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  仏教と死刑

杉木恒彦「インド大乗仏教経典に見られる刑罰・戦争論 十善はどのように王政として展開されるのか」

『ミリンダ王の問い』

『宝行王正論』

岩瀬達哉『裁判官も人である』

中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』

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杉木恒彦「インド大乗仏教経典に見られる刑罰・戦争論 十善はどのように王政として展開されるのか」によると、「仏教には、死刑を認める説と禁止する説の両方がある」そうです。

『サティヤカの章』(『サティヤカの書』とも)は死刑禁止の立場、『ミリンダ王の問い』は死刑を肯定しています。
『サティヤカの章』はこのように説きます。

なぜ王は死刑をすべきでないのか。
刑罰の目的は罪人の矯正であり、罪人を決まりに従わせることである。
刑罰の目的が矯正であることは、医師と病人の喩えによって説明される。
医師が患者を治療するように、王は罪人の矯正を行う。

刑罰は慈しみをもって行うのであり、怒りをもってではない。
軽微な刑罰を行うのが基本である。
罪人に対し口頭での注意で刑罰の目的が達成されるなら、口頭での注意のみを施す。
もし口頭での注意のみでは目的が達成しないと分かったなら、死刑と目を潰す等の知覚器官の破壊と体肢の切断といった重い身体刑を除いて、慈悲の心から、拘束、収監、打つこと、威嚇、あるいはその他の軽微な身体刑、非難、叱責、居住地からの追放、罰金などにより厳しく対処する。

王が順守すべき基本的な戒めは十善である。
死刑と、目などの知覚器官を損壊させたり身体の一部を切断したりする重度の身体刑が禁止されるのは、十善の一番目である不殺生(殺さず、重刑をせず、危害を加えない)に反するからであり、罪人への憐れみからである。

どのような身体刑が行われていたのか、『ミリンダ王の問い』に、ナーガセーナが四苦八苦などの苦しみを列挙する中で、犯罪者に科せられる刑罰の方法を述べらています。

鞭で打たれるのも苦しみである。
籐で打たれるのも苦しみである。
半杖で打たれるのも苦しみである。
手を切られるのも苦しみである。
足を切られるのも苦しみである。
手・足を切られるのも苦しみである。
耳を切られるのも苦しみである。
鼻を切られるのも苦しみである。
耳・鼻を切られるのも苦しみである。

なぜ王は重度の身体刑をすべきでないのか。
破壊・切断された身体部位は元に回復できない。
それに対し、拘束や収監などは回復するので、矯正を目的とする刑罰として適切である。

罪人を適切に処罰することは憐みの実行である。
憐みの心によって厳しく処罰するとはどういうことなのか。
父は、悪さをする息子をしつけるために、息子への憎悪や害意からではなく、慈悲の心から軽微な処罰の方法により犯した罪を反省させ、また今後も罪を犯さないように、すなわち矯正のために息子を厳しく指導する。
王も、臣民たちを自分の息子と考え、怒りではなく憐みの心から、罪を犯した臣民の矯正のために軽微な処罰で厳しく対処する。

このように、不殺生の戒めに反することに加え、重刑は罪人を矯正するものではなく、不幸にするものなので、憐みある王は行なってはいけない。

王は十善のみを統治のよりどころとするのではなく、様々な具体的教えを説く経典や律典や論書に依拠して統治を行う。
だが、仏教外の伝統で編纂されたアルタ・シャーストラ群に依拠してはいけない。
なぜなら、それらは王の統治行為として暗殺や死刑や重度の身体刑といった殺生の実行を命じるからである。
王が依拠すべき教書は殺生の行使ではなく、三毒の克服を基調とするものでなければならない。

死刑執行は死刑囚自身の悪業の報いとして生じるのと同じく、戦場での敵兵殺傷は王への害意をもつ敵兵自身の悪業の報いとして生じる。
敵兵自身の悪業の熟した結果である罪とは、王への害意という悪業から発する、戦闘行為を含む敵対行為を指す。
戦場で殺されることは敵兵自身の自業自得である。

死刑は完全に禁止されるのに、なぜ敵兵殺傷は完全には禁止されないのか。
敵兵も憐れみの対象となるが、王にとっては臣民の守護(憐み)が第一であるため、戦場で敵兵を殺すことが臣民の守護のために不可避であれば、臣民への憐れみが優先される。
それゆえ、王は臣民を守る唯一・最後の手段として戦場で敵兵を殺傷することがあっても、自国の罪を犯した臣民には決して死刑などの重刑を課さない。

『サティヤカの章』は、死刑囚は憎悪の精神状態で死ぬので、地獄など悪趣への転生を繰り返すことになると説く。
しかし、殺された敵兵のその後については何も語らない。

  2

『ミリンダ王の問い』で、ミリンダ王がナーガセーナに釈尊は死刑を是認していたかどうかを問答しています。

「尊者ナーガセーナよ、また尊き師は、次の〈詩句〉を説かれました。
「この世において、他人を害するなかれ。他人を喜ばし、親切なれ」
しかるにまた、「折伏すべき者は折伏に値いし、摂受すべき者は摂受に値いす」と言われました。
尊者ナーガセーナよ、折伏とは、手を切り、足を切り、なぐり、しばり、拷問にかけ、死刑に処し、生命の存続を断つことです。〈したがって〉この言葉は、尊き師にふさわしくなく、また、尊き師は、この言葉を口にするにふさわしくありません」(略)
「大王よ、盗賊は折伏者によって、このように折伏されるべきです。呵責すべき者を呵責し、処罰すべき者を罰し、追放すべき者を追放し、縛るべき者を縛り、死刑に処すべき者を死刑にするのです」
「尊者ナーガセーナよ、しからば、盗賊を死刑にするということは、もろもろの如来によって是認されましたか?」
「大王よ、そうではありません」
「しからば、なぜ、もろもろの如来は、盗賊が教誡されるべきものであると是認されたのですか?」
「大王よ、およそ、死刑に処せられる者は、もろもろの如来の是認によって、死刑に処せられるのではありません。みずからのなした行ないによって、死刑に処せられるのです。大王よ、しかしながら、思慮ある人が〈ブッダにより〉真理の教誡をうけていながら、しかも、罪なく過(とが)なき通行者を捕えて、殺すことができるでありましょうか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、それはなぜですか?」
「尊者よ、〈その通行者には何ら〉罪がないからです」
「大王よ、それと同時に、盗賊はもろもろの如来の是認によって、殺されるのではなくして、みずからのなした行ないによって、かれは殺されるのです。これについて、教誡者が何かあやまちを犯すでしょうか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、しからば、もろもろの如来の是認は正しい教誡です」

『ミリンダ王の問い』の折伏と摂受の注です。
「折伏 折伏するとは非難し、とがめるまたは制御するの語義であるが、ミリンダ王は刑罰の意味にとった。「折伏」の反対語たる「摂受」は、手をさしのべる、恵みを与えることである。本来、仏教において、折伏と摂受は、車の両輪のごときものであると説く。摂受のともなわない折伏は、往々にして邪見に堕す。慈悲と空観の実践者たる菩薩たちにとって、折伏一辺倒は大乗仏教の精神にもとるから、斥けられるべきものである」

折伏一辺倒云々は某団体への批判でしょう。それはともかく、折伏とは死刑・身体刑・拷問の意味だとする経典があったのか疑問です。

ナーガセーナは苦を列挙する中で、裏切り者に科せられる拷問の種類をあげています。
粥壺の刑(頭蓋を割って、沸騰した粥を流し込む)も苦しみである。
貝剃の刑(磨いた貝のように、砂利で頭皮をこする)も苦しみである。
ラーフの口の刑(口を鉄針で開き、そのなかに油を注いで、火を点ずる)も苦しみである。
光環の刑(全身を油布でまいて火をつける)も苦しみである。
光明の手の刑(手を油布でまいて火とつける)も苦しみである。
蛇の皮剥ぎの刑(首から膝にかけて皮膚を細長く剥ぎ、足のまわりにたらす)も苦しみである。
皮剥ぎ衣の刑(細布のように、剥いだ皮膚をそれぞれ毛髪で結び、ヴェールをかぶったようにする)も苦しみである。
かもしかの刑(膝と肘とをいっしょにしばり、鉄板の上にかがませて、下から火をつける)も苦しみである。
肉鉤の刑(肉鉤でつりあげられる)も苦しみである。
カハーバナ貨の刑(カハーバナ銅貨の大きさに、身体を寸断する)も苦しみである。
灰汁裂きの刑(刃物で身体を傷つけ、灰汁を注ぐ)も苦しみである。棒廻転の刑(両耳の孔を鉄棒で刺し通して、大地にころがす)も苦しみである。
藁ぶとんの刑(骨をつぶすほどたたいて、身体を藁ぶとんのようにする)も苦しみである。
熱した油をそそがれるのも苦しみである。
犬どもに喰われるのも苦しみである。
生きているまま串刺しにされるのも苦しみである。
刀で首を切られるのも苦しみである。

注に「インドの諸王のある者たちが、極端に残忍であったことは疑いなく正しいが、これら一連の刑罰名が、一般に知られていたものとは考えられない。おそらく、拷問が特別視されたとき、機械的につくり出されたものもあったであろう」とあります。

ミリンダ王はこうした拷問や死刑を釈尊が認めたかどうかと尋ねているわけです。ところが、ナーガセーナはそれには答えず、死刑になるのは業の報いであり、釈尊の是認とは関係ないと言うばかりです。

死刑になるのは自ら作った行為(業)の報いではなく、死刑制度があるからです。
死刑制度がなければ死刑になることはありません。ですから、死刑は政治の問題です。
ところが、ナーガセーナは政治の問題を業の問題にすり替えています。

戒律の一番目を不殺生戒とした釈尊が死刑や残虐な身体刑、拷問を認めたとは思えません。

死刑は国の制度ですから、古代インドでは国王が定めたはずです。
ですから、『サティヤカの章』や『宝行王正論』では、国王に死刑をしないよう説いています。

  3

『宝行王正論』は龍樹がシャータヴァーハナ王朝の王に教えを説いた書簡体のものです。
龍樹は死刑囚や囚人についても、二個所で王を諭しています。
偉人の相好 三十二相について
殺生を犯すことなく、死刑囚を釈放するならば、身体は美しく、直立にして大きく、命が長く、指が長く、踵が広い者になられましょう。

慈愛と恩恵
たとえ彼らが正しい判断にもとづいて、処罰・入獄・笞打ちなどの罰を下すとも、あなたはつねに慈愛をもち、恩恵を施す者となりなさい。
王よ、あなたは常に慈愛によって、すべての人びとに対して利益する心を起こしなさい。たとえ恐ろしい罪を犯した人びとに対してであっても。
慈悲は、ことに恐ろしい罪を犯した悪人たちに向けられねばなりません。このような憐れむべき人びとこそ、心の高潔な人の慈悲にふさわしい対象でありますから。
囚人の釈放
毎日または五日ごとに、、力の弱った囚人を釈放し、また残りの者も適宜釈放してください。けっして拘禁しておくことがないように。
もしあなたに、ある人びとを釈放する心が起きないならば、彼らに対しては自制を欠くことになります。このように自制を欠くならば、永久に罪を受けるでありましょう。
また、彼らが拘禁されているあいだは、牢獄を楽しいものとし、理髪師、浴場、飲食物、薬、衣類を備えつけておきなさい。
処罰をなすときには、あたかも値打のない息子たちを値打のある者にしようと願って処罰を加えるように、慈悲をもって行なわねばなりません。けっして惜しみからしてはなりませんし、また財を欲してなしてはなりません。
事情を正しく考慮し判断して、たとえ罪深い殺人を犯した人びとであっても、処刑に処することなく、また責苦を与えることなく、彼らを追放しなさい。

龍樹の提言は今も死刑を廃止していない日本にも通用します。

  4

死刑は執行人に殺人という悪業を作らせます。
『テーリー・ガーター』に、寒さに震えながら沐浴するバラモンとプンニカー尼とのやりとりがあります。
「バラモンよ。あなたは誰を恐れていつも水の中に入るのですか。あなたは手足がふるえながら、ひどい寒さを感じています」
「老いた人でも若い人でも悪い行ないをするなら、水浴によって悪業から脱れることができる」
「もしもそうなら、蛙も亀も竜も鰐も、その他の水中にもぐるものも、すべて天に生れることになりましょう。
また、屠羊者も屠豚者も漁夫も猟鹿者も盗賊も死刑執行人も、そのほか悪業をなす人々はすべて水浴によって悪業から脱れることになりましょう」

死刑執行人や業者は悪業を作る人とされているのです。殺生の業報をいつか受けることになると、本人も思っていたでしょう。
しかし、死刑執行人は国王の命令に従っているだけです。なのに国王は何の報いも受けないとしたらおかしな話です。

仏教は不殺生を説いているので、本来は戦争や死刑で人を殺すことも罪です。ところが、時代とともに殺生を認めるようになりました。敵を殺すことが菩薩行だとまで言う僧侶もいたほどです。このようにして、殺生が正当化されていったのです。

アヒンサー(不害)が説かれたということは、残酷な刑罰や拷問が実際に行われていたからだとも言えます。死刑は残酷な刑罰だという認識が現代では世界的に広まっています。ところが日本ではそうではありません。

1948年、死刑制度の存在は違憲であるか、合憲であるかが争われた裁判で、最高裁判は「死刑制度は憲法第36条で禁止された「残虐な刑罰」には該当せず、合憲である」としました。
当時は死刑が残虐な刑罰ではなかったとしても、70年以上も経った現在は違うはずです。

2011年、パチンコ店放火殺人事件で、絞首刑は残虐で違憲と主張する弁護側の証人として元最高検検事の土本武司筑波大学名誉教授の証言しました。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』からの引用です。
「絞首刑が惨たらしいとはいえないとは実態を知らな過ぎる指摘というほかない。(略)
つい十数分前まで自分の足で歩いていた人間が、両手・両足を縛られ、顔は覆面をさせられ、刑務官のハンドル操作により踏み板が開落するや地下部分に宙吊りになり、首を起点にして身体がゆらゆらと揺れる。その際、血を吐いたり失禁をしたりし、やがてその宙吊り状態のままで、死の断末魔のけいれん状態を呈する――それはまさに見るに耐えないものであり、人間の尊厳を害することこれに過ぐるものはないということを痛感させられるシーンである。(『判例時報』2143号)」

ところが、2016年、最高裁は「死刑制度が執行方法を含めて合憲なことは判例から明らかだ」という判決を下しました。

中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』には、絞首刑は残酷だということが詳しく説明されています。
オウム真理教の死刑囚は全員執行されました。
日本では、死刑は今も残虐とはされていないのです。