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  永岡 英子さん 「オウム真理教にかかわって」
                          
2009年6月27日

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 永岡英子と申します。「オウム真理教家族の会(旧称オウム真理教被害者の会)」のものです。「オウム真理教被害者の会」を平成元年(1989)10月にみんなと作りました。ところが、平成7年(1995)に地下鉄サリン事件が起こって純粋な被害者の方が出たために、名称を「オウム真理教家族の会」とあらためました。それでカッコして(旧称オウム真理教被害者の会)としているんです。

 私たちの会は「地下鉄サリン事件被害者の会」とは違います。「家族の会」はオウム真理教に入信した家族を脱会させようとしている人が集まってできた会です。「地下鉄サリン事件被害者の会」のほうは、地下鉄サリン事件と松本サリン事件、仮谷さん監禁致死事件、VXガス事件などの被害者が一緒になってやっている会です。

 ここまで被害が広がる前に、私たちがもっといろんな運動をして教団を何とか解散まで持っていければよかったんですけど、そうすることができなかったことについて、日本中の人に申し訳ないと謝らないといけないと思うんです。自分たちの力不足で教団がカルト度を強めていった。そういった意味では、私たちのやり方が悪かったのかなということも思います。

 先週、「家族の会」創立20年目の総会をしました。メンバーは百人をちょっと欠けるぐらいです。一緒に始めた人の中にも、今も現役信者の親御さんがいらっしゃいますし、脱会しても会のために活動されている方もいます。
 私たち夫婦の息子は会を始める3年ぐらい前に息子がオウム真理教に入信し、1989年には出家しました。同じ悩みを持つ人がいるんじゃないかなというのが出発点です。会員がいなくなるのは現役の信者が減ることなので、本来はそうありたいんです。会則としては、信者が全員帰ってくるまでは会は解散できないことになっています。

 オウム真理教は1995年3月22日の強制捜査の後、10月30日、東京地裁により解散命令を受けました。1996年1月30日、最高裁で棄却され、宗教法人として解散させられたんです。でも、2000年にアーレフが設立され、ひかりの輪が2007年に分派しています。
 彼らは、麻原さんの教えと切り離したと言ってますけれども、私たちからすると何も変わっていないんですね。麻原さんの教えを自分たちで精査してオウムの教義を捨て去り、自分たちが新たに作った教えで別の教団を作ったというのならまだわかるんですけど、そうではない。教えはそのままで、外側だけ変えているんだから、実態は元のままなわけです。そこらへんをあんまり簡単に考えてもらうと危険だと思います。

 彼らは「家族の会」を敵対視していると思うんですね。私たちの会は、自分たちの家族が入信して教団に入っているわけですから、敵対するつもりはないんですよ。向こうからアプローチしてもらえば話をしたいんだけど、彼らは私たちを拒むわけです。
 これはオウムだけじゃなくてどのカルト集団もそうなんですけど、教団の結束のためにわざわざ信者に家族と敵対させるようにしていく。だから、彼らが私たちに「会合を持ちたい」と言ってきたら、カルト度が下がっていると判断できるかもしれません。でも、いまだにそういうことはないですから、団体としては敷居が高いわけです。

 ただし、強制捜査以降、信者個人と親御さんとの行き来とか、電話やメールとかで必要な時に連絡を取れるようになったようです。閉鎖的であってはいけないと、いろんな人のアドバイスが教団にあったんじゃないかと思うんですね。そういうところから脱会に行く人もいるので、歓迎したいと思っています。
 それまでは一切だめでしたからね。親が亡くなろうが、緊急なことで連絡を取りたいと思っても一切だめでした。そう言いながらも、ひょっこり家に来たり、連絡があったりすることがあって、それはお布施目当てだったんです。何か目的があるわけです。ものを買ってほしいとか、何か目的があって連絡してきてたんですね。その点では今もあまり変わっていないかと思います。

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 1987年に息子がオウム真理教に行きだした時、私たちにも信者になってほしいと言うわけですよ。私自身、オウムのことを知らなかったし、息子が勧めるオウムの本も一切読みませんでした。
 「被害者の会」の発起人会の前に、夫が「参加しようと思うが、どうか」と聞くから、「参加するのはいいけれど、会をやるとなったら、うちの子が脱会したらそれでさようならというわけにはいかないよ。それを覚悟の上で言ってんの。参加したら最後までするしかない。それでいいのならやりましょう」と言ったんです。

 1989年10月21日に坂本弁護士の指導で「オウム真理教被害者の会」が結成され、28日「オウム真理教被害者の会」第一回の総会がありました。「年内にもう一回全国大会をやってほしい」と坂本弁護士に言われたんです。ところが、11月4日、坂本弁護士一家三人が突然いなくなったんです。会を作って半月ぐらいなんですよ。
 坂本弁護士一家のことは重さが違いますね。私たちがお願いしたばっかりにあんなことになってしまって。だから私の気持ちとしては複雑なんですよ。怒りよりも悲しみが強くて。坂本先生一家を早く解放してほしい、二、三ヵ月したら戻してくれるんじゃないかと思ってました。こんなことになるなんて少しも思ってませんでした。
 オウムに入会した子供たちの脱会が会の目標だったんですけど、坂本先生一家がいなくなったことで、私たちの運動に坂本先生一家を取り戻すということが目標に加わりました。警察は家族三人がいきなりいなくなっても事件として扱わない。失踪なんてあり得ますか。

 坂本先生一家がいなくなる前に、出家した人たちが残したものが全国から届いたんです。それを冊子にして裁判の資料にするからと、坂本先生がおっしゃったんですね。それとか、信者が家に置いていった粉薬を検査してもらうとか、教団には小さい子供たちがいるんで、学校に行っているのかということで文部省宗務課に相談したりとか、オウム真理教の反社会性を行政に訴えて、宗教法人としてどうして認可したのか話しに行ったりしてたんですよ。

 私たちは坂本先生が一つ一つ指導してくださったことを地道にやってきました。それと平行しながら、会員は勉強してきたわけです。仏教者や神父さんたちにお話をうかがったり、カルトから脱会させるための勉強会をしたり、家族はどうすべきかとか。入信した家族を救出するためにカウンセリングを受けたりしました。そうしたことは時間がかかるし、脱会しても家族がそれで落ち着くわけでもない。そう簡単に解決することじゃないから。

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 麻原彰晃のことは心の中では煮えくりかえらんばかりに思っていても、最近はみんな「麻原さん」と「さん」づけにする人が多くなりましたね。最初は「さん」なんかつけてなかったです。それは自然の成り行きというよりも、勉強させてもらったということが一つあります。

 それとこういうことがあったんですね。90年1月に出家した息子が帰ってきました。それから会に相談が入るとご家族と会って状況を聞き、出家しそうだという人がいれば、本人に出家をとどまらせるために話し合いをするようになったんです。
 滝本弁護士は法律的なこと、教団が法に触れることをやっていることを説明し、息子が教義、ここがおかしいということを指摘する。そういうことを二年間ぐらいやったんですね。
 ある時、滝本さんが現役の信者の前で教祖を呼び捨てにしたことがあって、あとから息子が「本人の前で「松本智津夫」とか「麻原」とか呼び捨てするんじゃなくて、「さん」づけにしないと、聞く耳を持ってくれませんよ」と言ったらしいんですね。それ以来、滝本さんも「さん」づけするようになったんです。

 私たちとしたら、間違った教えをやめてもらうために自然体で勉強しながら、「さん」づけが習慣になっただけです。敵対する人であっても「さん」づけするのは、その人の人格を尊重する上ではいいことかもしれませんね。
 あまり深く考えないで自然にやってるだけなんですけど、でも社会的に見ると変なふうに感じるらしいですね。マスコミの人からもそう言われたことがあります。

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 行政に対しては怒りを感じましたね。宗教法人を認可した東京都は腹立たしい。もっとも、宗教法人として認可するなという圧力に対して、彼らは早く与えろと裁判を起こしているんです。
 オウム真理教は1989年3月、東京都知事に宗教法人認可を申請したんですけど、未成年者に高額の布施をさせて出家させることに親たちが反対していることを理由に、東京都は申請を保留したんです。それに対してオウム真理教は6月1日都知事を相手取って訴訟を起こすし、都庁や文化庁に押しかけて抗議してるんですね。結局、8月25日に東京都から宗教法人の認証を得ました。
 オウムは何かちょっとあるとすぐ訴えて裁判にする。私たちも訴えられて裁判に負けたことがあります。上告したらサリン事件が起きて、結局うやむやになりましたけど。

 マスコミにも怒りを感じました。マスコミが偏った意見を報道しすぎる。私たちは普通の生活をしてたから、最初のころはマスコミ対応をわかっていないかったわけです。ワイドショーにも出てましたからね。

 それと、しつこいですね。私たちに取材したいと言われると、名前や顔を出したくない人が多いので、「かまわない」という主人に取材が集中するわけです。マスコミは夜遅くになって、なおかつVXガスの被害者なのに、平気で「今から取材にうかがって」と言うわけです。「何時だと思ってるんですか」と怒ったことがあります。

 それに対して教団は、マスコミをうまく使うんです。上手なんですね。マスコミがカルトについてわかっているかどうかはさておき、視聴率がとれる二極対決みたいに持っていくんです。こちらが言うことに対して、公正な報道ということでオウムにも取材するので、結局は彼らの引き締め材料や宣伝に使われるわけです。それがいやで、94年ごろから私たちはマスコミとは対応しなくなりました。静観しようということで。

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 オウムの富士の本部に行くと汚いし、信者は身なりをかまわないんですよ。だらしないというか。信者たちに「ほんと汚いよ。ここは国立公園なんだし、身の回りからきれいにしていかないと嫌われるよ」と何度も言ったことがあるくらいです。
 信者たちは本来はきれい好きで育っている人たちなんです。だけど、教団は洗剤や化粧品を使わずに、そのお金で布施をさせるわけです。何でも布施にして、最後はテレホンカードの残り回数まで布施にしてましたからね。

 1990年5月、オウムが熊本県波野村に進出して、地元住民が反対運動したことがあります。ちょうどそのころに台風が来たんですね。波野村のふもとが洪水になって大変な被害だったそうです。
 オウムは波野村に土地を購入して、若い信者がいっぱいいたわけですよ。その時に、「こんな大変な時だから、みんなで手伝いに行こう」と麻原さんが言うんじゃないかと、期待半分、もしそうなったら我々の運動をやり直さなくては思ったのが半分。でも、全然逆でしたね。逆に、村の人がオウムを非難するものだからバチが当たったんだというチラシをまいたんですよ。
 ああ、これは間違いなくカルトだと。もしも少しでも良心があれば、みんな困ってるし、若い青年が教団には大勢いるんだから、災害を救うために何かしたっていいわけでしょ。宗教者だったらそれくらいのことをしてもいいと思うわけですよ。何と心が貧しいかなと。

 要するに、私たちの考えることと真反対のことをやっているわけです。相談の電話が来ますよね。その時には「全く反対を考えてみてください」と言うんです。オウムの常識は社会の非常識、社会の常識はオウムの非常識。カルト団体はどこでも当てはまることなんですけど。

 私は最初オウムのことをなんにも知らなかったんです。知らないから恐いとか薄気味悪いとか思って。でも、運動を始めてオウムが出しているものとか資料が手に入るわけですよ。相手がどういう人間かわからず、異質なものだから気持ち悪く感じたのが、いろんな資料とか読んでいくうちに、何のことはない、教祖といっても私より若い男なんだなと。
 内情がわかるようになると怖さもなくなって、麻原さんが考えることが読めるようになってきたわけです。カルトだって人間がやってることですから、およそ判断がつくなと思いますね。警察より私たちのほうが先に感知しているんで、事件が明るみに出た時もやっぱりというのがありました。

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 95年1月4日、主人がVXガスの溶液を首筋にかけられたんです。それがなかったら、95年の強制捜査以降、もうちょっと違う動きがとれたかなあというのはありますね。

 主人は被害者の会の代表をしていましたから、オウムに狙われているのはわかってたので注意してたんですけど。麻原さんは主人か息子のどちらかをVXガスで殺害するよう指示してたんですね。ところがその日、息子は友人と一緒に出かけたんです。一人じゃなかったので、息子を襲うことが彼らもできなかったんでしょうね。

 年末から私の家を見張ってたそうです。1月3日に正月旅行から帰りまして、4日朝、主人は年賀状を投函しに行き、うしろからVXガスを首筋にかけられたんです。家からポストまで100mぐらいの距離です。
 私は風邪をひいていてずっと家にいました。主人はVXガスをかけられたことには気づかずに家に戻ってきて、その日は雨が降っていて薄暗かったんですけど、「今日は暗いな」と言いだしたんですね。サリンとかVXガスは瞳孔が狭まってくるんだそうです。
 そのうち発汗がすごくなったんです。冬ですから分厚い下着を着てて、それがびしょびしょになって、脱がせるのに汗がぼたぼたと落ちるんです。私は必死になって下着を脱がせてタオルで汗を拭くんですけど、主人は苦しいのと暑いのとで「あじゃじゃじゃ」と言いながら、四つん這いになってはうんですね。救急車が来るころには固まってました。そんな状態でした。

 最初の診断は脳主幹部梗塞だったんです。主人が入院した翌日に医者から話を聞きましたら、「血液を調べたら農薬みたいなものが出た」と。一般的には、農薬を使う仕事じゃなければ自殺なんですって。うちは農業はやってないし、だけど自殺は考えられない。
 そして、医者からは99%だめだろうと。「残る1%は何ですか」と聞いたら「植物人間です」と。危篤だったんですよ。主人の兄が病院に来てくれて、息子と葬式の準備をするので話をしてたらしいです。
 主人がだめだったら、それじゃ運動は私が続けてやっていこうと、即座に思いました。運動をやめようとは一切思いませんでしたね。それぐらい私たちも必死でしたから。生活の一部としてずっと運動をやってたので。

 主人の汗を拭いたタオルを病院で返されて、そのタオルを私はハンカチ代わりにしたり、首に巻いたりして使ったんです。主人は年賀状を出しに行く時に着てたスタジアムジャンパーを食卓のイスにかけてたんですね。夜は気持ちが高ぶって寝れなくて、冬で寒いですから、主人のそのジャンパーをはおり、汗を拭いたタオルを首に巻いてたんです。
 そしたら10分ぐらいしたら首の後ろがひりひりして、痛がゆいという感じだったんですよ。風邪をひいているからかなあと思って、手で触るとじゅくじゅくしてるんですね。虫に刺されると汁が出るじゃないですか。そんな感じなんです。気になるんで息子に見てもらったら、「赤くなってるよ」と言われて。
 翌日、主人のジャンパーを見ると、スカイブルーだったのがお茶のような黄土色になってて、ぼてっとしたものがついてるんで、何だろうと思って息子に匂いをかがすと、「油のグリスみたいなものじゃないの」と言うんですね。私もかいでみると、甘い感じとごま油と、それからちょっと変わった感じの匂い。でも、嫌な匂いじゃないんです。それがVXガスの匂いだったんです。
 そのジャンパーは警察が証拠品として持っていったんですけど、何も出なかったんです。私の首のところにじゅくじゅくは10日間ぐらい続きました。

 警察は身内から調べるんですね。私と息子が警視庁に連れていかれて取り調べを受けました。95年6月でしたか、VXガス事件の実行犯が自首して、VXガスだとわかったわけです。VXガス事件は3人の被害者がいるんですけど、全部同じ人が犯人なんです。彼が自供して始めてわかったわけです。実行犯が白状してくれたからよかったようなもので、彼が何も言わなかったらわからないままだったかもしれないですね。

 犯人が逮捕されるまでは家から避難してたんです。自分の家にいてまた何かやられると、ご近所に迷惑がかかると困るので。犯人が逮捕されて一週間ぐらいしてTBSから電話で、「永岡さんの事件はVXガスだそうですよ」と教えられたんです。「警察から連絡がありましたか」と聞かれたけど、警察からは何もなかったです。

 主人は14日間入院しまして、幸い一命はとりとめました。それからすぐに地下鉄サリン事件が起きたわけです。
 事件かあ15年ぐらいたちましたけど、今も月に一回病院に行くとリュックいっぱいの薬をもらってきます。足が痛むので動けないのがイライラするようです。今も会の代表をしています。

 私もオウム事件の被害者の一人ということになるわけです。永岡弘行VXガス事件の名簿に私は含まれていないけれども、事実はこうだったんだというものを残してほしいと思うんですね。後々何かあった時に「認定してくれ」と言っても認めてもらえないですから。

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 私たちは直接の加害者じゃないし、VXガスの被害者ですけど、加害者側の家族という看板を背負っているんで、そのへんが純粋な被害者の人たちとは何となく違っているんですね。息子は友人を誘いましたけれど、幸いに入信しませんでした。

 被害者支援といいますけど、手厚い支援があったにしてもそれで被害者の心が満たされるわけでもないでしょうね。被害者の人たちに対して何かするといったって、そんな簡単な話でないし、言葉でただ謝るのもと思いますし。どうしたら一番いいか私も考えるけど、わからない。

 私は本当の意味では被害者ではないんだなと思うんですね。息子は90年1月に教団をやめましたし、主人は被害者だけどとりあえずは普通に生活できてますし。失ったものが返ってこない被害者の人たちとは違いがあるんですね。被害者の方には私が想像する以上のものがあると思います。当事者にならないと難しいですね。

 被害者への償いは自分のできる範囲でするしかないですね。現役信者の家族にしてみれば、脱会に導いて教団が少しでもなくなっていく方向に近づけることかと思います。そして、加害者は社会復帰して、自分のできる範囲で社会に迷惑をかけずに真っ当に生きていくこと。
 私は欲ばることはないと思うんです。被害者に対して何かをしなくちゃという気持ちはとっても大切だと思うんですけど、そんな簡単なもんじゃないですよ。社会復帰だって楽じゃない。社会で受け入れてくれる人も少ないわけですから。カルトの信者の気持ちを理解しろというのは無理だと思います。

 カルトの中にいると、自分で考えないで人の指示に従うようになるのが特徴ですから、まず自分で考えるということ。そして教団から一歩出て、間違っていたと検証していくこと。そうして社会の中で普通に生きていくこと。
 それでなおかつ何かができればと思えば、自分のできることをすればいいのであって、最初からハードルを高くするとプレッシャーになって、教団をやめたくてもやめれなくなってしまう。できないのにあんなふうにやらなくちゃ、こうでなければいけないと思い込んでしまうのはかえってマイナスかなと。

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 会ができてから20年以上もたったのかと思ったり、短かったなと思ったり。オウム真理教に出会わなければ、ぼけーとして平々凡々に暮らしていたかもしれませんけど、私自身にとっては自分を見つめ直しながら、他人様と行動していくという機会をいただいた。そんなことを言うと、被害を受けた方には申し訳ないですけど。

 大勢の人と出会って教えられたり、被爆者とか薬害肝炎訴訟とか、いろんなことに目がいくようになりました。今は私にとって一番関心があるのは死刑問題です。
 会を作った当初は死刑反対だとかいうことにまったく興味がなかったんですけど、いろんな本を読んだり、お話を聞いたりしていると、死刑は戦争とつながるなと思ったんですね。その時に麻原さんも死刑でなくていいやと思ったんですよ。会の中では死刑に賛成の人もいますから、あまり大きな声では言えませんけど。会の活動と連動させながら、死刑になった元信者を救うことをやり出したんです。

 息子はオウムをやめて普通に生活していますし、麻原さんは死刑が確定したけど、私の中ではオウム事件は全然終わってないんですよ。裁判で100%は明らかになっていないし。気持ちの整理はできていない。まとめができない状態です。これからも会の活動を続けていきたいと思います。どうもありがとうございました。
(2009年6月27日に行われましたおしゃべり会でのお話や質問に対する答えをまとめたものです)