真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

先祖崇拝の落とし穴

 1,先祖は大事にしなければいけない
 2,先祖は私たちを守ってくれる

大多数の日本人はこのように思っているでしょう。この二つは別のことではありません。正確に言うと
「先祖を大事にすれば先祖が私たちを守ってくれる。だから先祖を大事にしなければいけない」
です。これが先祖崇拝です。

「先祖が守ってくれる」ということはどういう意味なのでしょうか、そしてどのように守ってくれるのでしょうか。私たちはそのことをどのように考えているのでしょうか。
こんなことを言うと、だったら先祖を大切にしなくてもかまわないのか、と思われるかもしれません。もちろんそうではありません。先祖を大切にするとはどういうことか、どうすることが先祖を大切にすることになるのかを考えていきたいと思います。

親は子供を守ってやりたいと思います。苦労やイヤな思いをさせたくない、幸せであってもらいたいと思います。しかしそうはいきません。子供はいろんな困難にぶつからざるをえません。それに対して親は何もできません。

汝が息子を愛するからと、子のために悩みと苦痛と失望を免除してやりたいと願っても、そうしてやれるか。  ヘルマン・ヘッセ『シッダルータ』

何人も彼から苦悩を取り去ることはできないし、彼の代わりに苦悩を苦しむこともできない。  V・E・フランクル『夜と霧』

親が子供にできることは見守り続けることだけです。「先祖が守ってくれる」ということをそういう意味としても使うこともあります。

死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、長く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。
 魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるゆえか、私には至極楽しく感じられる。できるものならば、いつまでもこの国にいたい。そうして一つの文化のもう少し美しく開展し、一つの学問のもう少し世の中に寄与するようになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守っていたいものだと思う。
 柳田国男『魂の行くえ』

こうした考えを日本人は人情として違和感をあまり感じないと思います。亡くなった人がどこかで私のことを見守っていてくれる、と考えるのは、先祖に対する親しみがあるからです。亡くなった先祖が見ているからと行いを慎む人もいるでしょう。それと同時に、自分が死んでも子孫を見守り続けるんだという考えることで、死を受け入れて安らぐ人は多いでしょう。

「先祖が子孫を見守る」ということは、現代の我々には実感として感じられにくくなっているのではないでしょうか。
以前は先祖代々同じ場所に住み、そこで生まれ、生活し、そして死んでいきました。先祖が時々帰ってくる、いつも見守っていてくれる、と考えることは自然だったでしょう。

しかし現在は家制度がどんどん崩壊しています。ふるさとの山は削られてなくなっています。ふるさとを持たない人が増えています。どこで生活をするか、どこで死ぬか、その時になってみないとわかりません。つまり帰っていく場所がなくなったわけです。

散骨を希望する人が増えています。なぜなのかというと、子供に負担をかけたくない、というのが理由のようです。親子、親戚といったつながりが薄れているわけです。

それはさておき「先祖が守ってくれる」ということは、ただ見守ることだけにとどまらないと思います。「先祖が守ってくれる」ということは、先祖が今の生活を守ってくれる(福を期待)、よくないことが起こらないようにしてくれる(災いを避ける)。そういう意味ではないでしょうか。
つまり家族が健康で仲良く、仕事は順調で、といった諸難消除、開運招福、息災延命を先祖がもたらしてくれることを期待していませんか。
もっと言うと、こうなったらいいなと思っている願い(欲)がかなえば、「先祖が守ってくれる」と感じるのでしょう。それは先祖を大事にした見返りだというわけです。

守護霊さんいらっしゃるなら肩もんで 『万能川柳名作濃縮版』

逆に物事が思うようにいかない、つまり守られていないと感じた時はどうでしょうか。
たとえば墓参りをして急に雨が降ってびしょぬれになったり、転んだりしたら、せっかく墓参りをしたのに、と不満に思う人はいませんか。それは墓参りという先祖を大事にすることをしたのだから、その見返りがあるはずなのに、と思っているからです。

 3,先祖を大事にすればその見返り、つまりいいことがある

つまり、神さまにお願いするように先祖に守ってもらいたいと頼み、そのために先祖を大事にするんだ、ということになります。
こうした意味での先祖崇拝だったらご利益信仰と変わりません。逆に物事が思うようにいかない、つまり守られていないと感じる時、先祖がどう思っているのかが気になります。

源左が夕立にびしょ濡れになって帰ってきた。願正寺の和尚さんが
「爺さん、よう濡れたのう」
というと、源左、
「ありがとござんす。御院家さん、鼻が下に向いてとるで有難いぞなあ」


仏壇は先祖の霊をお祀りする場所であり、きちんとお祀りすればいいことがあると思っていませんか。そのためでしょう、仏壇の中に宝くじや受験票をおいている家があります。タンスの中よりも仏壇においておく方がなにやら効果があるのではと思うからでしょう。

このように、
「先祖を大事にしたらいいことがある」
と私たちは思っているわけですが、その裏返しは、
「先祖を粗末にしたらよくないことがある」
ということです。このことをさらに言いますと、
「よくないことあるのは先祖を粗末にしたからだ」
ということになります。

つまり私が何をしようと、どのようであろうとも、先祖は必ず私を守ってくれる、と私たちは思っていません。守ってもらうには先祖を大事にするという条件があるんだ。こう思っています。

たとえば交通事故を起こしてけがをしたとします。その時「先祖のおかげで助かった」と考えますか。それとも「先祖を大事にしないから事故になった」と思いますか。

先祖供養を説いている霊友会の信者がインターネットに書いていることです。

先祖供養をすごく強調している支部があって、そこの人たちは何かあるとすぐ「それは先祖が」ってかんじ。極端な話、ちょっとした病気になっても「それは先祖が」って。

このように考えるということは、

 4,先祖には幸不幸をもたらす力、運命を左右する力がある

と思っているわけです。つまり、いろんな出来事には先祖の意志、願いがこめられている、それがいいことや悪いことという形であらわれる。
ですから何かよくないことがあるたびに、不安になる人がいます。何か先祖に対して粗末になるようなことをしたのだろうか、もっと悪いことの前兆なのだろうかと。
たとえば墓やお骨の心配をする人がいます。骨壺に水がたまっていると亡くなった人が苦しむ。死者が苦しむと生きている我々によくないことが起こる。こんなふうに考えていくわけです。

これもインターネットからです。

何か不幸なことが起ると、これも因縁だ、ご先祖が苦しんでいるんだという気持ちがでてきますし、それは事実ではないかとも思います。(半分は迷っていますが)。

つまり先祖は神と似ています。となりますと、神にお願いするように先祖に守ってもらいたいと頼み、守ってもらうために先祖を大事にするんだ、ということになります。つまり先祖崇拝はご利益信仰と関係があります。

 5,自分が幸せになるために先祖を大事にする

こんなことを言うと、
「願い事を叶えてもらうという気持ちがないとは言いませんが、そればっかりじゃありません」
「仏さんに何かをお願いしようとは思いません。感謝だけです」
などと言われる方がいます。
しかし先祖を大事にすることと自分の幸せを願う気持ちとがはたして全く無関係でしょうか。結局は自分のことがまず第一であり、自分の幸せのために先祖を利用しているのではでしょうか。

 6,先祖を粗末にするとよくないことがある

そして「先祖を大事にしたらいいことがある」の裏返しが「先祖を粗末にしたらよくないことがある」です。
つまり私が何をしようと、どのようであろうとも、先祖は必ず私を守ってくれる、と私たちは思っていないのです。守ってもらうには先祖を大事にするという条件があるんだ。こう思っています。
「先祖を大事にする」→「いいことがある」
「先祖を粗末にする」→「よくないことになる」
この二つをワンセットとします。

 7,よくないことがあるのは先祖を粗末にしたからだ

「よくないことがある」→他人の場合「先祖を粗末にしたから」
              自分の場合「何が悪かったのだろうか」
こういう考えを自然としてしまう人は、往々にして人の不幸や災難を当然のこととして冷たく見てしまうことがあります。先祖を粗末にしたんだから自業自得だ、というわけです。

ある掲示板でのそうした考えに対する批判です。
大事なものとは、他人のことを可哀想だとか気の毒だと思う自然な感情のことです。事故・病気・犯罪被害、いろいろありますが、そういう人たちのあら探しをしても、普通に可哀想と思う気持ちが気が付かないうちになくなってしまいます。
ニュースを見ていて自己診断してみてください。気の毒な人を見てまっさきに思うことが、その人の落ち度探しだったらあなたは佼成会に毒されています。
たとえばパチンコ屋で親に放置されて事故死した子供のニュースを見てどうですか?まず思ったことは子供が可哀想にということですか?ああいう親だから死ぬのは仕方がないとか思いませんでしたか?
横山ノックにわいせつ行為をされた女子大生についてはどうですか?ああいう人間の応援をしたのだから自業自得だと思いませんでしたか?
佼成会にいれば知らず知らずのうちにそういう感覚に毒されてゆきます。私はその毒がなかなか抜けません。
自分が毒されていることにも気が付かないほどはまっていれば幸せなのかもしれません。でも、そんな人間になりたいですか?

別の方です。
なんらかのアクシデントに遭遇して苦しんでいる人間に対し、その人自身の道徳的な欠点が原因という問題のすり替えと人格非難がなされています。これは、私に対してだけではなく、ごく一般的に行われているようですね。
確かに交通信号を無視して事故に遭う人は自業自得かもしれません。しかし、単に道を歩いていたら通り魔に遭ったというようなケースについて、「きっと先祖供養をしていなかったのだろう」などという理由をつけるのは、明らかに被害者に対する侮辱であり、立証困難なオカルトです。
会員の間でのみ交わされる会話なら御勝手にと言うしかないですが、外部の人間に対しては、たとえそれがお手取りの対象でも言うべきではないでしょう。

「雨なんか降るなと思っても自然の摂理で雨は降ってしまいます。だったら原因である自分が変わればよいのです。雨具を持つなりして準備をすればよいのです」
とおっしゃっています。こういう考え方そのものには私も同意します。
ところが、しばしば、雨に濡れたことが、自動的にその人を非難すべき根拠となっているのはどういうことでしょうか。人間はだれでも、なんの落ち度がなくても人生の過程に程度の差こそあれアクシデントに陥ることがあります。
信仰者が自らを振り返って、「信心が足りなかったのだ、ご先祖の供養が至らなかった」と自身を納得させることは、別に構わないと思います。私が問題にしているのは、そういう言葉を佼成会の信仰を持たない人間に対してまで使うのは、ごく一般的な社会常識として礼儀を欠いているということなのです。

1,信仰をしていないAさんに本人の責任とは無関係ななんらかのアクシデントが発生する。
 ↓
2,佼成会員のBさんがAさんに「信心と先祖供養をしなかったのが原因」と解説する。
 ↓
3,a)Aさんはそれに納得して佼成会に入る。
  b)Aさんはその解説に納得しない。
#a)の場合は、問題なし(私は問題があると思います。このことは後述します)。以下のチャートはb)の場合から続く。
 ↓
4,BさんはAさんが納得しない原因を、Aさんの人格的な欠陥にあると見なし、Aさんのアクシデントは自業自得であると表明する。
 ↓
5,Aさんは自分の非ではないアクシデントを自業自得扱いされた上、人格的な部分まで欠点を指摘され、気分を害する。

こういうことは、しばしばあるのではないでしょうか。
佼成会は、第三世界の人々に毛布を送ったり、自分の一食を捧げるなどのとてもよい行いをしていることは存じ上げています。その際、外国の方々に、
「信心や先祖供養をしていないからあなたがたは困った状態にあるのだ」
などという言葉は使っていないことと思います。
組織としての活動なら、そういう常識的な判断ができるのに、なぜ個人個人がお手取りする際には、違うのでしょうか。アクシデントに直面している人間には、ケースバイケースで適切な手助けをし、問題が解決しかけたころに信仰について語り合えばよいのでは、と考えます。

佼成会の方々に問いかけたいです。本人の責任とは無関係なアクシデントをその人の人格上の欠点と結びつけて語るということが、どれだけ非常識なことか、人間としてやってはいけないことか、本当にわからないのですか?


なるほどなあと感心しました。
生きとる者が勝手に先祖にまつりあげて、自分の家の守り神にしたんです。だから、うっかり先祖になると、向かい三軒両隣がどれだけ不幸な目に遭うても知らん顔して、自分だけお陰様でと言って喜んでいく、そういう人間ができるんです。 和田稠

先ほど私は問題がある、と言いました。なぜならばアクシデントは必ずあるからです。いくら信心しようと先祖供養をしていようと、アクシデントがなくなることはありません。するとアクシデントがあるたびに、何が悪かったのだろうか、信心が足りなかったのだろうか、先祖供養の仕方が悪かったのだろうか、と安心することはありません。
信心や先祖供養をしないからよくないことになる、という考え自体がおかしいのです。

 8,先祖崇拝はオカルトと結びつく

超自然的な力、運命を左右する力を持つ存在を実体的に立てれば、占いや霊能力なども信じるようになります。なぜなら運命を左右する超自然的な力の意志を知ることができれば、未来を読みとることができるし、それによって災いを避けることができるという理屈になりますから。
拝み屋がそうです。拝み屋に相談すると必ず先祖の誰かが迷っているから供養しろと言います。
先祖に対する純粋な思いである先祖崇拝も、いつの間にかオカルトになってしまいかねません。

掲示板から
現在自分の所属する教会で行われているのは姓名判断(正確には姓名鑑定と言うそうです)。方位、星(六白中宮とか)二つとも正しくどう言うのかわかりません、教会ではそう呼んでいます。ただし今はこれらを使って指導していません。現代の布教にふさわしくないと会長先生のお考えからです。これらが出来るのは昔からの修行を積んだ一部の会員さんで、苦の原因究明の手掛りや、生活の参考程度にしている位です。

占いで悪い結果(たいてい8割方)がでると、「このままでは幸せになりませんよ。佼成会に入信して法華経を信仰しなさい。信仰することによって幸せになりますよ」というように占いを布教の手段にしていることもあります。占いで悪い結果の出た会員に対しては、「もっとご法をしなさい。もっと手取りや導きをしなさい」等と布教活動をするように囃し立てます。
お布施の額は、お布施をする本人の気持ちなのですが、“欲(物欲)を滅するには布施をすることが一番”という教えも手伝い、なるべく高額のお布施をさせるということも否めないことです。


次もお笑いなんですが、しかしまともに信じている人がいるわけで、不思議だと思います。

ご家庭の幸福は正しい先祖供養から
心霊科学の発達に伴い、人間の体は、肉体だけでなく、その裏に幽体、さらに霊体、そして、それらを支える魂で構成されています。人間の死とは、魂・霊体・幽体が肉体から離れたことを意味します。そして、肉体が食物をとって維持してゆくように、霊体・幽体も食物の気を吸って維持している、というところまでわかってきています。
人種、地域によって霊界の法則は多少違っていますが、アジアの場合、私たちの身近にある位牌や仏壇が特に重要視されています。霊界の法則は、この世のしきたりに比べると格段に厳しく、位牌・仏壇をとおしてでないと、子孫との交流や食事の供養を受けることができないのです。そこで、仏壇も位牌もなく日々の供養をしていない子孫ですと、そのご先祖たちは食事がいただけないために飢餓に陥り、子孫の体に憑いて〝注意信号〟を送ってきます。これを、私たちはご先祖の〝戒告〟と呼んでいます。
たとえば、頭痛などは〝目の上の方に注意しなさい〟という意味です。また、胃腸病や家庭の大黒柱の失業などは〝先祖も食事がとれていない〟ということなのです。これは、ご先祖として子孫に苦しさをわかったもらうために行うことなのですが、何も知らない子孫は、それを不幸現象と感じるわけです。もちろん、不幸現象のすべてがご先祖の〝戒告〟によるものではありませんが、霊的なものが原因になっていることも非常に多いのです。
守護霊とは、私たちを背後から守り導いてくださっている霊界の指導者のことです。自動車にはねられても、かすり傷くらいで済んだり、予約していたホテルに急な用事のため宿泊できなくなったところ、そのホテルが大火になり、焼死をまぬがれたなどは、守護霊の守護と導きのおかげなのです。
人生において、より高く強い守護霊に導かれることほど安心なことはありません。そして、守護霊はほとんどの場合、ご先祖の霊から選ばれて、私たち子孫を守ってくださっているのです。私たちが正しい先祖供養をしますと、ご先祖の一人でもある守護霊もより守護力がつき、安心して私たち子孫を導くことができるわけです。したがって、正しい先祖供養をするということは、ご先祖への感謝の面、ご先祖の〝戒告〟を受けないという現実的な面、さらに守護霊の霊力を強くしてもらう面からも、大変重要なのです。
 (崇教真光「陽光ライフ」より)

 9,先祖をまつるために家を存続させなければならない

家が絶えれば先祖をおまつりすることができません。これは困ります。先祖が迷います。ですから家が絶えることを怖れます。
しかし家を絶やしたくないという本当の気持ちは、いつまでも生きていたいということ、そして自分が誰からも忘れられてしまいたくないということではないでしょうか。
誰もが死にたくはありませんが、これはどうしようもないことです。しかし家が存続している限り先祖として生きることができる。先祖の一人として覚えていてもらえます。

長島茂雄が引退試合で「巨人軍は永遠に不滅です」と言いました。自分は選手をやめなければいけない。しかし巨人が永遠にあり続けることで、巨人に所属していた自分も永遠だ。こういう気持ちだったのではないでしょうか。
我々は有限の存在ですから、永遠なるものに憧れます。 自分の死(野球をやめること)はやむを得ない。しかし自分が死んでも死なないでいたい。そこで家(巨人)にこだわるわけです。家が続いていく限り自分も生き続けることができる。家(巨人)が永遠に不滅なら、その一部である私も永遠に不滅だ。
長島の言葉はそういう執着心のように私には思えました。
しかし人間がいつか死ぬように、家もいつかは絶えますし、巨人は永遠に不滅ではありません。
本当に永遠なもの、真実なものは何かを考えていかなくてはなりません。