真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ
  天皇制

今谷明『室町の王権』 中公新書

今谷明『天皇家はなぜ続いたか』 新人物往来社

今谷明『信長と天皇』 講談社学術文庫

今谷明『武家と天皇』 岩波新書

 
一時、女帝を認めるよう皇室典範を改正すべきかどうか、いろいろ論じられました。秋篠宮に男の子が産まれると、とたんに話題から消え去ってしまったのは、やはり男系であるべきだということなのでしょう。

大宅壮一『実録・天皇記』によると、明治天皇の父親である孝明天皇は極端な攘夷主義者で、安政6年、幕府がアメリカと条約を結んだことに腹を立て、「伏見有栖川三親王の中へゆずりたく存じ候」という手紙を関白に書いているそうです。この時、明治天皇8歳、病弱でした。この時も天皇制にとってかなりやばい状況だったわけです。
もしも、本当に孝明天皇が退位していたらどうなっていたでしょうか。
大宅壮一は宮家の中に候補者が7人いたが、
「そうなると、有望な候補の一人一人に有名なスポンサーがついて、猛烈な競争が展開されたにちがいない」
と言っています。幕府と薩長が別々の天皇を立てて、東西朝が対立したなんていうことになったかもしれません。

天武天皇が天皇制を作って以来、こうした危機は何度かありました。しかし、今に至るまで天皇制が続いているのはどうしてでしょうか。

上山春平は『神々の体系』で、「後の体制が先の体制において蓄積された権威を利用するために、先の体制を象徴的に温存する傾向が認められ、たとえば、律令制のもとで実権をにぎった藤原氏は、あくまでも天皇の代行としてふるまうルールをまもり、武家政治の頂点に位置した徳川氏は、律令制をよりどころとする征夷大将軍の名において権力を行使した」
したがって、天皇は名目上の国家の首長としての地位を保ち、天皇につづいてあらわれた藤原家は、天皇の代行たる摂政、関白の地位を保ちえた、というのが上山春平の考えです。

天皇制が存続したのは天皇が権力に権威を与える役割をもっていたからだと思います。
『室町の王権』以下、今谷明の一連の著作を読むと、天皇という座の権威と権力との関係がよくわかります。
今谷明の主張には批判があり、現在では否定されているそうですが、天皇という存在を考える助けになると思います。

承久の乱のあと、北条泰時は新たに後高倉上皇を立て、その子の堀河天皇を即位させました。鎌倉幕府末期、後醍醐天皇が隠岐に流されると、北条高時は光厳天皇を即位させ、北条氏を倒した足利尊氏は再び北朝を復位させています。
このように不安定な政権は天皇の権威を借りて権力の座を保とうとしたのです。
しかし、足利義満は天皇の権威に頼ることなく対抗勢力を制圧しました。この義満の時代にこそ天皇の力が衰えた、と今谷明は論じています。義満は本来、後円融上皇の行うべきことを奪っていき、そうして自分の息子を天皇の地位につけようとしました。
ところが、足利義教が将軍につくと、家臣を抑えることができなかったため、天皇に朝敵征伐の綸旨を要請しました。以後、幕府の人事や裁判にまで綸旨を願い出るようになりました。それとともに幕府の権威はずるずると低下し、逆に天皇の権威が強まっていきました。さらには大名たちも、名目にすぎない官職の叙任(安芸守とか正二位など)を求めるようになったのです。
後柏原天皇や後奈良天皇の時、皇室ははなはだ衰微したと言われていますが、天皇家は経済的な面はともかく、天皇の権威は政治の不安定に比例して強大化しました。
織田信長にしても天皇の力を借りなければならなかったことでは同様です。窮地に陥るたびに、勅命による和議で何度も危機を切り抜けています。こうして天皇は調停者としての役割も持つようになり、天皇の権威がますます尊重されるようになりました。天皇が権力者によって利用されればされるほど、天皇という座の力が大きくなるのです。天皇は今も昔も単なる象徴ではありません。

天皇とは何か、今谷明の著作を読んで思いついたことをまとめてみると、以下のようになります。

第一に、天皇の役割は権力者に正統性を授けることである
新しく権力の座についた者は支配の正当性を天皇に認めてもらうことによって、政権を安定させようとしました。また、そのことによって不安定な時期を乗り越えることができたのです。

第二に、天皇は罪に問われない、無問責である
権力者は交代します。新たな勢力によって権力者が倒された場合、天皇が以前の権力者と結びついていたからというので、天皇も一緒に追われたかというと、そうはならなりませんでした。もし天皇が何か間違いを犯したとして、その罪を問うていたのでは天皇の権威が失墜します。そうなると、新しく権力を握った者の正統性を認める人がいなくなり、せっかく得た自分自身の地位も危うくなるわけです。
だから、天皇はどういうことをしようとも無謬とされたのです。昭和天皇が戦争責任を問われなかったのもそのためです。

第三に、天皇は時代に応じてイメージを変える
権力者の要請に応えて、天皇はイメージをカメレオンのように変えていきます。たとえば、明治維新以降、天皇は現人神とされ、また大元帥として軍隊を統帥していました。ところが、昭和天皇は敗戦と同時に人間宣言をし、平和主義者になりました。
時代社会が変われば、天皇も変わるわけです。

第四に、政治権力が弱まっている時にこそ天皇の影響力は強まるが、逆に、政権が安定していると天皇の存在は希薄になる
江戸時代には、天皇は御所から出ることはほとんどなく、和歌と後継者作りだけが幕府から求められていました。一般民衆は天皇の存在を知らずにいたのです。
ところが、明治維新や第二次大戦の敗戦時といった激動期はそうではありませんでした。明治維新からしばらくは、明治天皇は全国を巡幸しています。敗戦間も同じように、昭和天皇は積極的に地方に巡幸して人々の前に姿を現しました。天皇が表に出ることで政治の安定を目指したのです。

つまりは天皇の座が大切なのです。天皇個人がどういう人間か、どういう資質なのかはさほど関係ありません。
天皇の存在が希薄な社会こそ、実は民衆にとって過ごしやすい時代だと言えるでしょう。皇室がマスコミの話題になることが増えるなら、何か危ないことの前兆かもしれないと考えたほうがいいかもしれません。
天皇の呪縛を無化するためには、私たちの権威に頼ろうとする心性をまずは問題にしないといけないと思います。