとも思ってました。

 福岡県に岡部健という有名な先生がおられたんです。もう亡くなってます。福岡で一番荒れてた中学校、殺人以外は何でもありという学校がありました。廊下をバイクで走る。番長を決めるときは、タバコを吸いながら職員室に入って、先生と対等に渡り合えたの奴が次の番長になる。先生の三分の一は羽交い締めにされて、ボゴボゴにされる。ひどい有様だったので、転校する子も多かったし、休む先生も多かったそうです。

 最初のうちはその学校も困って、柔道や剣道の有段者といった体育会系の先生をたくさん呼んで、力で押さえようとしたんです。これはうまくいかない。どんなことが起こるかというと、直接、そういう先生には向かっていきませんけど、先生の車に傷をつけたり、タイヤをパンクさせたりする。それも自分ではしない。気の弱い子にさせる。だから、体育会系の先生もお手上げになるんですね。岡部先生はその学校を三年で立て直したんです。

 岡部先生の授業を見学してびっくりしました。有名な先生でしたから、全国から見学に来るんですね。何百人と先生が集まるので、教室に入らんから体育館で授業をしたんです。駐車場係を子どもがしたり、生徒たちが綺麗に便器を雑巾で拭いている。授業も素晴らしかったです。涙を流しながら自分の辛いことを語る子。その子を周りの子は、じっと見つめ想いをしっかり受け止めようとする。信じられなかったです。こんな先生がいるんだ、こんな授業が実際あるんだなと思ってね。

 でも私はへそ曲がりですから、これは授業のときだけじゃないかと思って、子どもたちの放課後の様子を車の中でこっそり見てたんです。ここで本音が出るなと思ってね。ところが授業中と一緒でした。

 岡部先生にA子の話をしたんです。こういう子どもがいる、避けられて会話が成立しない、と。するとズバッと言われました。
「君はその子どもを厄介と思っているだろう」と。続けて、
「それじゃ、その子とつながるのは無理だ」と言われたんです。
 実は岡部先生は真宗門徒なんですよ。

「あんた、お寺のお坊さんだったな。私は真宗門徒だよ。君はこういう言葉を知っているか。同治、対治だ」
「知りません」

 これは仏教の言葉ですし、医学用語でもあるそうです。治は治療という意味です。同治は現状を肯定する。それでよしと。対治は現状を否定するんですね。たとえば熱が出たら、どんどん熱を出せというので、たくさん着込ませて汗をかかせて治すのが同治です。東洋医学の考えです。対治は、熱が出ると、これはいかん、氷で冷やせと、熱が出ることを否定して治すんです。

 岡部先生は子どもに「がんばろう」とはあまり言わないんです。普通、先生が子どもたちに一番たくさん言う言葉は「がんばれ」ですよ。親も言うんじゃないですか。

「子どもの対応は同治の方が大事だ。『がんばれ』という言葉は現状を否定している。今はだめだからがんばれ。君は授業中に少しもしゃべらん子はだめだと考えている。みんなはしゃべっているんだから、がんばってしゃべらにゃだめ、と否定している。」

 ボランティアに入るとき、「被災者に言わないでください」と注意される言葉があります。わかりますか。「がんばってください」です。私も阪神淡路大震災で被災された方に聞いたことがあります。
 家族を亡くして、家をなくして途方にくれているのに、「がんばってください」と言われても、これ以上何をがんばればいいのか。くずれそうだ。本当は泣き叫びたい。それを必死で我慢している。何をまだがんばれと言うのか。悪気があって言ってるんじゃないにしても、言われると辛い。そう聞いたことがあります。

「君は『厄介な子だ、もうちょっとがんばってほしい』と思ってないか。一人で図書室で本を読んでいるとき、どんな思いでいるか考えたことがあるか。君は『本好きだから本を読んでいるんだ』ぐらいにしか思っていないんじゃないか。
 運動場や教室で一人でおると、『ああ、あいつは一人でかわいそうじゃなあ』と思われるのが嫌だ。だけど、図書室で本を読んでたら、本好きなんだなと思われる。かわいそうだと見られないから、読みたい本があるわけではないのに、図書室で本を読んでいるふりをしているんじゃないか。そんなことを考えたことがあるか。学校に来れない。一人だけさぼって楽しよる。そんなふうに思ってないか。
 人間はな、まわりと同じことをしてたら楽なんだ。一人だけ違うことをしていると何か言われる。学校に来んで、家でゲームばっかりしとる。ずるいと言われる。学校に行けず、一人で家にいるときの辛さがわかるか。」

 その子は遠足に行っても、決して友だちと食べようとしなかったです。一人で食べる。友だちが誘っても行かないんですね。

「そのとき、どんな思いでいるかを考えたことがあるか。ただつっぱっているだけとしか思ってないんじゃないか。『かわいそうだから入れてあげる』なんていうのは、誰でも嫌だろ。私、助けてもらう人、あなたたちは私を助けてくれる人という関係は誰でもいやだ。あなたがいないとつまらない。あなたがいないと、このクラスはおもしろくない。そういう気持ちにさせないとだめだ。上から目線では絶対だめだ」

 これはグサッときました。なるほどなと思いましたね。
「仏法は求めるだけじゃダメだろう。目の前にある生活に生かしていかんとな」

  5

 帰ってすぐ謝りました。「すまんかったな。君を厄介な子だと思ってた。学校に来んし、授業中には手も挙げん。がんばりが足らんと思ってた。辛かったんじゃないか」と。そして、岡部先生の話をしたんです。その子は「わかってくれたんだ」というような顔をしましたね。

 それからは、その子がだんだんと話してくれるようになったんです。で、「宗教って何?」という質問が来たんです。
 実は、お母さんがある新興宗教に入ってて、強制的に連れて行かれてたんですよ。お兄ちゃんがいて、知的な障害があるんですけど、兄に障害があったり、あんたが学校に行かなかったりするのは信心が足らんと言われて、母親から「あんたもお参りしなさい」と言われてたというわけです。

「だから私は宗教が嫌いになった。だから先生も嫌いだった」
 ああ、そうだったのかと思いました。

 A子はその後、子ども会にもたまに参加するようになったんです。家庭の事情を知っているある保護者が「A子ちゃん、困ったことがあったら、おばちゃんに相談してね」と声をかけたんです。ところが、A子がぷいと帰ったらしいんですよ。

 その保護者はそのことを気になさって、連絡帳に「最近、A子ちゃんが元気そうになったので声をかけたんだけども、怒ったような顔をして帰ってしまいました。言わないほうがよかったのかと思って反省してます。よろしくお願いいたします」と書いてあったんです。

 放課後、A子を呼んで話しました。
「どうして帰ったんだ」
 そしたらこう言うんですね。
「先生、どんな顔をしていいかわからんかった」

 A子のお母さんはよく出かけていて、家にはいないんですね。雨が降っても洗濯物を干したままということがよくあったらしいんです。その子はそういうことがとても気になってて、あわてて自分で片づけたりしてたんです。

 お母さんはだらしないとみんな思ってるんだろうな、まわりの親は「あそこの家に遊びに行ったらいけん」と言ってるだろうなと勝手に思い込んでいたんです。「だから、私のほうからは遊びに行かないし、声をかけたりもしなくなった」と言うんですね。

「みんな私を避けていると思っていた。それがやさしく声かけをしてくれたもんだから、とってもうれしかった。とってもうれしかったんだけれど、素直に顔に出せなかった。それで走って帰った」

 その保護者には「実はこういうことでした。ありがとうございました」と伝えたら、「わかりました」と言われました。そうやって、いろんな人がその子に声をかけてくれるようになったんです。

 さて、「宗教って何?」ですが…どう答えますか。
 その子に「自殺を考えたことがあるか」と聞いたら、「ある」と言うんですよ。

「生きててもおもしろくない。家でゲームばっかりしている。夜中の二時ぐらいまでしてた。最初のうちはおもしろかったけれど、あきてしまって楽しくない。学校に行っても友だちもいない。死んでしまいたいと思ったことはある。だけど死ぬ勇気はない」
「そうか。今はどうなんだ」

 結構しゃべれるようになったんですね。私も周りの子どもたちにA子の想いはある程度伝えていましたから。日記に「今はそういうことは思わない。友だちと遊ぶことがこんなに楽しいとは思わなかった」、そして「ゲームの世界にはまり込んでいた自分を助けてくれてありがとう」と書いてありました。そうかと思って、「今は生きていてよかったと思うか」と尋ねたら、「そう思う」と言ってくれました。

 それを利用したんです。「それが宗教なんじゃないか」と。「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」と東本願寺の塀に書かれていますけれど「ああ、生きててよかったなあ」と、そういうふうに思える。「そういうようなことに気づかされていくことが、宗教の役割だと先生は思う」と話したんです。いろんな話をしながら、どうしようかと思ってね、最後そこにいったんです。正しいかどうかわからんです。そういうことではないかなあと。

「死者を弔うとか、そういうことも大事だけど、自分自身が人間として生まれて、どう生きていくか。人として生まれた喜びをどう感じていくか。それがとても大切なことなんだ。それを教えてくれるのが宗教だと先生は思うんだ」

 その女の子は今は看護師をしています。「どんなときに生きててよかったと思うんだ?」と聞いたら、産婦人科にいるんですけど「赤ちゃんが笑うと、周りの大人がみんな笑っている。生きていてよかったなあと思う」と言ったんであります。

  6

 子どもたちに「命は誰のものか」ということも話しました。「誰のものか」と聞くと、たいがいですね「自分のもんじゃろう」と答えます。「自分のもんだったら、いらんようになったら捨てていいんか」と尋ねると、「捨てるっていうことは自殺するということ?」と返してきます。「そうじゃ」と言ったら、「そりゃ悪いじゃろう」と子供は言うんですね。「いい」とは言いませんよ。

「でも、自分のもんなら、いらんようになったら捨てていいじゃないか。なんで悪いんか」
「うーん。よう説明できんけど、悪いんじゃろう。みんな悲しむ」
「ところで、命いうてなんじゃろう」

 親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」を利用したんです。

「命と自分とどっちが先か。たとえば赤ちゃんじゃ。赤ちゃんが、『俺のお父ちゃんとお母ちゃんはこいつらか。福山雅治と吹石一恵がよかったなあ』なんて言って首をくくるか?」
「そんなことは思わん。」
「赤ちゃんは命あるがままに生きとるんじゃの。だから、赤ちゃんの笑顔はまわりの大人を感動させるんじゃないか。ウソ笑いはせんからな。赤ちゃんの笑顔は百万ドルの笑顔じゃ。みんなを幸せにする。命あるがままじゃ。小学生も高学年ぐらいになると、命も自分のものだと何となく思ってしまう。最初に命が生まれてくるんだぞ。それが知恵がつくと、命を自分のものにしてしまう。命が先なんだ。」

 そして、こんなたとえ話をするんです。
「お小遣いを一か月みんなにやるぞ。AとBとどっちか選べ。
 Aは1日は1円、2日目は2円、3日目は4円と、前の日の倍やる。4日目はなんぼじゃ?」
「8円」
「そうじゃ。そうやって前の日の倍をもらう。Bは毎日1万円。一か月で30万円じゃ。さあ、どっちを選ぶ?」

 Bのほうを選ぶ子供が多いです。子供にとって30万円は超大金ですからね。しかし、Aは30日後にいくらになると思います? 5億ですよ。31日目は10億円を超えています。

「Aがよかった」
「もう遅い。今度、母ちゃんに言え。『お母さん、1日目は1円でいい。2日目は2円、倍々ちょうだい』と言ってみい。お母さん、10日目ぐらいから顔が青うなるで」

 なんでこんな話をするか。
「これがみんなで、これがお父さんとお母さん。おじいちゃんとおばあちゃんが四人、ひいばあちゃんとひいじいちゃんが八人いて、どんどん多くなる。みんな、わかったかな」

 こうやって言ってもわからん子がいる。
「さっきのAのほうの小遣いの増え方と一緒じゃろ。30代前の先祖は5億人じゃぞ。31代前は10億人を突破する。
 実はな、先生の先祖には殿様がおったんじゃ。」

 このことを曹洞宗のお坊さんに話したことがあるんです。すると黒板に図を描いて、
「君の殿様はこの中のどの人だ?」
 戸惑いながら「この人ですかね」と指します。
「じゃあ、こっちの人は何をしとったんか」とランダムに指していきます。
 どんどん聞いてくるんです。
「なんで君は殿様のことだけ言うんだ。」
 だんだん恥ずかしくなってきました。
「人間の先祖は殿様じゃない。人間の先祖は人間なんだ。先祖の中には殺人を犯した人もいるかもしれない。それを君は言うかい。それは隠して殿様のことだけ言う。そういう自分の浅ましいところを問題にしなさい。」

 このように曹洞宗の坊さんから言われたことを子どもたちに話しました。
「命というのはつながっているんだ。この中の誰か一人でも途中で亡くなっていたら、自分はいない。命は昔からずっとつながっている。だから、命が先なんだ。自分のものだからというので、自分で自分の命を絶つことはできない」

 どんないい授業でも、チャイムが鳴ったのに話を続けてると、子どもはいやがるんですね。「はよ終われや」という顔をします。やめないといけないです。
 時間が来ましたのでこれで終わります。今日はありがとうございました。
(2016年8月4日に行われました盆法会でのお話をまとめたものです)