真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  佐々木隆道さん 「生かされて生きる」 
 2014年5月9日

 一 東日本大震災

 岩手県の陸前高田市からまいりました佐々木と申します。本稱寺(ほんしょうじ)という真宗大谷派のお寺の住職をしております。どうぞよろしくお願いします。「生かされて生きる」という講題を出させていただいたのは、東日本大震災で私が助かったのは生かされたんだなという思いがありましたので、こういう講題にさせてもらいました。



  1 3月11日

 当時の状況からお話しします。2011年3月11日午後2時46分に地震が起きました。私の住んでいる陸前高田市では震度6度弱でした。揺れが2分近くつづいたと思います。下から突き上げるものすごい揺れだったです。陸前高田市は岩盤が固くて、家財道具は倒れましたが、地震で倒壊した家はありませんでした。

 その揺れがおさまって一番最初に、住職である父と私は本堂に行って、ご本尊や仏具がどうなっているか確認しました。それから、父は民生委員をしていましたので、近所の一人暮らしのおばあちゃんの家を訪ねて、一人では不安だろうからということでお寺に連れてきました。私は本堂の様子を見てから、近所にご門徒さんが何人かおられましたので、そのお宅にうかがいながら、どんな状況かを確認したんです。

 あるご門徒さんの家では蓄熱式の暖房機が倒れていました。それが和室にあったもので、火事にならないよう何とかしなければいけない。近くに男手が4人ほどいたんですけど、大変重いし、熱かったので持ち上げられなかったんです。寺にある耐火煉瓦を持ってきて、暖房機をちょっとだけ起こして何枚かはさみました。これで火事は起こらないだろうと安心して外へ出ました。あとから考えると、そんなことに時間を費やさず、すぐに逃げたらよかったと悔いました。

 外に出ると、お寺の駐車場に20人以上の方がいたと思います。防災無線では、岩手県は3メートルの大津波警報が出ていました。でも、宮城県は6メートルだったんですよ。陸前高田市は岩手と宮城の県境にあります。そこに集まった方々と「宮城で6メートル。岩手で3メートル。どちらを信じればいいのかな」と話し、岩手で3メートルというのだから、そちらを信じましょうということになりました。防潮堤は5メートル50センチあります。ですから、3メートルの波であれば、2メートル50センチ余裕があるので大丈夫だろうと、そういう話をしたんです。

 お寺は海岸から2キロほど離れているし、海抜5メートルぐらいです。しかも、今まで津波の被害に遭ったことがなかったので、まさかここまで津波が押し寄せてくることはないだろうと思っていました。ところが実際の津波の高さは、公式の発表はされてないんですけど、14メートルから18メートルです。

 しばらくすると防災無線で、「波が防潮堤を一部越えている地域がございます。浸水地域の方は避難してください」と、切羽詰まった話し方じゃなく、落ち着いた語り口調で言ってました。だから、私たちのイメージは、防潮堤からちょろちょろ海水が入ってきているという感じかなというものでした。

 そのうち防災無線が聞こえなくなったんです。これはおかしいぞと、停電してましたので情報はラジオからしか入らないと思い、私はラジオを取りに寺に走って行ったんです。ラジオを手に駐車場に戻ると、消防自動車がものすごいスピードで駆け上がってくるのが見えました。そしたら消防自動車のスピーカーからどなりつけるような声が聞こえてきたんです。「何をやっているんだ。そこまで波が来ている。早く逃げろ」という声に、海のほうを見ました。

 家がたくさん建っていますから海は見えません。300メートルぐらい先のほうだと思いますが、茶色い煙が立っているのが見え、そしてピシッピシッという音が聞こえてきたんです。たぶんそれは、家が波に巻き込まれて壊れる音ではなかったかなと思います。あそこまで津波が来てるんだなと、そこで初めてわかったんです。まわりにいる方々に海のほうを指さしまして、「そこまで波が来ている。逃げましょう」と声をかけました。

 お寺の東側、すぐわきに川が流れていまして、川をはさんだ向こうにある山に逃げれば安全だったんですけど、川というのは津波にとっては高速道路と一緒なんですね。何も障害がないので、ものすごいスピードでやって来るんです。だから山には逃げられない。お寺の裏には高田小学校があって、寺よりもだいたい5メートル以上高い場所にありますので、「小学校に逃げましょう」と私は皆さんに声をかけました。もっとも、高田小学校も校舎の1階まで津波が到達しています。

 私の妹は近くに嫁いでいたんですけど、父が体調が悪くて入院してまして、退院したばっかりだったんですね。父の体調を心配して勤め先から駆けつけてくれた妹が、寺の山門のところで海を見ていました。妹に声をかけまして、「津波が来ている。今から家の中に知らせて外に走って出ても間に合わない。だから自宅の2階に上がろう」と言って、本堂にいる父にも伝えたんですが、返事は聞こえませんでした。妹の自宅にいた姪には声をかける余裕がなくて、今でもそれを悔やんでいます。何で声をかけなかったのかと。

 母親は妹に託しまして、妹が母親を2階に連れて行ってくれました。近所のおばあちゃんは足腰が丈夫ではなかったので、私はおばあちゃんの手を引きながら、あせらせると転ぶかもしれないと思いましたので、支えながら2階に上がりました。

 2階に上がるとすぐに、1階の廊下のサッシのガラスが割れる音が聞こえ、パリッという音とともに水がすうっと入ってくるのが見えたんです。その水は透明な色でした。どんどん水かさを上げていきまして階段の中ほどになったときに、海のほうを見ましたら、黒い濁流がお寺の塀の上を乗り越え、後ろに流された家や車を従えて境内に入ってきたんです。

 境内には蔵があって、蔵の土台はコンクリートでできているんですよ。そこに波がドンと当たって、その瞬間に蔵がふわっと浮き上がり、90度ぐらい回りました。「これは尋常じゃないな」と思って、また階段を見ましたら、水かさがどんどん増えてきます。足から膝丈(ひざたけ)になり、天井まで4、50センチというところまでなったんです。母と妹は何とか立ち泳ぎをしていました。旅行用のスーツケースがそばに浮かんでいたので、おばあちゃんにはそれにつかまってもらいました。

 三陸地方は津波に何回も襲われているんですよ。命からがら助かった方たちのお話をよく聞かされていました。天井板を破って屋根の上に逃げて助かったという方がたくさんいるという話を聞いていたので、私も天井を破ろうと思いました。ところが、手を上に伸ばした瞬間、ドンという音とともに、気は失っていないんですけど、一瞬で水の中にいました。気づいたら家の外にいたんです。どうして外に出たのかはまったく覚えていません。

 まず気づいたのは、前と後ろを何かにはさまれておりまして、身体がねじれているということです。そこでまた頭に浮かんだのは、津波で亡くなる人はさまざまなものに巻き込まれて死ぬということです。私も「ああ、死ぬんだな」と思いました。

 そしたら、私はメガネをかけているんですけど、メガネに下から何かが当たったんですよ。そのために顔が上を向く感じになったんです。そのときに見えたのが、みなさんが海で素潜りして上がるときに、空の明かりがちらちら見えるでしょ。私も上のほうに明かりが見えたんです。そこで初めて「生きなきゃ」と思いました。そうして、やっと何とか水面に浮かび上がることができたんです。

 そしたら、目の前に畳が一枚浮いていました。畳にはい上がろうとしたんですけど、畳には手がかりになるものが何もないんです。何回か上がろうとしてもすべって上がれません。人間というのは必死になると何か考えつくんだなと思ったんですが、藺草(いぐさ)の目に爪を立てました。それで少しずつ上ることができまして、かなり力を使ってやっと畳の上に上がることができたんです。目の下や胸がかなり痛みました。

 そこでまた思い出された言葉がありまして、津波が押し寄せたあとは引き波があるということです。引き波で海にさらわれて、助かる人も助からなかったということを思い出しました。もう一つ、おばあちゃんが一緒にいたことを思い出し、もしかして近くにいるのではと、すぐ起き上がってまわりを見渡したんですが、おばあちゃんの姿は見えませんでした。

 代わりに目に入ってきたのは、黒い水が一面に広がっている光景だったんです。市役所はかさ上げをして一段高く建ててあるために実質4階建てなんですが、その市役所の屋上と、市役所の隣にあるスーパーの大きな看板しか見えませんでした。高田の町は完全に水没した状態です。その光景を見て、「何なんだろうな、これは」と信じられない気持ちでした。

 幸いに山手のほうに押す波だったんですね。その波に流されてたどり着いたのが、押しつぶされた家が何軒か重なってダムのようになっているところでした。そこから上には水が行かなかったんです。そういうところにたどり着き、つぶれた家のベランダの柵をつかんで、屋根伝いに無事なところまで逃げました。スニーカーを履いたまま庫裡に入っていたので、そのときは裸足じゃなくて助かりました。

 でも、屋根の上ですから高さがあります。飛び降りようかなと思ったんですけど、胸が痛くて、骨折しているかもしれない、悪化させたらいけないなと思いまして、まわりを見渡しましたら、すぐそばにハシゴが落ちていたのが見えたんです。誰か来てくれればなと思ってたそのときに、男の方が来てくださって、その方に声をかけてハシゴを立てかけてもらいました。そうして、やっと地面に下りることができたんです。この話をどなたに話してもですね、「用意されたみたいだな」と言われるんです。ある方は「できすぎた話だ」と言われました。けれど、実際に私が体験したことなんです。

 そこはお寺と川をはさんだ対岸の山手でした。そちらには私の寺の墓地がありますし、曹洞宗の光照寺さんというお寺があるんです。日ごろからおつき合いがあるので、そこに行けば何とかなるんじゃないかなと思って尋ねました。住職さんご夫妻はお留守で、いらっしゃったのは避難してきた檀家の方々でした。私の姿を見て、びしょ濡れだったので毛布をかけてくださいました。

 津波のあと、雪がちらついてきたんですよ。私は逃げるときは必死で、寒さとかは感じませんでしたが、落ち着いたとたんに、それまでに経験したことのない震えが襲ってきたんです。普通のガタガタという震えでしたらある程度は抑えられますけど、どうしようもないくらい全身が震えてとまらなかったんですよ。私が震えているのを見た方が私を押さえてくださったのを覚えています。「ストーブをつけよう」と言われたんですけど、ライターとかマッチを持っている方がいなくて、火をつけることができませんでした。

 そのときに駆けつけてくれたのが高田高校の野球部の子たちです。その子たちは自分の家族の行方もわからなかったのに、避難してきた人たちの世話を懸命にやってくれました。野球部の練習場は高台にあって、そこに部室と合宿所がありましたので、自分たちのジャージとかコートとかを持ってきてくれたんです。そこで私は着替えさせてもらって暖を取ることができました。でなければ、当時、低体温症で亡くなられた方が何人もおられるんですけど、私もそうなっていたかもしれません。本当にありがたかったと今でも思っています。

 近くに火葬場があって、和室が二部屋あるんです。そこで夜を過ごすことになりました。暖を取るものはほとんどなかったですね。そこにあったのは3人分くらいの布団や毛布です。私が目の下を切って出血しているのを見た人たちが、「あなた、そこで横になっていなさい」と、みなさんは3、4人で一枚の毛布を使っているのに、私だけが掛け布団を一枚与えられました。このことにも助けられたと感謝しています。

 発電機があったので、それで電気を起こしてテレビを見ることができましたが、陸前高田市の状況は全然伝わってきません。そうこうするうちに燃料切れでテレビが見られなくなり、ラジオに頼るようになりました。そしたら、ラジオで大船渡市は壊滅状態だと言ってました。

 私の父は茨城から婿養子に来てまして、母は一人っ子だったので、近くに親戚があまりないんです。どこを頼ればいいかと考えたときに頭に浮かんだのが、私の妻は隣の大船渡市から嫁いできたので、妻の両親が無事であれば頼れるなということです。だけど、妻の実家も流されているとしたらどこを頼ればいいのかととまどいました。

 私には子供が2人いまして、娘は大船渡市の高校に行っていましたし、息子は高田の中学校でしたが、どちらの学校も高台にあるので、子供たちのことは大丈夫だと思いました。妻は市役所で嘱託職員をしておりまして、市役所の屋上に助かっている人がいるという情報でしたので、無事であってほしいと願っていました。両親や妹、姪のことは、私自身が助かったのは奇跡だと思っていましたが、何とか無事でいてほしいと思いながら夜を過ごしました。

 一晩過ごすといっても、食べるものが何もなかったんです。どなたかがアメを持っていて、みなさんに一つずつ分けてくださいました。「今夜はこれでこらえましょう」ということで、夜を過ごすことになりました。でも、余震がひっきりなしに襲ってきましたから、寝るにも寝られません。先のことなど考える余裕はありませんでした。

  2 3月12日

 翌日もまだ津波が押し寄せていましたから、動きようがなく、私は火葬場で休んでいました。目の下からの出血が止まっていなかった上に、胸の痛みもありましたし、履物はスリッパで、靴下の代わりに軍手を履いていました。スニーカーは水に濡れてしまって履ける状態ではありませんでした。動きようのない歯がゆさを感じながら過ごしていました。

 10時ごろだったと思います。無事な地域から炊き出しが届いたんですよ。白いご飯をそのままにぎっただけの、塩味のおにぎりです。普段食べるおにぎりは具が入って海苔が巻いてありますね。あれが当たり前のように思っていましたけど、塩味だけの、あのおにぎりの味は今でも忘れません。とってもおいしかったです。当たり前だと思っていたことがすべて失われてしまい、途方にくれたときにいただいたおにぎりだったんです。そのありがたさには涙が出ました。みなさんも涙を流しながら食べておられたのを覚えています。

 お昼ごろに息子が尋ねてきました。中学3年生の息子は卒業式の練習をしていて震災に遭ったんです。中学校で一晩を過ごしたと言っていました。息子から「おじいちゃん、おばあちゃんはどうなの?」と聞かれましたので、「一緒にいたけど、たぶんだめだと思う。すっかり波に飲まれてしまったので」と答えました。すると、「お母さんは?」と聞いてきたんです。ラジオでは市役所の屋上で何名かが助かったと言っていたので、「助かっていればそこにいる」と息子に話しました。

 息子に「どうやって来たんだ?」と尋ねましたら、妻の両親が無事だったんです。車も無事で、大船渡から迎えに来たということでした。火葬場から山道を十分ほど歩いたところに養護老人ホームがあって、そこに妻の両親が車で来ていたんです。山道を歩いて妻の両親が待っているところまでたどり着きました。

 養護老人ホームには医務室もあったんですよ。私の姿を見て、「治療してもらったら?」と勧められて治療していただきました。切ったのが目の真下だったので絆創膏を貼れなくて、ガーゼを当てて包帯で顔をぐるぐる巻きにされたんです。はた目から見ると、すごい大げさなことになりました。

 そんな私の姿をどう言われたかというと、「血だらけで歩いていた」と言う人や、入院してないのに「入院した」ということになったり、「顔の半分を持っていかれた。あれはもうだめだ」とも聞きました。ああいう非常時には人の噂というのは当てにならないなということを身をもって教えられました。生きていた方が死んだことになっていたり、亡くなった方が生きていることになったりした例がたくさんあったんです。

 妻の実家は海のそばだったので流されたんですけど、本家は無事で、そこで休ませていただきました。3時ごろに娘がやって来ました。やっと家族と会えたわけです。娘にも「おじいちゃん、おばあちゃんはどうしたの?」と聞かれましたので、息子と同じ答えをしました。「お母さんは?」とも聞かれ、「ラジオでは市役所の屋上で助かっている人がいるそうなので、お母さんがその中にいればいいね」と話したんです。

 すると娘が携帯を取り出して、「お母さんからメールが来てた」と言うんです。その時間が午後3時21分です。内容は「大丈夫か? 動かないでそのまま学校に待機していなさいね」というメールです。津波が防潮堤を越えたのが3時23分ごろですから、そのちょっと前ということになります。だから、もしかしたら助かっているかもしれないなという期待を私たちは抱きました。市の職員は避難した方々の世話をしなきゃいけません。携帯は通じないし、連絡の取りようもないので、妻は忙しく動きまわっているんだろうと、私たちは自分自身を納得させたんです。

  3 3月13日・14日

 私には車も何もありませんでしたので、お寺に戻りようがなかったんです。それに津波警報が解除されていませんでた。解除されたのは13日の午後になってからです。注意報だったらなんとか行けると思いまして、妻の父に「明日、高田に乗せていってください」と頼みました。

 14日、養護老人ホームのところまで子供と私の3人を送ってもらいました。お寺の墓地は高台にありますので、町が一望できるんです。そこから陸前高田市の惨状を見ることができました。ほんとに惨憺たる有様です。戦争を体験された方は空襲を受けたような有様だと言われてました。今日の午前中、平和記念資料館を見学したんですけど、原爆が落ちたあとの広島の町と同じだなと思いました。ああいう光景が広がっていたんです。



 その光景を見てて一番最初に出てきたのは涙ではなかったです。「ははは」という笑い声しか出ませんでした。人間、究極的に悲しくなったら空笑いになるのかなと思いました。「何だ、これは」ということしか言えませんでした。

 それからお寺に行こうとして山を下りたんです。足の踏み場もないんですよ。お寺があったところにたどり着くまでも、壊れた家の上を歩いたり、流れてきた材木の上を渡ったり、いろんなところを通らないといけませんでした。

 まわりの建物すべて流されていたので、お寺がどこなのか、まずそれから確認しないといけない状態だったんです。お寺の脇にあった杉の木が5、6本残ってたので、そこが寺だということだけはわかりました。一番最初に確認できたのは、お寺には石段があって、一段高くなっているんですけど、その石段が残っていたんですよ。「あ、ここだ」と思って見渡しました。建物は全部なくなっていました。桜とかの大きな木が何本かあったんですけど、それらも根こそぎ流されていたんです。ほんとにすさまじい状況でした。



 両親や妹の遺体を見つけようと、そのへんを捜しまわったんです。そしたら、300メートルぐらい上に、本堂の屋根が逆さになった状態なのを見つけました。もしかしたら父親はここにいるかもしれないというので、そこまで何とか行ったんですが、そこから先は本堂の柱とかが重なり合っていまして、これは人の力で動かせないと思ってあきらめました。

 次に何か残っていないかなと思って探してたら、つぶされて重なり合っている家と無事な家との間に、自宅の2階が奇跡的に残っていました。私たちは2階で生活していたので、服とか靴をそこに置いていたんです。必要なものを取り出せると安心しました。それだけを確認して、その日は帰ったんです。

  4 3月15日

 妻の父から仕事を頼まれました。というのが、妻の妹が陸前高田市で看護師をしていて、行方不明だったんです。14日に私たちがお寺を訪ねているときには、妻の父と弟は妹を捜していました。どこにいるかわからない。情報も得られない。だから高田に詳しい私に協力してほしいと頼まれ、一緒に聞いてまわりました。すると不確かですけど、避難しているんじゃないかという情報を得ることができたんです。であれば、災害対策本部がありまして、そこに無事な人はメッセージを残していくんですよ。どこにいるとか、無事だとか。そこに見に行ったんです。

 私は震災の3年ぐらい前までは、市民会館の嘱託職員として働いていました。ですから、みなさんから顔を覚えられていたので、知っている方から手招きされたんです。情報があるのかなと思いましたら、そこで教えられたのは妻の財布が隣の町で消防団の方によって拾われたということです。その話を聞いたときに思ったのは、「ああ、だめだった」ということです。財布は常に身につけています。それが見つかるということは波に巻き込まれたんだなと、私は覚悟を決めました。

 一緒にいた妻の父から「どうする? 子供たちに話すのか」と聞かれました。でも、妻の妹も行方不明ですし、二人ともだめだということになったら、妻の母のショックも相当でしょうし、私の子供たちにもかなりのショックを与えると思ったので、「今日だけは黙っています。妹の安否が確認できたら話します」と答えました。

  5 3月16日・17日

 16日に妻の妹の行方がようやくわかりました。嫁ぎ先の親戚の家に妹の旦那さんといることを確かめることができたんです。それで私は、16日の晩に子供たちに妻のことを話しました。「お母さんの財布が見つかった。だから、だめだと思う。同じ職場にいた人たちもほとんど行方がわからない。庫裏の2階から服や思い出のものを取り出そう」と。

 17日はお弁当を作ってもらって、朝からものを取りに出かけました。自宅の2階に大きな穴があいていましたので、そこからものを出していたんですが、廊下側に行くにはさまざまなものがつぶれて重なり合っていたため、直接行くことができません。2時ごろだったと思います。屋根に小さい子供が入れるくらいの穴があいていたんですね。そこから2階の廊下に入っていけるんです。娘が「入る」と言ったんですけど、中は暗いですし、危ないです。瓦を落としまして、それから屋根の板をはがし、私が最初に入りました。

 天井板を破って中をのぞいたときに、太い棒のようなものが見えたんです。太さは私の腕ぐらいです。そういうものは2階にはなかったという記憶がありますから、「おかしいな。何なんだろう」と思いながら手を伸ばして触ったんです。そしたら柔らかかったんですよ。じっと見てみましたら、ジャージをはいている足だったんです。それは妹の足でした。

 そのとき、栃木県の消防隊の方が周辺を捜索していました。息子に「おばさんがここにいるから出してもらおう」と声をかけて、消防隊の方々に来ていただいたんです。それが3時ちょっと前だったと思います。隊員の方が時計を気にされていたんですよ。何なのかなと思ってたら、消防隊は3時に撤収して、3時半には本部に戻るという決まりがあったんです。

 今日はだめなのかなと思ってたら、隊長さんが無線で本部に連絡し、「こちらに犠牲になられた方が3名おられるそうなので、ご遺体を出してから帰ります」と伝えてくださったんです。それから遺体を出す作業をしていただきました。見つかったのは母親と妹だけでした。近所のおばあちゃんは私と一緒に家の外に出されたのかなあと思います。そのおばあちゃんはいまだに見つかっていないんです。

 陸前高田市の人口はその当時約2万4千人でしたが、犠牲になった方は1割近くです。そんな中で、各地から来た消防隊の方々が一生懸命捜索してくださいましたし、いろんなお世話をしていただきました。自衛隊の方々も道路をいち早く通すなどしてくれました。人の力はすごいなというのを強く感じたことです。

 母と妹の遺体を見たときに救われたと思ったのは、苦しんでなかったことです。本当に眠るような顔でした。それだけでもよかったなあという思いを抱きました。なぜかというと、それまでにですね、いろんなご遺体を見てきました。巻き込まれて亡くなられた方は身体のあちこちが傷んでましたし、顔も傷ついていました。首から上がないご遺体もあったんです。

 そういうご遺体を見ていましたので、母や妹は眠るような顔で、どこにも傷がなかったので、それだけでもよかったし、自分たちで見つけることもできたこともよかった。見つからずに捜している方がいっぱいいたんですよ。

 息子の同級生には、家族全員が行方不明で、一人で家族を捜すというつらい作業をしていた子もいました。そういう子にかける言葉は浮かんでこなかったです。息子に「話をしてこい」と言うことしかできませんでした。

 妹の遺体が見つかったことを家族に伝えなきゃいけないなと思いまして、妹の家族は私が最初に避難した火葬場にいましたので、そこに行ったんです。最初に姪が出てきたので、「お母さん見つけたよ。おばあちゃんと一緒だったよ」と、そういう話をしてたら、妹の旦那が出てきてですね、今度は逆に私が教えられたんですよ、妻が隣町の中学校の体育館に安置されているということを。17日に母と妹、妻の3人の行方がわかったんです。

 すぐに妻の遺体に会いに安置所に向かったんですが、5時近くだったんですよ。安置所は5時に閉めるという決まりがあるんです。私と子供たちと妻の父の4人は間に合ったんですけど、大船渡市の家で待っている妻の母親にも会わせてあげたい。

 妻は福祉事務所の嘱託をしていまして、家庭児童相談員と婦人相談員を兼ねていたんです。DVとか虐待で困っている人を助けるために警察と協力していたんですけど、その協力していた警察官の方が遺体安置所の管理をされていました。その方に妻の名前を言いましたら愕然とされました。「妻の母親も会わせてあげたいんです。でも、もう閉まりますよね」と尋ねたら、「何時になってもいいですから連れてきてください」と言われました。あれはいくら感謝してもしきれないくらいでした。

 このように、困ったときに手を差し伸べられるということが何度もありました。そのことを考えますと、生きているときのさまざまなつながりがどこでどのように活きてくるかわからないと教えられたような気がするんです。支えられたなと思っています。

  6 3月28日・29日

 母と妻と妹の3名が見つかったので、火葬しなくてはいけないんですが、そのころは火葬がなかなかできなかったんです。母と妻は4月の中旬にしか順番がまわってこない。それでは困るなと思いました。傷んできますし、見てられないんですね。早くお骨にしてあげたいという思いをみなさん持っていました。思い浮かんだのが、私の姉の嫁ぎ先が遠野市で、旦那が市の職員をしていたということです。「何とかなりませんか」と相談したら、3月28、29日が取れたということを聞きました。

 次に棺桶を準備しないといけない。それがなかなか手に入らなかったんです。でも、たまたま妻の父の知り合いが葬儀屋さんをされていたので話してみると、「二つだけだったらあるよ」と言ってくださったんです。その二つの棺桶をいただいて、母と妻を棺桶に納めることができました。でも妹の分はないので、妹の夫に聞きましたら、「会社のほうでなんとか用意する」ということで安心しました。

 28日に母を、29日に妻を火葬しました。親戚のお寺が広島市にあるんですけど、母たちの火葬にわざわざ広島から、それも大変なところを駆けつけてくれたんです。いろんな物資をスポーツバッグにいっぱいに詰めて来てくれました。「どうやって来たの?」と聞いたら、東京まで新幹線で来て、そこから花巻まで高速バス、それからタクシーを使ったそうです。かなり苦労したみたいでした。バスの切符もなかなか取れなかったそうです。そのバスに乗っていた方々も家族や親戚を心配して、たくさんの物資を運んでいたそうです。バスの中は無言だったと言っていました。

 やっと荼毘に付すことができたんですけども、あとから聞いて私は申し訳なかったなと思ったのは、「お経の声で送ってあげることができなかった。それが一番悲しい」という声を何人かから聞いたことです。というのは、陸前高田市のほうでは亡くなるとまず火葬にするんです。火葬場の炉の前でお経をあげて火葬し、お骨になってからお通夜とお葬式をします。

 私たちのときは、母と妻の遺体を棺桶に入れ、炉前でお経をあげて火葬することができました。そういう当たり前のことができましたけど、火葬のときに棺桶がない人もいたんです。どうされたかというと、コンパネという板があります。ベニヤ板の分厚いやつです。その上にご遺体を載せて、ブルーシートで覆って火葬したという方がたくさんおられました。

 そして、私たち僧侶も被災しましたので、炉前でのお勤めをすることがなかなかできなかったんです。「お経の声で送ってあげたかった」ということを聞いたときに私が思ったのは、私たちは次から次へとお勤めをしているので、僧侶のあり方としてこれでいいのだろうかという疑問を感ずることが今まであったんです。でも、その言葉を聞いてですね、炉前の勤行というのは多少でもご遺族の救いになっているんだなということを思いました。そこでも教えられた気がします。

  7 4月11日

 一番最初に子供たちから言われたのは「お父さんだけでも生きていてくれてよかった」ということです。「もしお父さんまでいなかったら、私たちは頭がおかしくなっていただろう」と。私はお寺を何とかしなければいけないということがあったので、いろんなことに手一杯で、娘や息子のことは気にかけてやれなかった、悲しみを感じる余裕がなかったと申し訳なく思います。

 娘は母親を亡くし、大親友を失い、もう1人の親友が行方不明になり、非常に苦しんでいました。それに気づいたのは娘の泣き声からです。当時は親子3人で川の字に寝てたんです。子供たちは不安だったと思うんですよ、布団に入ると、両方から手が出てくるので、3人で手をつないで寝てました。息子のほうは寝つくと手を離すんですけど、娘はなかなか手を離さない。しばらくたつと、泣き声が聞こえてくるんですね。しくしくとしのび泣く声が聞こえてきました。

 思い切り泣くことはいいんですけど、しくしく泣くのはますます悲しみがたまっていくんじゃないかと思って、「思いっきり泣いていいよ」と言ったら、娘は「泣けない」と言うんです。「なんで?」と聞いたら、4月初めから私たちは大船渡市に貸家を借り、妻の両親と一緒に住んでて、ふすま一枚を隔てて妻の両親が寝ていたんです。娘は「私が大きな声で泣くと、おじいちゃん、おばあちゃんが悲しい気持ちになる」と言ったんです。

 でも、しのび泣きが何度も何度も続くもんですから、このままじゃ娘の心が壊れてしまうんじゃないかなと心配になりまして、車を運転できるようになっていたので、娘に「外に行こう。外だったらいくらでも泣けるでしょ」と誘ったんです。そしたら「うん」と言うので、「どこに行きたい?」と尋ねたら、「高田」と答えたんです。お寺のそばに行きたい。一週間ぐらい毎晩通っては泣く日が続きました。

 涙を思い切り流すことが一番いいんだなと思ったのはそのときです。悲しみをこらえすぎては人の心は壊れてしまう。それは娘を見てて私が教えられました。私もこらえていたものがありましたので、「じゃあ、一緒に泣くか」と言って泣いたときもあります。そういうことをしながら暮らしていました。

 私が一番心配したのは息子でした。というのが、息子は泣かなかったんです。両親と妻の葬儀を10月29日に親戚のお寺で行いましたが、葬儀のときに息子が泣いてたということを姉から聞いて、「ああ、よかった。やっと泣いてくれたか」と安心しました。涙は何回でも流さないといけないと思います。

 ご存じかもしれませんが、朝日新聞に「トランペットの少女」という記事が出ました。あれは私の娘です。吹奏楽部に入っている娘が「どうしてもお寺の境内でトランペットを吹きたい。吹くなら命日の11日がいい」と言い出したんです。でも、トランペットを吹いているときに取材の人がまわりにいると困ると思いました。というのが、とんでもない取材をする記者がいたので、私はマスコミに抵抗を感じていたんです。たとえば、「報道されたら支援のお金がもらえるかもしれない。取材させてくれないか」というような条件を提示して取材をする記者がいたそうです。そういう取材のされ方をした人の話を聞いていたので、私は報道陣を警戒していたんです。

 津波が襲ってきたのは午後なので、マスコミの人が来るのは午後からだろう、午前中の早くだったら大丈夫だと、私たちは考えました。ところが、娘がトランペットを吹き出したら、どこからか聞きつけて尋ねてこられたカメラマンの方がいたんです。それが朝日新聞のカメラマンでした。

 そのカメラマンはとても心の優しい方だったと思います。私はこの人だったら大丈夫かなと思って許したんです。どうしてかというと、その人は涙を流しながら「写真を撮ってもよろしいですか。もしよければお話を聞かせてください」と言われました。

 それで、私たち家族は取材を受けたんですけど、まさか全国紙に載るとは思ってなかったんです。次の日に親戚から電話がありまして、「娘さんつらそうだけど、何とか元気でやってるみたいだね」と言うので、「何でわかったの?}と聞いたら、「朝日新聞の一面に載っているよ」と言われたんです。

 これは困ったぞと思いました。ねたみとかそういうものが起きてくるんじゃないか怖れたからです。実際、名を上げる行為だと思われて、しばらくおつき合いを離れた方もいます。でも、取材は私たちがそういう条件で受けたわけでないんだと説明しましたら、「そういうことだったのか」と理解してもらえました。当時のいろんな状況の中で意思の疎通ができなくて、つらい思いをした人がいっぱいいます。

 娘が4月11日にトランペットを吹いたことが報道されたことで、全国の方からいろんな支援をいただき、5月には東京でのコンサートに出させてもらいました。そこでまた、「応援してるからね。がんばってね」という声をいただいたんです。

 震災までは娘は医者を目指していましたが、震災に遭って断念しそうになってたんです。でも、コンサートでいろんな方々からはげましの言葉をいただいて、「じゃあ、がんばってみよう」という気持ちになり、再チャレンジが始まりました。医学部には入れませんでしたけど、福島市にある大学で看護師の資格を取るためにがんばっています。娘は「福島の人たちの痛みも私はわかる。そういう場に立つことができた。震災を経験して私が得たものだ」と言っています。

 しかし、今でも子供たちの心が元に戻ったわけではありません。大学生になった娘は、たまに泣きながら電話を寄越します。地震があると、「怖い」と電話をかけてきます。最初は「海だけは行きたくない」と言ってたんです。大切な人の命を奪ったんですから。だけど、「太平洋には行きたくない」と言うようになりました。ちょっとずつ変わってきているのかなと思います。

  8、4月28日
 四十九日の法要をしないといけないんですが、本堂がないのでできませんでした。陸前高田市では全壊したお寺は私の寺を含めて3か寺です。近所にある浄土宗のお寺は本堂がちゃんと残っているように見えても、畳の上まで波をかぶっているので法要ができません。私が避難した光照寺さんのご住職が「5寺合同で四十九日の法要を行いませんか」と言ってくださり、法要を勤めることができました。

 そのときに私は取材を受けまして、いろいろお話をさせていただいたんです。それは朝日新聞の県内版だったんですけど、たまたま東京の仏師の方が岩手に旅行に来られてて、その記事をごらんになり、朝日新聞の記者さんを通して連絡が来たんですよ。「私が彫った阿弥陀三尊像があるんです。よろしければこれを安置していただけませんか」ということで、わざわざ東京のほうからお越しくださいました。その阿弥陀仏は仮の本堂に安置させていただいています。本堂を建てたときには、本尊としていただけるようにしたいなと思っています。

  9 6月28日

 震災は経験したくはないですけど、教えられたことはいっぱいございます。人のつながりということもその一つです。

 私が今つけている衣や袈裟はいただきものなんですよ。全部流されてしまったので、持っていたのは数珠だけです。お参りするのにまさか普段着ではできないということで、礼服をお貸しいただき、その礼服を着て火葬場でお勤めをするということを何日かしました。

 しばらくしてから、いろんな方から衣や袈裟が届きました。どういう方たちかというと、私の父と関係があった人たちです。「お父さんには大変お世話になったので、今度は私たちが恩返しをする番です」と。他にもいろんな方々から多くのものをいただきました。縁もゆかりもない方からも助けの手が差し伸べられました。人のつながりのありがたさを教えられています。

 あの当時、CMで流れていました歌があります。

  長い棒に短い棒 支えあったら人になる
  支えることで人を知り 支えられて人となる
  長い棒に短い棒 支えあったら人になる
  支えるから人なんだ 支えられるから人なんだ

 このとおりだなと思います。人という字は、短いほうを蹴ってしまったら倒れてしまう。でも、支え合うことで人は人になっていきます。そのとおりのことが被災地では起きているんだなと思わされました。

 仮本堂を建てるときにもいろんな方から手を差し伸べられました。父と姪とは行方がわからないままだったので、車を借りて毎日高田の町に通って、父と姪の行方、お寺のご本尊を捜すことをしていました。でも、なかなか見つけることができませんでした。

 そんなとき、あるご門徒さんに出会ったんです。そしたらですね、私の顔を見て、「ああ、あんただけでも無事でよかった。みんなだめだったらどうしようかと思ってた」という言葉をかけられました。私が助かった経緯を話したら、「どう考えても次から次へと用意したようにして助かったのは、あなたは何かをするために生かされたんだね」と言われたんですよ。そのあと「本稱寺はなくならないんだね」と聞かれました。私は自分でも助かったのは奇跡のようなものだなと思ってたんです。だから、「本稱寺はなくしません。私はそのために助けられたんだと思います」ということを話しました。

 震災ですべてが流されてしまったときから私の頭にあったのは、本堂を何とかしなければいけないということだったんです。仮の本堂でいいから何とかして建てなければいけないという思いの中で暮らしていました。でも、本堂を建てる土地を借りるのは難しくて、「仮の本堂を建てたいんだ」と頼んでも、「うん」と言ってくれる人がなかなかいないんですね。しばらく時間がかかりまして、やっとめどが立ったのが6月でした。

 私の寺の別家の人と話をする機会がありまして、この話が出たんです。私と同い年なんですが、その方も奥さんを亡くされてました。久しぶりに会って話をしてたら、「そういえば本堂はどうなりました?」と聞かれたので、「建てる場所がなくて困ってるんだ」と答えたら、「なんだ」という言葉が返ってきましてね、「うちの畑があるから、そこを使ってもらえばいいよ」と、あっさりそこで決まっちゃったんですよ。早くそれを言ってくれればいいのに。

 それまで私は一人でなんとかしようと思っていたんです。だから、なかなかうまくいかなかったんですよ。そうじゃなくて、人の力を頼ればいいんだということで、それからは頼れる方には頼るようにしています。

 今度はプレハブを購入しなければいけません。いろいろ歩いたんですが、当時はプレハブがなかなか手に入らなかったんです。あったとしても中古のものでした。「県内にはない」と言われ、隣の宮城県まで探しに行くことにしました。そのときには父の行方はまだわからなかったんです。

 6月の下旬あたりから、岩手、宮城、福島の身元不明の方のご遺体と、身につけていたものの写真が台帳で見られるようになっていました。6月28日、その台帳を見ていたら、父親の写真があったんです。どこも傷つかない姿で写っていたんですよ。「ああ、見落としたな」と思いました。私の思い込みだったんです。というのが、父親はいつも腕輪念珠をしてましたし、腕時計をつけていました。私はあれは手からはずれないものだと思っていて、腕輪念珠と腕時計をしている遺体を捜してたんです。だけど、そのときに父はどちらもつけていなかったんですね。顔も見てたつもりなんですけど、身につけていたものを最初に見て、あるかないか、それで判断してしまったんです。そのことでは悔しい思いをしました。

 当時、身元不明の遺体は二週間を限度に千葉のほうに搬送され、そこで荼毘に付されたんです。どこで、どういう状況で見つかったかということが、検案書に書いてありました。それには4月16日に見つかったと書いてあったんですよ。

 台帳の写真を見つけたときに、「これで間違いないです。DNAの鑑定をお願いします」と警察の方に頼みました。そしたら、「すぐわかりますよ」と言われたんですが、すぐわかるといっても、早くて二週間、かかって一か月ということでした。6月28日にお願いして、プレハブを見に宮城へ行ったのが7月1日です。

 そのプレハブは中古なので、ところどころ傷んでいたんですね。値段も震災前の倍近くでした。一緒に行った業者の人からは「もう少し交渉したほうがいいんじゃないか」と言われて帰ることにしたんですよ。ところが帰りの車の中で、私の携帯に警察から電話が入りまして、「間違いなくお父さんです」と言われたんです。二週間はかかると思っていたのが、プレハブを見に行っての帰りに電話があったので、私の勝手な解釈で、これはおやじが早く建てろと言っているんだなと思って、一緒に行った人に「頼んでください」とプレハブの注文をお願いしました。

 突貫工事でしてくださったと思います。それから一か月ほどした8月初めに仮本堂を建てることができたんです。そこで初めて、津波で亡くなられた方々の葬儀をお勤めすることができるようになりました。みなさん、本堂ができて喜んでくださったんですよ。やっと手を合わせる場所ができたということで。私もよくできたなあと思っていました。

 そうやってお盆を迎えて、しばらく落ち着いたころ、ある方から言われたひと言があったんです。「立派な本堂もありがたいけど、私たちはテントでもよかった」と。テントを寺の跡に建てて、そこに掛け軸でもいい、ご本尊を安置して法要をしてもらいたかったと、厳しい言葉をくださいました。

 そのときに、私は建物にこだわりすぎていたのかなと思いました。お寺というのは立派な本堂があってこそと思っていましたけど、手を合わせる方々にとっては、よりどころとなる場所があれば、どういう場所でもそれが寺となりうるんだということを教えられました。

 子供や孫ががんばっているんですよ。大学に行った子供たちは、大学を卒業したらいずれこの町に戻ってきて、町の将来に役立ちたいという気持ちでいます。お父さん、お母さんを亡くしている子供たちなんです。大人である私たちがそういう子供たちにどういう姿を見せるかだと思います。もしも弱気になったり、泣きたくなったり、愚痴を言いたくなったら、お寺に来てもらいたいと思っています。

 震災でいろんな人に助けられ、そしていろんな厳しい言葉をいただきながら、私は育てられている最中にあります。よく「お父さん、お母さんが亡くなって大変だね」と言われますけど、今は父や母が大勢いるような気がするんです。会うたびに厳しい言葉、優しい言葉をいっぱいかけてくださいますので、そういう言葉に支えられながら生活できているのかなと感謝しています。



 二 震災で教えられたこと
 
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 震災から3年と2か月がたちます。しかし、被災地の状況は何にも変わっていません。今でもみんな苦しい思いをしながら暮らしています。先行きが見えず、とても不安な気持ちでいるんです。私の住んでいる仮設住宅は1DKです。大学に行っている2人の子供が帰ってきたときには、私は台所で寝袋に入って寝ている状態です。

 今も時々地震があります。まだまだ余震は続くだろうと、住んでいる者は覚悟しておりますが、緊急地震速報のあの音だけは慣れることができません。あの音を聞くたびに当時のことを思い出す方々が大勢おられますし、不安がぶり返してきます。

 大人はなんとか自分を制御しようとするんですが、子供たちはそうはいきません。小さい子供たちの心の痛みは想像だにできません。みなトラウマを抱え、小さい身体でそれと戦っています。見ているほうが痛ましくなるくらい我慢をしています。早く落ち着くことを願いながら大人たちは子供を見守っています。

 私が訴え続けているのは、まだ被災地の復興はなっていないということです。被災地には高齢の人が多くて、口々に言われるのが「私が生きているうちに復興はならないだろう。それまでは生きてられないね」ということです。今はやっと片付けが終わって、何もなくなった状態。そこから基礎が作り上げられて復興が始まるという形になってきています。土地のかさ上げをこれからしていくんですが、五メートルから六メートルほど高くする予定です。それなのに、もう終わったんじゃないかなという空気があるので、「私たちは忘れられているんじゃないだろうか」と不安をもらす人もいます。

 私がお願いしているのは、どこでもいいですから被災地を訪ねてみてください、そして空気を感じてみてくださいということです。テレビで見るのと、自分で足を運んで感じるものとでは大きな違いがあります。訪ねて来てくださった方は口々に「全然違うね」という言葉をもらされます。「もう終わっているのかと思っていたら、まだまだですね」と言う方もいます。

 被災者とどういうふうに接したらいいかわからないと思われるかもしれませんが、普通でいいんじゃないでしょうか。「かわいそうに」という同情の言葉は望んでいないと思います。「あなたよりつらい思いをした人もいる」とか「前向きに生きなきゃ」といった言葉も避けてほしいです。「がんばってね」とは言わないでください。それが一番心にダメージを受けるんです。

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 多くの人は身近な方が亡くなると、「こうすればよかった」「あんなことを言わなければよかった」という自責の念を持たれます。被災者もそうです。「なんでおれだけが生き残ったんだ」と自分を責める人がいっぱいいます。娘の大親友はお母さんと手をつないで逃げてて、波にさらわれて死んでしまったんです。生き残ったお母さんは「どうして娘の手を離してしまったんだろう」と自分を責めておられます。

 私自身もそうです。いまだにそう思っている部分はかなりあります。震災直後、近所の人、20名以上の方といましたけど、助かったのは私一人です。「なんで私だけが助かったんだろうな」と思いました。そして今でも後悔しているのは、みんなに「早く逃げよう」と言えばよかったということです。

 悲しみの癒えない方々は大勢おられます。私自身、悲しみは何年たっても薄れないんだなと教えられました。私はお通夜やご法事などで法話をしていますけど、震災前は「悲しみは時間とともに薄らいでいく」といった話をしていたんです。でも、自分自身が死別を体験してみて、間違っていたなと反省しています。

 このごろお話しするのは「悲しみは何年たっても突然ぶり返してくるものですよ」ということです。月日がたつとともに濃くなるものがあります。そのたびに悲しみがつのってくるんです。「ああすればよかった」「こうすればよかった」という悔いも出てきます。そのときには誰にも遠慮せずに涙を流したほうがいいと思います。そこから歩めるんじゃないんですかね。

 私が思ったのは、悲しみは悲しみとして表に出していいということです。娘を見てて、涙を思い切り流さないと人は生きていけないなと、ほんとにちょっとかもしれませんけど、涙は救いになるなと思いました。男は変なプライドを持っているんですよ。男だから人前で涙を流してはいけないというプライドは捨てたほうがいいです。家族を亡くされた人には「泣いてる?」と聞きます。「泣いているよ」という答えが返れば安心します。

 私たちは思い出とともに生きていくんじゃないかと思います。「ああすればよかった」「こうすればよかった」という悔いは思い出すたびに出てきます。でも、それは自分で消化していかなければいけない問題なので、「こうすればいいですよ」ということは言えません。悲しみや自責の念を切り離すんじゃなくて、いつまでもおつき合いしながら生きるのがいいんじゃないかと思います。そのおつき合いの仕方をどこまで上手に、という言い方もおかしいですが、それができるかということが私のこれからの課題でもあるかなと思っています。

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 いろんな方と関わりを持つようになってお話しする中で、同じようにご家族を亡くした方と話をすると、「この人もそうだったのか」と共有するものがあります。仮設住宅に今でも継続的に来てくださっているのは、神戸や新潟とかで地震に遭って、同じ苦しみを体験してきた方たちです。

 阪神や新潟などの地震に私は他人事だったなあと、自分自身が被災して感じました。テレビで見て「かわいそう」と思うだけで、何かしなければと思いながら、何もしようとしなかった自分に気づかされました。

 神戸の方々が毎月のように来られて、話し相手になってくださっているんです。「どうしてそんなに来てくれるの?」と聞いたら、「震災当初は多くの人たちが気にしてくれますけれど、年月がたつと忘れ去られていきます。気持ちがようやく落ち着いて、いろんなことを考えられるようになってくる。そのときが心が危うい状態です。そんなときに話し相手がいない。そうなると、だんだん不安になって、自分で自分の命を絶ってしまう人がこれから増えてきますよ。私たちはそういうことを経験していますので来させてもらっています」と言われたんです。

 支援に来られた方たちがご自宅に帰るときに言われる言葉があるんです。「また来るよ」と。来られたときは「大変だね」とか「かわいそう」とは言われません。普通に話をして、そして「また来るね」と言って帰られます。そして、また来てくださるんです。そういう関係がずっと続いていますので、家族同然のつきあいをしている方もいます。行ったり来たりしながら、年賀状や暑中見舞いをかわして、ますます人とのつながりが強くなったかなと感じています。

 同じ気持ちを共有できる仲間がいることが一番大切なことだと思います。私がここでお話しできるのも、同じ境遇の方々と話し合ったからこの場に立つことができているんです。そうでなければ私もくじけていたかもしれません。人は痛みを共有できる心を持っているんですね。痛みを共有できる人とは大事なつながりを持てるんじゃないかなと思います。

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 震災直後は話をするのもいやだという方がいっぱいおられたんです。でも、ようやく落ち着いて、当時をふり返って話をする方々が出てまいりました。私がなぜ震災の話をするかというと、私が生かされたことが第一です。私自身、生かされたという思いがあります。どうして生かされたのかを考えたとき、震災の体験をもう一回かみしめて自分のものにし、今度はみなさんに伝えていかなければいけない、そして残された人たちについて語っていかなければいけないと思ったんです。

 親戚の住職から「あなたは死ぬ思いをして、そして助かった。家族を亡くし、そしてお寺をなくしてご門徒の方々と共に歩んでいる。そういうことを語らなきゃならない」と言われました。さらに「そうしなければいけない役目を担っているんじゃないかな」とも言われたんです。

 別の人からは「あなたはそういう体験をされたから、話す言葉は重みがあるんだよ。私たちは被災はしているけれども、身内を亡くしてはいない。親しい人を亡くした方にどうやって言葉をかけたらいいかわからないんだ」と言われました。

 起こってしまったことはどうしても覆せないんです。だったら私に何ができるかと考えたら、今日、この場に私が呼ばれたように、いろんなところで話をして、当時の状況や、いろんな方に支えられ助けていただいたということを伝える。そして、被災地や被災者の今の状況をわかっていただき、同じ過ちをくり返さないように訴える。その中で、新しいつながりが生まれてくればいいなと思っています。そのためにも、いろんなところに出向かせていただき、お話をさせてもらっています。

 言葉をかけられるんですよ、「大変だね」って。「いやいや、自分だけじゃない。みんな一緒だから」と答えています。でも、そういう気持ちも年月がたつにつれてだんだんと薄らいできているかなと自分でも感じます。だからこそ、自分に確かめる意味でも語らなければいけないと思っています。

 同じ岩手県内でも、内陸のほうに行けば普通と変わりない生活をしています。普通の生活というのは、本当にありがたいことなんだということも伝えないといけないと思っています。広島では停電はなかったと思うんですけど、私たちのところは2週間停電しておりました。プロパンガスはありましたけど、水は出ません。そういう中で暮らしているとですね、ありがたみがほんとにわかります。電気がついているのは当たり前だと思っていましたけど、初めて電気がついたときには、あのうれしさといったらなかったです。ロウソクの光での暮らしも捨てたもんじゃないなと思いました。家族でロウソクを囲みながら話すのは暖かいんですね。

 私たちが当たり前だと思っているものは、突然なくなるものだということをわかっていただきたいんですよ。家族もそうですよね。家族そろって食事をするとか。当たり前ということがいかに大切か、ありがたいものか、失ってみて初めて気づかされます。

 そして、何かあったときに自分はどのような行動を起こすかを考えていただきたいんです。人間、善いことも悪いこともします。震災では「日本人は素晴らしい」と絶賛されましたよね。暴動や略奪が起こらず、譲り合い、助け合いをしていたと。たしかにそのとおりなんですけど、そこで暮らしていた私たちは浅ましい姿も見てます。震災の次の日からいろんなものを拾い集めている人、お金を拾っていく人がいました。

 人というのは何をするかわからないということも事実です。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と『歎異抄』にありますけど、縁によっては思いもよらない恐ろしいことをしてしまうこともあるんです。私たちにとって善い縁があれば悪い縁もあります。私はそういうことはしたくないと思ってもやってしまうかもしれません。

 そういう自分の心と向き合ってみることが必要ではないかと思います。自分さえよければという気持ちがあれば、自分のことだけになってしまいますが、苦しんでいる人、悲しんでいる人が見えたなら、独りよがりのことはしないかもしれないですよね。

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 みなさんもいろんな経験をされてきたと思いますけど、その経験を誰かに話して伝えていかないといけないと思うんです。お年寄りと話をしたら、「おれが話をすると、子供や孫が顔をしかめて聞きたくないような顔をする」とぼやく人が多いんですよ。

 たしかにそのとおりかもしれません。私も両親とケンカをしましたし、小言も言われました。でも、そうしたことが今、じわじわと思い起こされてきているんですね。たとえば仏事や法要をするたびに、父がこんなことを言ってたなとか、母親がこういう準備をしていたなと、いろんなことが思い出されてくるんです。それまでは気にもかけなかったのに、両親が亡くなってみると、言われたことが頭に残っているなと気づかされました。「親の小言と冷酒は後で効く」ということわざがありますが、そのとおりだと思うんです。

 人間は言葉を発することができ、思いを伝えることができる技術を持っているんです。それを発揮したほうがいいんじゃないでしょうか。みなさんも今までいろんな体験されてきたでしょう。これは大事だなと思ったことをご家族に伝えられたらいいなと思うんですよ。たとえその場ではしかめ面されたとしても、言ったからには耳に残り、頭に刻まれますから、必ずあとで役に立つことがあるはずです。黙っていたら残りません。私たちには伝えていくという仕事があると思うようになりました。そのことを最後にお願いして、今日のお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。