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  死刑 被害者と加害者

坂上香 『癒しと和解への旅』 岩波書店

 坂上香『癒やしと和解への旅』は、1993年からアメリカで毎年秋に、死刑のない杜会をめざして、被害者遺族と死刑囚の家族がともに旅をする、「ジャーニー・オブ・ホープ」-希望を追い求める旅―と名付けられた二週間の旅について書かれています。
 車で移動しながら、一般市民に向けて自分たち体験を語り歩くのです。殺人によって命を奪われた人の家族と、人の命を奪った死刑囚の家族が一緒になって、死刑廃止運動をしているのです。

 娘が殺されて犯人は不明のまま、しかもそのことが原因となってウツ状態になった息子が自殺した女牲。妻が強盗に射殺され、自分も銃弾を浴びたにもかかわら ず、妻殺しの容疑で死刑を求刑されて服役した男性(後に無罪で釈放)。そういった人たちが大勢参加しています。
 被害者の遺族の苦しみはいうまでもありません。心の傷は時間が解決してくれず、容易に癒えることはありません。家庭の中はぎくしゃくします。それにもかかわらず死刑の廃止を訴えているのです。

 死刑囚の中には無罪や事故を主張する人もいますが、はっきりと罪を認めている人もいます。そうした死刑囚の家族も旅に参加しています。

 おそらく多くの人は、被害者やその家族の気持ちを考えると死刑は当然だ、それだけのことをしたのだから死刑は仕方ない、といった意見だと思います。
しかし、もし自分の家族が人を殺してしまったらどうでしょうか。誰だって苦しむでしょう。自分の責任を感じ悩むでしよう。また、いくら罪人であっても、死刑によって家族を失うことはつらいことです。

「死刑囚の家族だって被害者なんです。兄が死刑を宣告されたことで、僕ら兄弟は皆偏見の目で見られ、馬鹿にされ、杜会からいわれもない制裁を受けることになったのです。神様にも見捨てられたと思いました」

 死刑が執行されれば遺族の傷が癒され、苦悩や悲しみが消え去るというわけではありません。
 アメリカでは被害者の遺族が死刑の執行に立ちあうことが許されている州があります。しかし、
「犯 人の死刑に立ちあったというという被害者遺族に会ったんだけれど、彼女はとてもがっかりしていたわ。執行が終わって帰ってきても、何も変わっていなかった というの。死刑囚が苦しんで死んだようにも見えなかったし、執行されれば気持ちが楽になるとか、家族の関係がうまくいくようになるとか、今まで彼女が期待 していたことがひとつもおこらなかったっていうの」

 被害者遺族の一人は、怒りや憎しみはなんの解決にもならない、かえって怒りや憎しみが増幅されるだけだと言います。そして
「人が癒されるためには相手を赦す必要がある」と。

 あるいは軍事政権下のチリで、デモに参加した息子を焼き殺され、自らもとても信じられないような拷問(この本を読まれたらあ然とするでしょう)を受けた女性は、
「私は死刑は望まない。死刑にしたどころで何になるの?私や家族の苦しみが消えてなくなるの?私が拷問を受けたことも、息子が殺されたことも、すでに起こってしまったことなのよ。事実を変えることはできないでしょう。私はね、何がどのようにおこなわれたか、真実が知りたいのよ。そして犯人は、自分のおこなったことを悔い改めるような処遇にされるべきだと思う」
と語るのです。

「ジャー ニーに参加している人々は、自分たちの過去にふたをしていない。反対に過去をみつめようとしている。どんなにつらい体験であっても、なかったふりをするの でなく、事実を事実としてとらえ、そのことを聴衆とわかち合おうとしていた。そしてわかち合われた聴衆のほうも、その事実をしっかりと受けとめようとして いるように見えた。こういうことが、じつは何よりも被害者遺族を精神的に支えることにつながるのではないだろうか。
日 本の社会は、果たして犯罪の被害者や遺族みずからが語り出したくなるような、そんな開かれた場を持っているだろうか。そしてしっかりとその語りを受けとめ ようとする姿勢を持っているだろうか。ひょっとすると、犯罪の被害者や遺族、そして死刑囚の家族を黙らせてしまっているのは、ほかならぬ私たちではないだ ろうか」


 被害者や遺族が加害者をいつまでも許せないという気持ちは当然だと思います。しかし第三者である私たちはもっと寛容であってもいいのではないでしょうか。