真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  中杉 隆法さん
     「いのちから問われるもの、
               これまでの出会いを通して」
2018年7月9日
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 こんにちは。中杉隆法と申します。神戸からまいりました。今日は戦没者追悼法会という、とても大切な場でお話をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 大変な大雨でした。皆さんは大丈夫でしたか。広島では平成26年の8月にも水害による土砂崩れが起きて、多くの命が奪われました。今回はそれを上回る大きな被害、大勢の死者が出る災害になりました。まさかですね、この法会の直前にこんな大きな災害が起こるなんてことは思ってなかったです。しかし、災害はいつか必ずやってくるんだと、あらためて教えていただいたのかなあと思ってます。

 一昨日までは、広島に行けるのかな、無理かなという感じでした。新幹線が止まってましたし、高速道路もストップしている。これはどうかなと思ってたら、昨日ようやく新幹線が無事に復旧したということで、今朝、神戸を出てきました。広島駅では、あんな災害が本当にあったのかなあと思うぐらい、不思議な平静さというか、何事もなかったかのような、そういう雰囲気で、少し違和感を覚えたぐらいです。

 今日は戦没者追悼法会ですから、もちろん戦争ということ、それから今回の災害、そういう形で命を奪われていく現実の中で、私たちはどのように生きようとしているのか、あるいは生きたいと思っておるのか、そういうことを一緒に考えていきたいと思ってます。

 戦争というと政治的な問題。災害だと環境の問題。それから経済的な問題、文化的な問題など、私たちを取り巻く社会の中ではいろんな問題があるわけです。それぞれの専門家やいろんな人たちがそうした問題に対していろいろ言ったり、考えたりしておるわけですね。そうした問題を一つひとつ考えていく上において、私たちが本当に大切にしなければならないことはいったい何なのか。

 最初に僕の思いを言いますと、これはすべて命の問題として私たち一人ひとりがきちっと向き合っていかなければならない。単に、政治がいいとか悪いとか、環境がよくなったとか悪くなったとかいうことだけでなく、それを突き詰めていくと、私たち人間、人間だけではなく命あるものすべてが、どのように生きていくのかという命の問題として考えていかなくてはならないと思っています。

 そういう意味では、真宗はこの命ということを中心としています。私たちを生かさしめるもの、あるいは私たちを共に生かそうとするもの、そういうものをよりどころとして、あるいははたらきとして、私たちは真宗を聞いてきたはずです。

 しかし、命に対する感覚といいますか、そういうものが少しずつ変化しているのではないか。あるいは、命に対する感覚が失われているのではないか。そういうことを念頭に置いて、戦没者追悼法会について考えてみたいと思います。「私は戦争ということをこう思う」ということはずっと考えておるんですけども、皆さんの前で私が戦争について軽々しく語ることはできないです。じゃあ、何を話したらいいのか。何をどう生きるのかという命の問題を、僕自身のこれまでの経験、皆さんと比べて本当に短い時間ですけれども、経験や出遇いを通してお話しさせていただきたいなと思っております。

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 僕は神戸市の兵庫区というところにある西林寺という寺をお預かりしております。今年で47歳になります。妻と高校1年生になる息子と中学2年生になる息子、それから4歳になる娘とですね、それから両親との7人でにぎやかに生活しております。

 今でこそこうやって衣を着て、皆さんの前でお話しさせていただいとるんですけど、実は僕は小さい時からお坊さんになるのが嫌で嫌でしょうがなかったです。どうやってお寺から逃げ出そうかなと思って大きくなってきました。だって、お寺でね、長男として生まれたとなったら、もう決まっとんですね、跡継ぎなることが。「あなたはこのお寺の跡継ぎや」と言われてね。両親はもちろん、おじいちゃん、おばあちゃんとか、ご門徒さん、近所の人たち、あるいは同級生、みんなから「お前はお寺の跡継ぎや」と言われて大きくなったんです。おぎゃーと生まれた時から、自分の歩むべき道が決められておるんですよ。夢も希望もないでしょ。

 小さい時から先生とかに「夢や希望を持って生きましょう」と言われてきたわけです。みんな自分の将来を思い描くわけですよね。女の子なら花屋さんになりたいとか、看護師さんになりたいとか、男の子だったらパイロットになりたいとか、野球選手になりたいとか、それぞれ自分の将来を描くわけです。

 もちろん、夢や希望どおりにはなかなかいかないわけです。むしろ夢や希望どおりにはいかずに、自分がこうなりたいって思ってたことがすべて破れて、絶望の中で現実を生きる私がおるわけです。生かされている私がいる。じゃあ、絶望しても生きているこの私を生かしているものはいったい何なのかと思うわけです。

 僕のことで言うと、お寺が嫌で嫌でしょうがなかった。でもね、僕はそれほど親に反発することもせず、お寺を飛び出すこともできずに、気がついたら京都の大谷大学に行ってました。初めての一人暮らし。それなりに楽しかったんです。まわりもお寺の跡継ぎの子ばっかりで、夜な夜ないろんな話をしたりね、それなりに学生生活を楽しんでおった。

 卒業を目の前にして、「ああ、これでいよいよお寺に帰って、お坊さんとしての生活が始まるんや。月参りしたり、お葬式のお勤めしたりして、お坊さんの生活が始まるんやな。あれだけ嫌がってても、結局自分はそうなるんやな」って漠然と思いながら過ごしておったんです。

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 ところが、卒業を目の前にした時に、私にとってとても大きなことが起こりました。1995年の1月17日、阪神淡路大震災が起きました。震度7の直下型地震いう、下からどーんと突き上げるような地震。僕はその日は京都の下宿におったんですけれど、京都でも震度5くらいでした。

 あわてて神戸の実家に電話するけど、全然つながらないんですね。テレビをつけたら、ヘリコプターから神戸の街が映されておるわけです。何かこう夢を見とるような状態でね、これほんとに現実なんだろうかってじっと見ておったら、僕の知ってるところが火の海になっとるんですね。

 これは大変なことになった、とにかく何とかして神戸に行こうと思って、友達に車を借りて、その車に毛布とか食糧とか水とか積めるだけ積んで京都を出発したんです。最初はわりとスムーズに行けたんですけど、神戸に近づくにつれて家の壁が倒れてて、道が道でなくなっているんですね。迂回して迂回して迂回して、結局、丸一日、24時間かけてようやく神戸に帰ることができたんです。

 僕が生まれ育った町は、見るも無残な焼け野原になっていました。火はだいぶ消えておったんですけども、僕はその焼け野原に立って茫然として、「自分はこれからどうやって生きていくんやろう。あれだけ嫌やったお寺がなくなった。これからお坊さんではない人生を生きていかなあかんやろうな」と思ったんです。あの状況を見たら、お寺を再建させるなんてイメージすらできないような気持ちになったんですね。

 私の住んでる町は松本通と言うんですけど、百人もの方が亡くなられました。その中には、私の同級生とか、同級生の親御さん、おじいちゃん、おばあちゃんも含まれてます。

 僕が一番仲良かった友達は、お寺のすぐ下で小さなクリーニング屋さんをしてたんですね。一階が店で、二階が住まいっていうよくあるお店で、そこに僕の同級生のお父さんとお母さんと高校生の妹が3人で住んでおったんです。僕の同級生は結婚して別のところに住んでました。

 最初の揺れでダーンと家がつぶれて、この3人が生き埋めになった。出れないんですね、自分の力では。お父さんは一生懸命に妻と娘の名前を呼ぶんです。娘は「ゆか」っていう名前でした。

「ゆかちゃん、大丈夫か」
「お父ちゃん、大丈夫。生きとるよ」
「お母ちゃんはどうや」
「お母ちゃんの声は聞こえへんねん」
 お母さんは即死やったらしいです。
「ゆかちゃん、助けに行ったるからな、近くにある棒で壁を叩いて、ここにおるよって教えてくれ」

 ゆかは棒で叩いとったんです。しかしお父さんもね、押しつぶされて動けない。そのうちに、だんだん叩く音が聞こえなくなってくる。ようやく近所の人たちがお父さんを瓦礫の中から引きずり出した。すぐにお父さんは娘と妻を助けようとして瓦礫に行くんですけども、火が回ってくる。飛び込もうとするお父さんをみんなが必死で止める。そういう状況のところに僕の同級生はようやく実家にたどり着いたんです。結局、お母さんと妹を残してクリーニング屋さんはそのまま焼けてしまいました。そういうことがあの日、至るところで起こったということがありました。

 僕はそれまでですね、大谷大学で仏教や真宗をそれなりには学んできたんです。この経典にはどんなことが書いてある。親鸞聖人はこんなことを言ってる。そういうことを授業で学んできたはずなんです。だけど、現場に行くと、そういうことがまったく役に立たない。これはいったい何なんやろか。お寺で生まれ育って、大谷大学で学んできたはずの僕は、こんな現実の中でどうしたらええんやろうと思ったんです。

 そんなことを思いながら、僕の同級生とお父さんが避難している小学校の体育館に通って、絶望の中、体育館で身を寄せる人たちの横で、一緒にお酒を飲んで話をしたりというような時間を過ごしていました。

 こういう現実の中でどうやって生きればいいんだろうか。浄土真宗はいったいどんなはたらきを持つんだろうか。お念仏とは何なんやろうか。そういうことと初めて向き合い始めたんですね。それからいろんな人たちと出遇い、いろんな事柄と出遇いながら、考えさせていただく機会をたくさんいただきました。

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 命ということを私たちはどのように受け取っていくのか。この命いうもんはいったい何なんやろかっていうことを、あらためて考えさせられることがありました。

 長男が小学校2年生くらいの時の話です。そのころはもう焼け野原やった町も復興して、新興住宅地みたいな綺麗な町になってました。ある日、外で子供たちの声がす
るんですよ。わあわあ言うとるんですね。いつもとちょっと違うから、いったい何があったんやろうと思って外へ出てみたら、二軒隣のところに畳屋さんがあるんですけど、その畳屋さんのおじさんが何か抱えて立っとんですよ。ヒヨドリのヒナをこうやって手の中に抱えていたんですね。そのまわりを子供たち3、4人が騒ぎながらぐるぐる走りまわってるんです。

 復興の後、私のお寺のすぐ隣にきれいな公園ができたんですね。畳屋のおじさんはその公園の管理をボランティアでしてくださってました。公園の木にヒヨドリが巣を作っとったんです。おじさんが公園の掃除をしてる時に、その巣から落ちてるヒナを見つけ、どうしよう思ってたら、子供たちが学校から帰ってきて、「お寺で飼いたい」て騒いだというわけです。

 息子が「絶対、飼う。僕が飼うからええやろ」言うんですね。僕はどうしようかなと思って、インターネットで調べてみたんです。巣から落ちたヒナをどうやって育てたらいいかって。日本野鳥の会のホームページにいろんなことが書いてありました。

 そこには「野鳥は許可なく捕たり、飼うことはできません」とありました。野生の鳥が巣から落ちたとしても、基本的には人間が保護してはいけないんですね。それは条例で決まっとるらしいです。そして、「人に育てられたヒナは自然の中で生きていけるとは限りません」とも書いてありました。基本的には人間が手を出してはいけない。巣から落ちて死んでいくヒナがいても、それはそれで自然のことなんです。

 僕は、困ったなあ、子供たちにこのことをどうやって伝えようかなと思ってね、またお寺の外へ出ていったわけです。すると子供たちは、近くに鳥を飼っていらっしゃるご夫婦がおられるんですけど、そこに行って鳥かごを借りてきてね、その中にヒナを入れて、新聞紙ちぎって敷いたり、水をあげたりしてるんです。もう飼う気満々なんですよ。そのヒナにピーちゃんって名前つけて、「ピーちゃん、ピーちゃん」って呼んどんですね。かわいがっとるんですよ。

 その姿を見たら、「手を出したらあかんねん。保護したらあかん」言われへんかった。「しょうがない。じゃあ、何日かお寺に連れて帰って様子を見てみようか」と言ったら、子供らも喜んで、「頑張って世話する」と、公園で土を掘ってミミズ捕まえたりなんてことをしとったんですよ。

 そうこうしとるうちに、親鳥が帰ってきました。ほんで巣に自分の子がいないっていうことがわかったら、ピーピー、ものすごい声で上空を飛ぶんです。その親鳥の声を聞いたヒナは、今までぶるぶる震えとるだけやったんが、ピーピーって鳴き返すんです。もうね、体が震えるような声でした。「どこにおるんや」って探しとるお母さんが呼ぶ。その呼ぶ声に、「ここよ。ここにおるんよ」言うて答えとるんですね。

 この状況では、さすがに子供たちもお母さんのところに返してあげようということになって、巣のある木の下にそっとヒナを置いて、「人間がおったら警戒するやろうから、僕らは見んとこ」って離れたんです。畳屋のおじさんだけはそろっと見とったらしくて、後から聞くと、「ちゃんと親が巣に連れて帰ったよ」ということでした。そういうことがあったんですね。

 うちは新興住宅地で、ほとんどコンクリートとアスファルトしかない町ですから、動物とか虫とかと触れ合うことが日常の中でほとんどないんですね。だから、子供たちも余計にうれしく、興奮したんですけれど。

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 この出来事に三つ大切なことがあるなあと思ったんです。まず一つは、子供たちのヒナに生きていてほしいという願いです。インターネットで調べて、僕は法律的に保護したらあかん、それに保護したとしても助からへん、だから手を出さんとほっとくしかないんやと思っていた、しかし、子供たちはそんな理屈がどうだろうが、目の前にあるこの小さな命、ぶるぶる震えとるこの命に生きていてほしいんですね。もっと言うと、私たちはこの小さな命と共に生きたいという、そういう命に対する感覚です。

 私たちはいろんな知識を積み重ねてきて、今ここにおるわけですけれども、知識を積み重ねれば積み重ねるほど、命に対する感覚、生きていてほしいという感覚を失っている。だけど、子供たちは違うんです。この小さな命と生きたい。必死に命に対する願いをぶつけるんですね。そのことを子供たちの姿から教えてもらったことです。

 それからもう一つは、親鳥がヒナに「どこ行った。どこにおるんや」と呼ぶんですね。ヒナも「ここだよ」って応えるんです。呼んで、応える。呼応ということですね。親鳥はヒナ鳥に生きていてほしい。ヒナ鳥も親鳥と生きたい。呼び、応えるという関係が私の目の前で開かれていった。それは理屈や知識ではない。命というものの原点です。命は生きたいんだっていう、そのことを教えてもらった。

 そして三つ目はね、子供たちがそのヒナにピーちゃんって名前をつけて呼ぶんです。名前は「願いの結晶」と言われます。私たちは大切なものには名前をつけるんです。だから、親やおじいちゃん、おばあちゃんが産まれてきた子供に、「このように生きていてほしい」「こんな人間になってほしい」という願いを込めて名づけるわけです。

 そして、その名前を呼びかけ、その名前で呼ばれ、何度も何度も応えていく中で、名前に込められた願いを自分の中で確かめていくんです。僕の名前は中杉隆法ですけど、隆法いうのはいったいどういう願いが込もっとるんやろうか、それを考えていく。

 私たちが「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えますよね。これは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を呼んどんです。そのことを称名念仏といいます。阿弥陀仏の名を称えるいうことですね。

 この「となえる」いう字にはもう一つあって、「唱える」です。日蓮宗の信者とか創価学会の信者たちが「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」とお題目を唱える時には、この「唱」という字を使うんです。これはどういう意味かいうと、「言い立てる」とか「何回も言う」いう意味です。つまり、題目を何千回、何万回も唱えることで、その徳をいただいていくということです。

 しかし、私たちが念仏を称える時には、必ず「称」という字を使います。これは「はかる」という意味があるんです。秤です。ものを量る時には、片方の皿に量りたいもの置いて、こっちに分銅を置いて、これがピタッと水平になった時に、これは何グラムやとかね、何貫目とかがわかる。

 つまり、名を呼んだ者と呼ばれた者の願いが一つになるという意味が「称える」ということです。阿
弥陀さんから私たちにかけられた願いを、私たちがきちっと受け取りましたということが称名念仏ですね。南無阿弥陀仏という仏さまの名を呼ぶ。そのことで私たちの願いと如来の願いが一つになっていく。それは「生きていてほしい」「あなたと共に生きたい」という願いです。そして、命と命が生き合う世界を浄土といいます。

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 先ほど、皆さんと一緒に『阿弥陀経』のお勤めをしましたね。その『阿弥陀経』は浄土の世界を表したお経です。極楽浄土では芳しい香りがして、きれいな音楽が流れ、そして美しい色の花が咲いている。そんなことが『阿弥陀経』に説かれてるんです。

 その中に、白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命之鳥と、六種類の鳥が出てくるんです。白鵠は鶴ですね。舎利は九官鳥です。それから迦陵頻伽はスズメみたいな鳥。空想上の鳥ですね。それから共命之鳥。この六種類の鳥が極楽世界ではきれいな声で鳴いていると書かれてある。

 共命鳥も空想上の鳥ですけど、キジみたいらしいです。頭が二つで、首から下が一つやっていう鳥です。共命鳥には物語があってね、頭が二つあって、心も二つあるので、考えることも好みも異なってて、いつも意見の違いで喧嘩が絶えなかった。ある時、片方がつい我慢できなくなって、「こいつさえいなければ」と考えて、相手を困らせるつもりで毒の実を食べた。片方は息絶え絶えとなって苦しみだした。いい気味だと思っていたら、胴体は一緒なので、自分まで苦しくなり、気がついた時には手遅れで、共命鳥は死んでしまった。別々に見える命もお互いに共有された命なんだという物語です。

 でも、浄土の世界では、その共命鳥がちゃんと生きてるんです。死んでないんですよ。意見も違うし、考え方も違うし、何もかも違うけれども、違うもの同士がちゃんと共に生きていますという世界が浄土なんですね。

 ここにおられる皆さんは、これまで生きてきた道も違えば、考え方も違う。年も性別も違う。何もかも違うけれども、共に生きるという世界がある。それが浄土なんですよ。その浄土に生まれてくださいというのが阿弥陀さんの願いです。その願いを私たちが受け止めて「南無阿弥陀仏」と名を呼び、願いに応えていく。

 どういうものをもって命とするのか。あるいは、命を生きるということはどういうことなのか。私が生きることによって誰かが生きる。誰かが生きることがあって私が生きる。そういうお互いが生き合っているのが、私たちの事実なんです。

 戦争とか災害という形で命が奪われていく。しかし、そのことを通して、何もかもが違うもの同士が生き合うことを阿弥陀仏が願っておられることにもう一回立ち返ってみなければならないなと思います。

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 私自身の経験というか、出遇いを通して、私はこのように生きてきましたということをお話しさせていただきました。生き合うと言いましたけど、私が生きることにおいて、一人でではなくて、みんなと生きるんです。一人で生きることがあっても、誰かとのご縁によって、あるいは誰かの支えによって、私が今ここに生きることが成り立っておると思います。

 「共に」と言いましたけれども、こうやって同じ時間を、あるいは同じ空間を生きておる。あなたと私、共に生きるということもあるけれども、空間を通して共に生きるということと、もう一つは時間を通して共に生きるということがあると思っています。過去、それから現在、そして未来ですね。現在から言うと、過去と未来を生きる者と共に今現在、この私が生きてるんじゃないかと考えています。

 過去を生きた人たちというのは、亡くなっていかれた方々。亡き人の命とともに生きるという、そういう関係があることを、これもまた私の経験なんですけどね、少しお話させていただきます。

 亡き人と私の関係を表す言葉として一番多く使われておるのが、慰霊という言葉ですね。神戸でもね、毎年一月十七日になると、阪神淡路大震災で亡くなられた方の慰霊祭が営まれます。生きておる私たちが亡き人の御霊を慰めていく。「どうぞ、安らかにお眠りください」とか、「どうぞ迷わずに成仏してください」という気持ちを亡き人に手向けていくというのが慰霊という行為ですね。

 これは決して悪いことではないです。大切な人、愛する人を亡くした。無念の思いで亡くなっていかれた。生き残った私たちがそのような気持ちを手向けていくというのは、人間にとってごく自然なことやと思います。しかし、真宗では慰霊っていう言葉を使わないんですよ。亡くなった人を慰めていくことだけでは収まらない、終わらないような関係が亡き人と私たちとの間にはあるのではないかと思っています。

 今日は戦没者を悼んでいく法要ですよね。「悼む」ということは「悲しむ」ことです。もう一つ、「追弔」という言葉があります。追弔も追悼も慰霊も同じような意味で、亡くなった人に対して「安らかにお眠りください」という、そういう内容の法要なのかなというと、実はちゃうんですね。

 「弔」という字は、そもそも「訪う」(とぶらう)という字が転じたものだそうです。亡くなった人たちがどのような歩みをしてこられたのか、どのような願いをもって生きていかれたのかを、生きておる私たちが訪ねていくんです。「かわいそうに」という形で慰めていくのとは違うんですね。この人はどのような思いで、どのような願いの中で、生きて、そして死んでいったのか。あるいは、私はこの人とどのような関係を生きてきたのだろうか。私にとって亡くなった人たちはどのような存在だったのか。そういうことを一人ひとりが確かめていくことが追弔という言葉に込められた願いです。亡き人と今を生きておる私たちが共に生きるということがきっとあるのではないかと考えています。

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 僕は地震にあってですね、それまではお寺なんて嫌だなあ、何で自分は寺に生まれたんやろかと、モヤモヤしながら生きておったわけです。今もモヤモヤはあるんですけどね。ただ、震災があって、いろんな出来事があって、今までの思いが全部ひっくり返ってですね、ようやく命の問題というものと出遇わさせていただくことができた。それからいろんな人と出遇って、いろんなところに出かけたりして生きてきたわけですけども、その中で今、私が出遇っているのがハンセン病問題です。

 ハンセン病は、昔はらい病と言ってね、非常な偏見や間違った認識がなされ、患者さんや家族の人たちは差別されて苦しい思いで生きてこられたんです。みなさんの病気はもう治っているので、元ハンセン病患者なんですけど、今も偏見や差別は根深くあります。この方たちが生活しておられるハンセン病療養所が全国に十三あるんですね。岡山県には長島愛生園と邑久光明園という二つのハンセン病療養所があります。そこにたまたまご縁があって行くことになったんです。

 震災でうちの寺も焼けたし、ご門徒さんもみんなえらい目に遭われとったんで、月参りとかそれどころじゃなかったんですね。何をしようかなと思ってうろうろしてた時に、教区の仏教青年会の若い人たちが中心になって、神戸に入って炊き出しとか、仮設住宅の訪問とかをしていたんですけども、そこに入れてもらったんです。

 その活動をしている先輩が教区の事業としてハンセン病療養所に定期的にずっと通っておられました。「中杉君もいっぺん来へんか」て言われたんで、「ほな、ちょっと行ってみます」言うて車乗って行ったのが最初やったんですね。それが震災の次の年ですからね、もう23年くらい前かな。

 今日はハンセン病のことについて詳しくはお話しできないんですけど、少しだけお話しますと、以前はらい病と言われていました。遺伝する病気だと誤解されたり、あるいは天刑病とか業病と言われていました。天刑病はキリスト教の言葉ですが、天の罰としてこんな病気になったんだということです。業病いうのは仏教の言葉で、前世での行いが悪かったからだという認識をされてたんですよ。

 ハンセン病は感染症です。らい菌という菌が体に入って発症するんですけど、感染する力はほんとに弱くて、赤ちゃんの時に密着した接触があったりとか、鼻水に菌が溜まるらしいですけど、たまたま栄養失調とか衛生状態が悪いというような条件が重なって感染する、そういう病気なんです。

 今は病気は治っておられるのに、なんで社会に帰れないのか、いろんな理由があるんですけど、その一つが後遺症です。神経を犯される病気なので、熱いものを持っても熱いと感じないわけですね。ですから、ヤケドや怪我をしても痛くもなんともない。そのままにしてて化膿し、指を切断することもあります。療養所では作業というのがあったんですけど、作業中にクギを踏んで、でも痛くないし、まともな治療も受けることができなかったので、ほったらかしにされて腐ってしまい、足を切断した人も大勢おられます。

 あるいは、口がうまく閉じれなくて唇がだらっと下がってしまう。瞼が閉じれなくて瞬きができず、眼球がやられて失明する。さらには、眼球も取ってしまうこともあります。そういうこともあって、見た目ですごく差別されてきた病気なんです。そのために今も療養所に住んでいる方がたくさんおられます。

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 なによりも日本にはらい予防法という法律がありました。この法律によってハンセン病にかかった人たちは強制的に療養所に入所させられたんですね。らい予防法が定められたのは1931年のことです。この年は満洲事変が起こった年ですね。日本が欧米に肩を並べよう、一等国となるんだという時代です。ハンセン病はどちらかというと、貧しい国、栄養状態や衛生環境が悪い国に多いので、一等国になろうとする日本にハンセン病の患者という存在がいることは国家にとって非常に都合が悪いと思ったわけです。それで、ハンセン病の患者が自宅や町中にいることは許されなくなったんです。

 この法律ができるまでは、ハンセン病の患者の方々は町中におられたそうです。大きなお寺とか神社の境内や参道で物乞いをしながら生きておられた。もちろん差別される存在ではあったわけです。それでも、社会の中にその存在がありました。

 ところが、強制隔離と言うんですけど、このらい病予防法によって、強制的に療養所にハンセン病の人を送り込んで隔離することになり、完全に社会から切り離してしまったんです。そうして、患者さんたちを無理矢理引っ張って、トラックや貨物列車に乗せて療養所へ運んでいきました。

 ひっそりと家の離れで暮らしておる患者さんは、近所の人が密告するわけです。どうもあの家にはハンセン病の者がおると、役所や警察に通報したんですね。すると、患者さんは療養所に送りこまれる。そうした隔離政策が行われていました。

 らい予防法の影響は、患者さん自身はもちろんですけども、その家族、親戚にも多大な被害を与えてきたんです。その家からハンセン病患者が出たことがばれると、村では生きていけない。決まっていた兄弟の婚約が破棄されたり、結婚していたら離婚されたり。村八分という形で、家族の人たちも人間らしい生き方を奪われたということがありました。

 このらい予防法はね、平成八年までありました。阪神淡路大震災の次の年までこの法律はちゃんと残っておったんです。知らなかったです。本当に知らなかった。たまたま先輩に誘われてハンセン病療養所に行って、僕はこういう現実を知ったわけです。

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 療養所ですからね、ハンセン病を治療し、療養させるためにあるように聞こえますが、しかし実際はそうではなくて、療養所の中でいろんな人権侵害が行われてきたんですね。たとえば患者作業というのがありました。これは何かというと、療養所ですから、お医者さんや看護師さんがたくさんおられるのかなと思ったら、全然そうではない。二千人の患者さんに対してお医者さんが一人とかね、そういう状況だったそうです。そうすると、軽症の患者さんが重症の患者さんの世話をするんですね。包帯を替えたり、食事の世話をしたり、下の世話をしたりしてたわけです。

 それとか、園の中の道路を作り、建物を建てる。そういうこともさせられました。それからね、農業とか畜産業、養豚とか養鶏とか。これは園内の食料をまかなうためです。あらゆる仕事があったんです。病気の身でありながら、職員の監視のもと、長時間の作業が行われておったそうです。そういう患者作業、強制労働がありました。

 しかし、「自分はこんなんいやや。故郷に帰りたい。親元に帰りたい」と思って、言い方は悪いけど、療養所から脱走を企てる方も出てきます。それで、脱走を防ぐためにいろんな手立てがされました。一つは園内通用券です。園の中だけでしか使えない園内通用券というのがあったんです。何かというと、療養所に入る時に、親がわずかながらも持たせていた現金を園内通用券に交換させられたんですね。つまり、現金を持たさないことで、療養所の外へ出れないようにする意図だったんです。

 それでも、療養所から出ようとする人がいます。計画がばれたり、捕まえられたりすると、園の中に監房があってですね、園長の指示でそこへ入れさせられる。園長は懲戒検束権といって、警察官が持っておる権力があったんです。つまり、療養所の中の人には何をしてもいいぞということです。

 そして、何よりも大きな人権侵害がありました。療養所の中で患者さん同士が結婚することは認められていたんです。でもね、それは療養所の外へ出ることをあきらめさせるのが目的だったんですね。出産や子育ては許されていませんでした。なぜなら、療養所は病気を治して社会に復帰させることが目的ではないからです。日本からハンセン病患者を撲滅させる、一人も患者をいなくすることが目的だったので、ハンセン病患者の子供は当然ハンセン病だ、ハンセン病の人間を増やすことはできないとされてたからなんです。なので、出産は許されない。

 結婚の条件としてね、男の人は断種と言って、妊娠しないように精子の管を切る手術を受けさせられます。それでも妊娠したらどうしたのか。もし女性が妊娠したことがわかると、強制堕胎といって、無理やり子供を堕胎させることが法律によって行われてきました。

 僕が直接お聞きしたのはOさんという方です。どうしても授かった子供を産みたい。この世に生まれさせてあげたい。もっと言うと、この子と共に生きたい。それで必死の思いで、妊娠を隠して隠して隠したんです。八か月までなんとか隠し通したけど、大きなおなかになって、とうとう職員にばれてしまった。手術台に乗せられて、おなかの子供を引きずり出された。八か月ですから堕胎ではないです。殺人ですね。その子はね、産声を上げたそうです。一回でもいいから抱きたかったけど、看護師さんがすぐに隣の部屋に連れて行って、布を赤ちゃんの顔にかぶせて殺した。そういう話を直接聞いたことがあります。そういうことが療養所の中では行われてきました。

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 療養所の中にはね、いろんな宗教施設があるんですけど、真宗のお寺もあるんです。同朋会があって、いろんなことを聞かせてもらったり、たまには話をさせていただいたりということを二十年間ほど続けてきました。そうすると、いろんな人と知り合いになるんです。そのうちの一人に田端直子さんというおばあちゃんがおられました。部屋で一緒にお茶を飲んだり、手紙のやり取りをしたりというような関係やったんです。

 十年くらい前になるんですが、この直子さんが肝臓がんで亡くなられたんですね。78歳やったですかね。初七日の時にお参りに行ったんですよ。園の中にあるお寺の前卓に直子さんの骨壺が置いてあったんですね。骨壺のとこに法名と俗名が書いてあったんですけど、「田端直子」じゃなくて「田端茂子」と書いてある。「あれえ、おかしいな。直子さんなのに」と思って、お連れ合いの田端明さんに聞いたんですよ。「明さん、骨壺の名前、間違ってるよ。茂子って書いてある。直子やのに」言ったら、明さんが「実は妻の本名は茂子なんですよ」と教えてくれたんです。

 ハンセン病療養所に入所する時にしないといけないことが三つあったんですね。一つは、持っていた現金を園内通用券に変えるということ。もう一つは宗教。自分がどの宗教を信仰するのか園に届けないといけないんです。園の中にはいろんな宗教団体があって、真宗や日蓮宗、キリスト教、天理教と、いろんな宗教の施設もあります。入所した時にどの宗教に入るかを届けさせられるんです。

 なぜかいうとね、もちろん宗教が園の中での生活のよりどころになるいうことはあるんですけども、それよりもどの宗教でお葬式をするのかを届けさせるという意味があったわけです。つまり、どの宗教に入るかということは「お前はここで死んでいくんだぞ」と告げられることでした。病気が治ろうが治るまいが生きて療養所を出ることはない、必ず療養所で死ぬんだということです。これが二つ目。

 そして三つ目が、園名といって、園の中で使う名前をつけさせられる。田端さんは茂子という名前なのに、直子に変えさせられたんです。何で本名を使ってはいけないのか。これはいろんな理由があるんですが、一つは家族に迷惑をかけないということがあります。

 療養所に入ると、家族とはほとんど会えないんですけど、手紙のやり取りしたりして、家族となんとかつながっておったんですね。しかし、ハンセン病療養所から本名で家に手紙が届くと、「あそこの娘は長島愛生園におるんや」いうことが村中に知れ渡るわけです。それで、家族に迷惑をかけないために、親が願いを込めてつけた名前を捨てさせられ、園の名前で生きていくしかないという現実があったんですね。

 園名というのは僕も知っていました。ただ、僕が療養所に行き始めて少しして、らい予防法がなくなったので、本名を名乗る方がどんどん出てこられたんですね。だから、田端さんも直子が本名だと思っておったんです。茂子なんていう名前は聞いたことがなかったし、本名とか園名といった話を田端さんとちゃんとしたことがなかった。

 田端さんとは長いおつき合いで、田端さんのことは何でも知っておると勝手に思い込んでおったけども、本名すら知らなかったんです。僕は「何をやっとったんやろなあ。ええ気になってハンセン病療養所いって、人には「僕、ハンセン病療養所に行ってます。あなた知ってますか、ハンセン病のこと」なんて偉そうに話しながら、実は田端さんの本名すら知らなかったんやと、すごくショックでね、自分はいったい何をやっとったんだろうか落ち込んでたんです。

 すると、お連れ合いの明さんが「中杉さん、実はな、妻は亡くなる三日前に茂子という本名で死のうと決めたんですよ」と教えてくれたんです。「私は直子ではなくて茂子です」と名のって亡くなっていかれた。園名で何十年も生活してきたから、この名前でお葬式やお通夜したほうがピンとくる人も多いかもわからんです。けど、田端さんは茂子として亡くなった。これはどういうことなんやろうと考え直したんですね。

 そもそも田端さんはあんまり自己主張するような方ではないんですね。僕と明さんが部屋でわあわあしゃべっとる横で、ニコニコしながらうんうんうなずくような、そういうおばあちゃんやったんです。だけど、最後に本当に強烈な自己主張、メッセージを残していかれました。「私は本当は田端茂子です。親につけてもらったこの茂子という名前で生きていきたかった。でも、療養所の生活では茂子と名のることができず、直子として生きてきました。こういう現実を私は生きてきました。こんなこと二度と繰り返さないでください」というメッセージが骨壺に書かれた田端茂子という本名に込められとるんやなあといただきました。

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 そういう現実の中で、慰霊、亡き人を慰めていくということだと、「そうか、田端さんはそんなかわいそうな人生やったんやなあ。どうかあの世では楽しくすごしてほしい」というふうな、田端さんはかわいそうな人、僕は慰める人ということでは、田端さんと僕の関係は成立しないんですね。

 田端さんは療養所の中でどういう人生を生きてきたかを、生きておる僕たちが訪ねていく、確かめていくことをしないと、人間は同じ過ちを犯してしまう。それは過去に生きた人から「これから未来を生きる人たちにこんな現実を押しつけるのか」と叱られ、または未来を生きる人たちから「お前たちはどんな社会を作ってきたんだ」と問われるわけです。

 なので、最初に戻りますが、共に生きる命が生き合うということは、単に同じ時間や同じ空間を生きておることでは決してなくて、過去と未来を通して命と命が今、生き合うんです。このことが大切なんだと、田端さんとの出会いの中で教えていただいたんですね。

 親鸞聖人はそういう時間について『教行信証』の一番最後にこの言葉を引用されています。
前(さき)に生まれんものは後を導き、後に生まれんものは前(さき)を訪え。連続無窮にして願わくば休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり。

 今、生きとる者は過去に生きた人を訪ねていきなさい。そして、未来を生きる者のために今を生きるということがあるんですよ。過去、現在、未来を通して、命と命、人間と人間がつながって生きるんですよ。このように『教行信証』の一番最後で説かれるわけですね。

 よくいろんなところで「今を生きる」という言葉を聞きます。それはもちろん大切です。ただ、間違っていけないのは、「今だけを生きる」ということになると、未来に対して様々な責任を押しつけたり、あるいは過去から「このように生きてほしい」と願われたはずやのに、その願いを断絶して今だけを生きてしまう。となると、時間を通して命と命がつながっていくことが絶たれてしまうことになります。

 念仏するいうことは、過去と未来をつないでいくことやと僕は思ってます。今日も「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」という声が聞こえてきました。それはなぜかというと、皆さんよりも前に南無阿弥陀仏を称えた人たちがいたから、今日ここで「南無阿弥陀仏」と声が出てくるわけですね。南無阿弥陀仏が何もないところからポンて出てくることはないんです。誰かが「南無阿弥陀仏」と称え、そしてその声を私たちが聞いたからです。一回も聞いたことがない人は「南無阿弥陀仏」という声は出ないです。そして、私たちが「南無阿弥陀仏」と口に出して称えることによって、これから未来を生きる人たちのために私たちが「南無阿弥陀仏」と称えているということがあります。

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 これは念仏ということだけではなくて、私たちが生きることは、過去の人たちの願いによって今を生きるということがあり、未来を生きる人たちのために今、私たちが生きてるということがあるんやろうなと思うんですね。しかし、そのことがなかなかわからないんです。ハンセン病がそうですけど、原発もそうやなと思います。僕は福島には何度も足を運んでおるんですけども、一番印象に残ったのが去年でのことです。

 その時にはね、警戒区域まで入って、いろいろ見せていただいたんです。誰も住んでなくて、ここは畑やったんやろか、田んぼやったんやろか、もう草がぼうぼうと生えてて、何かわからないです。でもね、少し想像してみたら、ここで田畑を耕し、生業として生きておった人たちの営みがあったんやなっ
てわかるんですね。

 あるお百姓さんがこう言われたんです。
「地震によって、事故によって、たくさんのことが奪われた。日常の生活や財産やいろんなものを奪われたけれども、何よりも悔しいのが、先祖代々一生懸命耕し、受け継いで守ってきたこの土が放
射能によって汚染され、作物を作ることができなくなった。このことが何よりも悲しい」
 先祖の人たちが耕して耕して、そうして未来へと手渡していくはずの、その土が奪われた。

 無農薬農業をやってる知り合いにはこんな話を聞きました。
「土っていうのは昔からあったわけではない。土は動物や植物が腐って土になっていく。さらにまたいろんな動物や植物が腐って土になる。何万年、何十万年と繰り返されて、そうして土ができたんですよ」
 土は命そのものなんだと教えられたんですね。

 その土が一つの事故によってすべて奪われた。それは過去に対しても、未来に対しても責任の持てない私たちのあり方を表しているでしょうね。もちろん電気は大切やし、必要なんですけども、原発で事故が起これば、すべてを奪われることになってしまう。私たち人間はそういうことまで犯してしまうわけです。

 福島で原発問題と向き合っている友達のお寺に行きました。二本松というところですけど、そこで子供たちを守り、家族を守り、お寺を守っているんです。そこに行った時にね、本堂の演台の上に詩が書いてある紙が一枚ポンと置いてあったんですね。坂村真民という方の「あとからくる者のために」という詩です。ちょっと読んでみますね。

あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ

あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分で出来る何かをしてゆくのだ

 この詩は、今だけを生きる、自分のためだけに生きるということではなくて、これから未来を生きようとする人たちのために生きようじゃないかという詩ですね。

 思うんですけど、人間はほっといても自分のためには生きるんです。本能として。自分はかわいいし、自分を守ろうとするし。そこをあえて未来のために生きる。あるいは、過去の人たちの願いによって生きる。そういう生き方をすることが、戦争ということ、あるいは原発ということ、あるいはハンセン病ということ、様々な命の問題に向き合っていく大きな道しるべとなるのではないかと思っています。

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 最後ですが、皆さんのお手元にパンフレットをお配りしとんです。福島の原発事故があって、お母さんたちの「放射能で汚染されている中で小さな子供を育てていくのは限界だ。どうやって私たちは子供たちを守っていけばいいんですか」という叫びを聞いたんですね。その時に、ハンセン病療養所とご縁をいただいている仲間たちと何かできることはないかなと考えて、じゃあ、福島のお母さんと子供たちにこの療養所へ来てもらって、少しの間だけでも放射能のことを気にせずにのびのびと過ごしてもらおうと計画しました。

 それで、療養所の園長先生や元患者さんの代表である自治会長さんに「こういう状況なんです。どうか一週間で結構なんで、療養所を開放していただいて、子供たちを過ごさせることはできませんか」とお願いしたわけです。そしたら園長先生から「ぜひやりましょう」言ってくださって、2012年からハンセン病療養所で保養をしています。ほんの一週間なんですけれどもね。

 最初はいろんな不安があったんです。子供たちが療養所に来てくれるのかなとかね、元患者さんたちは子供を産むことが許されなかったから、たくさんの子供たちが来たらとまどうんじゃないかとか、いろんな不安の中で第一回が始まったんです。

 ところが、子供たちが何のためらいもなく療養所の人たちの懐に飛び込んでいったんですよ。療養所の人たちは赤ちゃんなんて抱いたことのない方たちがほとんどですけど、「よう来たな。よう来たな」言って、包み込むように子供たちを守ってくれたんですね。

 それはね、元患者さんたちは国の隔離政策によって悲しみの中で生きてきました。そして今、原発政策という国の政策によって非常に苦しめられている、その子供たちがこの療養所に来た。悲しみと悲しみにおいて人と人とがつながっていく。まさしく生き合うということが僕の目の前に現れたんです。

 それから毎年、夏になると子供たちが療養所に帰ってくることを、療養所の人たちは本当に楽しみにしています。お母さんたちも普段は子供たちを外で遊ばすことはほとんどない、土をいじらすこともしない。でも、療養所に来れば自由に走り回れる。土をいじっても何も言わない。この一週間だけは本当に大切にしたい時間です。そして、「療養所のおじいちゃん、おばあちゃんとの出会いがとっても大切なものになりました」とお母さんたちは言われています。

 こういう形で子供たちと療養所のおじいちゃんやおばあちゃんが生き合う世界があるんだな、ここに浄土という場が開かれているんじゃないかなというふうに感じています。
 まとまりのない話でしたけど、これで終わりにさせていただきます。ありがとうございました。
(2018年7月9日に行われたお話をまとめました)