真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

   岡部 はな
 林暁宇 『三味線ばあちゃん』東本願寺

どこで死のうと倒れようと、そこがそのままお浄土や

   

あとになってふり返ってみると、その頃の聞法は地についておらなんだ。何でやいうたら、死んでからの地獄おそろしさから聞いておったのやさかい。今の、わが身の問題になってなかったのや。

   

鬼や畜生やというて恨んだり憎んだりしてきたわが子と主人こそ、このわてをこの広い道に出してくれんがために、あの姿になってご催促してくれた仏さんやった。

   

大きなお寺の坊守はんやというところへ座っとったら、いつまで聞いとっても仏法は聞こえてきませんぜ。

   

あの世の助かる助からんはおいときなはれ。今、この世で助けてもらえる。ここがお助けの場所や。何もかんもがお助けの材料になるのや。

   

ああ、ここまで一生懸命になって聞いとる人でもこういうことなんやなあ、九分九厘までわかっとる人でも、ここからがやっぱりわからんのやなあ、思いますのや。

   

どない物を大事にして、もったいないいうてお念仏してよろこんどる人でも、わてがこの弁当出して、あんたはん、これ食べてみなはれ、いうても、よう箸出す人ない。口でどないにもったいないいうて、頭下げとるようでも、なかなかそこから下がらんのやな。

   

あのな、なんまいだぶつのお念仏もらうとな、汚いいうもんなくなるのや。人を汚いいうこと思えんようになる。
わが身を見てみなはれ、汚いぞ。よう探索して見なはれ、根性も体もこれほど汚いもんはないがな。

   

実際、われいうもんを見せてもろうて、五体の中にどんなもんがあるか、根性の中にどないなもん持っとるか、いうことを知らせてもろうたら、人の食べ残しやから汚いなんて思われんことになるのや。
だいたいな、そんなこと思うとるいうことは相手の人を下に見てるのや。われが高いことへ上がっとるのや。その証拠に好きな人やったらキッスまでするがな。

   

みんなさっき、あの人はどうや、この人はどうやいうて話してましたやろ。人間いうものは見ようがあるのや。一方に悪いとこがあったら片方にまたそれ以上いいところがある。そやさかい、人のことを、ああやこうやいうこといらんのや。それよりわが身を見せてもらうことや。

   

人は「ようあんた、そんな死人の側に、それも首吊って死んだ人の側に、おとろしうない寝れましたな」いうけどな、死んだ人は何もおとろしうないのや。生きとるもんこそ何するやらわからん。

   

源兵衛島のばーばが寝込んどるのを聞いたばあちゃんは見に行った。
「おい、ばあさんおるか。寝とるのか、三味線ばばじゃ」
「上がれゃ」
「上がれいわんかてもう上がっとるわ。どないしたのや」
「孫が走り出してこけたさかい起こしに走ったらわが身がこけて、それから立てんのや」
「あんた、いくつや」
「九十二や」
「ああ、九十二やったら、もうあの世行きやな」
「おお」
「お前、未来はどうや、ちょうついとるか」
「まかしとるわい」
「ああそうか。そりゃよかった。そんならわてこれで行くぞ。死ぬなら好きな歌でも唄うていけや。
半座あけて待っとれや」
「おどれや先に往くな」
といいおった。

   

わてのもろうたダイヤモンドはありがたいがな。取り合いいうことせんでもいい。欲しいものにはいくらでもわけてやれる。それで増えても減ることない。仏さんから一ぺんもろうたら無くなることも減ることもない。どこで死のうと生きようと、このダイヤモンドがいいようにしてくれる。死んだ後の心配することいらん。

   

仏法いうもんはその日一日や。今日の一日が、うれしいこと、たのしいこと、さわやかなこと、きよらかなこと。
そやさかい、死んで極楽へ行きたいとも思わな、よろこんで今日の出来事受けて、苦しみがあってもその苦しみといっしょにいける道があるのや。そこが肝心や。

   

三味線でも踊りでも肝心なとこは二つか三つやぞ。そこをおさえたらぴたっときまるとこがあるのや。仏法かてそこをはずしたら、あとはどないに長いこと聞いたかてけいこしたかてがやがやや。

   

現在自分の暮らしの中にお説教いくらでもあるのや。お念仏もらうとそれが聞こえてくるのや。そやさかい、さっきもいうように死んで極楽へ行きたいとも思わにゃ、また、その必要がなくなるのや。

   

十八願の大経さんの世界は、ああなりたいこうなりたいの世界と違うのや。どんな苦しみが来てもこたえんことになっとる。その苦しみの中からよろこびを見出していけるのや。

   

わての肚がどこできまったかいうことかいな。
それは、われいうもんをよう見せてもらうのや。われいうもんが、こういうわれやったかいな、われの心の中で思うとることを見せてもろて、われいうもんの値打ちがどれだけのもんや、いうことが知らされて、あーあ、これぽっちの値打ちのなかったわれやった、地獄がいやで、極楽へ行きたいいうて願うとるけど、どう考えてみても極楽へ行けるわれではない。

   

このわれいうもんを見せてもろうと、毎日の仕事いうもんは、地獄行きより他にしとらん。極楽行きいうところは、こっから先、爪の先ほどもできんのやさかい。そしたら、あーあ、落ちるまんま、そのままやったなあ思うと、そこで手が打てる。

   

立派な寺の坊さんも、わが身のこもるコンクリの城をこわすまいこわすまいとして、駆けまわっとるのや。