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  植田 映子さん 「息子の19年」
                                  
2004年4月24日

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 初めてこの会に出席させていただきます植田と申します。ちょうど10年前に次男がバイクの事故で亡くなりました。19歳でした。
 小さい時は親から離れないような子だったんですけど、小学校の時には少年団に入って、勉強も、遊びも、楽しくやってました。けれども、中学生になってからまわりの友達との関係もあったかと思うんですけども、親に反発したりして、すごく私も悩みました。

 中学2年生の時にいい担任の先生にめぐり逢えて、それからすごく変わったんですよ。「お兄ちゃんと同じ高校に行きたいから塾に行く」と、自分から言って、勉強をやり出して一生懸命がんばったんです。初めはできなかったんですけど、だんだん勉強がわかるようになって、成績も上がってきました。
 三者懇談の時に、担任の先生が「この子はようがんばったけ、帰ったらステーキでも食べさせてあげんさい」と言われて、盛り上げてくださったんです。3年生になっても一生懸命勉強して、希望する高校に合格しました。

 ところが、高校に入ったら親の言うことは全然聞かなくなって、自分のしたいことをするんです。クラブは最初は野球部に入ってたんですけど、「顧問の先生と合わん」言うてやめて、それで帰宅組になったんです。そしたら、いつの間にか体操部に入ってるんですよ。そんなのも親は知らないんです。
 そしてまた帰宅組になって、今度は「音楽をしたい」と言い出したんです。学校では禁止されているんですけど、「練習に行くんじゃ」言うて、スタジオとかに行ったり、そういうことばっかりしてたんですね。夜も遅く帰ったりして。

 とにかく悪かったんですよ。というか、目立ちたかったんですね。髪を染めたり、タバコを吸うたり、しちゃいけんことをするんですから。先生に怒られて、それに反発していました。
 そのころはまだ髪を染める子はそんなにいなかったですよ。それを親が知らんところで染めて、学校に行くんです。で、先生に怒られるでしょ。「お前はもう来ちゃいけん」と言われて、家に帰ってきれいにして、また行くわけです。

 長男とは同じ高校なんですけど、上の子の先生が、「なんであんなに違うんか」言われたぐらいだったんです。上の子はとにかく真面目で、クラブを一生懸命やるほうだったから。

 でも、担任の先生はいつもかばってくれちゃったんですよ。生活指導の先生には怒られてましたけど、担任の先生は怒ってんなかったんです。あの子の味方は担任の先生だったんです。誰かがかぼうてくれんと、あの子も行き場がなかったんだと思うんです。
 担任の先生は3年間同じで、その先生が自由なやり方の先生だったもんで、タバコ吸うたりしたことをかばってくださったから、あの子は救われたと思います。

 かまってほしかったんですね。親が上の子に必死になったのが原因じゃないかと思います。
 長男は初めての子ですからつきっきりだったんですよ。それが下の子から見たら、お兄ちゃんにばっかりという気持ちが、小さい時からあったんだと思うんです。何かというと、長男、長男といった感じでしたから。
 あの子がバレーの少年団に入ってた時、一緒だったお母さんと十何年ぶりで会って話をしたら、「あんたがたの下の子はすごいひがんどった」ということを言われたんです。そのおばちゃんにそんなことを言ったらしいんですね。

 私はわけへだてなく、二人とも厳しく育てたつもりなんですけども、下の子は厳しいまんまでかわいそうなことをしたなあと、悔いが残ってるんです。私も姉と私の二人姉妹なんですけど、姉がかわいがられて、それで私はひがんでいたから、あの子の気持ちがよくわかるんです。

 勉強はほんとにしなかったですね。私も勉強しなさいとはあまり言わなかったんです。私自身があまり勉強が好きじゃなかったから。けど、赤点とったりすることもあったから、卒業できなきゃいけないというんで、先生が追試を受けさせてくださって、高校は卒業したんです。
 私はその時はそういうことを知らなかったんです。後で聞いて、よく卒業できた思うたです。卒業式でも頭をこーんな格好して、もうすごかったんですよ。

 そして、「大学に行きたい。県外に出してくれ」と、あの子は言ったんですけど、その時に長男が私立の大学へ行ってたので、「県外には出されん」と言うたら、「それなら僕はもう大学には行かん」言うて、最初から受けもしなかったんです。

 それで専門学校に入ったわけです。自動車がとにかく好きだったので、その専門学校に行ったんですけど、入ってすぐの6月でやめたんです。「やめる」と言うた時に私は反対できなかったんです。なぜか知らないけど、反対ができなかったんです。

 で、「大学に行きたいけ受けさせてくれ。またもう一ぺんがんばって勉強する」と言うもんですから、「そうしたいんなら、じゃあそうしなさい」ということになったわけです。

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 勉強はしていたんでしょうけど、遊ぶのも遊んでました。バイクを乗り回して。「バイク買うてえ。僕は大丈夫じゃけえ」と言うので、バイクを私が買ってやったんです。専門学校の仲間がいますよね。その人たちと遠乗りに行ったりしてたんです。私が買ってやったんだからいけないんですけど、その時に反対しとっても、絶対に何とかして買ってたと思います。
 勉強も合間にはしてたんでしょうけど、私の目からはそんなにしとるようには見えなかったですね。でも、この子を信じてやろうと思ってたんです。

 正月が来て、「あんた、バイクに乗って大丈夫?」と、みんなから言われとったんですよ。そしたら「僕は大丈夫よ。運転がうまいんじゃけえ」と言うて。過信したんでしょうね。

 1月6日の夜中に、バイクで友達の家に行った帰りにぶつかったんです。夜中に電話がかかってきて病院に行きました。だけど、その時はもう駄目だったんです。若いから心臓は動いていたんですけども、脳のほうがもう駄目だったから。私はよう見れなかったです。
 家を出る前に、「行ってきます」と言った時、私の横顔をパッと見て、なんか悲しいような顔をしてたんです。で、そのまんまですよね。そのまま死んでしまったわけです。

 こんなことになるとは思わなかったですね。私の家は大丈夫じゃと思うておったのが、こういうことが突然起きたので、自分の中では全然信じられなかったです。
 だから、今でもあの子がおると思ってるんです。出歩くことが多くて家にはほとんどいなかったから、どこかに出かけて家におらんのかねえという感じで。だから、いつか帰ってくるというような頭があるんですね。当分はそういうふうに思ってました。

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 あの子が亡くなってから、友達がたくさんいたことが後でわかったんです。友達が来てくれて、こういうことがあった、あんなことがあったよと話してくれるのを聞いて、ほんとすごく慰められました。私の知らないようなことを友達がよく知ってるんですよ。

 みんなにかわいがってもらったんだなあということを感じて、私はそれを誇りに思います。あの子は人生が短かったけど、自分の思うようにしたいことをして、みんなに好かれて逝ったんだなあと、私は思っております。今でも主人と「あの子は友達にかわいがられて生きてきたんじゃねえ」とよく話すんです。

 今はもう一人しか息子がおりませんけども、あの子にはおってほしかったですね。写真を見ては、「あの子がおったらねえ」と、主人といつも話すんです。おらんようになった者は仕方ないんですけど。親より先に逝くということが一番つらいですね。

 あの子は私の性格とものすごく似ているんですよ。何でも自分でする子だったんです。買いたいものがあったら、「自分で買うんじゃ」言うてアルバイトして買う。そういうふうに一生懸命がんばってやるような子だったんです。
 あの子がもし生きとったら、仕事でも自分からいろいろやって、負けずにがんばっていたと思います。それがかなわなかったことが私の悔いとして残っています。

 でも今となっては、あの子も自分が19年しか生きられないというのを知っていたんかなあと思うぐらい、いろんなことを経験して、したいことをして、精一杯19年を生き抜いたんだなあと思います。

 私はあの子にちゃんとしてやれなかったという悔いが残ってます。子供が小さい時は親も一生懸命だし、生活もあまり余裕がないから、好きなことをしてやれなかったでしょう。そういうのが心残りなんですよ、私としては。これからという時に亡くなって。なんかあの子はみんなの犠牲になったような感じでおるんです。

 あの子は19歳でしょ。19といったらまだこれからですよ。高校卒業の時に、10年後の自分はどうなっているかという文集を学校で書いたんです。それには「僕は10年たったら、もう結婚して、子供もいて」というふうなことを書いてるんです。それができなかったまま逝ったから、かわいそうだなあと思って。


 亡くなってしばらくは、「阿弥陀経」を主人と母とでずっとあげてたんです。それで紛らわすといったらおかしいですけど、それで自分の気持ちがなんか落ち着く気がしてました。

 主人のほうが私よりショックが大きかったと思うんです。主人は毎日仕事の帰りにお墓に参りに行ってましたね。主人は何も言わないだけに、すごくつらかったんだと思います。

 まわりの人のほうが気を使うて、「落ち込んどるんじゃないか思うたけど、声もようかけられんかった」と、後で言われましたですね。人前では泣けません。一生懸命だから。

 いろんなことに関して、あの子のおかげでというのは思います。たとえば、あの子が生きとる時は夫婦の間であまり会話がなかったんですよ。それがあの子が亡くなってから、すごく話をするようになったんです。二人で一緒にやることが多くなったし。あの子がそうさせてくれたんじゃねえと、私は思ってるんです。仲良くしてほしいとあの子が望んでいると、そう思ってます。

 以前は主人がお酒をよく飲むので、よう愚痴を言ってたんですけど、そのことを当分言わなかったですね。そんな気にもなれなかったです。
 まわりのことに対しても腹が立たなかったです。誰に対しても、どんなことでも、全然怒らなかったです。そういうふうな感じだったんです。気持ちがものすごく穏やかで、怒ることもなくなってたんですよ。あんなこと言うちゃいけん、怒っちゃいけん思うて。このくらいのことで怒られんいうような気でおったんです。

 主人は昔から穏やかで怒らない人です。今もそうです。私が変わっただけです。
 そのころは、何を言うても怒らなかったんですけど、ちょっと月日が経ってしまったんか、最近また私がガミガミ言い出して、主人はいやだと思うとるんじゃないですかね。子供の死がだいぶ薄れてきたんかもしれませんね。10年ちょうど経ちましたから。

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 長男は弟がなくなって気が抜けたんかどうか知りませんけど、もうほんと欲がなくなったんです。それまでは二人が競争して、高校の時でも取っ組み合いのケンカをしたり、お互いがいい刺激になっていたんです。

 あの子が死んだ時に長男は大学の3年生で、就職ももう決まっていたのに、その翌年に卒業ができなかったんです。それでお恥ずかしいんですけど、留年することになったわけです。本人に「なしてそういうことになったの」と聞いたんですけどね。

 いまだに欲がないんですよ。何をするにも親まかせで。ああいうことがあったからそうなったと言ったらいけないんですけど。張り合いがなくなったと思うんですね。
 それは私があの子が亡くなった後で、そういうふうにしてしまったということもあるんです。子供が一人だけになったから何でもしてやろうという気になったんがいけないんです。

 長男はちゃんとやってるんですよ。だけど結婚もしてるのに、今もって親に頼るんです。何をするにも頼るんです。なんか一人になったことで、どう言っていいかわからないんですけど、ほんと駄目なんですね。

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 あの子が亡くなったころから、私の母親の痴呆が始まりました。私の母は一人でおったんですけど、年だからというので一緒に暮らすようになったんです。ところが私が何でもしたので、本人のすることがなくなったんですね。それに私がパートに行くでしょ。その間、一人なんですよ。で、私が帰ってきて、母は話したいと思ってるのに、私は忙しいから話を聞いてやらない。それがいけなかったんです。

 私が母に冷たかったからなんかなあと思って、一時悔いました。もうちょっと優しくしたらと思ったけど、なかなか話いうのは聞かれんですよ。でも、まだ痴呆になる前に、私と一緒でよかったと言うてくれたんです。「私はあんたと一緒じゃなきゃいやじゃ」と言ってくれたから。

 死んだ子がすごく母と仲がよかったんです。母は上の子より下の子をよくかわいがるというか、面倒を見てくれたからね。あの子が亡くなった時に、「私が代わってやれるものなら代わってやりたかった」言うてました。あの子が亡くなったということがわかっていたんですね。それが引き金になったんでしょう、それから急に痴呆がひどくなったんです。やっぱりショックだったんですね。このままほっとけんということで、私がパートへ行ってたのをやめて、家で見ることになったんです。

 私の友達が、「あんたはね、子供が亡くなっても悲しんどる暇はないんよ。お母さんの世話をせんといけんでしょ。あなたがお母さんの世話をしたげにゃ、誰もする人がおらんのよ」と言うてくれたんです。母の世話に手がかかって一生懸命になったぶん、悲しみからいろいろと救われたところもあります。

 なかなか立ち直れない人が結構おられるんですよ。私なんかウツとか何もなかったんですけど、私も母の世話とかが何もなかったら、ウツになっていたと思います。母の世話に逃げたと言ったらおかしいですけど、母親の世話を一生懸命せにゃいけんというのがあったんですよ。母親を医者に連れて行ったり、いろいろ毎日とにかく忙しくしていたから、そのほうに向いて、悲しんどる暇がなかったんです。

 でも、私は冷たいんかなあと思うことがあるんです。私は母親なのにもっと悲しまにゃいけんのんかなと思ったこともありました。だけども、悲しむばっかりじゃいけないと思って、一生懸命母親の面倒を見たようなわけです。

 そりゃ母の世話をするのがつらい時もありましたよ。ほんとにつらかったこともありましたけど、誰に言っていくところもないんですし。
 姉が母の面倒を見てくれたらと思ったこともありました。だけど、姉は遠くに嫁いでいきましたからね。親もそれを覚悟で出したんですよ。私と一緒におりたいと思ったからそうしたんだと思うんです。

 その母親も2年前に亡くなりました。あの子が亡くなってから1年半ぐらい家に一緒にいたんです。姉が「あなたが大変じゃ。あなたが倒れたらいけんから、どっか見つけんさい」言うてくれたんで、それでホームに頼んだら、10ヵ月ぐらい待ちましたけど、入れさせてもらったんです。それから7年で亡くなりました。

 母は「私がこんなから、早う逝きゃあえんじゃけど、あんたらに迷惑かけるけ、自殺なんかはできんけ」言うてたんです。すごく悩んでたらしいです。「それができんけ、ごめんね、ごめんね」て、いつも言ってたから。最後のころは全然わからなかったんですけど、それでよかったんかなあと、今では思ってるんです。

 あの子が亡くなってから10年も経っているんですけど、こういう話をしたのは初めてです。どうもありがとうございました。

(2004年4月24日に行われましたひろの会でのお話をまとめたものです)