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三好 浩一さん「父の死と向き合って」
                        
 2009年8月22日

  1、父の死

 東京からまいりました三好です。小学校の教員をしています。46歳です。私にはもう一つの顔がありまして、10年ぐらい前から真宗のお寺とご縁ができ、2年前に得度して僧侶になったんです。

 私の父が今年4月15日に他界しました。父の死をきっかけにいろいろ考えたことをお話ししようと思って来させていただきました。
 父は昭和8年生まれ、76歳でした。福井県の出身で、昭和28年に東京に出てきて、個人タクシーの運転手をずっとやってました。亡くなる二日前まで仕事をしていたんです。

 4月15日の朝8時45分、学校に妻から電話がありまして、「お父さんが倒れたらしい」ということでした。母が付き添って救急車で搬送中とのことで、父はどこも悪いところはなかったので、倒れたといっても大したことはないだろうと高をくくっていたんです。同僚にあとのことを取り急ぎ頼んで病院にかけつけました。
 タクシーに乗っていたら母から電話があり、「もうだめかもしれない」と言うんですね。そんなことはまったく考えていなかったので、びっくりして頭が混乱してしまいました。東京医療センターというところに運ばれて、集中治療室に入っていたんです。

 9時半に病院に着きました。受付のまどろっこしい応対にイライラしながら、救急だと告げると、四階の集中治療室に行くように言われたんです。集中治療室はすぐには中に入れてもらえないんですね。しばらく待たされて病室に入ると、母が呆然と父のかたわらに座っていました。父の顔は真っ青で、一目見てだめだと思いましたね。
 そうしたら医者が来て、申し訳なさそうに説明してくれたんです。父は倒れた時点で絶命状態だったらしく、救急車ではAEDもやらなかったそうです。「かなり心臓マッサージをしたんですけど助かりませんでした」という医者の話でした。

 母の話によると、前日の夜は雨が降っていたので父は仕事を休んだそうです。「歯ぐきと肩や背中が痛い。いつもの痛さではないんだ」と言うので、母は心配して「救急車をよぼうか」と言ったんですけど、どしゃ降りの雨だったので、明日で大丈夫だろうという話になったんです。
 翌朝は普通に起きてご飯を食べ、近くにかかりつけのお医者さんがあるので、「着がえてから行くわ」と言ってトイレに行ったらしいんです。そしたらドカンという音がしたので行ってみると、父が倒れていたんですね。その時は息があったらしくて、救急車をよんで運ばれたんです。母は前夜に救急車をよばなかったことを悔いてまして、そればっかり何度も言ってましたね。

 私も動転してしまって、なんでこんなことになったのか、さっきまで普段と変わりない生活をしてたのにと、唖然とするばかりでどうしていいかわからず、目の前にいる父の亡骸を見ても涙すら出ないんです。

 死んだとなると病院も早いんですよ。すぐ霊安室に運んじゃうんです。そうして入退院の手続きと支払いをしました。病院へは救急車で行って、その日のうちに自宅に帰ってきたのに、それだけでも入院したことになるんですね。入院費を払わないといけない。

 突然死の場合は警察が事情聴取に来るんですよ。母はわけのわからない状況の中で警官から聞かれるわけです。警官は事件性を疑うので顔つきも恐いし。淡々と答える母の姿が痛々しかったですね。現場検証が必要だということで、母が警官と自宅に行きました。

 それと、突然死だと病院は死亡診断書を出さないんですね。監察医務院というところがあるんですけど、そこの医者が判断しないと死体検案書が出なくて、それがないと遺体を家に連れて帰れないんです。突然亡くなる人は多いので、監察医務院の医者も忙しいらしく、来るのは午後2時過ぎになるという話でした。
 そうこうしているうちに、妻と妹夫婦が駆けつけてきました。妻と妹は大泣きしてましたね。やがて母が病院に戻り、医者も来てくれました。心筋梗塞だろうということで、心臓にいくつか針を刺して血を抜いて検査すると、急性の心筋梗塞破裂による心嚢血腫とのことでした。心臓を包んでいる膜が心筋梗塞のために破裂して血液が鬱血したのが死因らしいんです。
 本当は解剖しないとわからないんですけど、司法解剖を待っている人も多いので、解剖するとなるとまた一週間は待たないといけないんです。だけど、医者は「事件性はない」と言ってくれたので、警察も納得してくれて司法解剖しなくてもよくなり、ほっとしました。

 母が掛け金を掛けていた葬儀屋があるということで、互助会費の証書を探しにまた家まで帰ったりとかしてバタバタしました。そうして葬儀屋に頼んで、やっと自宅に帰ることができたんです。亡くなってから12時間もたっていないんですよ。病院に駆けつけた時はまだ温かかったのにどうして、と思いました。

 でも、意外と冷静なんですよ。家に帰ると布団に寝かせ、今度は葬儀の段取りをうち合わせたんです。葬儀の日取り、場所、弔問客の数など、大まかな葬儀の仕方を決めました。父の遺体を横にして事務的な会話をするというのも妙な感じでした。
 東京は友引には火葬場が休みなんです。亡くなったのは水曜日でしたけど、斎場が混んでいたのもあって、日曜日に通夜、月曜日に告別式ということになりました。ですから、木金土の三日間は家にずっといたんです。あとで考えたら、一緒にいられる時間が長かったので、家族としてはお別れする時間があってよかったです。
 六畳二間の狭い家なんですけど、私が家を出てから初めて父と母と妹と私の4人がそろって寝食をともにしました。遺体となった父と向き合う日々だったです。息がない以外は全く普段と変わりない。今にもふっと起き上がるのではないかと、母と妹が冗談を言い合ってました。祖母が死んだ時は、恐ろしくて近づけなかったんですけど、生まれて初めて死体を怖いと思いませんでした。死を穢れと感じないんですよ。真宗では死を穢れと考えないんですけど、こういうことかなと思ったです。

 そのころから、訃報を聞いて少しずつ弔問のお客が来られました。みなさん、父の思い出話などをされるんですよ。「お父さんはこういう人だった」と、父の普段の仕事ぶりや人柄を話してくださるんですね。それを聞いてると、父のことを知ってるつもりでいたんですけど、意外と知らない一面があるんだなと思ったですね。私たちには見せなかった顔、家では頑固でわがままだったけど、外では真面目で、自分のことを後回しにしても他人に尽くす人だったということを知りました。

 夕方には孫たちも来ました。あまりの出来事に号泣したと言ってました。父はすごく孫をかわいがってまして、孫たちの味方でしたから。私も気を張ってましたけど、夜、布団に入ると涙が出てきて。

 死亡届を出したりとか、手続きがいやになるくらい大変で。父の本籍地が福井県なので、わざわざ福井まで何度も電話をかけては書類を送ってもらったりしました。戸籍にも何種類もあるんですね。

 納棺する時が一番かわいそうだと思いました。布団に寝ている時は「おじいちゃん、おはよう」と声をかけていたのが、お棺の中に入れてふたをすると、ああ、死んじゃったなあ、これで本当にお別れだと感じましたね。

 近くのお寺さんの会館を借りて通夜と葬儀をしました。お棺が会場に移されると、部屋がやけに広く感じたんですね。もうここには帰ってこないんだなあと思って。
 通夜の日は朝から落ち着かなかったですね。祭壇に飾る花を供えてくれた人の名前を確認したり、田舎から親戚が来るので宿の手配や食事の手配に手違いはないかとか、そんな事務的なことに追われて、悲しむ暇もないんですよ。いろんな人が来るじゃないですか。親戚や友達や。親戚も父方、母方入り乱れて、対応に戸惑うし。父を失ったということと自分が忙しくしてることとがどうも噛み合わないような。でも、忙しくしているからごまかせたのかなという気もします。
 通夜が終わるとお斎になるんです。東京では通夜に食事を出すんですけど、百人ぐらいかなと思ってたら、二百人も来てびっくりしました。業者さんはすぐに対応してくれたんですけど、もうてんやわんやでした。

 告別式は月曜日だったこともあって、通夜に比べるとひっそりとしてました。でも、その分ゆっくりお別れすることができたように感じました。お棺に花を供え、最後のお別れをしながら、こんなに長い時間父のそばにいたことは最近ではなかったなあと思うと、なんだか父に申し訳ないような気になってきたんですね。
 そしたら告別式が終わって、田舎から来てくれた伯父さんに「死んでからいくら立派なことをしてもだめなんだよ。生きているうちに親孝行しとかなきゃ」と言われて落ち込んじゃって。自分では一生懸命やったと思ってたんですけど、伯父さんに言われてそうだなあと。

 父は偏屈なところがあって、意見が合わずに口げんかしたりしてましたから、父ともうちょっと話をしとけばよかったなあというのはありましたね。何か言いたいことがあったんだろうなと。
 よく覚えているのは、暮れに父と飲んだ時に、私がお坊さんになったことをすごく父が喜んでくれて、「これで安心して死ねる」と言ってたんです。それとか、息子の高校がこの春に甲子園へ行ったんで、応援に行った息子がお土産を買ってきたんですね。父に「お土産だって」と渡すと、「こんなものいらねえよ」と悪態をついたんですよ。でも、そのお土産が大事に飾ってあって、それを見た時にじんと来ましたね。
 母が言ってたんですけど、よく二人であちこち歩いていたそうなんです。亡くなる前の週も近所の公園へ花見に行ったんだそうです。近くのスーパーで買ったお弁当とビールをベンチで食べながら、定額給付金が出たら箱根にでも行こうかっていう話をしたんだと母が言うのを聞いたら、自分でも胸がつまってきました。今まで我慢していたものが急にこみあげてきて、なんて言うんですかね、息子として父に何もしなかった自分が情けなかったです。

 告別式がすんで、代々幡斎場という火葬場に行きました。東京はたくさんの人がいるんだなと思いましたね。次から次へとひっきりなしに霊柩車が来るんです。大勢の人が毎日亡くなっているんだなと。
 約一時間後、父は白骨になりました。一週間前にはこんなことになるなんて夢にも思っていなかったのにと思うと、『白骨の御文』の「されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という言葉通りだなとあらためて感じました。自分もいつかこうなるんだなと。

 今まで親しい人の葬儀に何度か参列して、いろんなことを教えられたつもりでいたんですけど、父の死は感じ方が全然違うんですね。冷静にしていられるんですけど、じわじわとあとから来る。

 父のタクシーを処分しないといけないことになって、数日して母と二人で車の中を片づけることになったんです。母は悲しそうな顔をしていましたね。遺体が焼かれるよりも車がなくなることのほうがつらいみたいな。車に父のにおいが染みついているというか、そういう感じがしました。
 車がものすごいピカピカなんですよ。いつでも仕事に出かけられるようになっていて、仕事にかける情熱というか、車を本当に大切にしていたことがよくわかりました。
 最後に日報が出てきたんです。出庫入庫といって、駐車場から出る時間、帰った時間を書く紙があるんです。それを見たら次の出庫時刻が書かれていて、「平成21年4月15日午後10時」とあったんですね。びっくりしました。ということは、倒れたあの日も仕事に行くはずだったんだなあと。

 四十九日をすませ、京都の大谷祖廟に分骨し、墓地を買ってお墓を建てて納骨したのが、父が亡くなって三ヵ月してからです。人が亡くなるというのはこんなに大変なことなのか、ということを実感した三ヵ月間でした。人が死ぬとはどういうことなのかを父が教えてくれたのかなあと思っています。父の死を無駄にしないためにも、この間のことは忘れずにいようと思います。

  2、父の死を通して考えたこと

 父の死をきっかけとして、自分なりに死ということを考え、死をどのように受けとめたらいいのかなと考えてみました。

 まず第一に思ったことは、人はいつか必ず死ぬんだということを頭では理解しているつもりだったんですけど、父を失うまでは頭の中で考えた死だったということです。父は私に死というものを教えてくれたように思います。

 死はあくまでも仮定、仮想の出来事だったんですね。従兄弟が49歳で亡くなったり、教え子の遺体を見たりした時もいろいろ考えました。なんでこんなちっちゃな子が死ななければならないのかと思ったりして。
 死の無常感や必然性といった私の死生観に影響を与える死はたくさんあったつもりなんですけど、やはり自分の家族の死は違うなと。他人の死というのはどこか他人事なんですね。でも、自分の親や子どもが亡くなることは他人事ではすまないんですね。

 頭で考えた死とは違って、実際の死は現実なんです。死は一人の人間の存在をこの世から消してしまうという当たり前の事実が、頭で考えたことではなく、父の死によっていきなり目の前に突きつけられたわけです。ある意味、想定外の出来事でしたね。
 今まで小学校の教師として子どもたちに「死ぬとはこういうことなんだよ」と語ってきたことがいかに薄っぺらいものか、いかに抽象的で一般論にすぎなかったかを痛感しました。現実はそういうもんじゃない、人の死を我がこととして考えることはできないんだなと思ったことです。

 次に、死は予期せずやってくるものであるということ。いつどこでどうなるかわからないとよく言いますけど、本当にそうなんだなとつくづく思いました。ただし、死が訪れるのが偶然かというと、そうじゃなくて必然だなと。
 死は誰にでも必ずやってきます。しかも、いつやってくるかは予想できない。まさかこんな時にこんな所でという偶然性を装っていても、実は必然的な条件がすでに準備されているように感じたんです。仏教では因果といって、因(原因)に縁(条件)が関係して死という果(結果)が生じると説くんですけど、父の死もいろんな縁が重なり合ってのことだったと思うんです。

 父は普段から健康には気をつけていて、散歩とか運動も心がけていたし、健康診断の結果もよかったんですね。だけど、最近太りすぎのところもありました。それと、去年、事故を起こしたんです。それが当たり屋だったんですね。解決はしたんですけど、かなり精神的にまいっていて、帯状疱疹になったり。おまけに父はもう76歳で、しかも夜専門のタクシーだったし。そんな心労や過労があって心身ともにつらく、そのことが心筋梗塞を誘発する引き金となったんじゃないかなとあとになって思ったんですね。

 それともう一つ考えたことは、死んだら終わりじゃないということです。といっても、霊魂がどうのこうのということじゃないですよ。残された者にとってその人の死は、死んだら「はい、さようなら」ではない。身近な人の死によっていろんなことを考えますよね。残された者に大きな影響を与えるんだなと教えられました。

 たとえば、多くの人が私の知らない父の人柄やエピソードを語ってくれました。家族としての父の顔だけではなく、一人の人間として生きてきたもう一つの父の顔を知ったわけです。あるいは、父の死によって死は現実であることを思い知らされたし、やがて来るだろう私自身の死についてもいやでも考えざるを得ない。

 そういうふうに、父がどういう人間であったか、自分はこれからどうしなければいけないか、あるいは自分も同じ日が来るだろうみたいなことを考えたりします。肉親の死を無駄にしないというのは、手厚く葬ることだけではなくて、亡くなった人を通して自分自身を見つめるところにあると思うんですよ。そういうことを考えること、気づいていくことが父の死から受け取った大きなメッセージだったんでないかなと思っています。

 そういうことがあるからこそ亡くなった人を仏様と言うんだろうと思うんですよ。本来、悟りを得た人が仏ですし、それも生きているうちに悟りを得るのが本来なんです。亡くなった人が仏様であるというのなら、その人がどういう人であろうと、どういう人生を送ろうとも、亡くなった人から教えられ、導かれるということがあるはずです。

 私は以前、担任しているクラスが学級崩壊してウツになり、自殺しようと思ったことがあるんですよ。今だから笑いながら言えるんですけどね、あの時は本当につらくて、電車に飛び込もうと思ったほどなんです。それがきっかけでお寺さんとのご縁ができたんですけどね。
 だけど、父の死に接し、そうして父が一生懸命生きてきたことがわかった時に、私は死ぬということに対してどれだけ甘かったかを再認識しましたね。簡単に死んじゃいけないんだ、まして自分で自分の命を絶つことはあってはならない。

 もちろん、死を選ぶ人が毎年3万人以上いて、そこにまで至るいろんな事情があったわけですから、自死する人を非難するわけじゃないんです。自分じゃどうにもならなかったんだろうと思います。それでも、私としては自分の命を大切にしなくちゃいけないとも考えました。そういうことを父の死から受け取ったことです。

 自分ではどうしようもないことがあるということですけど、父も死にたくて死んだわけじゃなくて、トイレに行こうとしただけなんだけど、まさかその瞬間に命を落とすとは誰も思ってもみなかった。父の死もどうすることもできないことだったわけです。

 それは死だけでなく、どうにもできないことはいろいろありますよね。それなのに、職場でも困っている若い先生たちに「何でこんなことができないんだ」と言う人がいるんですよ。でも、できない時にはできない。人間にはどうしようもできないことがあるんだと考えられるのは大事なことだと思うんです。

 次に死の受けとめ方ということですけど、父は心筋梗塞という突然死だったためでしょうね、弔問に来られた多くの方から「苦しまずに亡くなってよかったんじゃないか」「家族にとっては介護もなく、ありがたいのではないか」「闘病生活は家族もいたたまれない。それがない分、幸せだよ」といった慰めの言葉をたくさんいただきました。
 だけど、そういう慰めでは納得できないのが家族の死だと思うんですよ。もちろん、みなさん、気持ちを軽くしようとして善意で言ってくれるんですけど、それが逆に突き刺さったりするんですね。そういった言葉で家族の死を受け入れることができるのかなと思ったんです。まあ、私自身も今までそんな慰めを言ってたわけでして、相手の人を傷つけていたんだなあと気づいたようなことなんですけど。

 それとか、90何歳のお年寄りが亡くなったら、「大往生ですね」とよく言いますよね。他の人と比べて、年だったんだから仕方ないというふうにして死を受け入れようとします。だけど、それはどうかなと思うんですよ。
 90過ぎで老衰で死んでも、働き盛りの人が急死しても、三つの子どもが交通事故で亡くなっても、死ということには違いないんですよ。よい死に方、悪い死に方というのはないし、死んだ年齢で「大往生だ」とか「かわいそう」とかと区別すべきじゃない。90歳の親が死んだことよりも3歳の子どもを亡くすほうがつらいと考えがちなんですけど、でもそれはある意味、差別だと思います。人と比べることはあってはならないなと。

 そうはいっても、私もつい言ってしまうんですよ。同僚のお父さんがガンで長くわずらっていたんですけど、たまたま私の父が死んだ一ヵ月後に60代で亡くなったんです。その時、同僚につい「話をしたり、心構えをする時間があったからまだましだ。うちなんか突然死んだから」と言ってしまったんですね。

 死を人といくら比べたって死んだという事実は変わりません。年齢や死因などで死別の悲しみに違いを探すべきじゃないと思います。悲しみは人と比べられない

 じゃあ、一人ひとり違うんだったらお互いわかり合えないのかというと、そうじゃないんですね。死別の悲しみは誰にも必ずあるわけです。どんな立場の人でも、どんな年齢でも、どんなケースで亡くなっても、残された人は「悲」「哀」「空」「虚」「恨」「悔」「苦」「痛」「悼」といったいろんな、時には矛盾した心情を持つはずです。死は必ず誰にでもめぐってくるわけですから、どんな人にも共通しているんですね。

 グリーフケアという言葉があります。グリーフとは悲嘆ということで、身近な人を亡くした話をする、そして人の話を聞く、そのことによってお互いが悲痛を分かち合い、支え合うことです。悲しみや傷みはケースによって、また人によって程度の差はあっても、必ず共通するものがあります。だからこそ、人は他者に対して優しく接することができるんでしょうね。

 つらいのはつらいでいいと思うんですよ。泣きたい気持ちを抑えることはない。泣きたくなったら泣けばいい。母は公園に行くのが一番つらいと言ってました。公園に行くとおじいさん、おばあさんが二人で歩いているじゃないですか。目につくんですね。「なんでうちのが死んで、あんなじいさんが」と言うんです。でも、それは素直な気持ちだと思うですよ。
 そんな時、「私もそうなんですよ」と言ってくれる人がいれば、悲しみがなくなるわけではないし、自責の念は消えないけれど、だけども同じ気持ちを持っている人がいるというだけで、どこかが違ってくるんですね。話を聞いてくれる場がある、共感してくれる人がいるというのが大事かなあと。

 ご主人が自死された方なんですけど、お寺の聞法会に来られたんですね。最初は慰めてもらいたいとか、話を聞いてもらいたいということだったんだそうですけど、仏教の話や親鸞聖人の話を聞く中で、「親鸞聖人の言葉を学ぼうと思います」と言われるようになったんです。悲しみの中にあっても、自分の抱えている悩みや苦しみを自分なりに受けとめ、それをどのように整理していくかという聞き方に変わっていったんだと思うんです。仏教の話を聞いているうちに、だんだんと求めるものが違ってきたんでしょうね。
 そういう場があれば、そこへ自分で足を運ぶことによって、すぐには変わらないだろうけど、楽になりたいというだけの状態から抜け出していくきっかけになるんじゃないかと思うんです。悩みは解決しないでしょうね。というか、問題がなくなるなんてあり得ないですから。それでも足を運ぶことが大切だと思います。

 私は、自分自身が苦しい経験してみて、自分の中で解決してそれでおしまいということでは納得できなかったんです。というのは、私がつらかったのは、話を聞いてくれる人がいなかったことなんですね。四面楚歌の状態で誰一人そばにいてくれなかったので、余計につらかったと思うんですよ。せめて誰か人がいたらと思いましたね。
 それで、同じように苦しんでいる人がいたら「自分はこういう経験をしたよ」と伝えていきたいと思ったんです。つらい思いをしている時には誰かとつながっていることが大切だから、せめて声だけでもかけるようにしています。
 職場に悩んでいる人がいたら何とか助けてあげたい、何とか支えていけたらとは思うんだけど、でも実際のところ私の力ではどうすることもできない。何もできないけど、少しでも声をかけたいなと思うんです。ああしろ、こうしろと言うんでなくて、話を聞ける人でありたい。そんなふうにつらい経験を自分だけのものにするんじゃなくて、他の人に少しでも還元していく、はたらきかけていくことが大事かなと。

 私は教員だという意識が強くて、私が子どもを何とかしなくちゃと一生懸命にやってたんですけど、自分ではどうにもならないという状況に置かれた時に、自分で自分の首を絞めているというような言葉に出会ったんですよ。
 私は「何で自分がこんな目に遭わないといけないのか」と、全部人のせいにしてたんです。だけどその言葉に出会って、人のせいだと考えることで、自分で自分を苦しめているんでないかと気がついたんですね。
 そして、見方を変えたらどうなんだ、親や子どもたちが苦しめていると考えるのではなく、自分が変われば人も変わるんじゃないかと思ったら、ふっと悩みの方向が変わったんです。もしもあの時にその言葉に出会わなかったらつぶれていたなというのがあります。

 今も乗り越えたわけではないんですけど、苦しんでいる人たちに「絶対大丈夫だから。おれもそうだったし。時間が経てば納得できるかもしれない」と声をかけたり、話を聞いたりしたいです。聞くだけでもいい。

 仏様もたぶんそうです。仏様とは私たちの言っていることを無条件に聞いてくれてるのかなと思うんです。呼びかけているだけじゃなくて、こっちが「苦しいんです。何とかしてください」というのを黙って聞いている。私が思いをぶつけても仏様は何も言わないでじいっと聞いていてくださる。アドバイスをしてくれるわけではないんですけど、黙って静かに聞いてくださる。そのうちに、自分の言っていることがどういうことかが気づいてくるんじゃないかなと思うんです。

  3、死と葬儀

 なぜ人は葬儀を行うのかということを自分なりに考えてみました。私は長男なので、父の死によって初めて葬儀を執り行わなければならない立場に立たされたわけです。自分が何とかしなくてはいけないというのでがんばったつもりです。

 二つのことが頭にありました。一つは、長男としての責任感。父の恩義に息子として感謝する意味で半端なことはできないという気持ちです。もう一つは、父の体面と世間に対する見栄です。

 生前、父はこじんまりした葬儀でいい、お墓は必要ない、本山へ納骨すればいいと言ってました。だけど、いざとなるとみっともないことはできないという虚栄心が出てくるんですね。無理して費用を捻出し、できるだけのことをした気になって自己満足していたように思います。伯父の話ではないですけど、死んでからどんな立派なことをしても本人のためにはならないんだとたしかに思いました。

 だからといって、葬儀をやらなくてもいいとか、お手軽に安くて楽にすませたほうがいいということでもないんですね。故人に何かしてあげるために葬儀をするんじゃなくて、自分を振り返るということがないと、見栄だとか虚栄心になってしまう。葬儀が単なる体面や世間体を保つためのものなら、家族の死から何も教えられなかったことになると思います。それではせっかくの葬儀をする意味があまりないと思うんですね。死を通して自分の生き方や死に対する自覚を促すことが本来の葬儀の役割じゃないですか。

 父の葬儀では、葬儀をどう行なったらいいのかということが頭にありました。ですから、葬儀社と綿密な打ち合わせが必要だと感じましたね。葬儀は突然なことだから、気が動転している中で大きな金額のことを考えなければいけないので、細かい費用の内訳なんか、具体的に相談しないとあとでトラブルの原因になるそうです。お棺代や送迎用の車代、寝台車(?)の料金など、私たちには相場のわからないものも多いですからね。料理屋についても同じで、他人任せだと必要のない料理まで注文するようなことが起きるそうです。
 今回は良心的な葬儀社で、見積りを迅速に行なってくれたことがとてもよかったです。それでも予想以上に会葬者が多かったので、料理のお寿司が多くなって費用がかさみました。会葬御礼や返礼などは人数の変動によって大きく異なるんですけど、ほぼ香典の半返しだそうです。もっとも、返礼は義弟が勤めている会社の関係でできたので、比較的安くて助かりました。そうじゃなかったらもっと赤字になってたですね。

 葬儀の祭壇は花祭壇にしました。本来なら互助会の積み立てで一般的な祭壇が無料で使えたんですけど、見た目の点で花祭壇にしたんです。親戚や知人たちからお花をたくさん出してもらったので、盛大だったと思います。葬儀社の方から「最近、一般の家庭でこれだけの盛大な葬儀はされません」と言われました。

 いかに葬儀費用を抑えるかが現代の葬儀の基本らしいです。このごろは圧倒的に家族葬が多く、小規模化しているそうです。また、直葬といって、葬儀は行わずに直接自宅や病院から火葬場へ搬送してすませるのが増えていて、東京では2割から3割なんですね。葬儀や埋葬の仕方が変わってきてるわけです。
 最近多いのは宗教色を排除した葬儀で、お別れの会とか偲ぶ会的なものですね。音楽葬というのに行ったことがあります。こういった葬儀が増えているのは、宗教上のこだわりがない人が多くなっているということなんでしょうね。それとお布施や戒名料にお金がかかりすぎるということも大きいだろうと思います。

 本を読むと、今のような葬儀は昔からあったわけではないそうです。江戸時代は野辺送りが中心で、埋葬しておしまいだったようです。今のようなセレモニー的な葬儀は明治以降、大正から昭和にかけて整えられたものらしいんです。
 お墓にしても、今のような形のお墓は火葬が一般化されるようになった大正から昭和初期からのもので、土葬の時代は個人墓ですし、ちゃんとした墓石があるわけでもないので、遺体が朽ちると、どこに埋めたかもはっきりわからなくなることが多かったそうです。

 そう考えると、現代の家族葬や直葬、散骨、自然葬といった考えが起きてくることは、ある意味自然なことでもあるなとも思うんです。父も言ってましたよ、「海にまけばいいんだ」と。だけど、そういうもんじゃないんだなという気がね。
 親鸞聖人も「死んだら鴨川の魚に与えよ」と言ったそうです。ところが、遺体は荼毘にふされて大谷というところにお墓をこしらえ、それが本願寺になり、私たちの心のよりどころになっているわけです。

 死別の傷を癒すのは時が経つことかなと感じますね。でも、その一方で日が経つにつれて父の死の記憶も薄らいでいくという自分がいるわけです。あんなに頻繁に母の家に行って、慰めの言葉をかけていたのに、時間が経つとともに、三日に一度になり、一週間に一度になっていく。そういうことがあります。父がいないことに慣れてしまった自分にいかんなと危機感を感じるんですね。

 そんな時によりどころとなるのはお墓とお内仏なんですよ。お墓を建ててみて、お墓やお内仏は大事だと思いました。お墓ができたら行かなきゃという気持ちになりますから。毎月15日になると行ってこようかなとか、お花が枯れてるかもしれないとか気になるんですよ。父が墓の中にいるわけではないんだけど、墓を通して自分を振り返る機会になるためにも、そういうものがあったらいいなと。

 父は肉体を失ったけど、私の中では仏としてはたらき続けてくれているように思うんです。私は父の写真をお内仏の下に置いているんです。お内仏に手を合わす時に、父の写真にも拝むんですよ。いつも怒られているというイメージがあるんですけど、そういうことが父に支えられてもらってる。父は何も言わないけど、自分にはたらきかけてくれてる。それは私が思っているだけかもしれないけど、父の写真を見ながら、こんな時に父は何て言うんだろうとか、写真をまともに見れないのは自分にやましいことがあるからかなと思うことがあるんです。それは父がはたらきとなって私にはたらいているからだと思います。

 その意味でも仏事というのはうまくできていると思うんですよ。七日ごとの中陰、そして一周忌から始まって何年かおきに年忌法要がありますね。そして、一年のうちにお彼岸が二回あって、お盆があり、月命日は毎月あるわけです。忘れたころに故人を偲ぶシステムが用意されているわけです。考えてみるとありがたいことだなと思うんですよ。それは追善供養という意味じゃなくて、故人を偲ぶことを通して自己を確かめる機会だと言っていいと思います。

 ネアンデルタール人の遺体のそばから花の種が見つかったということを聞いたことがあるんです。どういう意味で花を手向けたのかはわかりません。死者が出てきたら困るとか、祟らないようにとか、そういうことかもしれないですけど、人情からすると、花を手向けるのは亡くなった人に感謝するとか、幸せになってほしいとか、そういう気持ちがあったんじゃないかと思います。十万年も昔の原始人であっても、花を捧げて死者を悼む気持ちを持っていたのはすばらしいことだと思うんですね。

 父の葬儀を通してたくさんのことを考えることができました。いろんなことを教えてもらったし、学ぶ機会を与えてもらったので、父にはありがとうという気持ちでいます。清沢満之という人は「死もまたわれらなり」と言っています。死は人生の終着点なんですけど、それだけではなく、残された人が身近な方の死によって新たに歩み出すならば、死は出発点になるんじゃないかなと思いました。
 これで終わります。ありがとうございました。
(2009年8月22日に行われたおしゃべり会でのお話をまとめたものです)