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神秘体験

オウム真理教の信者が麻原彰晃の教えが真実だと思い込んだのは、麻原の教えの通りに修行したら神秘体験を経験したからです。
オウム真理教では具体的に教えてくれる修行法を行ずることで、神秘的な体験が起きることがあります。光が見える、いろんな声や音が聞こえる、身体が浮くように感じる、クンダリニー覚醒などなど。後には薬物を使ってまでして神秘体験を経験させています。
オウム真理教の脱会者たちの手記や座談会をまとめた『オウムをやめた私たち』という本には、オウムの魅力の一つとしてそうした神秘体験があげられています。

 神秘体験を「幻影」というのは簡単だが、本人にとってきわめてリアルな「体験」であり、現世こそが「幻影」とまで感じている。この「神秘体験」は、現在も残っている信者にとって、脱会しない、脱会できない最大の根拠となっている。(カナリアの会『オウムをやめた私たち』)

オウム真理教の元信者はこう言っています。
 一度目はクンダリニーが、上がってきたのを感じた。二度目の時は、頭がい骨の継ぎ目がバキバキいう音をたてた。セックスの絶頂で得る快感より数十倍もの会館だった。体が溶けていき、このまま死んでもいいという感覚だった。(瀬口晴義『検証・オウム真理教事件』)

 
初めての体験(神秘体験)の感動は「今までこのために生きてきたんだな」と思うほどでした。
 具体的にはまず気持ちが良くなり、身体が驚くほど軽く、柔らかくなり、ものすごい解放感と自在感に包まれ、「この肉体は仮の姿だったんだ」と気づき、輪廻転生の存在を確信しました。
(『オウムをやめた私たち』)

元信徒の広瀬健一死刑囚が「学生の皆さまへ」という手記を書いています。どうしてオウム真理教にはまったかというと、それは神秘体験の影響が大きそうです。
 私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした
「宗教的経験」とは神秘体験です。

広瀬健一は高校三年生のときに「生まれた意味」の問題を明確に意識するようになり、たまたま麻原彰晃の著作を読みます。
 偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みました.(略)
 本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一か月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
 眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
「クンダリニーの覚醒―」
 意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
 続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーとのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。(略)
 私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意思に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
 クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。

本を読んだだけで神秘体験を経験するとは驚きです。滝本太郎弁護士によると、中川智正死刑囚は子供のころから神秘体験を経験しているそうです。
 同人に特異なことは、幼いころからさまざまな「神秘体験」をしてきており、これが不安のままに成長してきたところ、麻原彰晃に出会ってしまったということであった。被告人としては、実際に前生の自分を見ていて、日常的に物理的に麻原彰晃が光っており、麻原彰晃を見ると心臓が喜び同心円状に体に広がっていった、と言うのである。(略)法廷で麻原を見るとやはり光り輝いて見えると言うのである(「オウム裁判10年を振り返る」)

広瀬健一死刑囚は出家した後にこういう体験をしています。
 私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立位の姿勢から体を床に投げだしての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
 この集中修行において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした。


また、入信後にこういう経験もしています。
 当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。この感覚の後には、気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした。

苦界、すなわち地獄の実在を信じ、より一層、麻原に帰依するようになったわけです。多くの信徒がこうした宗教的経験をすることで、「オウムは真実だ」と確信したのです。


  2 神秘体験の怖さ

諸富祥彦明治大学教授・日本トランスパーソナル学会会長は、中2の時から7年間、「人は何のために生まれ、いかに生きていくべきか」、「人生の、ほんとうの意味と目的」という問いの答えを死に物狂いで求め、心身はボロボロになり、自殺未遂までしたそうです。
そして「七年もの間、人生の意味と目的を求め続けた結果、私は「答え」を手に入れることができた」とはっきり書いています。

 
私は、中学三年生の春から、おおよそ七年もの間、「人生の意味」を求め、いくら求めてもそれが求まらずに苦しんでいました。(略)
 そんな思いで生きていたある日のこと、私はついに決意したのです。
 もうこのままでは仕方がない。これから三日間、飲まず食わず寝ずで、本気で答えを求めよう。そしてそれでもダメだったら、今度こそきっぱりと死のう、と。
 三日後……「答え」は見つかりませんでした。(略)
「もう、どうにでもなれ」。心身の疲労が限界にきていた私は、なかば魔が差したのも手伝って、実際に、その場に倒れこんだのです。うつぶせに。けれど、何かが、いつもと違う……。からだがとても軽いのです。不思議だな、と思って、あおむけになってみると、横たわった私の、おなかのあたりの、ちょうど一メートルほど上の位置でしょうか、そのあたりに、何かとても強烈な「エネルギーのうず」のようなものが見えたのです。
「あああぁぁ……」。言葉に、なりませんでした。
 けれども、なぜだか見たとたん、わかったのです。「これが私の本体である」と。
 ふだんこれが自分だと思っていた自分は、単なる仮の自分で、むしろその「エネルギーのうず」こそが、自分の本体だ。疑うことなく、そう思えたのです。
「何だ、そうだったのか」。その瞬間、すべてがわかりました。私は何であり、これから私がどうしていけばいいのか、も。(略)
 その「エネルギーのうず」は、ときには私と一体化し、ときには私の頭上に場所を移して、今も私を導いてくれています。(諸富祥彦『人生に意味はあるか』)


諸富氏はこうしてニューエイジにはまったわけです。
こういう文章を引用すると、かえって脅すことになったり、神秘体験に憧れる人が出てくるかもしれません。
しかし、神秘体験には危険な面があります。
日常的な経験とは異なる神秘体験を利用するのはオウムだけではありません。なぜなら神秘体験を経験しますとその宗教を本物だと信じ込みますし、自分が人より優れた人間であるかのような気がします。

また精神面で異常を来すことがあります。
広瀬健一死刑囚がオウム真理教に入信したのは、麻原の著書に「複数のグル(修行の指導者)の指導を受けると、その異なるエネルギーの影響で精神が分裂する」と書いてあったからです。
実際、神秘体験によって「精神が分裂」することがあるそうです。精神科医の高橋紳吾さんはこう書いています。

 (手かざし系教団は)信徒一人ひとりがシャーマン化し、精神医学の治療の対象となっていく恐れがある。(高橋紳吾『超能力と霊能者』
次の文章はインターネットで見つけたものです。

 おそらくほとんどの真光信者はそういう一般論的な霊の解釈には耳を貸さないでしょう。真光の業によって霊障を見せられているためです。いくら霊障を気にするなといったところで、眉間にお浄めを受けて霊動を体験してしまったような組み手さんたちは霊の実在をかたくなに信じるようになっていきます。
 霊障という一番深刻な問題は、常に催眠術だ、暗示だと片づけられ全く論議されてきませんでした。普通の宗教であれば、教団運営の問題点や嘘を指摘すれば信者の方は理解を示してくれるのでしょうが、真光の場合は多くの組み手さんが神秘現象や霊動体験をしているため、真光での奇跡は神の力だと信じこんでしまい、たいていの嘘や問題点は、神の御経綸(計画)上の都合だとか、アガナヒ現象だとかで片づけられてしまうのです。
 わたしは他のスレッドで、光玉師がかつて救世教を罷免されたことなどを語りましたが、実際、現役の組み手さんのなかにはこういった事情を知っておられる方は結構いるのです。しかしながらそれをいくら問題提起しても、上記の理由で片づけられてしまうことがほとんどですし、組み手さんが教団内のトラブルに巻き込まれて損害などを被った場合でも、前世の罪だ、禊ぎ祓いだとかいう理由ですまされてしまいます。
 信者の方に目を覚まさせるには、真光の業でなぜ霊動が起こるのかそのあたりを精神医学的に解明していかないと難しいかもしれません。
 今、真光にはまっている人の中には入信前には催眠だ暗示だと言ってた人もたくさんいるんです。ところが自分でそれを体験してしまうとどんどん深みにはまっていくんですよ。実際、霊の言う通り先祖供養したら病気なんかが良くなったケースもあれば、浮霊がもとで精神病なんかになった人もいるし、どうかたづけていいのか非常にやっかいな問題なんですよ。
 あなただって、もし家族の方やお友達が真光の業で浮霊でもしようものなら入信して、次にはあなた自身にも猛烈な勧誘をしてくる可能性もあるんですよ。そのときに霊動は催眠術だ、とか言っても、本人は絶対に納得しないでしょう。そうなったらもう人ごとではいられないと思うんですけどね。

 霊障とは怨霊など先祖の霊が現在の自分人生の邪魔をしている現象のことです。
 霊動とは手が自然に震えたり、涙が出たり、自分の意志には反して身体が動く現象のことです。
 浮霊とはその名の通り霊が現れる現象のことです。そこで起こる体の動きを霊動と定義しております。
 が、私は霊動はただ手が震えたり、涙が出てくる程度のもの全般を霊動と言っております。浮霊すると目つきや言葉遣い、体力までもおかしくなります。はっきり言ってあのような状態の人を今思い出しているだけでも恐いです。


 高橋紳吾『超能力と霊能者』に、S教団の手かざし治療を受けて憑依状態になって女性(B子)のことが書かれています。
 親戚の女性に勧められて、S教団の道場へでかけ、「○○のわざ」という手かざし治療をうけた。(略)そのときはなんとなく頭が軽くなり、気分が好転した。その日いらいよく眠れるようになったので、以後、会社の帰りに何度も立ち寄り、手かざし治療をうけるようになった。
 三度目に行ったところ、B子の合掌している手が震えだし、しだいに身体が前後左右に揺れるようになった。それが「浮霊」現象で、B子に憑いている霊が浮かんできたことを示していると教えられた。またB子自身も他者に「○○のわざ」を行なうことができると言われた。
 あるとき、妹にこれを行なっている最中、かざしている自分の手が勝手に動きだし、止まらなくなった。そして「私は○○という武士である」と言い、顔つきが すっかりかわって、激しく身体をゆさぶり、夜の街へ裸足で飛びだしていった。驚いた妹が追いかけ自宅に連れもどしたが、それからも「私は○○(祖母)で す」と言ってみたり、架空の誰かに向かって会話するなどの興奮がおさまらなくなった。親戚の女性が駆けつけたり、教団の指導者が訪れて「わざ」をかけたが 効果なく、一層激しく暴れるので父親に精神科へ連れてこられた。(略)診断は祈祷性精神病。もっとも教団のその後の弁明によればこれは「神鍛え」の状態で あって、もっと熟練した導士に治療をうければなにも精神科に行く必要などなかったということになるらしい。
 高橋紳吾氏によれば、このような事例に遭遇する精神科医は少なくないそうです。


  3 神秘体験にとらわれない


坐禅をしているといろんな幻想、幻覚が起こるそうです。身体が透明になる、まわりに火が燃え出す、紫の雲に乗った阿弥陀仏が現れる、などとにかくいろんなイメージが出てくるそうです。禅ではこれを魔境と言います。下手をすればそこにとらわれてしまったり、自分は悟ったんだと思い込んだりします。そういう落とし穴にはまらないようにするため、必ず師匠について指導してもらわなければいけません。

このように神秘体験によって間違った道に踏み込まないようしなければなりません。禅では指導方法がしっかりしているので問題はないわけですが、新興宗教ではいい加減な場合が多いのです。指導者が麻原のような人物だとおおごとになるわけですし、先ほどの真光のようなことにもなるわけです。
そうした危険があるからこそ、禅は師匠について学ぶようになっています。自分一人で行ったり、指導者が経験不足だと、精神的に異常をきたしてしまうことがあるからです。

実は神秘体験は大したことではないのです。錯覚、暗示、集団催眠、洗脳、麻薬などによって起こるものですし、単に手品の場合もあります。次の文章もインターネットで見つけました。書いている人は臨済宗の僧侶の方です。

 催眠術は、古代から宗教家によって使われてきた。古代の宗教家は、催眠術を使って幻覚を起こし、まぼろしの奇跡を起こし、信者を増やし、宗教を拡大させていった。宗教家として、ひとこと言わせてください。

 宗教と催眠術は、実は深い関係にあります。催眠状態で得られる深いくつろぎは、宗教でいう無我の境地と似たものですし、心の安らぎという点でどちらも共通するものがあります。しかし、それだけではありません。宗教の中には催眠またはそれに類似する技術を使って信者の心を不安にさせるものもあります。また、全く宗教の看板を出してなくても中身は催眠を利用した宗教であるものも存在します。我々は不安になるために宗教をするのではないのです。

 一部の宗教では、布教というのは信者を増やす事で、そのためには一般の人を無理に信者にしてもいいというところもあります。そのような宗教では信者を増やす手段として催眠の技術を使っているようです。

 そのような宗教では、大体現世利益を掲げ、教祖が存在し、教祖への絶対的な帰依が必要とされます。教祖は奇跡を起こしたり悩みを即座に解決したりして自分の力量を誇示します。その時催眠の技術が使われます。自分には超能力があるとか、修行して超能力を身に付けようなどと主張します。そしてその宗教だけが絶対的なものだとして他の宗教を攻撃する場合が多いようです。

 また神秘体験も宗教上でよく取り上げられますが、催眠を勉強された方なら催眠状態で神秘体験を経験出来ることがお解りいただけると思います。催眠と明言せずに催眠状態を作り出しその中で神秘的な体験をさせる。そしてその体験は自分の超能力で導いたものだと教祖本人も信じている。このような神秘体験なら催眠状態、催眠様状態で体験しうるのです。

 何も宗教を責めているのではありません。多かれ少なかれ宗教家は、本人が認識していないにしろ催眠の技術を利用して信者の心を平安に導くのです。私が責めたいのは宗教を隠れみのにする一部の悪意ある人たちです。信者の心の平安よりも自分たちの利益を優先するような宗教は、偽物の宗教です。信者の不安を増大し、その不安に付け込んで強引に帰依させる、そんなやり方は宗教のやり方ではありません。


一遍上人はこう言われたそうです。
 往生される前に、空に紫の雲がたなびいていることをお耳に入れたところ、「すると、今日明日は私の臨終の時にはならないに違いない。私の命が終わるその最後の時に、そんなことは決してあるはずがない」と言われた。
 上人が日頃おっしゃっていたことも、「もののわきまえもつかない人に、仏法に害をなす魔王にとりつかれたような心で不思議の現象に心を奪われて、ほんとうの仏陀の教えを信じようとはしない。まったく意味のないことである。確かなものは南無阿弥陀仏だけである」とのご教示であった。
(『一遍上人語録』)
あっと驚くような体験であっても、神秘体験を絶対視してしまうべきではありません。

でも、神秘体験はこういう現象なんだと種明かしをし、迷いなんだと言っても、信じ込んでいる人はなかなか耳を傾けようとはしません。そして神秘体験にとらわれてしまい、それを経験することが目的であると思い、素晴らしい経験をしたと勘違いするのです。また新興宗教では指導者や指導方法がきちんとしていないことも問題です。

大切なことは神秘体験よりも、それによって何を自覚したか、どのように自分の生き方、考え方が変わったかを問うていくことです。あるおばあちゃんがこんなことを言っていました。
「不思議なことなんぼでもあるんや。明日の天気かてそうやろ。人間の力でどうにもできん。不思議なことはそのままいただいておくしかないんや」

方向性が間違っていた。あくまでも神聖な体験なのに、それを解脱だとか、成就だとか、エゴの満たす手段として使ってしまった。 カナリアの会編『オウムをやめた私たち』

神秘体験にあれこれとつまらない解釈や意味付けをしなければいいと思います。神がどうのこうのとか、霊がどうしたとか、解脱したとか。そういうことを言うからおかしな方向に向いてしまい問題が起きるのです。
昔の人にとって台風や伝染病や干ばつなどは、突然おとずれる、人間には全くどうしようもない災いだったわけです。それは神の仕業だなどと考え、何とかしてくれと神に祈ったりしました。現代の我々からすれば無知だったのです。

神秘体験も将来は心理的なはたらきが解明されるでしょう。そうなれば、我々が霊とか前世で迷い悩んでいることを、先祖はそんなことで悩んでいたのか、無知だったんだなと子孫が思うことでしょう。