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  岡 正博さん 「コンビニから見た、人間とは」
                          
 2004年7月31日

 岡と申します。よろしくお願いいたします。僕の生い立ちから話をさせてもらいます。僕は三次で育ちました。先ほど水害の話があったんですけども、僕が17の時に、真夜中に川の鉄砲水で床下浸水になって、電気がつかないのでローソクの炎で床上にものを上げたということがありました。鉄砲水がゴオーと流れる音が耳にずっと残っているんです。
 明け方、水がひいたんですけども、もうひどい臭いですよね。家の中に入っている土砂とかいろんなものを外に出しても、トラックが来ないということで、三次の町が復旧するのに2、3ヵ月ぐらいかかりました。
 その時に思ったのは、自衛隊の方が朝ご飯にということで、ヘリコプターでむすびや菓子パンを配ってくれたんです。衣類も配られたんですけど、人の親切が心にしみたと同時に、人に助けてもらって生きているんだなということがつくづくわかった経験があります。

 その年の冬季オリンピックが札幌でありまして、札幌の町を見、大倉山シャンテに日の丸があがって感動して、大学は北海道に行ってみたいと思いました。当時、広島から札幌へは24時間かかりましたね。

 三次というのは因習が非常に強いところなんですけど、それに対して北海道は本州から開拓に行ったという歴史があるせいか、新しいものを求めて受け入れるという雰囲気があるんです。ものの考え方も親しみやすく、ざっくばらんに話ができる風土ということで、充実した4年間を過ごし、就職も札幌でするつもりでいました。

 ところが親戚のおじさんに、「将来どうするんだ」と聞かれて、「札幌で就職しようと思うんです」と答えたら、「長男だから三次に帰るべきだろう」という言葉に、長男というのはそういうもんかなあと思って、そういうこともあって広島に帰ってきました。
 当時、雪印とか拓銀というのは北海道では優良企業で、全国的にも有名だったんです。雪印に入った友達とか、拓銀に行った友達に、「いいところに入ったね」と言ってたんですけど、しかしながら今は第二、第三の就職もままならないという友達がいます。それを思うと、人生わからないって、つくづく感じますね。


 僕の仕事はコンビニです。今はパート、アルバイト、社員含めて、5~60人ほど部下がいるんですけど、十人十色で、特に難しいなあと感じるのが、中年の女性。50すぎの方は難しいですね。

 僕よりも年上の女性の扱い方がまずいのかもわからないですけど、うちの女房がいい例で、女房と結婚して20何年たつんです。右にかじを取ろうと思ったら、昔は同じ方向に向いてたんですけど、最近は僕が右と言えば、女房は左と言うことがどうも多くて、まずいなと思ったりしてます。

 決めつけてしまうのはおかしいんですけど、感情が先に走って、頭ではわかってても、感情論としていやなもんはいやだというのが目につくというのが、中年の女性なんですね。どうもそんな感じがします。
 そういうふうに言ったつもりはなくても、そのように本人が受け止められて、全然違った方向に動いてしまうことがありますね。

 それとか、女性というのは小グループに分かれるじゃありませんか。5、6人おれば2グループ、3グループに分かれてしまって、こっちのグループにばっかり気を使うとるわけじゃないんですけど、別のグループからすると、そっちばっかり気を使うてからという批判がボーンと返ってきたりして、そうなるともうにっちもさっちもいかない状態になるということもあります。

 ゴルフを10年ぐらい前からやっているんですけど、なかなかうまくなれず、先日上司から「岡君、僕はレッスンプロに通っているから、岡君も一緒にどうだい」と誘われて、三回か四回レッスンプロに指導してもらいました。それで一昨日にコースに行ったんですけど、普段は120前後なのに、一昨日は10打少ない110前後でまわれました。

 今まで自分がやってたことを否定されて変えなければいけないということに、カチンと来たんですけど、しかし人の話を聞いて、理解して、なるほどねということで、それを信じてやると、結果として10打も少なくなったわけです。素直に聞くことの大事さというのは、仕事にも通じるのかなと感じました。

 僕は中間管理職という立場ですので、上から言われ、下からつつかれてます。上の話を聞くことも大事ですけれども、下からの話を聞いてあげるということが一番だと思うんです。
 ついつい業務命令的にきつい高圧的は言い方をしてしまうことが多かったんですけど、しかしながらゴルフのレッスンプロと話をさせてもらった中で、こういう言い方をすれば聞いてもらえるんかなとか、バシッと切るのでなくて、あなたの言い分はわかったと受け止めて、僕の言い分はこうだよと言われたら、すっと入ったということがありまして、これを仕事に生かしてみたいというのが今の心境です。

 さっきから中年の女性をターゲットにしているようですけれども、お客様もそういう傾向がありますね。クレームがあったり、万引きとかがあるわけですよね。そうなったときに一番たちが悪い、開き直ったときはどうしようもできんというのが中年の女性でしょうね。
 万引きといってもコンビニですから、たかだかむすび120円とかそんなもんですよ。お金がないというんじゃないんですね。どういうんですかね。何かあるんですかね。

 万引きの場合は、まず現状確認をやります。一対一では話はしません。必ず店の者が2、3人、複数で話をします。というのは、女性のお客様と僕らでしたら、触られたとか、何かされたとかいうふうになるとまずいですから。ですから、こっちが最低2人で話をします。人数が足りないとよその店舗から呼び出します。そりゃもうおおごとですよ。

 万引きができるんだと思われてしまうと大変ですから、どっかで抑止力というか、させない、ここでは絶対できないという雰囲気を作ることが必要なんです。

 女は愛嬌と言いますけど、僕は女は度胸かのうと思うことが多いですね。開き直ったら強いですよ。万引きだったら、店側としては警察に突き出してもいいわけですよね。でも、開き直られて、ああじゃない、こうじゃないと、すったもんだをされて、結局もう最後こっちがいいですわとなってしまうんですよね。
 そこらへんのたくましさというのはね。若い子が悪い悪いと言うんですけど、若い子はそうでもないんです。僕らの商売さしてもらってると、中年のおばさんほど手におえんものはないと思うことは多いですね。

 一杯飲まれたサラリーマンはたちが悪いですよ。特に金曜は。僕らみたいに上から言われ、下から言われているようなサラリーマンなんかが、一杯飲んで、屁理屈言うんですよね。屁理屈を言うたときには、これも手に負えません。

 中年のおじさんの文句は、自分が買いたい商品がないというのが多いですね。たとえば「アイスクリームがほしい」と。アイスクリームでもハーゲンダッツのメロンがないと。「何でメロンがないんじゃ。わしはメロンが食いたいんじゃ」と。「イチゴはいらん」と。「メロンは今売れとるはずじゃのに、なんでお前んとこは入れんのか」というところから始まるんです。

 こっちは「申し訳ございません」と出ますね。とにかく頭は下げっぱなしです。「お客様、全くその通りです」という姿勢です。

 それでもくどくど言うて、それこそ30分なり40分なりという形になります。で、「上司を呼べ」と言われる方が多いわけです。そうなると店舗から携帯に電話が入るんです。僕は店におりませんから、行くいうても30分、40分かかるじゃありませんか。スーツに着替えて店に行くわけです。すると「お前が責任者か」ということで、またなんじゃかんじゃとなるんです。
 でも、ある程度酔いが醒めると、こりゃ自分が理不尽なことを言うてるな、これはまずいなというのがあるんですね。それでトーンもだんだん下がってきますわね。最終電車が0時何分ですから、最終までには帰りたいと。

 男の場合は社会的責任を背負ってますから、下手なことはそんなには言わんのですよ。ある程度の常識はあるのかと思うんです。

 でも女性の方はさっき言ったように、「そうですね」とか、「すいません」と言われる方はほとんどいませんね。全部が全部じゃないんですよ。一部分の方なんですけど、その一部分の方があまりにも強烈すぎるから、全体がそういうふうに思えてしまうというところはあるかもしれませんけどね。

 下手にトラブるというのが一番上層部の嫌うところですから。ともかく「お客様が100%悪くても謝れ」という姿勢は変わりませんよね。だからいいカモですね、僕らは。もっともそれは何の商売でも同じでしょうけど。


 一昨年の1月6日、会社の仕事始めの日でしたが、親父が亡くなったと女房から携帯に連絡がありました。死因は心臓マヒということで、74歳でした。
 1月5日に大雪が降ったんです。そして6日の午前3時ごろ、親父がトイレに行くのを、おふくろが覚えているんです。親父がトイレに行って、「えらい寒いなあ」と声をかけたんだそうです。それから亡くなったという状況だろうと思います。

 親父はそれまで10年近く人工透析をしていまして、ちょうど6日が透析の日で、おふくろがいつも7時すぎに親父を起こすんですけど、起きてこないからどうしたんかと触ったら、どうも冷たいということで、かかりつけの先生を呼んでみたら、もう亡くなっていたということでした。

 人工透析をすると5年生きればいいほうだと聞いてましたから、倍も生きることができたわけですし、人工透析中に亡くなる方も多いという話も聞いてましたので、自分ではある程度の覚悟をしてたつもりでした。

 ですけど、いざ電話が入って、三次に帰ったのが11時前だったですかね、「まさか、冗談だろう」っていうのがその時の思いでしたね。親父の顔を見たときには、どういうんですか、優しい言葉を何もかけられなかったというのが、それが悔いです。

 病気で余命があと何日ですよということなら、こういう言葉をかけようということができるんですけど。最後に交わした言葉は前年の12月だったかと思って、「親父、ありがとう」という言葉をかけてあげたかったということが、非常に心残りでした。

 透析のつらさというのは経験者しかわからないらしいですね。個人差があるんですけど、親父は全身がかゆいとか、骨がもろくなるということで膝が痛くなったりとかで、透析以外にも皮膚科とかの病院に行ってました。
 そのつらさしんどさを見ていて、「がんばりんさいや」と言ってたんですけども、あんまり「がんばりんさい」言うのもどうなんかということを、おふくろと話はしよったんです。

 しかしながら自分が亡くなるときは、親父みたいな死に方をしたいなとは思います。というのも、病気で苦しまれて入院して、本当につらいから延命治療はしないでという、そういう話を聞くと、ぽっくり逝きたいなという気はあるんです。

 けれども、残ったおふくろはそれこそショックで立ち直ることがすぐにはできなかったですね。すぐ隣で寝ていて亡くなったわけですし、透析をしていたといっても元気でしたから。


 そして祖母が今年の7月初めに、やはり心臓マヒで亡くなりました。祖母は叔母と一緒に暮らしていたんですけど、アルツハイマー病になって痴呆がひどくなったのと、叔母に孫ができて面倒を見られないということで、うちで一ヵ月ほど祖母の面倒を見たんです。

 親父は週3回透析に行ってましたし、おふくろはリューマチなんです。手と足が悪くて、そうなるととてもじゃないけど祖母の面倒を見れる状態ではなかったですね。けれども、親だから面倒を見なければいけないという思いがあったんでしょうね。

 僕も三次に帰ったときに世話をしましたけど、やった者じゃないとあの大変さはわからんでしょうね。たまに帰っておばあちゃんの面倒を見るというのはできるけど、あれを毎日せいというのはとてもじゃないけど、肉体的にも精神的にも大変だと思います。
 結局はうちで面倒を見られないということで、施設にあずけました。そして寝たきりになり、意識がないまま亡くなったわけです。


 人間、いつか死ななくてはいけないわけで、年の順番に逝ってくれるといいんですけど、現実はそうはいかなくて、順番が狂って子供とか孫とかが先にということもあるのを考えると、親父が亡くなり、祖母が亡くなるのは、それはそれである意味では幸せなのかなという気はします。

 それというのも、今、高三の息子が中二のときに、クラブをしていて骨にヒビが入ったというので、病院に行ってレントゲンを撮ったら、左腕の骨の中に腫瘍があるとわかったということがありました。
 学校から呼び出しがあって、病院に行って先生に話を聞いてみると、腫瘍がありますと、そして悪性か良性かわからないということでした。僕らからすると、無知ですから骨の中に腫瘍があるとか、子供に腫瘍ができるとか思いもしなかったんですね。女房が看護婦しよるんですけど、女房もたまげてました。

 悪性か良性かで手術が違うということで、それで検査をいろいろした結果、良性ということでした。けれども、「たぶん良性だろう」という言い方だったんです。「手術して、その細胞組織を取ってからじゃないと良性か悪性かはわからない」というふうに言われましたから。

 良性とわかればそうでもないんですけど、「だろう」という言葉は、ほんまはどうなんだろうかというのがありましたね。
 だから、「まさかひょっとして」と悪いように考えるんですね。ひょっとして息子が自分より先に逝くんではないだろうかとか、腕だけで終わればいいんですけど、もし転移しとったらどうなるんだろうかとかいうふうに、いいようには考えないんですよ。全部悪いように悪いように考えてしまって、つらくて、女房とどうしようかと話してました。

 手術前の検査が多いんですよ。一つの検査が終わるとぐったりして。気になりますから、仕事のことなんか何にもできなくて、僕も一週間ぐらい会社を休んだんです。会社の上司に説明して、甘えさせてもらいました。

 お医者さんは中学生だと理解できると思っているんですかね、息子に親と一緒に座らせて、こうこうだからこういう手術をするんだと説明しました。中2ですから、どこまでわかったのかわかりませんけど、女房と話をしてるとは思います。

 息子は僕と違って我慢強いというか、「こいつ強いな」と思うたですね、我が子ながら。人前では弱みを見せるような子じゃありませんから。

手術して細胞を取って良性とわかるまでが二週間ぐらいですね。当初は自分の腰の骨を削ってそれを入れるということだったんですけど、技術が進んでいて、人工の骨ですむということで、人工の骨を入れたんです。それでも結局学校を一ヵ月ぐらい休んだんですね。

 それから2年間は半年に一回検査に行きましたけど、もう必要ないというので、今は行ってません。検診のときにはドキドキですね。再発しとらにゃえんじゃがという不安はずっと持ってましたね。

 それからは腫瘍の話は子供ともしてません。お互いに忘れたいですからね。いつ再発するかわからないという不安はずっとありましたから、なるべく忘れたいと。そうはいっても忘れることができんですけどね。

 子供にどういうふうにケアすればいいんだろうかと思ったときに、なんにも子供にはケアできなかったなと。もう少し自分たちに余裕があって、こう言えばよかったんか、ああ言えばよかったんかねえと思うことが多いんですね。

 そのころ息子がバンドをやりたいと言ってたんで、入院しているときは「高校は行かんでもいいから、自分の好きなことをせいや」と言うたんですけど、親の身勝手というか、退院して元気になると、「せめて高校ぐらいは行ってくれ」と、そして「高校を卒業すると自分の好きなことをやれえ」と言うたんです。けど、高三になると「やっぱり大学ぐらいは行ってくれ」と言ってるんです。非常に親ってわがままだと我ながら思いましたね。

 これが元気ですからそう言うたんですけど、もし病気を引きずっていたら、好きなことをさせていたとも思うんですけどね。親の身勝手さが大きすぎて、子供に犠牲をさして悪いなという思いもあります。大学を卒業したときに、自分たちがどういう道に進むのかは子供たちがそれぞれの生き方、考え方をしっかり持ってほしいなと思ってます。

 そこで感じることは、よく皆さん、「悔いのない人生を」と言われるんですけど、自分が亡くなったときに、どれだけ悲しんでくれる人間がいるんか、自分の価値がどうだったのかというのを、子供らに教えたいという思いはあります。

 何にもないときには、夫婦げんかとかつまらないことでよくカチンときたりすることも多いんですけど、いざ何かあったときに助けてくれるというのは家族でしょう。そうなると家族を大事にしていきたいなとは思ってるんですけど、なかなか現実はできてませんけどね。
 まとまらない話になりましたが、これで終わります。ありがとうございました。


(2004年7月31日に行われたひろの会でのお話をまとめたものです)