真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

迷信

 「イワシの頭も信心から」という言葉には、馬鹿げたことを信じる人をからかう意味もあります。
 わけのわからないことをやみくもに信じるという点では、イワシの頭信心と迷信は同じではないでしょうか。いわれを聞き、道理にうなずくことがないのですから。


 1,迷信の特徴

 「私は迷信を信じています」と言う人はいないでしょう。しかし、迷信教信者がかなりいることは事実です。迷信教から抜け出すために、迷信の特徴をお教えしましょう。

1,関係のないものを単純に結びつけて、因果関係があると言う
2,「~してはいけない」あるいは「~しなければいけない」と言って、不安や怖れをかき立てる

 迷信は、無関係なものを結びつけて、そこに因果関係があると言い、だから「~してはいけない」、「~しなければいけない」と言います。

 たとえば、友引に葬式をしたらいけない、続けて誰かが死ぬから、という迷信がそうです。
 「友引に葬式をすること」と「人が死ぬこと」との間に関係がある、だから「してはいけない」というわけです。

友引に葬式をする(因)→誰かが死ぬ(果)

 しかし、友引に葬式をしなければ、誰も死なないのかというと、もちろんそんなことはありません。言うまでもありませんが、友引とは無関係に毎日多くの人が亡くなっています。
 てるてる坊主と明日の天気が無関係なように、「友引に葬式をすること」と「人が死ぬこと」の間には因果関係はありません。

 このように迷信は、全く無関係なことを結びつけて、良いとか悪いとか脅しているわけです。

 しかしながら友引に葬式をしたあと、たまたま身近な人が亡くなることはあります。そうすると、「やっぱり友引に葬式をしたからだ」と言う人が必ずいます。

 ところが、「どうしてですか」と尋ねても、返事が返ってくることはありません。「昔からそう言ってるから」とか「みんながいけないと言うことはしないほうがいい」といったぐらいのことです。とにかくそうなんだというわけです。

 迷信教信者は、なぜそうなるのか、そのいわれを知ろうとしないようです。人の言うことには耳を傾けない人でも、頭から信じ込んでしまうのが迷信の怖さです。

お日柄は良かったのにとぼやく叔母(万能川柳)


 2,なぜ迷信を信じるのか

なぜ迷信を信じてしまうのか、その理由として、
1,不安・怖れ
2,願望
があると思います。

1,不安・怖れ

 「亡くなった人の写真を仏間に飾ったらいけないと聞きましたが、どうなんですか」と尋ねる方が増えました。中には、写真を持ってこられて、「処分してくれ」と頼まれることもあります。
 どうしてかなと思っていたら、細木数子がテレビでそんなことを言っていたそうです。どうしていけないのでしょうか。

 私はテレビを見ていませんし、細木数子の本も読んでいませんから、その理由は知りません。だけども、大した理由ではないことはわかります。
 なぜならインチキ宗教はアメとムチを使うからです。まず脅しておいて、そして救いの方法を教える、というのが常套手段です。
 どういうことでも脅しの対象になります。死んだ人の写真を飾るという、何でもない、今まで普通に行っていたことでもいいわけです。

 「亡くなった人の写真」と「良くないこと」とは全く無関係です。それをさも関係があるように脅すインチキ宗教の論理は、迷信と一緒です。

 しかし私たちは、友引といった迷信や、細木数子の与太話のような話を、馬鹿らしいと思っても、ひょっとしてと不安になり、その通りにしていれば間違いはないだろうと思ってしまいます。

 それは、インチキ宗教や迷信はたいてい「~してはいけない」という形、つまり否定形で語るために、不安や怖れを私たちに与えるからです。
 何かよくないことがありはしないかという「怖れ」「不安」、あるいは、今の幸せを保ちたい、壊したくないという「願望」が私たちが私たちの弱点となっています。その弱点によって迷信は生み出され、インチキ宗教は弱点につけ込みます。

 災難や交通事故などに対する不安や怖れという弱点があるため、よくないことがないよう願って、初詣をしたり、車にお守りをぶら下げたりします。
 だけどそれは、不安から迷信を作り、そして不安を再生産しているわけです。ですから、迷信に従っているかぎり不安はなくなりません。

 何かする時、たとえば引っ越し、結婚、家を建てる、納骨など、自分で日時を決めることができず、必ず霊能者や占い師に相談し、その人の言うことに従う人がいます。
 このように、ひょっとしてというので迷信に従っていたら、「~してはいけない」という否定の生活、あるいは細木数子のように「~しなければいけない」と脅す人の言いなりになる人生を送るはめになります。

3,願望

 私たちは神仏に一生懸命祈ることが信心だ、信心すれば祈り(願い事)が叶うと考えています。だから、思いもかけぬ災難が降りかかると、私は今までちゃんと信心してきたのに、神も仏もあるものか、と思うわけです。

信心する(因)→願いがかなう(果)
信心しない(因)→よくないことが起きる(果)

 たとえば、受験に合格するよう熱心に祈れば、希望の学校に合格できる、というので受験シーズンにはお参りに行く人がたくさんいるわけです。

受験落ちお守り袋開けてみる(万能川柳)

 しかし、本来、信心のあるなしと合格不合格との間には大きな隔たりがあり、無関係なはずです。
 ところが、そうした関係ないことの間にある隔たりを結びつける力が神仏にはある、と私たちは考えています。そして、こうした不思議な力が神仏にはあると思っているからこそ、神仏をおそれ、神仏を大切にしなくてはいけないと思うわけです。しかし、そこには道理はありません。
 関係のないことをさも関係があるように言う、つまり、神仏に頼み事をすれば願いは叶うということは、迷信と同じ構造です。

 こんなことを言いますと、「私は手を合わせた時にお願いなんかしません」と言われます。たしかに「お金がもうかりますように」とか、「先祖が成仏しますように」といったことを祈ったりはされないでしょう。
 けれども、「今日も無事に過ごせますように」と願ったり、祈ることで心の平安を期待する気持ちは、私にもあります。

「今年は良い年になりますようにと、毎日仏様に念仏を唱え、朝と晩、お線香をあげようと思っています」 「茉莉花」59号の投書欄

 仏さまにお願いすることが悪いというのではありません。人情ですから自然なことです。しかし、人情と信心は違います。
 たとえば、「酒を断ちますから、子供の病気が治りますように」と願を立てるのは親の情です。ます。私が苦しむことの代償として、子供の苦しみがなくなるだろうと期待するわけです。
 しかし、「私が酒を断つこと・私の苦(因)」と「子供の病気が治ること・子供の楽(果)」とは無関係です。残念ながら、私がいかに苦しもうと、子供の病気とは関係ありません。いかに親の切実な思いであってもです。


 3,インチキ宗教・占い・予言・疑似科学

迷信と同じ構造を持ち、人を惑わせているのはいろいろあります。たとえば、インチキ宗教・占い・予言・疑似科学などです。

1,インチキ宗教

 たとえば宗教です。その教えには道理があるのか、それとも迷信と同じように、無関係なものを結びつけて、良いとか悪いとか言い、「~してはいけない」「~しなければいけない」と脅しているにすぎないのか、そこをきちんと見極めないといけません。

 ところが、インチキ宗教はもっともらしい理屈、難解な教義で説明するものですから、教えに道理がなくても、そうかなと思ってしまいがちです。

 手かざしで病気が治る、というのもそうです。宇宙のエネルギーがどうのこうのと言われれば、何となく科学的な気がして、つい信じてしまうんでしょう。

 あるいは、信仰の有無と天変地異という無関係な事柄を結びつけて脅す宗教も珍しくありません。
 日蓮正宗顕正会会長である浅井昭衛という人が書いた『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ
』という本を読みますと、異常気象、食糧危機、日本の財政赤字などなどの問題は、すべて日本人が日蓮大聖人の教えを信じないからだ、それも日蓮正宗の信者にならないからであって、もしも日本人すべてが信者になったらこうした問題はすぐに解決する、とあります。

 信心するだけであらゆる問題が解消するなら、これほど楽な話はありません。もっとも、日本人全員が信者になることはあり得ませんから、浅井氏の言うことが正しいかどうかを確かめることができず、間違いだとは言えないところがミソです。

 それはともかく、人間が天道に背いた行いをすると、天が人間を罰するために災いをもたらす、という考えは古代中国からあります。
 そのため、天災があると、人間の行いが良くないからというふうに、我々は考えがちです。たとえば、大地震などがあると、人間が勝手なことを続けていると、もっとひどいことが起こるんじゃないか、と思ったりします。

 しかし、これも無関係なことを結びつけて良いとか悪いとか言うわけですから、迷信と変わりません。我が身を反省することは大切ですが、インチキ宗教は良心にもつけ込むのでご用心。

2,占い

 天の動きと人の運命とは関係があるんだと主張しているのは、占星術もそうです。しかし、星の動きと人間の運命とは無関係であることは言うまでもありません。星座とは地球から見える星の形であって、それぞれの星は地球からの距離が全然違っていますし、そもそも占星術は天動説をもとにしています。

 露木まさひろ『占い師
』によりますと、占星術は古代メソポタミアから始まったそうです。そのころの人は太陽と月、星を動きを観測しながら、一年が十二ヵ月であることを知り、日食や月食にも関心を持ちました。
 毎年のことですから、「あと三十日たつと洪水になる」「六十日後から猛暑になる」といった予測は当たります。しかし、日食の日にたまたま敵が攻めてきたために「日食は外敵の日」としたり、惑星が集まった年に暴風雨が多かったので「惑星集合は大災害」とするような占いもされました。

 このように、天体の動きと地上の出来事、たとえば地震、流行病、凶作、戦争、さらには仕事の選択、恋人との相性といった、天変地異や人事という無関係なものを結びつけ、良いとか悪いとか言っている占星術(すべての占いはみなそうですが)は、迷信と同じ構造ということになります。

3,予言

 大川隆法は『奇跡の法』
で次のようなことを言っています。

 「自分の運命を姓名判断や星占いなどによって知りたい」と思う人もいるかもしれません。そして、「よく当たっている」「当たっていない」などと言っているうちに、見事に運命にはまっていくことが多いのではないでしょうか。
 特に、宗教的な人格を持つ人は、他人の言うことを非常に信じやすく、暗示にかかりやすい傾向があるので、気をつけなければいけません。
 人間は、よいものよりも悪いものに影響を受けやすいところがあります。よいことはそう簡単に信じられないのですが、悪いことは、非常にインパクトがあるので、影響を受けやすく、大勢の人が信用しやすいのです。
 「悪くなる」と言っておけば、もしよくなったとしても、あまり批判を受けることはありません。「おまえは『悪くなる』と言っていたのに、よくなったではないか」と言われることはあまりないのです。しかし、「よくなる」と言っていて、もし悪くなった場合には大変です。
 そのため、易者や占星術師、霊感占い師などを開業する場合には、他人の運命について悪いことを言っておけば、ほぼ商売として成り立ちます。その悪い予言が当たることもありますし、たとえ外れても、損害賠償を請求されることはほとんどありません。しかし、よいことを言って外れると大変です。
 たとえば、「あなたはこの人と結婚します」と言って、結婚できなかった場合には、確実にあとで文句を言われます。一方、「あなたは一生、結婚できないかもしれません」と言って、結婚できた場合には、あとで、「おまえは間違ったから、お金を返せ」とは、あまり言われないものです。
 そのため、未来の予想に関しては、だいたいにおいて〝不幸産業〟のほうがメジャーになりがちなのです。」


 なるほど、詐欺のことは詐欺師が一番よく知っているように、占いや予言のインチキさは、デタラメな予言をして惑わす人がよくご存じのようです。

 もう一つご紹介しましょう。「三穂の家」という信者から損害賠償請求された宗教の教祖の本からです。

「これら邪霊にとり憑かれた者は、本気になって、自分のことを神や仏だと信じ込んでいたりするんで、本当にやっかいなシロモノじゃ。怪しげな宗教団体の教祖なんかは、ほとんどこれとみていいわい。」 三穂希祐月『天界からの脅迫

 次に、『トンデモ超常現象99の真相
』からノストラダムスについての文章を紹介しましょう。

ノストラダムスは決して無能な人間ではなかった。彼は確かに天才であり、自分の予言がはずれないよう巧妙に計算し、工夫をこらしていた。
 彼の第一のテクニックは、「とにかくたくさん予言すること」である。総計は1000篇近くもある。これだけいろいろなことが書いてあれば、歴史上どれかの事件が、どれかの詩と符合することは、ほとんど必然といえる。
 第二のテクニックは、「当り前のことを予言すること」である。ノストラダムスの予言の多くは、「独裁者が現れる」「戦争が起きる」「疫病が発生する」「重要人物が死ぬ」といった、いつの時代、どこの国でも起こりそうな内容ばかりなのである。こんな予言なら「あなたはいつか死にます」といっているのと同じで、当たるに決まっている。
 第三のテクニックは、「期限を明確にしないこと」である。彼の予言には、その事件が起きる年をちゃんと記載したものはほとんどないのだ。「○○年に起きる」とはっきり書いてしまうと、その年が過ぎてしまったら、はずれたことが誰の目にも明らかになってしまう。逆にいえば、期限を指定しない予言はいつまでたってもはずれないわけで、はずれないかぎりは予言者としての名声に傷がつくこともない。
 第四のテクニックは、「どうにでも解釈できるように、あいまいに書くこと」である。ノストラダムスの詩はとにかく難解である。だから訳者の解釈によって、どんな風にも訳せてしまう。
 ノストラダムスの研究者たちは、事件が起きてから「ノストラダムスはこの事件を予言していた」とこじつけているだけである。


霊能者いても犯人見つからず 沓水曻

「すべての迷信は、占星術であれ、正夢であれ、予知体験であれ、天罰であれ、当たらないことのほうがずっと多いにもかかわらず、当たらなかった時は見過ごしてしまい、当たった時は大騒ぎをするというだけのことである。」 フランシス・ベーコン

4,疑似科学

 占星術は疑似科学の一つです。マイナスイオン、活性水素、気功、カイロプラクティック、精神分析など、疑似科学とされるものはたくさんあります。いかにも科学的な体裁を整え、もっともらしいことを主張していますが、実のところ怪しい。

 皆さんは血液型による性格診断を信じていますか。いかにも科学的な感じをさせていますが、実は血液型による性格診断は占星術と似たり寄ったりのいい加減なものなんだそうです。血液型による性格診断も疑似科学の中に含まれています。統計上そうなると主張されていますが、実際はどうなのでしょうか。

「血液型と性格の間には実際にどの程度の関連があるのだろうか。この件に関しては、心理学研究者の見解は、ほぼ100%一致している。「現在のところ、血液型と人の性格(や相性)との間に、血液型論者の言うような信頼性のある関連は見あたらない」というのが結論だ。日本人の常識というべき血液型性格判断は否定されているのである。
 心理学会の関心は「根拠のない血液型性格判断がどうしてあっさり信じられているのか」といった点に移っている」」
 菊地聡『超常現象の心理学

 無関係なこと(血液型と性格)を結びつけ、そして相性がいいとか悪いとか言ってるだけのことですから、これも迷信と同じです。

 しかしながら、占いは当てにならない、あんなの遊びだ、と言いながらも、新聞や雑誌の占いの記事が何となく気になるでしょう。運勢がいいとか悪いとか言われれば気になるのは当然ですが、それと同時に、私たちがいろんな不安を抱えているから気になるんだと思います。

 たとえば、ある人がどういう人柄なのか、何を考えているか、外からは判断できません。わからないままだと不安です。将来のこととなると一寸先は闇ですから、もっとわかりません。過去もそうです。現在の困った状態はどういう原因から起こったのだろうかと思うことはないですか。

 ですから、過去や未来、あるいは他人についての情報がほしくなります。たとえば、好きなあの人との相性はどうなんだろうか、自分のことをどう思ってるのか、これからどうなるのか、そういったことが気になるでしょう。恋人と別れた人は、どうしてうまくいかなかったのかを知りたいでしょう。そういうことから、占いや心理テストなどに頼るんだろうと思います。

 こうした問題は健康法や健康食品も似ています。あれがいい、これが悪いというのを聞いては一喜一憂し、一度試してみると、やめると悪くなる気がして、ずるずると無駄金を使う、なんていうことはありませんか。

今になり否定をされた健康法 咲こ利笑
心配を煽り立ててるみのもんた(万能川柳)


 4,迷信を生み出す論理

 未来のことや他人との相性といったことを知りたい。そこで、生まれた月の星座や血液型などからあれこれと推論します。たとえば、彼はA型だからこういう性格だろうと。

 推論は演繹法と帰納法とに大別されます。

 演繹法とは一般的な原理から論理的な手続きを踏んで個々の事実を推論することで、代表的なものが三段論法です。たとえば、

すべての男は人間である(大前提)
A君は男である(小前提)
したがって、A君は人間である(結論)

 次は間違った三段論法です。

一人っ子はわがままである
A君は一人っ子である
したがって、A君はわがままである

 一人っ子はわがままだという前提が間違いです。末っ子は甘えん坊だとか、長男タイプ、次男タイプがあるとかもよく言われていますが、そういうことはないそうです。
 私たちにまず思い込みがあるものですから、最初から偏見の目で見てしまうわけです。

 あの人は中国人だから中華料理が上手だろう、と思うことはありませんか。これも「中国人は中華料理が上手である」という誤った前提を私たちが持っているからこそ、そう推論するわけです。
 しかし、日本人のすべてが日本料理が得意とはいえないように、中国人の中には中華料理が下手な人だっています。

 友引に葬式をしたら、しばらくして近所の人が亡くなった、やっぱり、というのも、「友引に葬式をしたら続けて誰かが亡くなる」という前提がおかしいわけです。

 次に帰納法による推論とは、たくさんの観測データから、一般的な法則を導くやり方です。

カラスaは黒い
カラスbは黒い
カラスcは黒い
 ・
 ・
 ・
したがって、カラスは黒い

 しかし、データをいくら集めても、理論が正しいことを立証できるわけではありません。私が見たカラスがたまたま黒かっただけかもしれません。

 間違った帰納法の例です。

ビールには水が入っている
ウィスキーにも水が入っている
ブランデーにも水が入っている
したがって、水を飲むと酔っ払う

 前提が正しいからといって、結論が必ずしも真であるとは限りません。帰納法では、あくまでもそうなるだろうという仮定が導き出されるだけです。

 血液型性格診断の本を見ても、何人かの身近な人がこういう性格だからと決めつけているだけのことです。わがままな一人っ子がいるから、知り合いの末っ子は甘えん坊だったからといって、すべてがそうだというのは論理の飛躍です。

 そもそも「この人はわがまま」とか「甘えん坊」だと思うのは、私がそう感じているだけです。客観的な判断ではありません。「わがまま」「甘えん坊」とはどういうことなのかをきちんと定義する必要があります。しかし、私たちはそうしたことを無視し、先入観だけで決めつけます。

 占いや血液型信者は「確率的、統計的にそうなるんだ」と反論することでしょう。しかし、確率でそうなるというのは、私たちの思いこみによる誤解が多いようです。

 二十四人のクラスの中で、誕生日が同じ人がいるという可能性は何%でしょうか。答えは五十%です。これが三十五人のクラスだとなんと約八十%。クラスの中で誕生日が同じ人がいるということは決して珍しくないわけです。

 統計学の教科書では、必ず注意書きとして「相関関係から短絡的に因果関係を推測してはいけない」ということが出ているそうです。
 迷信が作られ、信じるようになる構造は、論理の飛躍と思い込みがあるということなんですね。


 5,迷信を信じる問題点

 占いや血液型性格診断といったものは遊びであって、真面目に信じているわけではない、とたいていの人は言います。はたしてそうでしょうか。
 いくら軽い気持ちであっても、占いや疑似科学といったものに頼れば、もう落とし穴にはまったことになります。ですから、早めに気づいたほうが無難です。
 こんなことを言ってる人もいます。

「星をこねくりまわして商売している占星術師もいてもらわなくては。霊能者だの祈祷師だの占い師だの、うさんくさいやつがいっぱいいるけど、こういう人らが迷える者たちの不安を取り除いてやり、適切な指針を与え、生きる力を与えてやるのはおおいにけっこうだと思う。ようするに、人を惑わして不幸におとしいれるやつがいけないのだ」 吉本直志郎『話の回転ずし

 占い師や霊能者が適切な料金で適切なアドバイスをするならば、こういった人に悩み事を相談しても悪くはない、人生相談みたいなもので良い面もあるんだというわけです。

 私はこういう意見には賛成できません。占いなどに関わると、知らぬ間に落とし穴にはまってしまい、様々な問題が生じることになります。

 たとえば霊感商法がいい例です。相談料は千円程度と言うわけですが、話をしていくうちに不安をかき立てられ、結局は供養料と称して何十万円ものお金を取られてしまうことになります。
 そうした手口は柿田睦夫『霊・因縁・たたり』に詳しく書かれています。

 では、良心的な占い師、霊能者ならいいのでしょうか。これも人々を惑わしていることに変わりはありません。

 占いは一回きりではすみません。占いで助かったと思った人は、何か問題(ごくささいな問題であっても)が生じたら、ふたたび占い師のもとを訪れるでしょう。このように、何かを決めなければならない時(就職、結婚、引っ越しなどなど)に、自分では判断できず、占い師に相談してしまう習慣がついてしまうのです。
 仮に占い師に相談して、たまたまうまくいったにしても、占い師がいつも間違いのない道を示せるかどうかはわかりません。

 たとえば、相談者の抱えている問題の原因が心身の病気にあった場合です。適切な治療をすれば治癒可能な病気に対して、占い師が間違ったアドバイスをすることで病勢を悪化させるケースがあるそうです。

 そもそも、占い師にしろ、霊能者にしろ、基本的な出発点が、占いとか霊魂とか、そういった人間を惑わすもの、インチキなものです。
 ですから、占いに耳を傾けていると、知らず知らずにものの見方、考え方が片寄ってしまいます。何かあると、先祖の霊がどうのこうのとか、方角がどうした、というように考えてしまうのです。

答えずにヒントをききだす霊能者 岡村絵里

 血液型性格診断でもそうです。B型の人は自分勝手だということになっているそうですが、そんなことを耳にすると、知らぬ間に「あの人はB型だから自分勝手だ」と先入観を持ってしまいますし、何かあると「やっぱりあの人はB型だ」と決めつけてしまいます。結婚する時に、相性はどうだろうかと気がかりです。

「たとえば、あなたの知り合いが、あなたに何か親切にアドバイスしてくれたとしよう。その人がO型なら、あなたは「さすがO型は教育好きだ」と納得する。その人がA型なら「A型だけあって、まじめな人間だな」と感心する。B型なら「おせっかいな奴だな」とうとましく思い、AB型なら「何か裏があるのでは」と疑う」 山本弘『トンデモ本の世界S

 こうした先入観は差別を生みます。石原慎太郎の「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返し、大災害時には騒擾事件すら想定される」という発言がそのいい例です。
 アジアの人を我々は蔑視していますから、偏見がまずあります。そして、何か事件があると、それが噂にすぎなくても、「やっぱり」と思ってしまいます。


 私たちは迷信のいわれ、たとえば友引は語呂合わせにすぎないとわかっても、「ひょっとして何かあったら」という不安な気持ちが残ります。
 そして、「迷信かもしれないが、言われる通りにしていれば間違いはないだろう」と考えるわけです。それが次々と迷いを生み出すのです。

 それに対して、仏教は自覚教です。お釈迦様は道理に目覚めて覚者(仏陀)となりました。そして、「道理に目覚め、道理にうなずきなさい」と説かれました。
 「よくわからないがとにかくありがたい」とか、「ひょっとしたら」と迷うようでは、目覚めるということがないままですね。

 もっとも、道理にうなずいたからといって、悩み事がなくなるわけではありませんし、迷わなくなるわけでもありません。
 たとえば、幽霊の存在を信じている人はあまりいないでしょうが、しかし何となく怖い気がする人は多いと思います。

 怖いというのは感情です。理屈で説明されても、怖いものは怖い。私も高いところが苦手で、手すりがあるんだから大丈夫だとわかっていても、それでも下を見たら足がすくみます。怖さは理屈じゃなくなりません。
 迷信に迷うのも不安や恐れがあるからです。理屈ではバカらしいとわかっていても、怖いという感情に流されてしまうわけです。

 この怖いという感情はなくなりませんが、しかし道理に目覚めることにより、それは自分の弱点であり、その弱点は自分が作ったものだと知ることはできます。
 自分の弱点に気づけば、迷ったとしても、ああ、迷っていたなと、自分の迷いを認めることができ、怖さにふりまわされることがなくなります。

それでもま生きているから悩めるの 岡田温子

 仏の教えを聞いたら、自分というものを知り、自分の愚かさを認めるようになる。悩み事はなくならないけれども、苦にしなくなる。そうして明るく悩むことができる。そういうことだろうと思います。

「この世はどこまでいっても独りぼっちで、悲しいことがあり、苦しいことがあるけれども、その悲しみの底にも、明るい光がさして、光の中で苦しまさせていただく。」 正親含英『観経のこころ