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佃 祐世さん「愛しい人への尽きない想い」
                        
 2019年11月23日

 1 はじめに
 佃と申します。今日はよろしくお願いいたします。「自死」という言葉になじみのない方もおられるかもしれません。遺族は「自殺」、「自らを殺す」という言葉を使いません。「自死」という言葉でさえつらいんです。

 私自身、夫が自ら命を絶っています。しかし、すべての遺族の方の心情を理解しているわけではないです。遺族の方はさまざまな状況の中でそれぞれの考えを持っています。これからお話しすることは、私の思いであり、私の意見であることをご承知ください。

 2 自死とは
 自死の多くは追い込まれた末の死です。パワハラや過労などによって自ら命を絶った方が少なくないことをニュースなどでご存じかと思います。多くの人が自死させられているんです。

 自死の原因・動機別自死者数の年次推移を見ますと、健康問題、家庭問題、経済問題が原因としては多いです。しかし、ほとんどは多様かつ複合的な原因、背景を有しています。さまざまな要因が連結する中で自ら命を絶つことが起きているんです。

 自死の危機要因には大きく分けて10の要因があります。
① 事業不振(事業不振、倒産など)
② 職場環境の変化(昇進、配置転換、転職、降格など)
③ 過労
④ 身体疾患(腰痛など)
⑤ 職場の人間関係(職場のいじめや人間関係など)
⑥ 失業(失業、就職失敗)
⑦ 負債(住宅ローン、連帯保証債務、多重債務など)
⑧ 家族の不和(親子間、夫婦間、離婚の悩みなど)
⑨ 生活苦(生活苦、将来生活への不安)
⑩ うつ病
 こうした要因が複合すれば、自死の危機は増えていくことになります。

 3 生きたかったのに
 自死者はある日突然亡くなることが多いです。

 ある方は、亡くなる前日、大切にしていた靴の靴底が壊れたので、お店に修理に出されたんです。靴の引き取り予定は数日後だったのに、翌日に亡くなられました。

 家族旅行をしようと亡くなる前日に宿泊先のホテルの予約を入れ、一週間後の旅行をとても楽しみにしていた方もいます。

 休職中だった方ですけど、亡くなる数日前に夫婦水入らずのデートをして、「またこういうふうに二人でランチ行こうよ。休職中でも気分転換は大事だよ」って奥さまは言われて、本人も「そうだね。また行こうね」と言ってたそうです。ところが、この方は首を吊って亡くなられました。

 休職中の30代の女性も、お父さんに会いに行って、「また仕事を始める。頑張るから心配しないで」と話したそうです。お父さんは「無理のないように」と言ったんですが、その数日後に亡くなられました。

 20代の女性です。自分の仕事が好きで、「やりがいのある仕事だ」と頑張ってたんですけど、頑張りすぎちゃって。上司のパワハラとかがあって休職して、そして仕事復帰して、でもまた休職して、「早く仕事に復帰したい」と言っていた矢先に、180錠くらい薬を、おそらく数時間かけて飲んで亡くなられました。

 こんなふうにですね、亡くなる数日前だったり、一週間前だったり、その時は「生きていたい」というサインを明らかに出しているんですね。それなのに、なぜか亡くなってしまう。いわゆるウツ状態で、もう耐えられなくなり、どうしようもなくて命を絶ったのかなとは思いますけど。自ら命を断ってはいても、根底には皆さん、ほんとは生きたいという思いがあることはわかっていただけるかなと思います。

 4 夫が自死するまでの私
 これから私の話をいたします。大学の法学部の時は、司法試験を受けてみようかなと思ったこともありましたが、そんなに勉強が好きじゃないし、司法試験に合格するのは大変なので、まあいいかと思って広島県庁の職員になりました。そうして夫と結婚したんです。

 夫はですね、司法試験に合格して、「もしかしたら裁判官になるかもしれない」と言ってたので、夫が転勤族になったら県庁の仕事を続けるのは無理かなと思い、みんなに「寿退職だね」と言われながら辞めました。

 専業主婦でした。家事と子育てのかたわら、毎日、昼ドラを見てたりしてのんびりしてましたね。「温泉へ行こう」って知ってる人いますかね。昼ドラで、当時すごい人気があったんですけど、あんなのとか見てました。

 将来の不安ってなんだったかなというと、夫が裁判官を選択したので、2、3年で転勤しないといけない。全国各地だし、引っ越しが多いこと、子供たちが大きくなったら転校どうしようという心配くらいかな。

 私には子供が4人いるんですけど、子供が増えていくと家事や子育てもしんどいし、転々と引っ越しするのは頼りになるママ友を新たに作るのが大変だし、裁判官の社宅って狭い社会ということがあって、そのへんが不満と言えば不満でした。

 あとはまあ、夫は仕事熱心で、休日でも仕事をしないといけない状態だったこともありました。そうはいっても、休日には家族と山登りに行ったり、長男とランニングをしたり、週末にはたいてい買い物に出掛け、子供の面倒を見てくれてたんです。不満といっても、ほんと些細なことで。ごく普通の主婦をしていました。

 5 夫について
 夫について紹介しますと、2006年7月初めに倒れました。夫はフルマラソンに出場したいということで、休みの日は必ずジョギングをしていたんですね。その日は非常に蒸し暑くて、家に帰ってきて突然倒れ、意識がありませんでした。私はとっさに「脱水症状、熱中症かな」と気軽に考えてました。

 救急車で病院に搬送されると、医師から「念のためCTを撮っときましょうか」って言われて、たしかに夫は健康診断をしてないし、CTも撮ってないし、この機会にいいかなと思ったんです。

 CT検査の結果、左側頭葉に白い影が見つかったんですね。医師から呼び出されて、「奧さん、脳腫瘍の疑いがあります」と言われました。まさかそんなことになるとは考えてもいなくて、びっくりしたんです。でも、「まだCTなのでよくわかりません。MRI検査しないと断定はできない」と言われて、なんかの間違いかなぐらいに思ってました。

 ところが、医師から「MRIを撮ってみたところ脳腫瘍の疑いがある」という診断をされました。その診断をですね、夫に告げるよう医師にお願いしました。この時には脳腫瘍が良性か悪性かは言われなかったんですけど、初期ではないという言い方だったと思います。

 その日から夫の状態が徐々に変化していきます。退院して家に帰ると、「耳鳴りがする。耳鳴り、脳腫瘍と関係あるのかね」って夫が言ったので、耳鼻科に連れていきました。医者からは「突発性のものかな。原因よくわからない」と言われました。そのうち、夫が「なんか手足がしびれる」と言うんですね。ぴりぴりするのも脳腫瘍と関係あるのかなとか思ってたら、今度はお腹が痛いと言い出して入院しました。こうなってくるとですね、私も「これ、精神的なものかな」と思うようになってきました。

 こんなふうに、夫は徐々に徐々にいろんな症状が出てきました。秋ごろにウツ病を発症します。そうして、2007年1月初めに自宅で首を吊り、3月下旬に亡くなりました。

 6 夫の仕事上のストレス
 夫は裁判官だったと言いましたが、当時、私たちは愛知県の豊橋にいたんですけど、そこで3人目を出産して、私はもう子育てで一杯一杯だったんです。私の実家は広島なので、「どうしても広島に行きたい」と夫に頼みました。

 裁判官は2、3年ごとに転勤があり、転勤先を選べないんですね。一つだけ広島に行ける方法があって、それは法務局の訟務検事に出向すれば広島に行けると。取引条件ですね。正式名称は訟務検事といって、国が国家賠償訴訟などで訴えられた時に、国を弁護する代理人です。

 これはですね、私の後悔の種なんですけど、夫は私のために応じてくれて、広島に赴任になりました。今でも、この時に私がわがまま言わなければこんなことになってなかったんじゃないかという後悔は非常にあります。

 夫は当時、仕事ばりばりの35歳で、ほんとに人一倍の努力家でした。フルマラソンするくらいスポーツも好きですし、6月には4人目の子供を妊娠して喜んでくれました。あんなに忙しいのにですね、私の知らないところで英語の勉強までしてまして。海外留学の話も来ていたそうです。どっかで試験受けていたんでしょうね。そんなふうになんでもこなす人でした。

 倒れる前の話からするとですね、訟務検事という、裁判官とは違う慣れない仕事でやっぱり大変だったのかなと、今にして思います。スーパーマンのような夫で、「何が起こっても大丈夫」と思ってたので、今はこういうふうに言えますけど、当時は夫が大変だとは思ってなかった。訴訟で3件続けて負けていたということがあったし、夫の上司が病気になって仕事が増えてて疲れてたりして、たしかに考えごとすることが多くなったかなっていうようなのは後で思うんですけど。そんな中、休日に夫が倒れたんです。

 7 夫の苦悩
 脳腫瘍の告知が主人には非常にショックだったようです。私は医療の進歩もあるし、すぐにどうこうなるもんじゃないと思ってたんですけど、夫は非常に勉強熱心なので、ありとあらゆる医学書を読みあさっていました。医学文献にはいろんなことが書いてあるんですね。脳腫瘍は10年以内に亡くなる確率が高いとか。それで自分の死とか仕事に対しての不安を持つようになったと思います。左側頭葉は言語を司るところなので、脳腫瘍が大きくなって圧迫すれば、言語機能に障害が生じる怖れがあるそうです。そういったことで悩んでいたのかなと。でも、そんなことを私に言う人じゃなかったので、全然気づかなかったんですけど。

 私は耳鳴りや手足のしびれは精神的なものではないかと思い、夫に「精神科に行こうよ」と勧めました。ところが、夫は頑張り屋さんなので、最初は「精神科なんて行かない」と言い張ってたんですね。でも、「精神科の病院に入院して休養したらどうか」というふうに勧めて精神科に連れて行きました。精神科のお医者さんもウツ病だとか言わず、「過労もあるから、疲れを取るためにも休養入院しましょうよ」と説得してくれて、夫は入院をします。

 ところがですね、入院した当日に、食事をとりながら失神してしまいました。意識を失ってバタっと。それを知った看護師さんは広々とした明るい個室に置いておくのが不安ですよね。ケガでもされたら困るということで、翌日、私が病院に行くと、看護師さんの詰め所の隣の暗い部屋に移動されてたんです。トイレに行こうとして倒れたとのことでした。

 それには私もショックだったんです。そうして、医師によると、手のぴりぴり感やしびれ、握力低下は神経炎だろうとのことでした。家に帰ってネットで調べると、悪性腫瘍と関係する場合があることを知って、私は初めて泣きました。

 主人は気分も暗くなり、食事もとれなくなって、常時点滴になったんです。なんか状態がどんどんひどくなってるなと思ってたら、入院して一週間後には夜中に失禁してオムツをはくまでになったんです。私はびっくりして、「どうしてオムツになったの」って聞いたんです。「いや、ちょっと失禁して」と言って、それでもう何もしゃべんなくなっちゃって。たぶん夫の中で自分の状態をどう処理していいのかわかんなかったんじゃないかなと思うんです。

 このままだと夫の体力は衰えるだけだし、これは脳腫瘍が原因なのか、他に何かの病気なのかをはっきりさせるにはこの病院では不安なので、東京の有名な病院に転院させることにしました。

 夫の両親は東京に住んでいるので、夫の両親に手伝ってもらうことにしたんです。車椅子で東京に主人を連れていき、多くの神経内科の先生たちがたずさわってくれました。しかし、失神や手足のしびれと脳腫瘍の関係はわからず、「しびれは神経炎だろうけれど、原因はわからない。治療法が見つからない」と言われてですね、手足のしびれと失神状況がよくならなくて、主人はしびれや吐き気などに悩まされ続けていました。

 夫は頑張り屋さんなので、ベッドで起き上がるだけでも大変なのに、「手術するためには体力つけなきゃ」というので、病院内を散歩しようと努力するんですね。ところが、こうやって努力した翌日に高熱が出たりして、頑張ろうとするとよくない方向に行っちゃうという繰り返しでした。痛みはひどいし、どんどん体力が消耗していきました。

 8 私の知らない夫
 この段階で、脳神経外科と神経内科と精神科医の先生のタッグが組まれたチームで見てもらったんです。その中で、「根本は脳腫瘍だったら手術をしよう」って話になったんですね。ところがですね、夫が「手術が怖い」と、病室の布団の中で震えるんです。こんな夫、今まで見たことなくて、ほんとどうしようと思いました。秋ごろには精神科の先生が「旦那さんはウツ病だと思います」という診断をされました。

 このまま入院しているのはよくないから退院させようと考えました。夫の両親とも相談して。自宅療養を選択したんです。退院したその日、夫のお母さんは息子が退院したからみんなでお祝いしようというので、夫の大好きな食事を作り、ビールまで用意して待っててくれてたんです。家に着いたら、「おめでとう」と歓迎してくれました。主人も自分の実家なので安心したんでしょうね、楽しい会食が始まりました。

 ところが、ふっと気づいたら夫がいないんですよ。さっきまで夫の両親と主人と私とで話してたんですけど、いないので、あれっと思って、トイレかなと思って見に行ったんですね。そしたら、夫が吐いてたんです。それにはびっくりしちゃって。「なんで吐くの」って聞いたら、「こうしないと苦しいんだ。食べたいけど、吐かなきゃ苦しい」と言うので、なんかもう私は泣きそうになっちゃって。

 そんな状態なので、夫は食べたものを消化できず、当然体重はどんどん激減していきます。病院から栄養剤を使おうと言われるんですけど、それも夫は拒否するんですね。退院させててもよくならない。

 ある朝、布団の中で震えてて、「通勤の人たちの靴の音が聞こえるのがつらいんだ」って言うんです。たぶん、自分がウツ状態で仕事に行けないことのつらさだと思うんですけど。そして、私の顔を見て、「うらやましい」と言ったこともあります。私が健康でいること、それがたぶんうらやましかったんだと思います。

 ほんとに苦しそうで、私もどうしていいのかわかんなくなって。広島には子供たちがいるので、子供たちと会えば変わるんじゃないかなと思って、広島に連れて帰ることにしました。

 広島では近くの心療内科に通院しました。そこで夫は重度のウツ病と診断されました。薬は東京で一か月分もらってて、それにウツ病の薬が加わったので、毎日20種類ほど飲んでいて、これまた大変な作業なんですね。食欲のない夫が何か食べてから大量の薬を飲まないといけないので大変でした。

 悪い時はほんとに悪かったです。話しかけても返答がないし、どこ見ているのかと思って顔を見てると、視線も動かないし。なんか能面みたいで怖いなって思ったこともあります。以前とは別人みたいな夫だったけど、体調のいい時もあったので、なんとかなるんじゃないかなと、まだ私は思ってました。夫はクレーンゲームが好きだったので、ショッピングモールに行ったら、子供たちと一緒にクレーンゲームをして、お菓子が落ちてきたりすると、笑顔になって楽しむこともあったんです。

 9 信じられない光景
 1月2日、ショッピングセンターで楽しく遊んだ次の日、朝、なかなか起きてこないので、夫の様子を見に行くと、布団の中で「怖い、怖い」って震えてるんです。とにかく抱きしめて、「大丈夫だよ」と話しかけました。

 お正月には毎年トランプをするのが我が家の習わしだったので、子供たちが「ママ、トランプしようよ」と言うんですね。子供たちは上が小学校一年生で、下は年中と2歳でした。まだ小さかったので、状況がよくわかんないから、「ママ、ママ」って呼ぶんです。夫は私に「大丈夫だから。行ってあげて」と言ってくれました。実は、この言葉が最後の言葉になってしまいます。

 まさかあんなことになるとは思ってもみなくて、私はのんきに子供たちとトランプをして、お昼ご飯の準備をしました。そして、夫に「ご飯よ」と言いに寝室に行ったら、夫の姿がないんです。そういえば書斎の電気がついていたなと思って、部屋の扉を開けたら、窓枠にネクタイで首を吊ってる夫の姿がありました。今でもその時の場面が頭に焼きついて離れなくて、このことを語ると、その場面が出てくるんです。

 何が起こったのかほんとにわからなくて、とにかく降ろさなきゃと思って、ネクタイの結び目をほどいて夫を床におろしました。そして、救急車を呼ぼうと電話をしたら、救急隊員の人が言うんですね。「ご主人の心臓が動いてますか」とか「息してますか」とか。息してないし、心臓も動いてなくて、泣きながらそのことを伝えたら、救急隊員の人に「しっかりしてください」と言われ、「今から人工呼吸と心臓マッサージを教えるので、その通りにやってください。今は奥さんしかいませんよ」と言われて、必死に頑張って救命をしました。

 救急隊の人が来られて、AEDという機械を心臓に当てたら、一回目は心臓が動かなくて、二回目でようやく心臓が動いて、「心臓が動いたので、これから病院に運びます」と言われたので、ほんとによかったと、その時は思いました。

 10 夫は生きたかったのに
 よかったとは言ってもですね、病院に着いて夫の状態を診てもらったら、夫は普通の状態じゃなかったんです。私が発見したのが遅かったために、夫の脳はかなり損傷していました。さらに医師からは、もう夫は意識が戻らないし、余命3か月と告げられます。その時、私は4人目の子供が3か月後に生まれる予定だったのに、なんかもうあまりのショックにただただ泣くしかなかったです。

 集中治療室で夫の体はベルトで固定された状態でした。どうしてかというと、暴れるんですね。体が急にばんって跳ね上がって、ばんって倒れて、すごい痛々しいんですよ。発見が遅れて脳が膨らんだ場合に出る症状らしいんですけども、それを見るのもつらくて。

 とはいえ、まだ生きているので、なんとか生き返ってくれるんじゃないか、奇跡ってあるんじゃないかなと思って気を取り直そうとしました。だけど、時々、夫の目から涙が出るので、夫の姿があまりに痛々しくて、楽に死なせてあげたほうがいいのかなと思ったりもしました。

 結局はお医者さんの宣告したとおり、3か月も経たないうちに亡くなりました。ただ、4人目の子供を出産した後に亡くなったので、それだけでも頑張ってくれたんじゃないかなと、今は感謝しています。

 11 私の心情(夫の自死直後)
 夫の葬儀をなんとか終えたんですけど、私が早く気づいていれば、全部自分の責任だと思ってました。ある時、ふと気づいたら、包丁を手首に当ててる自分がいました。幸いにも生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声がしたので、我に返ったんですけど。

 それから空白の時間が自分の中にあります。なぜ空白の時間ってわかるのかというと、記憶がない。覚えてないってだけじゃなくて、たとえば夫の本棚の3列目の本だけがごっそりないとか、靴箱の靴が半分くらいなくなってる。当然ながら夫の両親が捨てるわけでなく、私の両親が捨てるわけでもなく、まだ小さな子供が捨てるわけでもなく、私しかいないんですけど、そんな大事なものを処分した記憶がないんですね。私が何かしたんだろうなとは思いますけど、ほんとに記憶がない。

 13年たって当時を振り返ると、自死した直後っていうのは、ただ信じられなくて、何が起こったのか理解できない。自分を責めるし。しかも、自死したことを人に知られたらいけないって思ってて、誰にも語れない。夫のことを聞かれるのが不安でびくびく。そんな心情でした。

 半年くらいたったら落ち着くのかなと思ってたんですけど、やっぱり落ち着けなくて。子供たちに知られるのも嫌だったですね。大好きなお父さんが自ら命を絶ったなんて、どう話していいのかわからないし。だから、絶対このこと隠さなきゃいけないと思いました。

 そして、誰にも会いたくない。誰かに「お父さん、何してるの」って聞かれた時に、「死んだんだよ」と答えたら、「どうして死んだの」とさらに聞かれる。嘘つくのもつらい。ただでさえ会いたくないのに、会っちゃいけないみたいになっちゃって、引きこもりのようになりました。

 さらにですね、幸せな家族を見るとつらいんです。特にお父さんと子供が仲良くしてる姿を見ると、この光景を奪ったのは自分だと思って、涙がもう止まらなくなるし、息が苦しくなっちゃう。

 いろんなこと考えたら息が詰まりそうで、すべて忘れたくなるんですけど、夜中に思い出しては後悔して泣いて。でも、子供たちには泣いてることを知られたくないから、声を押し殺して泣くという、半年たってもこんな状態でした。

 12 生きる支えは夫との約束
 それでも四十九日の法要のころから徐々に自分を取り戻し始めます。そのきっかけがですね、夫が生前に言っていた、「司法試験、受けてみないか」という言葉を思い出したことなんです。まだ東京の病院に入院してた時だったんですけど、夫が手術をして後遺症が残ったら、裁判官をできなくなるかもしれない、その時のために私に何かを託したかったんじゃないかなと、今は思うんです。

 そのころは夫の気持ちが少しでも楽になるようにと思って、夫が言うことにはなんでも「うんうん」聞いてたので、あんまり深く考えずに「いいよ」という感じで答えた、そんな些細なことだったんです。

 亡くなってみると、その言葉が私に非常に大きな意味を持って、司法試験に合格することが夫との約束であり、償いになるんじゃないかなと思いました。それから猛勉強します。

 さっきも言ったように、勉強は決して好きじゃなかったんですけど、このころはですね、勉強している時が落ち着いたんですよ。許される時間と思えて。私が生きててもいいというか、ここにいることを私自身が認めてあげられる時間、そういった感じです。もうほんとに必死に勉強しました。

 勉強する私を支えてくれたのは、私の家族だったり、ママ友だったり、近所の方でした。今でも感謝しています。やっぱりね、4人の子供がいて、私の目が届かないこともあるし、私自身、まだ精神的に不安定な状態だったので、そんな私の代わりにですね、子供を叱ってくれたり、子供の習い事について行ってくれたり、そういうことを全部ママ友とか近所の方がしてくれました。当時は夫が自死したってことは言えなくて、「夫は脳腫瘍で亡くなった」と説明してましたが、ほんとに皆さん優しくしてくれました。

 13 私の今の状況
 13年がたって、自分がどういうふうに変わったかなって思うんですけど、いまだに悲しみとか自責の思いというのは変わっていないです。語ることは今でもつらいです。もう一度やり直せたらと思う時があります。

 それと、子供たちのことなんですけど、私がこういう活動をするようになって、1回だけ子供と話したことがあります。夫が亡くなった時、小学校1年生だった長男はパパとの思い出はめちゃくちゃあるので、中学2年になっていた長男は真っ先に「その話はしないで」とはっきり私に言いました。それからは話が一切できていません。そんな長男も今は大学生で、もう20歳になったんですけど、それでもまだ話ができない状態です。もうちょっと時間が必要かなと思っています。

 14 自死遺族の心情
 遺族の方ともよく話すんですけど、自死って、その時に死ぬのを防いだら死ななくてすむじゃないですか。あの時に止めてたら助けられてたということがあるので、止められなかった自分が悪い、だから消えてしまいたい。会いたいし、帰ってきてほしい。それで、「タイムマシンを使って止めに行くんだ」と、みんなで話をします。

 遺族は自死だとは誰にも言えない、知られたくないという思いをみんな非常に強く持っています。だから、どうしても嘘が真っ先に出てきます。私も「夫は病死だ」と言ってましたけど、遺族の方の多くは自死だということを知られたくないから、事故死や病死と説明しています。

 自死者の数は交通事故で亡くなる人の約6倍なんですけど、交通事故死はね、若い人も多いし、昨日まで元気だった人が突然亡くなっても、交通事故だと聞いたら、皆さん納得するじゃないですか。それ以上、誰も追及しないから、事故死と言う人が多いです。

 亡くなったことさえ言わず、「海外に仕事に行ってる」と説明する人もいます。これはお母さんの中に何人かいらっしゃるんですけれども、自分の亡くなった息子なり娘なりが生きていることにしたいんですね。受け入れられないから。お友達のお母さんたちと話す時に、せめてその話の中だけでも子供が生きているようにしたい。そういう思いから、こういう嘘というか、説明をする人がいます。

 15 自死遺族に対する言動
 遺族を近所の人が避けるようになったり、困ったような表情をするといったつらい状況をよく耳にします。それとか、「なんで自殺したの」とか「命を粗末にして」とか言われることもあるんです。

 家族同士がお互い責め合ったりすることもあって、お子さんを亡くしたご夫婦だと、お互いが「お前が気づかなかったからだ」と責め合って離婚しちゃうケース。夫を亡くした奧さんが夫の両親から責められるケース。こういったふうに、遺族の中でごたごたになることもあります。

 それから、「忘れなさいよ」と言われることが多いですね。これ、病気などで亡くされた方でも経験されるんですけど、忘れられるわけがなくて、「こんなこと言われても」と感じることは珍しくないです。

 法律的な問題の言動をする人もいます。「自死は気持ち悪いから、お祓いするように」と要求する大家さんもいたりして、損害賠償の話が起きることもあるんですね。

 そして、実名報道。ネット社会なので、女子高生の自死だったりすると、実名や顔写真がネット上で流れたりして、両親が非常に傷つくこともあります。

 あるいは、「本人の資質に問題があったんだ」と言われたり、仕事の関係者から「突然死んで仕事に穴を開けたんだから、損害のお金払え」とか、あとは「あなたの兄弟にそういう人がいたら結婚を考えたい」みたいな話をされることがあります。ただでさえ自分を責めてるのに、そんな状態になってしまうんです。

 自死した方の7割はなんらかの精神疾患をお持ちです。心療内科はハードルが低くて行きやすいので、そこで睡眠薬をもらったりしていたのに亡くなってしまったということで、精神科医に対して不信感を持つとか、そういった思いを聞きます。

 いじめで子供が亡くなったお母さんだったら、いじめた子を殺してやりたいくらい憎いし、いつまでも許せないという方もおられます。さっき言ったインターネット上の実名報道とかでまた傷つくこともあります。あまりのショックにですね、仕事を続けられなくなる人もいます。夫が亡くなると収入がなくなって、今後の生活をどうするかといった不安も出てきます。

 このように、自分自身の心の葛藤、家族やまわりの人たちとの葛藤に遺族は苦しみます。

 16 自死遺族を取り巻く法律問題
 法律問題は非常にたくさんあります。特に相続の問題。これは一般の病死の時も関係してくるんですけど、日本の法律は非常に厳しくてですね、基本的に亡くなってから3か月以内に相続放棄の申述をすることになっています。

 ところが、遺族が3か月の間に普通の精神状態に戻るというのは難しくて、なかなかこの期間内に放棄するかどうかを決めるのが難しいです。これは遺族の方全員に言えるんですけど。

 基本的に、3か月ということは変えられないけども、開始時期をずらしたりとかすることは可能と言えば可能なんです。それでも、3か月っていう期間は厳しいなと私は思っています。

 生命保険の問題もあります。皆さんが生命保険を契約していれば約款に縛られます。保険法51条1号にですね、「自殺については保険金を払わなくてもいい」という条文があるんですね。これは保険金目的で亡くなる人を防ぐためのものなので、大体3年以上経過したら自死についても支払うことになっています。一定期間経過していれば不当な目的による利用ということはないだろうということです。私の夫の場合も、3年以上経過して生命保険が支払われました。残念ながら、3年たっていなくて、このことで保険会社と弁護士が介入することもあります。

 こんなふうに、自死っていうのは、いわゆる故意による死だから、基本、保険金を払わなくていいけれども、実際には例外的に支払うという考え方を取る保険制度は他にもあるんですね。スポーツ振興センター保険の災害給付制度です。これは学校で起きた事故について、スポーツ振興センターから保険金が支払われます。

 ただ、自死については、それが学校で起きた出来事が原因で亡くなったものかどうかの立証責任がこちらにあるので、そこはなかなか厳しいハードルがあります。

 17 自死は気持ち悪い?
 さっきちょっと話したように、大家さんからなぜ損害賠償を請求されるかというと、自死は気持ち悪いからだとされています。法律的な用語だと、心理的欠陥の一つと呼ばれています。つまり、自死は心理的瑕疵を生じさせるものとする裁判例がほとんどなんです。

 否定した裁判例も数少ないけど一応あります。だけど、現状でですね、大体、損害が認められる傾向があって、自死後約1年から2年程度の賃料分の損害金と修理費用の損害が認められます。つまり、やっぱり自死は気持ち悪くて、他の病死とは違うんだよということなんです。残念ながらこういう裁判例があるというのが実態です。

 18 保健師や相談員に対する不満
 保健師さんや相談員さんに対する不満もあるんです。ちゃんと話を聞いてもらえなかったり、「時間がたてば」とか「元気を出して」といった慰めやはげましの言葉は聞きたくないのに、そういうことを言われたりすることがあります。中には「遺伝だと思う」と言う人もいるそうです。どんな言葉であっても気持ちが癒えることは残念ながらなくて、それだけしんどいと私自身も思います。

 保健師さんや相談員さんのサポートを受けたいなと思う時、慰めの言葉はあまり期待してなくて、話を聞いてくれるっていうこと、一緒に何かしてくれることがうれしいんですね。病院につき添ってくれるとか、生活支援の窓口に一緒に行ってくれて、書類の書き方を教えてもらったとかね、そういうのがうれしいという話を耳にします。

 19 おわりに
 遺族の方と話したりする時にいつも思うんですけど、結局ですね、亡くなった人に会いたいんですよ。それしかなくて。弁護士である私にそんなこと期待してもしょうがないですけど、皆さん、「ほんとは会いたいんだ」って言われます。

 時間の経過とともに悲しみは癒えると言いますけど、残念ながら癒えることはないです。遺族の方からよく聞く話はね、特にお子さんを亡くされたお母さんは、たとえば息子が高校生で亡くなるとして、「私の息子は高校生で止まってる。ところが、心優しい友達が3年たっても、5年たっても会いに来るんだ。就職したとか、結婚したとか教えてくれるけど、それは逆につらくもある。生きていたら、息子も就職し、結婚して、孫の顔も見れたかもしれないと思うと、外に出れなくなるし、人に会いたくなくなる」と、こんなふうに言われます。

 その時々の状況に応じて思いは変わっていくので、単純に年月とともに癒やされるっていうことはないんだよということをわかってほしいです。よくも悪くも、遺族の心情は変化します。それは人それぞれで、一人ひとり違います。どんな人であれ、なんであれ、人それぞれ考え方、思いもあるので、どんな考え方があっても私はいいし、感じ方があってもいいなと思っています。
 どうもありがとうございました。
(2019年11月23日に行われました講演会でのお話をまとめました)