真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

霊信仰


  死んだらどうなるか

1,死んだらおしまい、それっきり
2,死後の世界へ行く
3,生まれ変わる
2と3の場合、死んで肉体が滅びても何かが残ることになります。それが霊魂です。

  死後のイメージ

人が亡くなると「冥福を祈る」とよく言います。「冥」という字を調べました。

死後のことを「冥」という
くらい、ふかい、めにみえぬとおい、はるか、かくれるおろか、まよう目がくらむ 白川静「字通

死後の世界は遠くにある暗い世界、死者は愚かで迷っているというイメージを、私たちは何となく持っているわけです。
でも考えてみますと、愚かで迷っている人に対して暗い世界での幸せを祈るというのも変な話です。
というわけで真宗では「冥福を祈る」という言葉は使いません。

  なぜ死後の世界は暗い(冥)のか

1,死体が腐っていくイメージから
2,死にたくないから、死にきれないから
自分自身が死にたくないものですから、死者も死にたくなかっただろう、思いを残して死んだだろうと思いこんでいるのです。

死にたくない
 ↓ だから
死んだ人も死にたくなかっただろう
 ↓ だから
死んだ人は迷っているだろう

  仏教では?

死んだらどうなるのか。誰もが悩む問題です。しかし仏教ではその問いに答えることはしません。
「世界は常住であるか、無常であるか。世界は限りがあるか、限りがないか。霊魂と身体とは同じであるか、別であるか。人は死後も存するか、存せぬか」
弟子からこういう質問をされた釈尊は、それらの答えを聞いたからといって依然として生老病死、愁悲苦悩はある、それをどうするかということを私は教えるのである、あなたがいったようなことは私は説かない、なぜかというと道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たないからである。このように答えられました。
そして仏教では無我を説きますから、霊魂のような永遠に存続する実態は否定します。

誰が明日に死のあるのを知ろう。ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。阿含経」 

その代わりに仏教では違った問いをします。死にきれるか、という問いです。
生きているから死ぬのです。生きていなかったら死ぬことはありません。私たちが死ねないのは、本当に生きてはいないからではないでしょうか。
なぜ生まれたのか、どう生きるべきなのか、何をしたいのか。それがはっきりしていますか。私たちはそうしたことがはっきりしないまま、ただ日々を何となく過ごしているにすぎないのでしょう。それで本当に生きていると言えるでしょうか。
ですから、死ななければならなくなったら、ちょっと待ってくれ、と言いたくなります。生きるということはもっと違ったものではないだろうか、何か生きている実感、手ごたえがあるのではないか。それが得られるまでは死にたくない。
だったらもう十年二十年と長生きしたなら死ねるようになるかというと、やっぱり待ってくれ、と言うことでしょう。
私は充分に生きた、だからいつ死んでもいい。こう言える人生を送りたいものです。本当のものに出遇い、本当に生きることができたならば、死にきれるのでしょう。
そうでない者は死ねないのです。ですから、死んでも死なないでいたいということで、死後も何らかの形で永遠に生き続けることを考えるわけです。それで死後の世界や生まれ変わりが考えられたのでしょう。

死ぬのは易いが、死ぬことの出来んのは、どう考えても余り無念で、この無念をこのまま胸に納めて死ぬことは出来んのだ。 尾崎紅葉『金色夜叉

不老不死こんなものかと見る造花 『万能川柳名作濃縮版

  霊魂とは?

折口信夫は、霊魂に三種あると言っています。
まだ死のケガレがついている死んで間もない霊
純化した先祖霊
ほとんど浮かぶことのない霊

①は普通に死んだ場合です。
日本人はケガレを嫌います。血や出産もケガレですが、死が一番のケガレです。ですから葬式の後に塩をまくわけです。
人が死ねば、死んだ人の霊にケガレがつきます。ケガレはうつります。その家や家族にもケガレがつきます。忌中の張り紙をしたり、四十九日までは鳥居をくぐらないというのは、私の家では最近人が亡くなりましたから、中に入ると死のケガレがつきますよと注意し、私にはケガレがついているから遠慮しようということです。
真宗ではケガレということは言いませんから、忌中の張り紙などをする必要はありません。
死者の霊についたケガレは死者を祀ることで次第に清められ、それにつれて死者は個性を失い、最終的には②の先祖霊と一体になります。さらに祀ることで氏神となります。
死んで間もない霊はケガレがついていますから、清まった先祖霊と一緒にお祀りをしてはいけません。そんなことをすればケガレを嫌う先祖霊が怒って災いをもたらしかねません。ですから死んで間もない霊は先祖とは別にお祀りします。初盆を気にするのはこのためです。

③は不完全な死、中絶した生(事故死・自殺・他殺、あるいは横死・不慮の死・呪われた死・志半ばでの死・この世に思いを残した死・怨みの残した死など、そして水子・子供)の場合です。そういう死に方だと迷える魂・移動できぬ魂になります。
日航機が墜落した御巣鷹山に慰霊碑が作られたり、交通事故の現場に花や飲み物がお供えされたりするのは、そういう突然に死んだ人の霊は死んだ場所に留まるという考えがあるからです。
こういう霊は祟るので特に怖れます。死に際が気になるのもこれと関係します。死んだ時に苦しまなかったとか、死に顔が安らかだったとよく言います。それは③ではなく①だと思って安心したいからです。七転八倒しながら死んだりすれば、霊は迷い祟るかもしれないわけですから。
インチキ宗教は先祖の中に自殺した者がいるとか、ここでむかし死んだ者がいるとか言って脅します。これも同じことです。それらの霊は③だから祟るというわけです。

恨みを残して死んだために祟りをしたとされたのが菅原道真です。藤原氏らの陰謀で太宰府へ左遷され、その地で死にます。その後、水害や疫病などがおこったり、皇室や藤原氏の人たちが死んだりすると、菅原道真の怨霊の祟りだとみんなが思って恐れたのです。それで菅原道真を北野天満宮に祀りました。でも実際には菅原道真は恨みながら死んだわけではないそうです。人々がそう思って怖れたにすぎません。

  なぜ慰霊、鎮魂、供養をしなければいけないのか

霊魂は迷うことがある
 ↓ そうなると
生者に祟って災いをもたらすことになる
 ↓ そこで慰霊などをし、神としてまつる
生者に福をもたらしてくれる

死者
 ↓←供養
成仏

1,人が死んだら霊魂になる
2,霊魂は祟ることがあれば福をもたらすこともある

このような宗教観を日本人は古代から持っています。この考えは現代の我々にも血となり肉となっていますから、無意識に死者の霊を怖れてしまいます。それで慰霊や鎮魂、霊を慰め、魂を鎮めなければならないと思うのです。

なぜ自分はこんなに苦しみが多いのだろう?なぜ自分には、病・貧・争・災が絶えないのだろう?あなたはこういう疑問を持ったことはありませんか。これらの不幸現象は実は霊魂の暗躍の結果です。私達のまわりには、あの世に往っても成仏できない先祖の霊や怨み憎しみなどに執着しつづけている霊魂が群がっています。そして、その霊魂が肉体に侵入(憑依)して、私達を自由に操り、苦しみ悩ませているのです。
人間の八〇%はさまざまな理由で侵入してくる霊魂にとり憑かれており、世間にみる不幸のほとんどはその霊魂によって引き起こされております。このような目に見えない世界のことを、一般には〝因縁〟といい、この因縁を切ることは非常に難しいとされてきました。しかし諦める必要はありません。奇跡の霊術〝真光の業〟によってあらゆる悩みに〝奇跡の救い〟がもたらされます。真光の業(手かざし)は人間にとり憑いて成仏できない霊を救い、不幸現象の原因を取り除き、運命を好転させます。
 (世界真光文明教団「奇跡の世界」)

ですから、こうした馬鹿げたことを言われても、「ひょっとして」と気になるわけです。

戦死者を神として靖国神社に祀るのも、戦死は「不完全な死、中絶した生(横死・不慮の死・呪われた死など)」ですから、戦死者の霊魂は「③ほとんど浮かぶことのない霊」だからです。つまり私たちは戦死者の霊を怖れているのです。
戦死された方々が、私は家族のため、国のために死ぬことができたんだから満足だ、ということならば、霊を慰め魂を鎮める必要はありません。
しかし亡くなられた人たちはともかく、私たちはそうは思っていません。戦死された方はこの世に思いを残しているだろう、なぜなら苦しんで死んだだろうし、心残りがあっただろうし、死にたくなかったからだ、ひょっとして怨んでいるかもしれない、と思っています。
もしもそうだったら戦死者の霊魂は迷い祟り災いをもたらすかもしれない。だから霊を慰め鎮め、神として祀らなければ。このように私たちは思っています。
しかし、そう思っているのはあくまでも私たちであって、戦死された方たちではないことをはっきりさせておかなければなりません。

墓仏壇どっちに居るのですあなた 万能川柳名作濃縮版

  水子供養をなぜするのか

1,水子の霊が迷って祟りをするから
2,水子供養することで水子を成仏させる
3,成仏すれば福をもたらしてくれる

なぜ水子供養をするか。それは水子の祟りが怖いからです。供養をすれば霊が成仏するのでご利益があるからです。
このように、死者を供養することで成仏させる、そうなれば死者は祟ることがなくなり、いいことがある。そういう考えを元に新興宗教はもっともらしい理屈をつけてやっているわけです。

霊友会系の教団は「母体教団である霊友会から教理や儀礼の多くを踏襲している。その特色は祖霊信仰と法華信仰とをドッキングさせ、先祖供養の行法を確立した点にあり、この行法が教勢発展の秘儀装置となっている。その祖型を創出したのは在野の法華行者の西田無学である。西田は不具の子を二人育てていたが、貧困の生活のうちに二人の子を失ってしまう。彼はそれ以来、無縁仏の墓を捜しては戒名をうつしとって自宅にまつった。うかばれないもろもろの霊を供養しなければ不幸の根源は断てないと西田は考えたのである。この戒名写しの行が発展して、本尊と等質の神聖性を持つ「総戒名」と「法名送り」の秘儀があみだされた。このような先祖供養の行法が、西田の信者を媒介項として、小谷ミキとならんで霊友会の創始者の一人となった久保角太郎に伝えられたのである。
霊友会系の教団群の大半では、初信者に下付される本尊は、曼荼羅ではなく、総戒名である。その名称がすでに示しているように先祖供養をするさいの礼拝対象となる。
誠生院法道慈善施先祖○○家徳起菩提心
立正佼成会では「誠生院」のかわりに「諦生院」の院号を付している。(略)
総戒名には、信者として実践しなければならない宗教的倫理も示されている。また、総戒名は神秘的機能を持つ。思親会の解釈によるとこうである。(略)
人が死ぬと、生前の行為や先祖の行為により、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十の世界のうち、いずれの世界に送りこまれる。思親会に入会すると入会したという功徳だけで入会者の先祖の霊が最底辺の地獄界にさ迷っていても、菩薩の霊域にすくいとられる。(略)
霊友会系の教団では、入信すると近親者で亡くなった者の戒名をできるだけ多く集め、改めて法名をつけ直して過去帳にしるし、総戒名とともに供養する。先祖といっても一般の家庭では、三,四代前の先祖の名しか知らず、その範囲内で供養しているが、霊友会系の教団では、十代、二十代前の先祖が霊界でさ迷っている状態をシャーマンをとおして知らせ、新たに法名を送って供養する。さ迷っている先祖がいれば、それは霊のさわりとなって病気など悪しき現象を起こすことで、子孫に知らせるのだという。先祖だけでなく、生きている人間の思いである生き霊や動植物の霊で成仏していない場合にも、霊のさわりがあるという。したがってそのような霊にまで戒名をおくって成仏を期することが、信者のつとめになる。この秘儀を「法名送り」と呼んでいるのである。
 梅原正紀『ふおるく叢書7 救い

霊能者いても犯人見つからず 万能川柳名作濃縮版

また死者のためになることや喜ぶことをしたりすることを供養するとも言います。故人も草葉の陰で喜んでいることでしょう、と言ったりしますね。
しかし死んだ人が喜んでいるかどうかどうしてわかるのでしょうか。自己満足ではないでしょうか。
供養とはそういう意味ではありません。

  供養とは

供養とは本来、救ってくださる仏、道を示してくださる法、仏道を共に歩む仲間である僧伽、という仏法僧の三宝に対して供養をすることです。私の迷いを気づかしめ、私の歩むべき道を示された仏に供養をするのです。つまり供養する心の根本には尊敬、感謝、喜びがあるわけです。

深く恩を知るがゆえに供養す 「大智度論

供養とはそのものを大切にし、尊敬すること。決して軽蔑しないこと。 竹中智秀

当然、供養したことの見返りを期待して行うものではありません。供養したのだから死者がいいところに行っただろうとか、私は善根を積んだというのも見返りです。
ところが死んだ人を供養しなければと言う人は、亡くなった人を仏として供養しているのではありません。死者を霊、それも迷ったり祟ったりする霊として考えています。そして死者が迷わないよう祟らないようにと供養しているのです。どこかいいところへ行ってもらいたい、災いを除きたい、自分の罪を消したい。そう思っているわけです。
そして供養することによって何らかのご利益、除災招福を期待します。ですから供養によって得られる効果、すなわちご利益の大きい教えがいい教えだと思っています。こんなことを言いますと、ご利益なんか考えていませんと、すぐに答える人がいます。それは自分の心が見えてないだけのことです。
水子供養でもそうです。流産した胎児を仏として拝んでいるでしょうか、水子に感謝しているでしょうか。そうではなく、胎児を迷い祟る迷惑な存在、救うべき存在と考え、だから私が何とかしなければならないと考えていないでしょうか。
しかし迷っているのは私であり、救われるべきは私自身です。なのに私が何かしないと死者は迷いっぱなしになる、苦しみっぱなしになる、と考えています。そして私は死者に何かできると考えています。
これは無知であり、傲慢です。迷っている死者を私が何とかしなければならないと考えることは、一切衆生を救おうとされた阿弥陀如来の誓いを疑うことであり、死者を迷っていると軽蔑することですし、自分は死者を救うことができると自惚れています。それを無明(迷い)と言います。
追善供養や水子供養をしたら幸せになるという自分中心の考えを転じなければなりません。亡くなった人を供養する、そうすれば死んだ人も喜ぶだろう、だからいいことをしているんだというのは自己満足だという認識だけは忘れずに持っていなければなりません。

助けるのは仏の仕事です。私たちの仕事は助かることです。 曽我量深

大切な人の死を目の前にし、自分の無力さ、限界に気づいた時に、問いが生じます。死んだ人は私にとって何なのか、自分は何ができるだろうか、何をしたらいいのだろうか。
自分自身の無明(迷い)から覚めてみれば、助からなければならないのは死んだ人ではなくて私自身だと気づき、そのことに気づかせてくれた亡くなられた人を仏としていただくようになるでしょう。


  
霊魂の正体

ある檀家の夫人が、先祖の命日に僧を招いて法要を営むのは、それをしないとキショク(気持)がわるいからだと話すのを耳にした。キショクがわるい?! この一語は私を一層深い混迷に導いていった。一体、キショクがわるいとはどんな世界をさすのか。それと親鸞の思想とはどんな関係にあるのか。もし、私が寺の跡を継ぐとしたら、それは、人々のキショクをわるくしないために生きていくことになるのか。 
阿満利麿『中世の真実

お経をあげてもらうとなんかスーとした気持ちになります。このようなことを私も何人かの人に言われたことがあります。キショクの悪さがお経をあげることによってスーとして楽になるわけです。
キショクがわるいもの、これが霊だと思います。キショクがわるいものが実際にどこかにいるというのではありません。その人がキショク悪いと感じているにすぎないのです。つまり、霊魂とはその人の思いです。
子供の頃、夜中に便所に行くのが怖くなかったですか。今となってみれば何が怖かったのかよくわからないのですが、とにかく一人では行けなかったですね。もちろん今は何ともありません。便所が怖いというのは、私がそう思い込んでいただけのことです。
霊魂とか祟りなどというものも同じようなものです。私の怖れる心が生み出したにすぎません。ですから、私の都合でよい霊になったり悪い霊になったりします。同じ一つの事柄がご利益に思えたり、祟りだと感じたりします。
つまり自分が作りだしたものに怯えたり喜んだりしているわけです。ですから、そのことに気づいて私の思いが転じれば、全く気にならなくなります。
人生よくないことがなくなることなどありえません。人間である限り不安や悩みはなくなりません。それをどう受けとめるかです。

自分でつくった地獄におびえ、自分でつくった極楽に縛られる。 伊東慧明『阿弥陀経に聞く

  死んだ後のことなどどうでもいい

極楽は死んでから行く楽しいところなんかではありません。極楽とは今を照らし出す光であり、今を生き抜くエネルギーの湧き出す泉です。
それはどういうことかというと、たとえば墓について質問を受けることがあります。妻が家の墓に入りたくないと言っているとか、自分が死んだら誰も墓に参らなくなるなどといったことです。墓のことだから死んだ後の問題かというとそうではありません。夫婦の間がうまくいっていないとか、自分が死んだら誰からも忘れられてしまう寂しさといった悩みを、墓の問題とされているのです。つまり死んだ後のことではなく自分が今抱えている問題がそういう形で出ているわけです。
極楽がはっきりしたということは、自分の歩むべき道がはっきりしたということです。そうなりますと、死んでどうなるのかということがどうでもよくなってくるのです。

臨死体験が脳内現象説と現実体験説のどちらの説が正しくても、大した問題ではないと思っている。
体験者の取材をどんどんつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなった。
死にゆくプロセスを通過した先がどうなっているか。現実体験説のいうように、その先に素晴らしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説のいうように、その先がいっさい無になり、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている。
どちらが正しいかは、そのときのお楽しみとしてとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口だと思うようになったのである。
「死ぬのが恐くなくなった」ということ以外に、もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、「臨死体験をしてから、生きるということをとても大切にするようになった。よりよく生きようと思うようになった」ということである。死後の世界の素晴らしさを体験した人は、生きるより死ぬほうがいいと考えるようになるのではないかと思われるかもしれないが、実際には、逆なのである。みんなよりよく生きることへの意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、「いずれ死ぬときは死ぬ。生きることは生きている間にしかできない。生きている間は、生きている間にしかできないことを、思いっきりしておきたい」と考えるようになるからであるという。
 立花隆『臨死体験