真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  南京事件

笠原十九司『南京事件論争史』
秦郁彦『南京事件 増補版』
南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』
藤原彰編『南京事件をどうみるか』
清水潔『「南京事件」を調査せよ』
井上晴樹『旅順虐殺事件』
中塚明、井上勝生、朴孟洙『東学農民戦争と日本』 

2010年に書いたものです

 1 「事件」とは?

1937年(昭和12年)12月、日本軍が南京市を占領した際、中国軍捕虜や一般市民などを殺戮、暴行、強姦、略奪などをしたとされます。ところが、虐殺が行われたかどうか、殺された人数などについて論争があります。

ちなみに、「南京虐殺」「南京事件」など呼び名がいろいろありますが、清水潔氏によると、「南京事件」という場合、「大虐殺という程のひどいことはなかった」という意図と、「虐殺だけではない。強姦、放火、略奪など野蛮の限りを尽くしたのだから総合して〝事件〟と呼ぶべきである」という肯定の意味もあるとのことです。

 2 経緯

アマゾンでの『南京大虐殺否定論13のウソ』のレビューを見ると、「当時の日本側の公文書や兵士の日誌に虐殺を裏付ける様な部分が数多く見つかったなどということは断じて無い。第一、そんなものがあればこんなに揉めない」と書いている人がいます。
多くの資料があります。笠原十九司『南京事件論争史』と秦郁彦『南京事件』から引用します。

「(東京裁判で)検察側が立証したのは、南京占領直後中国側の軍事抵抗がすでに終わっていたにもかかわらず、日本軍は虐殺、強姦、略奪、その他の非人道的行為を武装解除していた中国兵や市民にたいして大規模におこなった事実、そうした不法、残虐行為は少なくとも南京陥落後の六週間にわたって大規模におこなわれたという事実であって。そして、南京の日本軍による残虐行為について、日本政府の高級官僚や軍部指導者が事件当初から外交筋、報道関係などから詳細な情報を受けていたという事実であった」

1937年12月13日、南京は陥落した。
南京事件の情報は発生と同時に外務省に報告が送られ、さらに陸軍省、海軍省当局に伝えられている。(以上、笠原)

① 外国人ジャーナリスト
12月13日の南京陥落を目撃した外国人ジャーナリストは5人いた。
第一報は早くも12月18日の「ニューヨークタイムズ」でダーディンによって南京事件が報道されている。
「一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫がとくに狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」
「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前でおこなわれた」
「多数の中国人が、妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した」
「無差別に略奪し、女性を凌辱し、市民を殺戮し、中国人市民を家から立ち退かせ、戦争捕虜を大量処刑し、成年男子を強制連行した」
1938年(昭和13年)2月ごろまで南京にいたフィッチは「九週間の間、昼も夜も日本軍の暴行はつづいた。とくに最初の二週間がひどかった」と新聞に報告している。

② 松井石根大将
南京進軍の第十軍には「老若男女をとわず人間を見たら射殺せよ」という命令が出ていたという。(以上、秦)
南京虐殺の責任者とされる中支那方面軍司令官松井石根大将と1938年1月1日に話をした日高信六郎大使館参事官は「同将軍は部下の中に悪いことをしたものがあったことを始めて知ったといって、非常に嘆いておられました」と述べている。
1938年1月4日付けの参謀総長閑院宮からの訓示に「軍紀風紀において忌まわしき事態の発生近時ようやく繁を見、これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり」とある。
1938年2月7日に挙行した慰霊祭の終了後、松井大将は飯沼守少将に「南京入場の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの五〇日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するにいたればなり」と訓示した。
松井石根大将は2月7日の日記に「今日はただ悲哀そのものにとらわれ責任感の太く胸中に迫るを覚えたり。けだし南京占領後の軍の諸不始末とその後地方自治、政権工作などの進捗せざるに起因するものなり」と書いている。
そして、2月14日に松井石根中支那方面軍司令官は解任された。(以上、笠原)
巣鴨拘置所で教誨師をしていた花山信勝師は、松井石根が死刑判決が出た後にこう語ったと書いている。
「南京事件はお恥ずかしい限りです。(略)慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だった。折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った」

この師団長とは中島今朝吾第十六師団長のことらしい。
秦郁彦氏は「中島第十六師団長のサディスト的言動」という表現をしている。
中島今朝吾師団長の日記には「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシ」と書かれている。
松井石根軍司令官の注意に対し中島師団長は、「強姦の戦争中は已むを得ざることなりと平然として述べる」ことをするような人だった。(以上、秦)

③ 他の高官たち
1938年1月12日、阿南惟幾少将は中支那方面軍の軍紀について「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず」と報告している。

宇都宮直賢少佐の回想録に「私が南京駐在の日本領事たちと現地ではっきり見聞したところでも、多数の婦女子が金陵大学構内で暴行され、殺害されたことは遺憾ながら事実であり、実に目を蔽いたく光景だった」とある。

畑俊六大将の1938年1月29日の日記に「支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長等の召集者も遂次現役者をもって交代せしむるの必要あり」と杉山陸相に進言したと記している。(以上、笠原)

1938年夏、岡村寧次第十一軍司令官に中村陸軍省軍務局長が「戦場から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少なからず、没収すでに数百枚」と語っている。(以上、秦)
1938年7月13日、岡村寧次中将は「従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上がる大殺戮、市民にたいする掠奪強姦多数ありしことは事実なるがごとし」と記している。

「飯沼守日記」には山田支隊だけで捕虜一万数千人を刺殺、機関銃殺で処刑したこと、難民区に将校が率いる部隊が侵入して強姦したことが記述されている。
しかし、東京裁判で飯沼守少将は、多少の暴行、強姦はあったが、南京暴虐事件などといわれる事件はなかったと証言している。(以上、笠原)

1943年に中支那派遣軍憲兵隊教習隊長が作成した『軍事警察勤務教程』には「支那事変勃発初頭すなわち南京陥落直後の頃においては、中支における軍人軍属の犯罪非行はすこぶる多く、とくに対上官犯など悪質軍紀犯をはじめ、辱職、掠奪、強姦などの忌まわしき犯罪頻発せる」と記されている。

東京裁判では、弁護側は南京事件自体は認めて否定せず、それほど大規模で深刻なものではなかったと主張している。

旧軍将校の親睦団体である偕行社の機関誌『偕行』では南京攻略戦に参加した将校たちの証言を募集したのだが、虐殺をやった、見たという証言や記録がかなり出てきたので、1985年(昭和60年)3月号に「南京事件はその当時、すでに軍によって大きな問題として扱われたようである」と指摘し、南京事件が事実だと認めている。(以上、笠原)

④ 兵士の日記
小野賢二氏は山田支隊歩兵第六五連隊の元兵士を中心にした聞き取りと兵士が書いた陣中日記等の資料収集をしており、陣中日記は24冊入手しています。
それらの資料は『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』にまとめられています。
[黒須忠信]上等兵の陣中日記の中からです。

「拾二月拾六日 晴
 午后一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃湯[蕩]ノ目的ニテ馬風[幕府]山方面ニ向フ、二三日前捕慮[虜]セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バガ[カ]リト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
 山トナッテ居ル死人ノ上ヲアガッテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒヽ「シ」ガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍シイ出来事デアッタ」
日記に虐殺のことを書いている将兵は他にもたくさんいるそうです。

⑤ 三笠宮崇仁親王
三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』の冒頭「なぜ私は歴史に関心をもったか」に、次の文章があります。
「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考えください。
ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。
「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした」
そして三笠宮崇仁は「これらのショックこそ私をして古代オリエント史に向かわせた第一原因なのです」と書いています。

⑥ 石川達三『生きてゐる兵隊』
石川達三は南京占領後の1938年1月5日から8日間、南京の警備で駐屯していた将兵たちから聞き取りをおこなって『生きてゐる兵隊』を書き、「中央公論」3月号に掲載されました。
ところが、内務省から発売禁止され、「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けています。
「南京事件-日中戦争 小さな資料集」というサイトに「読売新聞」昭和21年5月9日に載った石川達三のインタビューが転載されています。
http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.html#isikawa
「武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した
戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた(略)
何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた」

 3 犠牲者数

『南京事件増補版』によると、南京事件における不法殺害者数が限りなく0に近いと考えている人は東中野修道氏、藤岡信勝氏、阿羅健一氏たちで、渡部昇一氏は40~50人、櫻井よしこ氏、岡崎久彦氏たちは1万人前後です。

秦郁彦氏は対象と被害を、
Ⅰ 対軍人
a、敗残兵の殺害
b、投降兵の殺害
c、捕虜の処刑
d、便衣兵の処刑
Ⅱ 対住民
a、略奪
b、放火
c、強姦および強姦殺害
d、殺害
e、戦闘に起因する死者
と分類しています。

そして、「第二次世界大戦で、もっともお行儀が悪かったと定評のあるソ連兵も、帰還邦人の回想によると対住民についてはaとcどまりであり、cもほとんど単純な強姦で、殺害にまで至った例は少ないようである。それに対し、日本軍の蛮行はⅠとⅡのa~dをすべて網羅しており、中国からどう責められても仕方のないところだろう」とか、「昭和の日本軍は一段と悪質だった。建前では、強姦が発覚すると処罰されることになっていたので、証拠滅失のため、ついでに殺害、放火してしまう例が多かったからである」とまで断じています。

このように断言する秦郁彦氏は、犠牲者数は4万人(軍人捕虜の不法殺害3万人、民間人の不法殺害1万人)が最高限であり、実数はそれをかなり下まわると推定しています。
しかし、山田支隊の捕虜殺害だけでも1万7~8000人です。
30万人は多すぎるにしても、4万人ではないのではないでしょうか。

 4 否定派の主張

笠原十九司氏によると、南京事件否定論は東京裁判の最終弁論で弁護側が提出した付属書「南京事件に関する検察側証拠に対する弁駁書」にすでに登場しています。

①伝聞証拠説 証人は直接現場を目撃していない
②中国兵、中国人犯行説 中国軍も殺人、略奪、放火、強姦をしている
③便衣兵潜伏説 中国兵は民間服を着て潜伏していた
④埋葬資料うさんくさい説 埋葬資料の中には戦死した兵士の死体も含まれている
⑤南京人口20万人説 日本軍が攻撃する直前の南京の人口は20万人だった
⑥戦争につきもの説 戦争ではどこでも発生している
⑦略奪ではなく徴発・調達説 日本軍は代価を支払って徴発・調達した
⑧大量強姦否定説 若干の強姦はあったが、組織的な大量強姦はなかった
⑨中国の宣伝謀略説 中国の宣伝外交である
⑩中国とアメリカの情報戦略説 中国びいきの欧米人が中国のお先棒を担ぎ、アメリカもそれに与して日本批判をした
これらは現在でも南京事件否定の根拠としてくり返し使われているそうです。

清水潔氏によると、否定派の論理は一点突破型です。
・被害者の人数30万人などあり得ない、と数字を否定する。
だから「虐殺は捏造だ」と主張するわけだが、30万人虐殺という数字を嘘だと言ってるだけで、虐殺そのものをなかったと証明したわけではない。
30万人という数字の否定にも論拠はない。

・南京市街には当時20万人しかいなかったから、30万人も虐殺できない。
南京事件は、南京陥落の前後に南京周辺の広範囲の地域で起こった捕虜や民間人の虐殺、強姦、放火などを総称している。南京城内や中心部だけで起きたわけではない。南京周辺の人口は100万人前後で、時期も6週間から数か月だった。

・虐殺を伝える本や記事の中から何かのミスを見つけ出し、「だから全部嘘だ」になる。
何でもない写真が南京虐殺の写真として誤用されると、捏造したことになり、さらには「南京虐殺はなかった」となる。

・多くの従軍記者がいたのだから、虐殺や数多くの死体などがあれば記事になったはずだ。
当時は厳しい報道統制が敷かれており、検閲を受けなければならなかったので、日本では報道できなかった。しかし、海外の新聞には南京での虐殺に関する記事が出ていた。

南京事件は本来は歴史という学問の領域のはずなのに政治的問題になっていると、笠原十九司氏は指摘します。
南京大虐殺を肯定すると、日本が中国に侵略したと認めないといけない。日本の戦争が侵略戦争であることを国民に認識させないために、南京大虐殺否定論者が必要とされるようになったのです。
否定派は、日本は侵略なんかしていないし、不法なことはしていない、それなのに一方的に非難されるのは中国やアメリカの陰謀だと主張します。日本は加害者どころか、陰謀に巻き込まれた被害者なんだというわけです。だから、南京で虐殺があったと主張する者は中国の手先、反日だということになります。
その意味で南京事件は慰安婦問題とつながっているし、南京大虐殺否定論は東京裁判否定論とセットです。

 5 否定派への反論

否定派の本全般について、「資料の根拠、裏付けなしに自分の推測だけで否定する」、「否定できないものは無視する」と笠原十九司氏は否定派を批判しています。

たとえば、東中野修道氏は大虐殺派が根拠にしている史料や証言に「一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されないかぎり、(南京虐殺があった)と言えなくなる」、つまり「(南京虐殺はなかった)という間接的ながらも唯一の証明方法になる」と言っています。証拠写真とされるものがニセ写真だということになれば、南京で虐殺はなかった証明になるという理屈です。
南京事件の場合、100枚の証拠写真のうち99枚がニセ写真であっても、1枚が本当の証拠写真だったら、南京虐殺があったと証明することになります。

『「南京虐殺」の徹底検証』で被害者の夏淑琴氏をニセ被害者と書いた東中野修道氏は、夏淑琴氏から名誉毀損で提訴され、地裁では名誉毀損が認定されました。
判決文では、「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」とまで言ってます。(以上、笠原)

阿羅健一『聞き書 南京事件』(『「南京事件」日本人48人の証言』)は将校や新聞記者たち35人にインタビューし、30数人と手紙のやりとりをしたものです。ほとんどの人が虐殺を否定しています。
ところが秦郁彦氏は、は証言者の顔触れを目次で見た瞬間に、「結論はシロだな」と直感したと書いています。つまり、虐殺を否定するだろう人を選んでインタビューしているわけです。
笠原十九司氏も、証言者の著書では虐殺があったとしているのに、『聞き書 南京事件』では「見なかった」「無かった」としていたり、「虐殺はあった。それを否定してはならない」と言っている人の聞き書きを単行本にする際に削除していると指摘しています。

『南京事件論争史』を読んで感心するのは、史実派の人たちが否定派の主張(手を換え品を変え、だけど同じことのくり返し)をきちんと批判していることです。資料を確認して間違いを指摘するのは手間暇のかかる面倒な作業であるが、それを史実派の人たちはしているのです。

たとえば、「南京事件-日中戦争 小さな資料集」では、東中野修道『南京虐殺の徹底検証』のどこが間違いか、一つ一つ元の資料にあたって検証しています。そして、「東中野氏のこの本は、捻じ曲げ引用、勝手な解釈、対立データの無視、一方的な記述―「禁止事項」のオンパレードでした」と言っています。
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano0.html

なぜ否定本批判をするのか。
笠原十九司氏は「公刊される否定説本に批判を加えないと、「南京大虐殺派が否定できないのは事実と認めたからである」ということになり、否定派の「ウソ」が罷りとおることが懸念されたからである」と説明します。

南京虐殺否定派は主張が論破されて反論ができなくなると、論点をずらして新たな否定論を展開する。その新たな論点を批判しないと、「批判できないからだ」「こちらの主張を認めた」と宣伝するので、そこでやむなくまた批判する。そしたら別の人が同じ主張を言い出す。このようにして延々と続くわけです。
「否定派はすでに破綻した否定論の繰りかえしと、新たな否定論の「創作」という二つの方法で、否定本を多量に発行しつづけているので、世間一般は「南京事件論争」は決着がつかずにまだつづいていると錯覚することになる」

だけども、南京事件否定派を批判するために、南京事件史実派が、資料発掘、収集に努力し、その成果を資料集や歴史書にして刊行してきた結果、南京事件の全体的歴史像の解明は飛躍的に進んだそうです。

 6 否定派による圧力

日本軍による南京虐殺を認める集会や展示などに保守派から圧力がかかることがあります。圧力があった例を『南京事件論争史』は紹介しています。

・1996年6月、長崎原爆資料館の「日中戦争と太平洋戦争」のコーナーの年表に「1937年12月南京占領、大虐殺事件おこる」と書かれ、その下に写真が掲示された。これに対して「日本を守る県民会議」「長崎日の丸の会」さらに自民党長崎市議団などが、原爆資料館に南京大虐殺や七三一部隊など侵略、加害の展示をなぜしたのかと抗議し、写真削除を迫り、この問題を産経新聞が取りあげて報道した。

・1998年、映画『南京1937』を上映中のスクリーンを右翼が切り裂く事件が発生、街宣車が妨害活動をしたので、中途で上映を打ち切らざるをえなくなった。一般の映画館では上映が困難になり、全国の市民団体が公共施設で上映会を実施したが、各地で右翼が妨害活動を繰り広げ、柏市では市当局に会場を使わせないよう圧力をかけて妨害に成功している。

・2002年、鹿児島県県議会は中国へ訪れる県立高校の修学旅行の訪問先から南京大虐殺記念館を除くよう求めた陳情書を採択した。

・2004年、南京事件の場面を描いた『週刊少年ヤングジャンプ』に連載中の本宮ひろ志「国が燃える」に対し、右翼活動家が抗議をくり返し、集英社はマンガの削除・修正を約束した。
さらに地方議員グループの抗議、街宣車の威圧行動、メール、ファックス、電話などでさまざまな圧力が加えられ、「国が燃える」は一時休載し、編集部・本宮ひろ志連名で「お詫び」の文章を発表した。

以上のように、政治家の圧力や右翼の抗議に対してメディアや行政は過剰反応を示してしまいがちです。

 7 自虐史観への批判

南京事件や慰安婦問題を伝えようとすることを自虐史観と非難する人たちがいます。しかし、吉田裕「国際法の解釈で事件を正当化できるか」(『南京大虐殺否定論13のウソ』)を読むと、自虐史観とは的外れな非難だとわかります。

「南京攻略戦は、典型的な包囲殲滅戦として、軍事的には日本軍の勝利に終わった。このため、多数の中国軍将校が戦意を失って潰走し、追撃する日本軍によって各所で殲滅された。特に、長江上では、必死になって脱出をはかる中国軍将兵・一般市民が乗った小舟や急造の筏などが川面をうめた。これに対しては、海軍の第十一戦隊に属する砲艦が銃砲撃を加え、多数の中国軍民が犠牲となった」

吉田裕氏は「これは『戦闘』なとど決してよべるものではなく、戦意を失って必死に逃れようとする無抵抗の群衆に対する一方的な殺戮にほかならなかった」と論じました。
そしたら、藤岡信勝氏は「敗走する敵を追撃して殲滅するのは正規の戦闘行為であり、これを見逃せば、脱出した敵兵は再び戦列に復帰してくる可能性があるのだから殲滅は当然である」と批判したそうです。

吉田裕氏は具体例で藤岡信勝氏に反論しています。
1945年4月、沖縄海域への水上特攻作戦に出撃した矢矧は大和などとともに米軍機の攻撃を受けて沈没した。この時、米軍機は、漂流する日本海軍の将兵に対して、数時間にわたって執拗な機銃掃射を加えた。

また1943年2月のビスマルク海海戦では、漂流する多数の日本兵に対して連合軍機が数日にわたって機銃掃射をくり返し、さらには出撃した魚雷艇が海上を捜索して日本兵を射殺した。

一方、1941年12月のマレー沖海戦の際に、日本機は英駆逐艦による生存者の救助作業をまったく妨害しなかった。

「藤岡氏の論法に従うならば、前者の米軍パイロットは軍人としての本分に徹した称えるべき存在であり、後者の日本軍パイロットは、非情な戦場の現実を忘れた感傷主義者ということになるだろう」

ビスマルク海海戦での事件は、戦後オーストラリア社会では、海上を漂流中の350名の日本兵を機上掃射で殺害した空軍パイロットを戦犯として処罰すべきだとの声があげられ、大きな論争に発展しているそうです。

「欧米の良識ある人々が連合軍側の戦争犯罪の問題を正面から取りあげ、批判している時に、藤岡氏のような人物が、それを免責するような論理を提供し、「助け舟」を出す」
「ここに、中国に対する感情的反発にこりかたまった人々の言説がおちいっている自己矛盾の深刻さがある。米軍の戦争犯罪すら追及できないような戦争観こそ、まさに「自虐史観」そのものではないだろうか」

 8 まとめ

私も正直なところ、南京事件など日本軍の加害事実を認めたくないです。そんな昔の話を今さらほじくり返さなくてもという気持ちがあるし、日本がした悪いことばかり強調しなくてもいいじゃないかと思ったりもします。

過去の加害事実を認めないのはトルコも同じで、第一次世界大戦時期にオスマントルコ軍がアルメニア人を虐殺したことをトルコ政府は認めず、虐殺の事実を公的に主張すれば国家侮辱罪に問われるそうです。

ナチスによるユダヤ人虐殺はなかったとか、侵略を進出と言い換えたり、植民地支配を肯定的に評価したりといった歴史修正主義者は後を絶ちません。
しかし、自国のマイナス面を見ようとしないのは誤りです。

秦郁彦氏は『南京事件』のあとがきに「もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数が「多すぎる」とか、「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか」と書いています。

英国聖公会の宣教師・登山家であり、日本アルプスを世界に紹介したウェストン(1861~1940)は大変な日本びいきでした。満州事変後の対日感情悪化の中、日本を擁護するために日本を紹介する幻灯機を持って英国中を講演して回っています。そんなことをしてたら非難を受けるのを承知の上で日本のために尽くしたのです。
日本や日本人に惚れ込んだ西洋人はウェストンだけではありません。幕末から明治にかけて日本を訪れた西洋人の多くが日本を絶賛しています。彼らが書いた旅行記を読むと、日本人の勤勉さ、働き者、温厚、親切、器用、知識欲が旺盛、きれい好きといった言葉であふれています。

そんな日本人でも、日清戦争では虐殺を行なっています。
1894年11月の旅順占領。
第一師団司令部付き翻訳官の向野堅一。
「騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口カラ石ヲ入レ或ハ睾丸ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪除セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨又惨、旅順港内恰モ血河ノ感ヲ致シマシタ」

法律顧問の有賀長雄。
「そこには、至る所に死体があり、ことごとく、まるで獣に噛まれたように損なわれていた。商店の屋並みには、そこの店主たちの死体が道端に積み上げられていた。(略)首を刎ねられている死体もあった。首は二、三ヤード先にころがっていて、一匹の犬がその首を囓っていた。その様を歩哨が見て笑っていた。歯のない白髪の老人が、自分の店の入口のところで、腹を切られ、腸を溢れさせて死んでいた。男たちの死体の山の下には、苦悶と嘆願のないまぜになったような格好で、女が死んでいた。女や子どもの死体があった。(略)白い髭の皺だらけの老人が喉を切られ、また目と舌を抉り取られていた」

ある軍曹の父親への手紙。
「市街には敵の死屍山をなし居る様痛快の極に御座候」

ある上等兵が友人に出した手紙。
「予は生来初めて斬り味を試みたることゝて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽ち所を異にし、首三尺余の前方に飛び去り、間一髪鮮血天に向て斜めに迸騰し」

朝鮮でも農民軍数万人を虐殺しました(1894年12月~1895年1月)。
徳島県出身の後備第十九大隊上等兵の陣中日誌。
12月3日「六里間、民家に人無く、また数百戸を焼き失せり、かつ死体多く路傍に斃れ、犬鳥の喰ふ所となる」
1月9日「我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕拾名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」
1月31日「東徒(東学農民軍)の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを殺せり、見物せし韓人及び統営兵等、驚愕最も甚し」
2月4日「南門より四丁計(ばか)り去る所に小き山有り、人骸累重、実に山を為せり……彼の民兵、或は、我が隊兵に捕獲せられ、責門の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り、依てこの所に屍を捨てし者、六百八十名に達せり。近方臭気強く、土地は白銀の如く、人油結氷せり」

世界のあちこちで戦争、内戦、紛争が起き、ボスニア、ルワンダ、コンゴ、ダルフールなどで虐殺、暴行、強姦、略奪が行われています。なぜそういうことが起きるのか、どうにしたら防止できるのかを考えていくためにも、負の遺産である南京事件を否定せず、どんな人間でも戦争になったら何をするかわからないという事実をしっかりと見ていくべきだと思います。