真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  瓜生 崇さん「信仰に人生を奪われないために」
                           
2019年2月21日

 一 カルト宗教
 おはようございます。お参りいただきましてありがとうございます。今日は「信仰に人生を奪われないために」というタイトルでお話しさせていただきます。カルト宗教全般についてお話しします。何でカルト宗教という宗教が生まれたのか、カルト宗教とはいったいいかなるものなのかというような話をいたします。

 1 人民寺院事件
① 人民寺院とは
 まず最初に、この写真、見覚えがある方いらっしゃいますか。

 オウム真理教のサティアンに見えますか。違うんですね。サティアンはもっとしっかりした建物なんです。たくさん人が倒れているでしょ。これは人民寺院といいましてね、今までいろんなカルト宗教があったんですけども、中でもとりわけ危ないといわれている宗教なんですね。

 いったい何をしたかっていったら、南米のガイアナという国で908人が集団自決したという事件なんですね。倒れているように見える方は、これは自死をされたんですね。自死といいましてもね、実際に自死をされたのは3分の2くらいで、3分の1くらいは殺されたんじゃないかといわれているんです。みんなで青酸性の毒を飲んで、そして亡くなっていったそうなんです。これは非常に衝撃的な事件として記憶されていて、まずカルトの問題をやる時には、この人民寺院の事件から学ぶことが多いんですね。

② ジム・ジョーンズ
 この人民寺院という宗教、いつ生まれたかといったら、1955年なんですね。この団体を創立した人はジム・ジョーンズという人で、この人はもともとキリスト教のメソジスト派の牧師さんだったんです。みなさん、メソジスト派をご存じですか。あんまり聞いたことないかもしれませんね。アメリカンフットボールが強い関西学院大学という大学があるでしょ。関西学院大学はメソジスト派の大学なんですね。

 例外はありますけども、カルト宗教はだいたい既存の宗教から生まれるんですわ。以前、私がいた親鸞会という教団は西本願寺から出てるんです。オウム真理教はチベット仏教とか、あのあたりから出てますでしょ。何かをベースにするんですよね。ジム・ジョーンズさんもプロテスタントのメソジスト派の牧師さんだったんです。何がこの教団を作るきっかけになったかということなんです。

 マルティン・ルーサー・キングとかマルコムXとか覚えていますか、公民権運動といって、アメリカで黒人差別を撤廃しろという運動が始まりましたでしょ。あの運動が始まったのが1950年代の後半くらいです。

 当時のアメリカでは、バスの席もシャワールームもトイレも通う教会も、全部黒人と白人とでは別だったんですね。当時のアメリカ、特に南部では、学校もね、黒人と白人とが違う教室で授業を受けていました。それが当たり前の時代だったんです。今の私たちからいうたら差別やと思いますけれども、そういうのをみんなが当たり前に思っていたんです。

 メソジスト派の青年牧師さんだったジム・ジョーンズさんが何をしようとしたかといったらね、人種差別の撤廃とか貧困層の救済、こういうのをやろうとしたんです。ジム・ジョーンズさんは、教会は黒人と白人が平等に教えを聞いていいんだといい始めたんですよ。

 これどうですか。みなさんの常識からいって、これ正しいですか、間違っていますか。正しいですね。今の我々の常識からいったら間違いなく正しいですよ。そうでしょ。ところが、当時の人たちはそれを受け入れられなかったんですね。ジム・ジョーンズさんは教会の長老とか先輩の牧師さんから批判を受けます。

 それでジム・ジョーンズさんも考えまして、こうなったら独立するしかないと思ったんですわ。それで、みんなに開かれたお寺を作ろうと、人民寺院という教会を作ったんですね。

 そして、もうひとつやったのが貧困層の救済で、貧しい人を積極的に救っていかなくてはならないと思ったんです。教会で歌を歌って「ありがたい」といってるだけじゃなくて、実際に行動を起こして人を救っていかなくてはならない。こういうことをいい始めた。これも非常に大きな抵抗に遭ったんですよ。

 もういっぺん聞きますけどね、教会が貧しい人を救っていこうと動くのは間違っていますか、それとも正しいですか。まあ、間違ってはいないでしょ。少なくとも。正しいかどうかともかくとして、間違ってはないですよ。

 これね、人間というのは、正しいことをしている時が一番たちが悪いんですわ。いうている意味わかりますか。自分が正しいことをしていて、それなのにまわりの人たちがそれをわかってくれない時に一番厄介なことになります。

 戦争なんかそうでしょ。厄介な戦争というのは正義のために始めた戦争なんですよ。たとえば、イギリスはドイツとかが勃興してきて、アフリカで植民地を取り合う戦争してますよ。あれは利益のためにやった戦争なんですね。利益が得られないとなったら、パッとおしまいにして帰っちゃったりするんですよ。

 ところがね、アジアを解放しなければならないんだとかね、ユダヤ人は諸悪の根源だから絶滅させなきゃならないんだとか、正しいと信じる意思を持ってやっちゃった戦争は、民族が破綻するまで続けるんです。

 これ、僕らも経験済みでしょ。我々の前の世代の方が経験していることでしょ。アジアを解放しなきゃならない戦争だったから負けられなかったんです。負けるとわかってたってやめられなかったわけ。大義名分と正義がありますからね。

 大義名分と正義というのがあって、まわりから抵抗を受ける状態が続いたら、その集団は閉じたものになっていくんですわ。まわりと敵対し、自分たちの中で一つの信念にしがみついていくような姿になります。そうすると何が起こってくるか。

③ ガイアナで起きたこと
 ジム・ジョーンズさんはあんまり抵抗が多いもんだから、今の社会はダメだと思い始めます。そして、ガイアナ、南米にそういう国があるんですけど、そこに広大な土地を買って、1973年にジョーンズタウンという自給自足の町を作り始めるんですね。

 似たようなことをやった教団が日本にもあります。これは宗教じゃないんですけども、ヤマギシ会といってね、三重に広い土地を買って、そこで自給自足のコミューンを作りました。ヤマギシ会の中で何が起きたか、みなさんご存じですか。子供への虐待とかが起きたんですね。それが問題になって、裁判もありました。今、ヤマギシ会はカルトとはいわれていませんけれども。

 人民寺院はジョーンズタウンという自給自足のコミューンを作って、そこでみんなで畑を耕して、食物を自分たちで作って暮らすようになります。そうやって正義の人たちが一か所に集まって、そういう中で正しいことをしたら、それについていけない人を迫害するようになっていきます。これもまた宗教の大きなテーマの一つなんです。

 たとえばね、日大のアメリカンフットボール部で事件がありましたでしょ。ああいう体育会系の集まりというのはパワハラが起きやすいんですよ。なぜかわかりますか。なんでかといったらね、正しいことがはっきりしているんですよ。正しいこととは何かといったら、勝つことなんです。試合に勝つという大義名分がある。そのためにみんなが頑張って、そして成長して、という大義名分がある場合、それに合わない人を迫害する理屈がつけやすいんですね。つまり、一人の人間を大事にしなくて迫害したとしても、勝利すればいいんだという思想になりやすいです。

 真宗大谷派でもパワハラが起きたんですね。これは新聞沙汰にもなりました。パワハラがなんで起きたかというと、職員が「残業代が支払われていない。残業代を払ってほしい」といったんですよ。それを責任者である上司は何ていったかというと、「信仰があったら残業代を請求することなんかしない」といったんです。つまり、「給料なんか安くても、ここで勉強させてもらって、みんなと一緒に信仰を深めているんだ。そういうことに対して残業代を請求することはおかしい」と彼はいったんだね。

 これも正しさなんですね。「信仰があったらそういうことはしない」というのは正しさなんですよ。だから、宗教でもこういう問題は非常に起きやすいんですわ。一つの正しさを共有するところでは、その正しさのもとに、一人の人間が迫害されたりとか、人権が侵害されたりとか、そういうことをしてもいいという土壌が生まれやすいんですね。

 それでね、ジョーンズタウンで人権侵害が行われているんじゃないかという、そういう話がいろんな人から漏れ出てきたんですよ。おかしいなと思って、アメリカの上院議員のライアンという人がジョーンズタウンを訪問して視察をするんです。ところが、みんなにこやかな笑顔で、実に生き生きとしっかり生活をしていた。

 ところがですよ、ライアンさんがアメリカに帰ろうとした時に、ある人がね、ライアンさんの手にメモを渡した。そのメモになんて書いてあったかっていうと、「帰らせてくれ」と書いてあったんですよ。さすが議員さんになるだけの人で、そのメモを見た瞬間に、ここで何が起きているか気づいた。

 そこで、その場にいる人たちに対して、「もし心ならずもここにいて、帰りたいと思う人がいるなら申し出てほしい。今すぐ君たちを連れて帰るから」といったんですよ。そしたら何人かが手が上げたんですね。「じゃあ、前に出てくれ。一緒に帰ろう」といって、車に乗せて飛行場に行こうとしたんです。ところが、途中で待ち伏せをされて、全員殺されてしまったんですわ。

 その時、飛行機の操縦士が一人だけ命からがらなんとか帰ることができた。そしてガイアナに残された人たちは集団自決したんです。

 だからね、人民寺院は正しさというものを求めて、正しさというものをつかんで、正しさによって人生とか人権を奪っていった。実は見せたくないものがいっぱいあったわけだ。そういうものがたくさんたくさん積み重なっていった時に、自暴自棄になってみんな死んでしまったんですよ。

 2 カルト教団
 人民寺院の集団自決事件の経緯を見ますと、似たような問題が日本でも20数年前に起こったなと思い出しませんか。非常に似ているんです、オウム真理教の事件と。

① カルトのソフト化
 私はカルトの脱会支援を12年間続けてます。最初は親鸞会という教団の脱会支援の相談が非常に多かったんですね。親鸞会は私が昔いた教団なんです。ところが、親鸞会の相談は年々減り続けて、今はあんまりなくなりました。なぜかというと、親鸞会自体があんまりカルトじゃなくなっちゃったんですよ。世俗化したと、専門用語でいいますけれども。

 最初はとんがっていた宗教もね、だんだん丸くなっていくもんなんですね。創価学会を思い出していただけますか。昔は非常にとんがった教団でしたでしょ。折伏といって、ものすごく激しい勧誘していました。ところが、創価学会の今のメンバーの中核をなすような人たちは二世とか三世といわれる人なんです。二世三世ってわかりますかね。親は創価学会に入信して熱心にやっていたんですけど、その子供になったらね、親ほど熱心にやるかというと、そうじゃないでしょ。その子供の子供になったらね、その親ほど熱心にやるかといったら、やっぱりそうじゃないんですよ。

 親が無茶苦茶熱心に創価学会やるじゃないですか。集会なんかにも行くでしょ。いろんな人を誘うでしょ。そうなるとさ、人間的な軋轢とかいっぱい生まれてくるわけですよ、周囲に。学校で、「こいつ学会なんやで」っていじめられたりするわけです。そんな中でね、子供さんは「なんで俺は創価学会の家なんかに生まれたんだ」と親に抵抗して、宗教に抵抗して、それですったもんだするんですけど、次第になぜ親が創価学会を選び取ったかということに関心を持っていって、そして柔らかくその宗教に入っていく姿があるんです。

 これね、何かに似ているんですよ。何に似ているかといったら、寺の息子に生まれると、寺に抵抗し、親である住職に抵抗し、そして「親鸞の教えなんか聞くか」といってた人が、成長するにしたがって、「なんで私は寺に生まれたんだろう」と、そのルーツをたどるようになっていって、しばらくしたら衣を着ているわけですよ。

 そうなるとね、自分で「これが間違いない」と宗教を選び取った人に比べたらソフトになっていきますわ。創価学会は3代目くらいですけど、真宗のお寺は20代くらい前からやってるわけですね。そうなるとやっぱりソフトになるわけでしょ。

 だから、大谷派にしても本願寺派にしても、今は過激な教団ではありませんね。昔から過激じゃなかったかというと、ところがそうじゃなかったわけです。一向一揆とかやって、人殺しもしたわけです。信仰を守るためにね。そういう教団だったわけですよ。室町時代、蓮如上人の時代にね、日本全国に浄土真宗の教えがすさまじい勢いで広まったけれども、各地でいろんな軋轢とか抵抗を相当生んでいると思いますよ。だからね、我々もそういうところを通ってきているんですわ。そして時代を経るごとにソフトになっていったわけですね。

② なぜ入信するのか
 でもね、そういうふうにソフトになれないで、途中で破滅しちゃう教団もあるんです。これはもう典型的なものがオウム真理教なんです。みなさんもその経緯なんかよくご存じでしょうから、詳しくお話しませんけれども。

 これね、こういうところでオウムの話をする時と、たとえば大学とか高校でオウムの話をする時、決定的に違うことがあります。どこかといったら、みなさんのほぼ全員がオウム真理教の事件ご存じですよね。知らないって方おられますか。その時、生まれてなかった人いますか。いないと思うんです、たぶんね。

 でもね、私はいくつかの大学でこういう講演やるんですけど、今の大学生は知らないんですよ。18歳、19歳でしょ。オウムの事件からもうすぐ24年が経つんですわ。知らないんですよ。

 僕にとっての浅間山荘事件とかよど号ハイジャック事件みたいなもんなんです。よど号ハイジャック事件を歴史上の事実として知っているんですけどね、でも、その時代の空気感まで一緒に共有したかというと、そうじゃありません。僕が生まれる前の出来事ですからね。ところが、みなさんは僕と違って、テレビで見たとかね、新聞で毎朝報道されるのを読んでたんじゃないかと思います。

 そうなると、みなさんと私の間には、よど号ハイジャック事件を語る時に大きな断絶がありますでしょ。今の若い人はそうなんですよ。オウム事件を知らない。歴史上の出来事ですわ。生まれる前にこういうことがあったらしいと思っているんですね。

 そうなるとどうなるかといったら、今のオウムはアレフという教団名になっていますけど、アレフは「我々はそんなことやっていなかった」と主張しているんですよ。信者に対してはね。オウム真理教がこういった犯罪をしたことを知らない人が多いので、無邪気に信じて入っていく人が後を絶たないんですわ。

 なんでこんな教団に入る人がいるのか、みんな不思議に思います。これもいろいろあるんですよね。麻原彰晃が死刑を執行されたのが去年の7月ですね。その時、いろんなテレビ局とか新聞社が私のところに取材に来ました。アレフの脱会支援やっている人は全国でも数えるほどしかいないんですね。だから、取材がいっぱい来ました。彼らはみんな同じことを聞くんですよ。「なんでこんな事件を起こした教団に入っていく人がいるんですか」って。

 その時にね、ある新聞の記者が「オウムがこういう事件を起こしたということをアレフは否定しているそうです。信者に対しては、陰謀だ、でっち上げだといってるらしいです。そんなことを若者が本当に信ずるもんなんですか」と、こう聞くわけですよ。

 でもね、南京事件があるでしょ。南京大虐殺といったりしますよね。ところが、その新聞は「あんなことなかった」と主張してるんですよ。そういうことをいっている人は結構いるわけでしょ。

 みなさんの中にもひょっとしておられたりしますか。いらっしゃってもいいんだけど、南京事件をちゃんと自分で取材をして、文献をあたって研究した、そういう学者で、南京事件がなかったといってる人はこの世に一人もいません。知ってました?

 もうバリバリの右翼で、バリバリの国粋主義で、バリバリの保守的な人で、産経新聞の「正論」とかに書くような人でも、ちゃんと南京事件を調べて研究した人で「南京事件はなかった」といってる人は、ただの一人もいません。

 何人殺されたかということはいろんな議論があります。1万人ぐらいとする人もいます。2~3万という人もいます。10万人くらいと考える人もいます。大きい人数では50万人が殺されたと主張してる人もいます。殺された人数は大きな開きがありますけども、虐殺そのものがなかったといっている研究者は一人もいません。いたら教えてください。いないはずです。散々調べましたんで。

 でも、「南京事件がなかった」という証拠はいっぱいあるんですよ。「なかった」といっている人が出してくるわけです。その証拠が嘘っぱちかといったら本当のものもあるんですよ。だからね、なかった証拠だけを見たならば、なかったことにするのは簡単なんです。でも、あった証拠はもっといっぱいあるんです。

 オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたんじゃない、と見える事象もいっぱいあるんです。そういうものだけを集めて、「事件はなかった」といいくるめて信じさせることはそんなに難しくないんですよ。

 陰謀論というのがあるでしょ。有名なところでいうとね、フリーメーソンやユダヤ人の陰謀とか、アメリカはアポロ号を月に着陸させてないんだとかね、そういう陰謀論があります。福島では原発事故の放射線で千人くらい死んでいるけど政府が隠しているんだとか。そういうのを僕らは簡単に信じてしまうんです。これよく知っておいてくださいね。「私はそんなものにだまされない」と思っていたら大間違いですよ。信じ込ませることなんか簡単にできるんです。

 3 オウム真理教
① マスコミ
 麻原彰晃はテレビとかによく出てたんですよ。この写真で、麻原彰晃がソファーの上に座って人生相談してるでしょ。横にいるのはとんねるずですわ。ビートたけしも麻原彰晃と対談をしていますしね、「朝まで生テレビ」で田原総一朗さんが対談しています。

 田原総一朗さんは地下鉄サリン事件のずいぶん後に、「オウムは本物の宗教だと思った」と書いているんですよ。そういうこというたら袋叩きに遭いますから、その時にはいえなかったらしいんだけど、そんなことを田原さん、書いてるんですよ。なぜそう思ったかといったら、「信者が教えのために命を差し出し、犯罪者になることも厭わないような、そういう宗教こそが本物だといえるんじゃないか」といった。

 今の伝統教団、東西本願寺なんかで、教えのために命を捧げる人なんておらんでしょ。みなさん、真宗をやめなかったら殺されるとなったらどうします? やめるでしょ。だからね、田原さんは「これこそが本物の宗教といえるんじゃないかと思った」と書いている。

② ダライ・ラマ
 私もね、オウム真理教とは長いつき合いなんですわ。十何年、研究したり、信者と対話していますけれども、知れば知るほどわかからなくなります。

 みんなね、こういう事件が起こると、「こういう事件を起こした人たちは私と違うんだ」と思いたいんですよ。だから、オウム真理教の事件が起きた時にね、仏教界は何をしたかといったなら、「オウムは仏教ではないし、宗教でもない。だから、宗教に偏見を持たないでください。あんなのは宗教ではありません」ということをいい続けたんですよ。

 ところがね、長いことオウムの問題に取り組んでみると、本当にわからなくなります。ほんとは「オウムはインチキな団体なのに、みんなだまされたんだ」といいたいんです。だけど、知れば知るほどいえなくなったんですね。

 ダライ・ラマはこんなこといっていますよ。「麻原彰晃は能力のある宗教的指導者であり、オウム真理教は大乗仏教を広める公共の善を促す宗教だ」と。これはね、なんでこんなこといったかというと、東京都がオウム真理教を宗教法人として認証するかどうかでもめたことがあったんです。結局、オウム真理教は宗教法人として認定されているんですけれども、その時に、ダライ・ラマは「この人と教団は間違いありません」という書簡を東京都に送っているんです。この写真ではダライ・ラマが麻原彰晃と手を握ってるでしょ。

 サリン事件が起きた時にね、日本のテレビクルーがダライ・ラマに取材を申し込んだんですよ。「ああいう事件を起こす教団だという認識はありましたか」と質問したら、「その時はわからなかったんです」というふうにダライ・ラマは正直に答えています。でもね、オウム真理教からもらったお布施をダライ・ラマはサリン事件の被害者のために1円も使っていないんですよ。

 念仏宗無量寿寺という、これも問題のある宗教団体があって、日本で仏教サミットを開いたんです。第一回目に招待されたのがダライ・ラマです。2億円のお金が流れたと報道されました。

 このことで何がわかるかといったらね、その教団がインチキであり、カルトであるということは、これだけの宗教指導者でもそんな簡単にはわからないってことなんですよ。後から振り返ってみれば怪しいところはたくさん出てきますけど、宗教ってのはそもそも私達の常識を超えたものを説くわけですから、宗教家ほどそうしたことがわからないのかもしれません。最初にオウムの危険性を報道し始めたのはサンデー毎日という週刊誌でしたが、ダライ・ラマより週刊誌のほうが、ずっとオウムについてまともな感覚を持っていたと言えるかもしれません。

③ 麻原彰晃の魅力
 まず一つは、麻原彰晃という人はおそらく人間的な魅力があったんだろうと思います。僕は麻原彰晃の説教テープを40時間くらい聞いています。CDとかDVDもね。脱会した信者がくれるんです。そういうのをかなり聞きましたよ。テレビで麻原にインタビューしたものとかビートたけしと対談したのを見たし、「朝まで生テレビ」も全部見たし。非常にいい話をしてますね。

 あのね、オウム真理教の戒律のテキストがあるんですよ。けっこう膨大です。そのテキスト、麻原がどんな無茶なことを信者にいっているのかとか思って読み始めたんですよ。ところがね、オウム真理教にも戒律があるんですよね。たとえば、虫を殺してはならないとか肉を食べてはならないとか、こういうことやってはならない、ああいうことやってはならないと、戒律にあるわけです。

 でも、日常生活を送る中で、それを完璧に守っていくのは不可能です。だから、いろんな信者が麻原彰晃に質問しているんです。「私はこういう職業をしていますけれども、この戒律が守れません。どうしたらいいでしょうか」と質問する。麻原彰晃は「できればその仕事を辞めて転職したほうがいいかもしれない。今すぐ転職できないんだったら、こうこうこういうことを心がけて、こうやっていきなさい」と。それで「私はこれもできないんですけど、どうしたらいいでしょうか」とさらに質問すると、「あなたにとってこれができないのは仕方ないから、だからこうこうこう心がけて、こちらをやるようにしなさい」とかいってね、一人ひとりに懇切丁寧に教えているんですよ。

 ちょうどその前にね、法然上人の問答集を読んだんですよね。遊女が法然上人に「私はこういう職業をしていますけれども、こんな私でもお念仏で救われますでしょうか」と聞いたら、「できればおやめになったほうがいいけれど、おやめになれないんだったなら、その職業をしたままでお念仏しなさい」といってる。

 オウム真理教ではヨガの修行によって、信者がいわゆる神秘体験をすることがあった。麻原自身にも当初はそういうところまで人を導く力があったようです。ところがね、途中からLSDとかの薬物や、ヘッドギアといったもので疑似的な宗教体験をさせる方向に大きく転換していきますよね。そこからはオウムは名実ともにインチキ集団に転落していきますが、その前に麻原がした説教とか法話は、結構、心打つようなこといっていますよ。よくよく考えてみたらね、これ当たり前のことなんです。

 麻原のもとに集ったオウム真理教の幹部たち、ほとんどが国公立や私立の有名大学の理系なんですよ。東大医学部、東大理学部とか。こういった人たちね、アホやったかといったら、アホなわけないでしょ。オウムの事件が起きた後、こういう頭のいい人がなんで入ったかってことが問題になった時にね、彼らはお勉強はできたけれども、人生のことをあんまり考えていなかったんだとかね、アニメばっかり見ててSFの世界に閉じこもっていたんだとか、そんなことみんないってたんですよ。

 でもね、こういう人たちの手記をいろいろ読んで何がわかるかといったなら、哲学書とか文学書もいっぱい読んでいて、人生のことを真剣に考えていたということがわかる。じゃなかったら、オウム真理教に自分の財産全部なげうって、出家して修行なんかしようとしますか。しないでしょ。ちゃらんぽらんで、人生のことなんも考えなくて、ペーパーテストだけできて、SFばっかり見とった人たちが、自分の家族も財産も何もかもなげうって出家しますか。せんでしょ。

④ 生きがい
 私のところに相談に来た人の話もいろいろ聞いてきました。ある信者は大学に入って、ボランティアサークルに入ったんですよ。人を助け、人を救っていくことが、自分の人生の一番大事なことだと思って、懸命にボランティアにはげんだんですわ。ところが、あることをきっかけに、自分が一生懸命やったことが本当に人を救う結果になっているんだろうかと疑問に思ったんです。

 これは我々でも疑問に思うことあるでしょ。人のためにと思ってやったことが、裏目に出て、その人を苦しめるとかいくらでもある。その信者の話は具体的にはできませんけれども、彼は人間が人を救うにはどうしたらいいかを考えるうちに、救われない私というものに気づいていきます。

 これは、親鸞聖人が『歎異抄』の第4章でおっしゃった課題とまったく一緒なんです。「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」と書いてあるところです。あそこの問題提起と一緒なんですよ。それでね、彼女、悩みに悩んで、自分が本当に救われる教えを求め、結局アレフに入っていくんです。

 中川智正元死刑囚は、人を助けようと医学部に入学し、ボランティアサークルに入って、老人介護施設でみんなが一番嫌がるような入浴のボランティアを一生懸命やっていた人だと言われます。

 林郁夫さんもお医者さん。この人も人を救いたいと思って心臓外科のお医者さんになったけども、医学は人の命を延ばすことはできても、命そのものを救うことはできないということに気づいた。こういうことに悩んで、結局オウムに入っていくんです。救おうと思った私が救われないという事実に気づいて、道を求めていくんです。

 そういう人たちなんですよ。オウムに入るような人は、アニメばっかり見てたりとか、ペーパーテストでいい成績とっても人生のことをまるで考えていない人とか、そんなのではないんです。そういう真面目な人たちを惹きつける何かが、オウムや麻原にあったということでしょ。普通はサリン事件を起こしたり、信者をリンチして殺したり、坂本弁護士一家を殺害したりというオウムの姿しか知らないので、なんであんなところに間違って入ったんだと思ってしまいますが、それだけでは入らないんですよ。

 だから、彼らはなんでああいうことを起こしたか、なんで地下鉄でサリンまけたかといったら、それが人を救うことになると思ってたからなんですよ。じゃなかったら逆にまけないんですよ。

 この前、そんな話をしたら、70代くらいのおっちゃんがね、げらげら笑いながら、「そんな馬鹿なことはないだろう」といってたよ。馬鹿なことだと笑いたくなる気持ちは私だってわかる。わかるけど、正義に迷って、正義のために人の命を殺めるということは、オウムに限らず、人類がその歴史のなかで限りなく繰り返してきたことです。

 ある著名な宗教研究者は「オウムは特異な集団に見えるが、むしろ仏教の伝統を正しく受け継いでいる」といってます。もちろんこれは一連の事件が発覚する前の発言ですが。我々は思うんですよ、「オウムが仏教の伝統を正しく受け継いでいるなんて、そんなばかなことあるか」とか、「仏教の伝統はこういうところにあるはずがない。この別院が仏教の伝統だ」と、みなさん思うでしょ。でもね、普通に仏教の勉強したら、どっちかといったら浄土真宗のほうが亜流かもしれないんですよ。そんなこといったら、みんな、そんなバカなって顔するんですけど。

⑤ 戒律
 アレフを脱会した信者がうちの寺に来たことが何回かあります。6月の終わりくらいだったかな、暑い日だったんですよ。本堂に蚊がブーンと入ってきて、その信者の手にとまったんですね。僕はその蚊をね、パンって叩いたんです。そしたら蚊が死ぬでしょ。それを見てた彼は僕のほうをにらんで、「瓜生さん、なんてことするんですか」というんですよ。
「坊さんがお御堂で生き物殺してもいいんですか」
 すごく怒られましたね。

 お寺にゴキブリいたらどうしますか。住職さんが「ちょっとお待ちください」といって、スリッパ持ってきて、バンバンとやって、「うわ、絨毯ちょっと汚れちゃった。あかんな」とかいいながら、広告のチラシで死んだゴキブリをつかんで、ごみ箱にポイして、「失礼いたしました」とやるじゃない。そして、「いのちみな生きらるべし」なんて言っている。僕らはそういう宗教の中で育ってきた。清潔で都合の悪いものは排除された、綺麗事の世界です。オウムの道場にはゴキブリとかハエがいっぱいいたんですよ。なぜかというと、殺生禁じられていたから。これは一体どちらのほうが仏教としてまともなのか。おそらくお釈迦様の時代の道場なんかはゴキブリもハエもたくさんいたでしょう。

 僕らなんかね、いい車に乗ってですよ、髪の毛も伸ばしたい放題で、酒は飲むし、財産も持ってね、おまけに結婚もしてさ、子供が代々お寺を継いでくわけですよ。これ、世界の仏教の流れからすると、かなり特殊です。そして、先祖供養してるわけでしょ。真宗は先祖供養をしないといっているけど、事実上してるじゃない。そういうようなことで仏教を成り立たせているわけでしょ。

 そりゃね、宗教を研究している人から見たならば、生死の解決を求めたいと思って発心して、全財産なげうって出家し、サマナ服を着て一日中修行している人たちのほうが、仏教の伝統を正しく受け継いでいるというふうに見えても仕方ないのではないですか。この人はオウムを擁護したとして後日随分と批判を受けましたが、当時はその人だけでなくて、何人もの思想家や哲学者や宗教学者が、オウムを評価する発言をしていたんですよ。

⑥ 何が正しいのか
 新宗教、特にカルト教団というのを我々がどう思うかというとね、彼らは表面的にインチキじゃないかと思うんですよ。ところが、それは既成教団の僧侶であり信者である私たちだから思うことであって、本当に教えを求めている人にとっては、カルト教団のほうが表面はまともに見えることがあるんです。

 逆にいうたらね、本当に教えを求めている人から見たら、伝統教団は表面的にインチキに見えるんですよ。なんでかといったらね、「ご先祖様は大事ですよ。お墓も仏壇も大事にしましょう。なまんだぶ」「極楽に行けてよかったね。ありがたいね」ということは、今、私が救われたいと思っている人からは、ただの気休めに見えるんです。

 ある新宗教の信者さんと対話しているときに、「教祖を拝むのっておかしくないですか?」って言ったら、「瓜生さん、あなた方だって親鸞聖人の木像をみんなで拝んでいるじゃないですか」と言われたことがあります。親鸞聖人の教えの中にね、俺の像を作って拝めという教えがあったかというと、そりゃ絶対ないよ。親鸞聖人が本願寺を見たら仰天しますよ。極めて威圧的で権威主義的な二重屋根のでっかいのを莫大なお金を使って建てて。しかも、そこに教祖さんの姿に似せて作った木像を置いて、みんなで「なんまんだぶ」とやってるんだよ。大体インチキ臭い宗教ほど豪華絢爛たる巨大建築物を作りたがるでしょうがね。つまりどう考えてもインチキ臭いものを、800年の歴史の中で、これで間違いないんだとしてきたのが浄土真宗。なまじっか歴史があるもんだから見えにくくなっているだけで、外見からいったら実にインチキ臭いんです。

 でも、その中を分け入ったならば、2500年前のお釈迦さまの教えがしっかりと息づいているんですよ。ちゃんとお釈迦さまが一番伝えたかった人生の課題がしっかり残っている。だから、浄土真宗は仏教たりうるんですよ。

 ところがオウム真理教というのは、表面的なところが本物っぽいんですよ。この違い、逆だと思っていませんでした? 「オウム真理教は外も中もインチキ臭い。だけど、我々は表面も中身もちゃんとしている」と思っているでしょ。それは私達の視点です。本当に救いを求めている人からみると、それが逆になってしまうわけです。

 どんな宗教でも必ずいろんな問題はあります。ある大都会の浄土真宗の別院は、新しい人いっぱい呼ばなきゃならないというので、夏になるとね、ビアホールをやっているんですよ。みんなでガンガン酒飲んでいるわけです。本当に仏教の教えを求め、救われたいと思っている人はね、お寺をビアホールにして酒飲んでいるようなところに行かないです。サマナ服を着て、生死の問題を解決をしようと思って修行をしっかりしている、そういう人が集っているところに行っちゃうんです。当たり前ですよね。大学に本気で合格したい人は、予備校をビアホールにしますと宣伝しているところには行きません。ここに入ると勉強できると思えるところに行くんです。

 だから、オウムを出た人がね、「お寺は風景でしかなかった」といってたでしょ。「風景に過ぎなかった」というのは、「気休めだとしか思えなかった」といってるんですよ。「ここには本当のものがないと思った」といってるんです。

 こういうのを僕は脱会支援の現場でたくさん見てきました。本当にまじめでね、人生の問題の解決を求め、ひたすら答えを知りたいと考えている人がオウムにたくさん入っていったという事実があったわけです。そういう思いを彼らは持っていたっていうことなんですね。

 これがカルト宗教のものすごく大きな問題なんですよ。インチキ臭いやつらがインチキをするんだったら何も怖くありません。ただのインチキだからです。インチキ臭くないように見えて、その核の中にね、我々が持っているような問いと同じ問いを持っている人たちがああいった事件を起こすから、カルトは怖いんです。

⑦ アレフのテキスト
 アレフで使われているテキストがあります。『ベーシックダルマ』なんて仏教のテキストありますけどね、何が書いてあるかいったら、みなさんが所属するお寺のご住職さんが、たとえば大谷大学とかの仏教学科で学んできた仏教の基礎的なことが書いてあります。非常にわかりやすいです。それとね、お経はもともとパーリ語で書かれたものが多いんです。パーリ語の諸経典を現代語に翻訳する作業を、オウム真理教は地道にやってきていたというのもあります。

 そこに書いてある用語は、僕らがよく知っている普通の仏教用語とだいぶ違うんですよ。たとえば無間地獄。インドの言葉を漢字に当てはめて阿鼻地獄ともいいますね。無間地獄をオウム真理教では激苦(げっく)地獄と訳してるんですよ。直接、パーリ語の経典から翻訳したものだから、今までの言葉にとらわれない訳なんだね。それじゃわかんないだろってんで、私たちが普段使っている仏教の言葉と彼らの翻訳の対照表まであります。

 去年の5月だったかな、オウム家族の会といって、家族がオウム真理教に入った人の会があるんですけど、そこで講演を頼まれて、オウムの家族の方を前にこういう話をしたんですよ。「普段、ほかのところではいいにくいんですけれども、オウムの教義はかなり深いところまで考えられたと思います」といったの。テレビ局なんかではなかなかそんなことはいえないです。オウムのしてきた犯罪を認めるのか、みたいな話にどうしてもなっちゃいますからね。

 そしたら、家族の会の方たちから「そういう話を聞きたかったんだ」といわれました。「みんな、オウムがいかにインチキだとか、そんな話ばっかりするんだけれども、そんな最初から100%インチキなところに自分たちの子供が入るわけないと思うんです」といわれました。本当にその通りだと思いますね。

 4 正しさ
 私たちは、あの新宗教はこういうところがインチキだと考えて、自分を正しいものにしたんですね。「俺たちの大谷派は大丈夫だけども、あそこのあの宗教はこういうところがインチキだよね」と、みんなで笑い合ったりするんですね。

 でも、それはあんまりよくないと思いますよ。そういうことするとね、ますます正しさというものに依存していく私ができてくるばっかりなんです。私が親鸞会いた時ね、「親鸞会以外の宗教は全部間違っててインチキだ」という話を聞かされていましたけれども、大谷派が似たようなことしたら駄目ですわ。

 どちらかというと、オウムがなんでインチキかということを見ていくよりかは、むしろ、こういうところになんであれだけたくさんの人たちが惹かれていって入信したのか、ただのインチキではなく、真面目な人を引きつける何かがあるのではないか、を知っていくことのほうが大事だと思いますね。

 さっきもいったように、オウムに入った人たちは人生の問いへの答えを求めていました。問いには答えがあるでしょ。オウムはその答えがインチキだったんです。最終的に彼らは、ハルマゲドンが来ると言って武装して国家を転覆させて、麻原を中心とした宗教国家を作ろうとした。どうしても私達はそういうところだけを見てしまう。でも、答えを求めた人たちが持っていた問い自体は我々とまったく変わりません。むしろ、私たちよりも純粋で、私たちよりも真摯でした。もちろん、お釈迦様とか親鸞聖人が持ってらっしゃった問いとも変わりません。

 こういうこともあります。元死刑囚の新実智光は、地下鉄でサリンをまいたことについて、「一殺多生」といってた。一人の人間を殺すことでたくさんの人を生かすことができるという考えなんです。「地下鉄で人を殺すことによって、多くの方が結果的に救われるんだったらいいんだ」と、新実智光は死刑を執行される直前まで考えを変えなかったんですね。

 この一殺多生という言葉ね、もともと誰が使い始めた言葉かといったら、我々真宗教団を始めとする伝統仏教教団です。日清・日露戦争の前から使われるようになりました。日本が勃興していって、周辺の国との緊張が高まってきて、そういう時に、お寺の中で読経して、そして「阿弥陀様のお救いはありがたいですね」なんてこというだけでいいのか、社会に対してもっと役に立つ存在でなければならないんじゃないかという、そんな流れが出てくるわけですよ。

 そういう時勢に、私たちも国に協力しなければならないとなってくる。「戦争に協力するというのはお釈迦様の教えに反するんじゃないか」という人も出てくるんです。当然ですよね。そうはいっても、戦争に協力することでキリスト教文化の侵入を防ぎ、大乗仏教の教えがアジアに広まっていくんだったら、それは仏さまの御心に叶うんじゃないかという考えの中で出てきたのが、一殺多生という言葉なんです。

 昭和の時代になって、また戦争になって、そのころのお説教の記録を見てると、やはり真宗のお坊さんが一殺多生という言葉をいっぱい使っていますね。これ不思議だね。

 お寺ではね、人間は役に立つ存在であることだけが価値じゃない、生きているだけで尊いんだみたいなこというじゃない。ところが、お寺とか教団はね、必死になって社会の役に立つ存在になろうとするんだわ。これは一つの矛盾だね。

 だからね、世の中が変わったら、また似たようなこといい始めますよ。今は戦争反対というふうに宗派はやっていますけれどもね、世の中が変わっていって、自分たちの大事な人が戦争で殺されたりとかね、国家の存亡とか社会の存亡となってきたならば、いろんな理屈をつけてたぶん同じことをいい始めます。これが人間の集まりというもんなんです。オウムもそうだし、我々もそうだってことなんです。

 だから、「私たちはこういう問題とまったく無縁で、あれはとち狂った人間がやったおかしなことで、私たちとは関係ない」と思ってたら、それは大きな間違いであって、我々もそういうことをいっぱいやってきている。特に一向一揆なんかはそうです。

 東本願寺を始めた教如上人の400回忌だったっけ、あの時にね、「一向一揆は教えを守るための正義の戦いだった」みたいなこといってるじゃない。「正義の戦争なんかない」といっている大谷派がね、「あれは正しかった」といってるわけでしょ。おかしいなと思ったけども。

 一向一揆はもともと何から始まっているかといったならばね、加賀一向一揆なんて本願寺の門徒衆と高田派の門徒衆の勢力争いから起きたんですよ。親鸞聖人の教えを求める人たちが勢力争いをして、そこから守護大名の兄弟ゲンカに乗じて両方の教団が殺し合いをやった、というのが加賀一向一揆の始まりなんです。

 一向一揆は権力に対して抵抗して歯向かったというじゃない。あれも全部がそうだというわけではない。その時その時で力のある大名とか豪族に引っついては離れをしてるんですわ。だから、信長に引っついた時もあったし、信長を裏切ったこともあったんですよ。その裏切りがあったから、信長は伊勢の長島で何万もの門徒を殺したんです。当時の慣習に従って、一揆の門徒衆も町に攻め入ったら、強姦したりとか略奪したりしてるんですよ。我々だけが正しくて、そういうことをしなかったんだなんてのは完璧な間違いですよ。

 5 カルトに入る人たち
 オウム真理教の人たちはあの事件を、もちろん躊躇とか逡巡はあったにせよ、基本的には間違いないと思ってやったわけです。このことで何を知らされるかといったら、人間のやることに間違いのないことなんか一つもないということです。こういうことをオウム真理教の問題は教えてくれるんですよ。

 ある大谷派の先生の人がね、「彼らが私たちの教えに最初からあっていれば、オウムに迷うことはなかったでしょう」とかいってたんですよ。そんなのはうぬぼれですよ。あなた自身が彼らのように道を求めたことがあるのかって思う。彼らが何を求めて宗教に行ったのかということについて無関心すぎると思います。

 アレフが勧誘しているインターネットのサイトがあるんですよ。「新しいボランティアの形」とかいうでしょ。ボランティアをやる人とこういう教団とは親和性が高いんですわ。なぜかといったらね、ボランティアをやる人は一生懸命生きたいと思っている人でしょ。いい加減な人じゃない。

 あのね、こういう教団に入る人はね、いい加減な人は入らないんです。私ね、親鸞会という教団にいましたけれども、親鸞会の話をする時、だいたい教務所長さんとかが前に座ってるんだね。そして、「私たちが一生懸命に教化したならば、親鸞会に入る人はいなくなります」というんですよ。そんなわけないんだね。親鸞会に入る人というのはね、お寺で仏教を熱心に聞いている人です。仏教を聞きたいって思っている人じゃなかったら絶対に行きません。

 みなさん、親鸞会のチラシとか見たことあるかいな。新聞折込で入ってたりするのよ。「正信偈の講座やります」とか。ご門徒さんに法座に参詣しないかって一生懸命にお誘いしてもなかなか来られないのに、新聞にチラシが入っとっただけで、電車に乗って聞きに行くわけでしょう。そら熱心な人に決まっとるやんか。

 だからね、どういう人が親鸞会に行くかといったら、ここに来ているみなさんのような人が行くんですよ。みなさんは義理で来とるわけじゃないでしょ。お寺の法座だけじゃなくて、別院の研修会に来るいうたらね、教えを聞きたいって思いのある人でしょう。そういう人が入るのよ。

 まじめで、ちゃんと教えを求めてて、座談なんかもしっかりやって、住職さんが「ご本山に行きませんか」といったら、本山の奉仕団にも参加するような人が親鸞会にも行くの。まじめで求めてる人が行くんです。最初から仏教になんも興味ない人で親鸞会に来とる人なんてほとんどおらんよ。

 親鸞会に来とる人で比較的多いのはお寺の総代さんですわ。みなさん、この中で総代さんいてはる? 総代さん、選挙で決まるんと違います? でも、総代に推される人は責任感強くて、それなりに一生懸命にやってた人じゃないですか。

 その時にね、住職さんに「わし、総代になったけど、仏教のことわからんから、できれば毎月、お正信偈の講座とかしてもらえんやろか」と頼むわけ。ところが、住職さんは「予算もないし、僕も話できるわけじゃないし」とか言って消極的だったりするわけです。

 そんな時に新聞にチラシが入っていて、「『正信偈』の心を学びませんか」とか書いてあるわけですよ。それで、「ちょうどいい時にちょうどいいもんがあった。行ってみようか」となる。だから、オウムに入る人も、ちゃらんぽらんでいい加減な人はいません。そんなもんオウムなんか入りゃしません。いい加減な気持ちで入ってやっていけるようなところではないです。

 あのね、高橋英利という人がいてね、オウムの信者さんだったんですけれども、信州大学の理学部出で天文学やっていたんですよ。松本に大きな電波天文台があってね、その電波望遠鏡を使って宇宙のことを調べてた。なんでそんなことをしたかといったら、宇宙のことを調べることで、私がなぜここにいて、私が何のために生きているのかわかるんじゃないかと思ったんだって。

 それで一生懸命天文学やったんだけど、どれだけ銀河のこととか宇宙のこととか素粒子のこととかわかったとしても、私がなぜここにいて、なんで私がこの場で生きて死んでいくのか、それがわからんかったといってたんですよ。それで悩んでいた時に、大学でアーナンダこと井上嘉浩さんに会って、そこでオウムに入っていくんですよ。上祐さんなんかもね、宇宙開発事業団にいたんですよね。ああいう人が多いんですよ。なんかの問いを持って、それを求めていった時に、人間の知恵ではわからんものがあるということに気づいて、そこでオウムに触れていくんです。

 僕らと何が違うんだ。一緒じゃないですか。みなさん、違いますか。のんきに生きてる? 求めてることは一緒でしょ。私はいずれ死ななきゃならんのに、なぜこの世をこうやって生きていかなきゃならんのか。そうでしょ、

 親鸞聖人も同じ問いでしょ。親鸞聖人がなんで比叡山に上って仏道を求めたかといったら、「生死出ずべき道を求めて」とおっしゃったでしょ。「生死」というのは、生まれた私が必ず死んでいくという、この大矛盾です。そうやって真実を知らずに迷っている私が、この迷いをどうやって抜け出るかということを求めて、親鸞聖人は比叡山に上られたわけでしょ。あれ、遊びで行ったんじゃないですよ。そういうようなことを求めている。だから一緒だってことです。

 そこで、「私たちは本気でこういうのを求めています」というのを提供していたのがオウム真理教だったということなの。提供してたというか、一見提供しているように見えたと、いったほうがいいかもしれませんね。中にいた人たちはみんな真剣だった。

 もちろんね、いろいろ矛盾はあるよ。だって、さっきオウムは殺生しないという話をしたけど、麻原彰晃は焼き肉とかいくら丼とかが大好物でね、ファミレスでぼりぼり食べていたらしいですからね。

 5 正しさ依存
① 正しさ
 カルトというのは正しさ依存なんです。アルコール依存とかあるでしょ。ニコチン依存とか買い物依存とか。人間はさまざまなものに依存して生きるんですわ。程度の問題はあっても、何かに依存をしてない人は一人もいません。

 その中でカルトは何に対しての依存かといったならば、「正しさ」への依存なんですよ。具体的にどういうことかといったら、我々は生きてるかぎり正しくなろうとするんです。これは親鸞聖人の言葉でいうたら、「信罪福」とおっしゃってますけどね、善人になろう、人生を正しく生きようとするんですね。

 正しく生きるというのを大谷派的ないい方でいうならば、「この人生をうなずいて生きる」とかそういうやつですわ。生きてるかぎりは、私の人生は間違っていなかったといいたいんです。これは我々の誰でも持っている心だと思うんですね。善人になろうとする。正しく生きようとするんです。

 ところが、じゃあ、どうやって生きたら正しい人生を送れるのかということを私たちは誰も知りません。みなさんだったら知ってますか。わからんでしょ。暗闇を生きるような人生です。どっちに向かっていけばいいかさっぱりわかりません。この人と結婚したのがよかったのかわかりません。この会社に入ったのがよかったどうかもわかりません。なぜかといったら、私たちは複数の人生を同時に生きることできませんからね。

 ということは、僕らは自分が生きた人生が正しいか間違いかという尺度を一つも持っていないんですよ。よかったと思い込むことはできたとしても、それが本当によかったかはわかりません。ここまでわかりますか。

② 善悪
 そういう中で私たちは何がよくて、何が間違っているのか、わからない中を生きています。これは浄土真宗もそうです。親鸞聖人は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」、何がよくて何が間違っているか、そういうこと一つもわからないといっています。

 これ、お説教とか聞いたり教えを学んだりするとね、たまに「親鸞聖人の教えはこうだから正しくて、こう生きるのが正しいんだ」というふうになっちゃう人がいます。これは聞き違いだと思います。

 浄土真宗の教えというのは、聞けば聞くほど何がよくて何が悪いのか、何が正しくて何が間違っているのか、わからなくなります。逆にいうたら、お聴聞というのは、聞いて、正しいものをこしらえてく場じゃなくて、私らがこしらえていった正しさというものを壊していくのがお聴聞です。これは池田勇諦さんという先生が「浄土真宗の教えは聞いて信心をこしらえていく教えじゃなくて、私がこしらえた信心を壊していただくのが浄土真宗の教えだ」といういい方をよくされます。これはまったくその通りだと私は思いますね。

 ただ、私たちはそういうのに耐えられるほど強くないんです、実際のところは。となると、「これが正しい教えです」とか「これがあなたの正しい人生です」といわれたら、そっちに行くんですわ。そして、たとえば拝み屋さんなんかに、「あなた、こういうことするのが正しいのよ」といわれて、そっちのほうに向かっていったほうが人間ははるかに楽に生きれるんです。これを正しさ依存といいます。

③ 拝み屋さんの論理
 そして、指示されて従った正しさというのはなかなか否定できないんです。なぜなら、さっきもいいましたけれども、私たちは自分が歩んだ道が正しかったかどうかということを自分で判断することができないからなんです。

 これをわかりやすいたとえばなしでいうたらね、みなさん、車買うた時にね、どうでしょう、お祓い受けます? みなさんはご門徒さんだからされないと思いますけども、仮にどこかの拝み屋さんに行ってお祓い受けるとしますよ。交通安全のステッカー貼ったと。「ありがとうございます。これで交通安全ですね」といって帰ろうとしたらね、横から車が出てガシャーンとぶつかったと。「なんや、お祓い受けた後に事故やんか」と思って、その拝み屋さんに駆け込んだとします。「あんたのせいでこんな事故に遭った。お祓い受けなかったらこんな事故に遭うこともなかったぞ」と文句いったらね、その拝み屋さんはこういうんですわ。

「その事故、どんな事故やったんですか」
「横からぶつけられた」
「それはよかったですね。お祓い受けて」
「何がよかったんや」
「だってそうでしょ。ここでお祓い受けて、ちょっとでも早くても、ちょっとでも遅くても遭わんかった。ということは、その事故に遭うよほどの因縁があったんです。なのに、そういう事故に遭っても、あなた自身はぴんぴんしてるということは、その因縁を跳ね返すだけの功徳がこのお祓いにあったってことなんですよ」
「なるほど、そういうことでしたか。ありがとうございます。」

 わかるでしょ。これが正しさ依存なんです。ちょっと極端なケースを話しましたけど、つまりは私の人生の行く末とか方向性というものを、あとからちゃんと正しくしてくれるんですね。これは楽なの。楽だからなかなか抜けられないんですね。これがカルトの提供するものなんですわ。なんで抜けられなのかといったらね、正しさ依存があるからなんですね。

 6 ナチスのユダヤ人虐殺
 カルトの研究に非常に大きな影響を与えたきっかけは、ヒトラーとナチスドイツの一連の犯罪なんです。最近NHKで、ヒトラーの演説を聞いた人たち、もう90近いんだけど、そういう人たちにインタビューする企画があったんだけど、「我々にとってヒトラーは希望であり、神でした」といってる。すごい力強さがあって、人を酔わせるような人物だったんでしょうね。

 ナチスは500万人から600万人のユダヤ人を殺したといわれている。それだけの人は、国家をあげてやらないと殺せないですよ。相当システマチックにいろんなものを整備してやらなければできないでしょ。第二次世界大戦で亡くなった日本人だけみても軍人と民間人を合わせて約300万人ですよ。最新の研究だと、600万人のユダヤ人を殺すのに、80万人のドイツ国民がかかわってて、その当時のドイツ人はほぼみんな虐殺が行われていることを知っていたのではないかと言われています。

 問題は、そういうことを知っていたんだったら、それに反対したり異議を唱える人がいなかったのかという話です。ところが、ほとんどいなかった。当時のドイツはそういう異議をいえるような状況じゃなかったのかといわれたら、実は障害者の虐殺に対する批判とかは結構あった。あったんだけど、ユダヤ人を殺すことについての批判は考えられないほど少なかった。

 80万人も関わったならば、その大半はごく普通の人でしょ。ユダヤ人の虐殺を主導した人にね、アドルフ・アイヒマンという人がいます。この人はナチスの敗戦とともにアルゼンチンに逃亡してたんだけど、イスラエルのモサドという特殊機関が捕まえて、イスラエルに彼を連行したんですよ。そして裁判をしたんです。

 裁判で、どんな極悪な人間が出てくるか、みんなドキドキしながら待っていたら、出てきたのはどこにでもいるようなおっさんやった。その人はね、家族を大事にしてて、奥さんの誕生日には花束を買って帰るような人だった。そういう人が裁判で、「なんでお前はこんな犯罪をしたんだ」と聞かれた時になんて答えたか。「上にいわれてやっただけです」と答えたんですよ。「私は上司の命令に従って責務を執行しただけです。なぜ私が裁かれなければならないんですか」といったんですよ。

 この裁判を見たハンナ・アーレントという哲学者は「悪の凡庸さ」と書いています。本当に恐ろしい悪は凡庸の中から生まれる。テレビや映画なんか見てると、悪人はいかにも悪そうな奴でしょ。人相が悪くてね。とんでもない陰謀を持っていて、そして猫を膝の上でなでたりしてる。

 ところが、悪とはそういうものじゃないと、アーレントはいっているんですよ。アイヒマンのような普通の人間がああいうことを平気でやってしまうことのほうが、よっぽど恐ろしいんだといってる。

 結局、アイヒマンはね、法律では裁けなかったんです。なぜなら、彼はドイツの当時の法律に従って忠実に責務を果たしただけだからです。じゃあ、どうしたかっていうと、人道に対する罪という新たな罪をこしらえて、アイヒマンが過去にやったことにさかのぼって適用させて、絞首刑にしたんです。

 「ユダヤ人を殺すのはいいことか、悪いことか」と聞くと、みんな「悪いことだ」と答えるんですよ。ところが、日本では韓国の人に対するヘイトスピーチがあるでしょ。「朝鮮人はいらない」とか「追い出せ」とか言ってる人たちがいる。ヨーロッパでは長い歴史のなかで、ユダヤ人に対してそれが言われ続けてきたんです。我々も何年も何年もずっと「あいつらを殺せ」といい続け、それを聞き続けていたら、ナチスのようなことをするということです。

 親鸞聖人のいわれた「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」ということはまさにこのことで、私たちは、まわりが善しとしていることが善となり、まわりが悪しといっていることが悪になる。恐ろしいことですが、それだけのことなんだってことです。

 7 何が真実か、私にはわからない
 当時のドイツ人たちはユダヤ人を殺すことを悪いと思ってなかったのか。多くの人は悪いと思ってなかったんですよ。そのことを解明するためにいろんな実験を心理学者がやったんです。実験で何がわかったかといったら、人間というものは普遍の正しさとか善悪の価値観を持っているというわけではなく、その時々のまわりの影響とかまわりの権威によって、その基準をいくらでも変えてしまうということがわかった。

 つまり、私たちがもしオウム真理教に入ってその中で暮らしてると、「地下鉄でサリンまけ」といわれたら、サリンをまく人間になるんだ、ということがわかった。「俺はそういうことはしない」とは決していえないということがわかったんです。

 たとえば、天動説です。地球のまわりを太陽や星が回っているという考え方ね。昔はそうだった。コペルニクスとかガリレオって人が出てきて、本当は地球が他の惑星と一緒に太陽のまわりを回っているんだというふうに考えを転換した。

 みなさん、ガリレオがいったように、地球が太陽のまわりをぐるぐる回っているんだと思っているでしょ。思ってるんだけど、自分で確かめたことある人いますか。いないでしょ。そう教えられているから、そう思っているだけでしょ。てことは、天動説が本当だと教えられたら、きっとそう信じてたんですよ。

 人を殺したり差別をするのは悪いことだと教わったから、そう思ってるだけのことでしょ。生まれた時から、人を差別しても構わないし、あいつらは劣った人種なんだというふうにずっと教わってたら、そう思い込んでいるんですよ。それだけのことだということが恐ろしいでしょ。

 だから、親鸞聖人が「善悪のふたつ総じてもって存知せざる」とおっしゃったのは本当にそうだと思いますよ。私の中には正しさとか真実とか、そういうものは一つもないんだということですよ。「浄土真宗に帰すれども真実のこころはありがたし」と親鸞聖人はおっしゃった。「ありがたし」というのはどうやってもありっこないってことなんだね。真実に触れたら何がわかるかといったら、それを真実と判断する心も智慧も、そして変わることのない善悪の判断も、そういったものは一つも生じようがない私だということがわかってくる。カルトの問題でわかるのはこういうことです。

 いいですか、「あの教団が間違っている。あそこはインチキで、大谷派は大丈夫なんだ」という話を聞きたいでしょうけど、それはまったく逆の話です。我々はどこまでも迷っていく人間であり、大谷派にいる私たちがそうじゃないとは言えないし、これからどれだけでも迷っていく人間だってことがわかる。

 だから、この研修会で、「あの教団はへんてこな教団なんだぜ」みたいなことが聞けると思ったら大間違いでした。そういう意味で、いろいろみんなで一緒に迷っていければなと思います。

 二 質疑応答
 休憩時間にいくつか質問をいただきました。一つひとつ答えていきたいと思います。

 1 地下鉄でサリンでまいた人は良心の咎めはなかったのか
 「地下鉄でサリンでまいた人は良心の咎めはなかったのか」という質問がありました。良心があったからまいたんですよ。新実智光さんなんかはね、「地下鉄でサリンをまいたら、自分は地獄に落ちなきゃならない」と思ったんだって。でも、あの人は「自分が地獄に落ちてでも、ここでサリンをまいて、みんなを救わなければならない」と思ってまいたそうです。この気持ちはね、我々にはそりゃわからないですよ。僕だってわかんない。

 映画なんか見ているとそういうのありますよね。全人類を救うために誰かを犠牲にしなきゃならないみたいなテーマの映画があるでしょ。主人公が葛藤しながら決断しますよね。ああいう気持ちは我々にもあるんだろうなと思いますね。だから、彼らは良心がとがめなかったのかといったら、むしろ良心を奮い立たしてサリンをまいたんだってことです。

 2 本物とインチキをどうやって見極めるのか
 「本物とインチキをどうやって見極めるんですか」という質問もありました。見極められないんですわ、私たちはね。これは非常に大きな問題で、私にそうやって本物とインチキとを見極める目があったならば、そもそも念仏の教えはいらないですよ。
 これは後でお話させていただきますけども、なぜ南無阿弥陀仏なのかといったら、本物とインチキというものを見極める心を私が持たないからです。逆にいったら、私がね、これが本物で、これがインチキだというふうに、そうやって自分の知恵で分別し始めたら、それ自体が全部インチキになっていくんですよ。ここが非常に難しいところで、あとで詳しくお話させていただきます。

 3 若い人が心配だ
 次に、「私は年取ったから大丈夫だが、若い人が心配だ」という、こういうことをいわれた方があったんだけど、カルトの問題は若い人の問題だというふうに勘違いしている人があまりに多いんです。これは違います。若い人がカルトに入りやすいかといったら、そんなことないんでね、60代半ばくらいからカルトに入る人は多いんですよ。

 そりゃ若い人が入るとね、親御さんが止めたりしてくれるんですけど、60代半ばの方がカルトに入っても止める人はあんまりいないと思ってください。だって、その人は分別のある大人なんですからね。ちゃんと社会の経験もあって、しっかりと働いてきて、いろんなことを分別する知恵もあると思われてる人でしょ。だから、まわりの人はそんなに止めないんですよ。そういう人がね、実はカルトを根底から支えていくんですわ。なぜかといったらね、お金を持っているからなんです。

 カルト宗教は壮大な伽藍とか建てたり、お金持ちに見えるでしょ。若い人だけ入っているんだったら、あんなもの絶対建ちはしないですよ。そりゃそうでしょ。だって、若い人に「百万出せ」といっても絶対出せないですから。お年寄りだったら「一千万出せ」といわれて持ってくる人いるわけですよ。日本の富の7割以上は60歳以上の方が持ってるそうですからね、もう圧倒的にお年寄りがお金を持っているんです。そういう人が財政的にカルトを支えていくんですよ。

 かえって息子さんとか娘さんは「最近、うちの親は生き生きとした。今まで引きこもり気味だったんだけども、よく外に出かけて行くし、いろんな人とどっか旅行にも行っているみたいで、なんか人生をエンジョイしているように見える。ほんとによかった」と思ってるんだよ。ところが、実際はカルトに入っていたんだね。

 これは新宗教にしたって、カルト宗教にしたって、それから大谷派にしたって、本願寺派にしたって、みんなそうです。教団を支えているのはみなさんの年代なんですよ。そうでしょ。違いますか。

 逆に、オウム真理教では、「出家する時にはテレホンカードの1枚に至るまで全部出しなさい」みたいなこといってたでしょ。なんであんな無茶なことをさせたかといったら、結局は若い人の入信に頼りすぎたんでしょうね。だから、そういう意味で強固な財政基盤は作れなかった。

 カルトに入っていく年代には偏りがあります。若い人だったら18~19歳。それから、ある程度広げたら23~24歳。ちょっと年配の人だと50代半ばとか60代半ば。

 なぜそういう年代かということなんですが、18歳とか23歳というのは、これは大学に入る時とか就職する時なんですね。大学に入る時になんでああいうのに惹かれていくかといったら、さっきオウムの話をした時に、東京大学の人とか早稲田、阪大とかの人が入るでしょ。ああいう人たちがなんで入るのかと思うかもしれませんけれども、ああいう方たちはものすごく努力するわけです。一生懸命受験勉強をして、そして大学に合格するわけでしょ。

 でね、人間、努力している時はそんなに迷わないんですよ。なぜかといったらね、目の前に確固たる目標があるからなんですわ。そういう時はね、ある意味、盲目なんですよ。目隠しされてるようなもんなんですね。「ここに向かって走れ」といわれて、目標に向かって走っている状況なんです。そういう時にはね、別にカルトに入らないです。

 ところが、合格して大学に入ると、間違いない目標だと思ってたものが失われるわけですね。大学に入るというのはそういうことでしょ。失われた時に、「俺は今まで何のためにこんなに一生懸命頑張ってきたんだろうか」とか、「私がほしかったものは本当にこれだったんだろうか」「そもそも私は何のためにこうやって努力し、頑張って生きていきたんだろうか」という疑問がふと生まれるんですわ。そういう時に勧誘されるとね、入るんです。

 じゃあね、50代半ばくらいは何かといったら、これ、女性の方が多いんです。50代半ば以上の方は思い出してほしいんですけど、どういう年代かといったら、子育てで無我夢中だったのが一段落するんですわ。子供が次々と成人して社会に出ていって、そして最後の子が旅立つくらいの年なんですよ。

 それまでね、お母さんは一生懸命子育てしとったわけでしょ。子供のことばっかり考えて生きてきたわけですね。その子供が全部いなくなるわけですわ。そうなった時に、「あれ? 私、子供のために生きとったような気がしとったけど、ほんとは何のために生きとったやろか」という話になってくる。そういう時、奥さんたちは結構寺にも来てくれたりします。

 だけど、みなさんのおうちに、「奥さん、人間がなんで生きていくのかという根源的なテーマについて、聖書をもとに語り合いませんか」とか来るわけですよ。そうしたらスーッと入っていくわけですね。

 男性の60代半ばは何かといったら、もうわかるでしょ。会社を辞めるんですよ。それまで一生懸命に仕事をしてきたのが辞めるんです。「俺はこれからいったいどうしたらいいのか」というので、そういう人が寺に来たりするじゃない。今まで聞法会に誘っても全然来なかったようなおっちゃんがね、60半ばくらいになって、ふらっと来るようになってね、「どうしたんですか」と聞いたらね、「いやあ、暇になったから」とかいうんだけど、ほんとはそういうことが知りたいんですよね。実はそういう方がカルトに入るんです。

 だからね、「年取ったらカルトは関係ないけど、若い人は心配だ」と思われるかもしれませんけど、みなさんくらいの年代の方が多いんですよ。私、親鸞会に12年間いましたけどね、みなさんくらいの年代の方が一番ボリュームゾーンでしたね。ものすごいたくさんいました。親鸞会といったらね、「若い人がいっぱい聞法に来ててすごいな」と思ってる人がいるんだけど、実際のところは、お寺に来られてる年代の方が一番多いです。

 ですから、「若い人が心配だ」といっている人には、「若い人よりも、自分の心配したほうがいいんじゃないんですか」と、そういうことになります。若い人が心配かもしれませんけども、実際のところはね、年とった人が心配です。

 4 新宗教に入るのはどういう心理か
 「新宗教に入る人の心理はどういう心理か」という質問があります。みなさんが寺に行ってお話を聞くのと同じ心理です。そりゃ、一人ひとりいろんな心理がありますけれども、我々とそんなに変わるものではありません。ただね、新宗教と一口にいっても、ものすごい幅広いですからね。オウム真理教みたいな新宗教もあれば、もちろん、カルトとは言えないような、穏健な新宗教だってあるわけです。

 ほんとにいろいろです。千差万別というかね。なぜ生きるかという、そういう問いを持って入った人もいるし、自分の家族が悲惨な死に方をしたことで、何かを求めたという人もいますし。または、たとえば旦那さんがリストラにあってね、それで宗教を求めたという人もいますし、大学に入って目標を失って、何のために生きているんだろうかというので入った人もいますし、本当にいろいろですよ。

 いえるのはね、ここにいらっしゃるみなさんは「俺はそんなもんに入るか」という顔しているんですよ。ごまかしたってわかりますよ。なんとなくわかるんだからね。ところがね、それはたまたま今そういうのを求めてないという状態なんであって、人間はそういうものを求めずにおれないような状況に陥ることが誰だってあるんですよ。私だってありましたし。

 そういう時に、たまたまなんかの宗教の縁があったならば、人間はすっと入ってしまうもんなんですね。だから、新宗教に入る人の心理、どんな心理なのかというたらね、何かを求めずにおれないような思いがあったんだと思いますね。

 他にもいろいろありますよ。いろんな方がいろんな思いで入っていかれています。人間って迷わずには生きていけませんから、何か正しいものとか間違いのないものがほしいという思いがあるんですよ。そういうものを求めていかれるんじゃないかなと、私はこう思っています。

 5 新宗教は死んでから、浄土真宗は今
 「新宗教は死んでからのことをいうけど、浄土真宗は今ですよね」といわれる方もありました、これもまた千差万別で、新宗教の側に立ってみたら、「浄土真宗というのは死んだ後のことばっかりいってるけども、我々は今の救いです」といったりするんです。新宗教によってほんとにいろんな違いがあります。だから、一概にいえるかといったら、まあいえないかなあと思いますね。ほんまにいろいろですわ。

 6 命がけや真面目はよくないのか
 「命がけとか真面目とか、そういうのはよくないのか」と質問をされた方もあります。僕らはね、命がけで生きるほかに生き方がないんです。「私は命がけでやってない」という人はわかってないだけです。必ず何かに命かけてますよ。

 人生は、生まれた時から死ぬまでの間に、老いて、そうして病にかかって死んでいくわけでしょ。生老病死の人生。みんな一緒やね、ここにいる人たち、誰一人として変わらないですよ。なぜか知らないけど生まれてきて、なぜか知らないけど老いて、なりたくないのに病気にかかって、死にたくないのに死んでいくんですよね。そして、死んだ後どうなるかさっぱりわからないというのが私の人生でしょ。

 こういう人生をぼんと与えられて困惑するわけですよ。困惑したことない人いますか。困惑するでしょ。だって、知らないのに生まれてきたのに、「生きろ。生きろ」といわれるわけでしょ。「今、いのちがあなたを生きている」というわけじゃないですか、大谷派でね。「命は尊い」「命は大事」「命の輝き」とかいうんだけど、その命がなんで大事なのかということは誰も答えてくれないわけです。「みんなから支えられているからだ」とか、「あなたが死んだら、みんなが悲しむからだ」とか、適当な理屈いっぱいいわれるんだけど、ほんとのところはよくわからないままだから、我々はどうするかといったら、自分が持っている命を何か価値があるものに交換しようとするんです。

 たとえば、僕は子供が3人いて、全部娘なんだけどね、子供を育てるの大変ですよ。なのに、なんで子供を育てるかといったら、子供を育てるのは大事で尊いことだと思っているからなんですよ。つまりね、自分の命を、限りある命を、子育てということに交換しているわけでしょ。いうてる意味わかりますか。

 子供さんを何人も育てたという方だったら、自分の人生の何分の1かを子育てに使ったはずです。相当なもんでしょ。それは自分の命の何分の1かを子供に交換してるんですよ。

 僕はもともと会社員やってましたけどね、仕事も大変でしょ。私の父親は「男は仕事だ」といい続けてた人間ですよ。「優しく生きるとか、みんなに好かれるとか、そんなこと関係ない。どれだけ仕事できるかが男の価値や」といってたよ。私の父親は自分の人生の大部分を仕事に交換したんだね。

 つまり、私たちが何やっているかといったら、命の切り売りしてるんですよ。みなさん、今日一日お話聞くでしょ。てことは、かけがえのない今日の一日の命を私の話と交換しちゃったんですよ。つまんない話だったら、がくと来るのはなぜかといったら、かけがえのない自分の命をつまんない話に交換しちゃって、こんなはずじゃなかったと思うからですよ。

 そうでしょ。僕らはね、日々自分の命を何かに交換して生きざるを得ないんですよ。で、自分の命を交換するだけの価値のあるものは何か、それが自分の人生の真実だと思って、そういうものを捜し歩いているのが私の姿ですよね。

 だから、「子供が命」というじゃないですか。なんで子供が命だというかといったら、私の命と交換に子供を得ているから。「仕事が命」という人は自分の命と交換に仕事を得ているからなんですよ。

 そういうことを考えたらどうですか、ドラマを見るのだって命がけでしょ。違います? だってそうでしょ、僕、朝の連ドラはほとんど見ないんだけど、「あまちゃん」というのだけ見た。あれね、全部見たら何時間かかるか計算したら、44時間なんですよ。てことはね、44時間の私の命と交換に「あまちゃん」を見たんですよ。人間のやることは全部命がけなんですよ。命がけじゃない人は一人もいないんです。

 我々が命がけになっているものは、子供であったり、家族であったり、それから仕事であったりとかね、いろんなものがあるでしょ。そういうものが生きるに値するものだとは思えなかった人たちが、オウム真理教なんかに入ったんです。だからね、「オウムなんかに命がけになって変だな。別に命がけにならなくていいんじゃないんですか」と思う人はね、それはオウムに命がけになっていなくて、常識に命がけになってるだけなんですわ。

 世の中の常識があるでしょ。私の父親はね、「忠」という名前なんですよ。おばちゃんは「孝子」です。「忠孝」ですよ。おじいちゃんは軍人だったですからね。天皇に忠義を誓って、親孝行して生きるというのが当時の価値観だったわけでしょ。あの時代の人達はそういう価値観や常識と命を交換したんですよ。命がけになってたんですよ。

 でも、世の中、我々が知っとる常識に命をかけることは間違いなくいいことであって、そうじゃないものに命をかけて生きていくことは、いわばカルト扱いされることがあるんですよね。彼らは間違っているんだと。

 うちにアレフの信者さんの親御さんが相談に来るわけ。その親御さんがさめざめと泣きながらいうんですよ。「私の娘は普通に大学を出て、普通に会社に入って、普通に結婚して、普通に子供を育てて、つまらないかもしれないけども、そうやって普通の人生送ってもらいたかったんです」というんだよ。

 でもね、そういう人生が無条件にいいものだと思えなかったからアレフに入ったんだよ。そうやってアレフに入った人にね、「地道に子供育てて、ちゃんと毎日電車に乗って働きに行くのがいいことなんだ。なんでそんな生き方ができないんだ」っていったところで、「そうやって生きるのが、どうしてほんとにいいことだっていえるんだ」といい返されたらどうしようもない。オウム問題というのはこういうところがあるんですよね。

 新宗教の問題でもそうなんですけどもね、僕らはそんな宗教に入って命がけになる人に、「なんであんなものに」と思うかもしれないけども、我々だってまわりの人が「これがいい」と思っているものに命がけで生きているんですからね。

 三 信心とは
 さて、信仰とか信心について少し話しましょうか。信仰とか信心、そもそも浄土真宗ではどうなんだということです。でね、『教行信証』の総序を見ましたら、親鸞聖人は「行に迷い信に惑い」と書いているんですよ。これがどういうことかってことです。

 親鸞聖人は三願転入ということを教えていらっしゃって、阿弥陀仏の願いは四十八あるんですけども、その中から三つの願いを抜き出した。この三つの願いに共通することは何かといったら、すべての人を救うと誓われてある。この三つの願いを親鸞聖人はどういうふうに教えてらっしゃるかということです。

 1 十九願 行の問題
 十九願はどういう教えかといったら、「よりよく生きなさい」ということです。いいですか、これ我々が思っている常識どおりです。

 うちのお寺では八月になると盂蘭盆会をやるんだけど、阿弥陀さんの横にお浄土の掛け軸を掛け、反対側には地獄の掛け軸を掛けるんですよ。法要をやった後、いつも子供会をやるの。子供が興味津々なのは地獄の掛け軸です。「うわー、すごい。こんなことやってる」とかね、興味津々なんですよね。子供が「お母さん、これ何?」と聞くんですよ。そしたらお母さんがなんて答えるかというと、「あんた、悪いことしたらこういうところ落ちるんやで」というんです。極楽の掛け軸を子供が見て、「お母さん、これは?」と尋ねたら、お母さんは「親のいうこと、先生のいうことちゃんと聞いて、いい子にしてたら、こういうところに行ける」というんですよ。

 そういうのは私たちがよく聞いてきた仏教の姿ですよね。みなさんも本格的にお話を聞く前は、そういう因果応報が仏教だと思ってたんじゃないですか。いいことした人はいいところに行く、悪いことをした人は悪いところに行くというような。

 十九願に何が書いてあるかといったら、「一生懸命いいことをして、一生懸命に善を作ったなら、阿弥陀様がたくさんの諸仏を引き連れてあなたを迎えに行きます」と書いてあるんですよ。

 それでね、十九願は「無量寿仏観経の意(こころ)」と親鸞聖人おっしゃっているんだけど、『観無量寿経』にはそこが詳しく書いてあって、人間を九通りに分類しているんですよ。

 上品の人はより素晴らしい出迎え方をしてくれると。上の人は阿弥陀様が諸仏をたんまり引き連れてやって来ると。真ん中だと、阿弥陀様や菩薩が迎えに来てくれる。下のほうになったら、阿弥陀様は迎えに来てくれなくて、「浄土で待ってるから来いや」という話になってるんです。

 でね、上品は大乗仏教を信じ求めた人たちです。中品上生と中生は戒律を守って生きていった人たちなんです。中品下生は世間の善、世福を作って生きてきた人です。下品の三つは、悪いことばっかりしてきて死んでいく人です。こういうことが説かれているんですね。みなさん聞いたことないですか。

 問題は、一番最後の、なんもいいことできずに、ずっと悪いことばかりしてきた地獄行きの悪人が、最後の最後、臨終の間際になって仏教に遇うんです。これから死ぬという時に、善知識といって、仏教を教える人が出てきて、その人が勧めるんです。「最後の最後、阿弥陀様のことを信じたらどうだ」と。

 ところがこの罪人はね、阿弥陀様のことを信ずることができないんです、臨終の苦しみがひどすぎて。
「苦しい。助けてくれ。阿弥陀様を今さら信ずることなんかできない」
「そしたら、無量寿仏の名を称えなさい、それならできるだろう」
 それで罪人は「南無阿弥陀仏」と称えるんです。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えたら、八十億劫の生死の罪が除かれて、この極悪人は往生すると書いてあるんですよ。こういうことを聞いたことあるでしょ。親鸞聖人は十九願はこの意味だっておっしゃるんですね。

 つまり、ここで何が説かれているかといったならば、私たちがよりよく人生を生きて、よりよく歩むことによって、私の人生をたしかな素晴らしいものにしていこうという、そういう歩みでしょ、これは。我々の常識にピッタリ合っています。

 だってそうやん。麻原彰晃が行く浄土と私たちが行く浄土が同じやったら納得いきますか。よりよく生きて、よりよく人生を過ごして、善人であることで救われていこうとするでしょ。これが『観無量寿経』に書かれていることなんです。いうなれば、みんなこれを目指して生きてるわけです。

 京都の宇治に平等院鳳凰堂という建物があります。行ったことありますか。なかったら、十円玉ひっくり返したら描いてありますから見てください。平等院の鳳凰堂にはね、『観経』の九通りの往生の絵が掛けられているんですよ。つまり、そういう絵を見ることで、私がちゃんと生きて、真面目に生きて、善人になって救われていくということをみんな願ったわけ。

 でも、善導大師はここのところでね、やった行いによって救われていく世界が違うのなら、これは差別分別の救いじゃないか。本当は、何にもいいことできず、悪ばかりして、最後に念仏しかできなくて死んでいく人。ここに私が救われなければならないほんとの姿のではないかと見られた。

 私は今はたまたま仏教を求め、善人の面をして、社会的にも問題のないように生きているかもしれないけれども、最後の最後になったら、そんなもの全部投げ捨てて、阿弥陀様も仏教も全部投げ捨てて、そうやって如来に背いて死んでいくのが私の姿だ。一番救われなければならない人間の姿がここにある。これがほんとの私だ。

 僕から見たら、みなさんは大乗の菩薩ですよ。だって、家でテレビでも見てたらいいのにさ、わざわざこの別院まで来て、こんな若造の話を聞いてるわけですよ。大乗の菩薩ですよ。しかし、大乗の菩薩なんだけど、中身はこれだとおっしゃったの、善導大師は。「たまたま仏教に遇った。だから、大乗の菩薩ではなくて、たまたま仏教に遇った凡夫だ。たまたまいいことができた凡夫だ。たまたまそういう生き方ができてるだけで、一皮むいたら、如来も善も何もかも打ち捨てて、最後は信ずる心もなく、ただ一人ぼっちで死んでいくというね、私の姿がここにあるじゃないか」と思われた。

 つまりね、私はよりよく生きて、善を作って、そして正しい人、善人になって生きたいという思いがある。でも、そう思って私が生きたとしても、私の人生というものは少しも思う通りにはならない。たまたま今ここにいるってだけで、明日になったらどうなるかわからんよ。

 私の父親、ガンになってね、最後はもう苦しんで死んでいきましたけどもね、入院した当時は、みんなに優しくふるまっていたんです。ほんとに苦しくなったら、わがままいいたい放題で死んでいきましたわ。

 いつそういうふうになるかしれん。一番救われなきゃならない私はここにおるんだ。これが私の本当の姿だ。たまたまの縁でこうやってるのが私の姿だと。親鸞聖人はこれを宿業とおっしゃる。

 私の人生は私の思い通りには決してならない。善人になりたいと思ったってなれない。悪人でいようと思っても悪人にもなれない。そういう私だといわれるんですよ。

 みなさん、ご自分の人生思い通りになりましたか、ならないですか。ならないんだよね。なったらなったでね、本当にうなずいて生きれるかといったら、たぶん生きれないと思うんだね。私の人生、思い通りにならない。

 『歎異抄』にこういうことが書いてあります。唯円という弟子がね、親鸞聖人にこういわれるんですよ。「お前、俺のいうことを何でも信じるか」と聞かれて、唯円は「はい、お師匠様のいうことやったら何でも信じます」と答えたの。「それはまことか。嘘偽りないか」と親鸞聖人は念押しするんです。唯円は「はい。嘘偽りありません」という。そしたら、親鸞聖人はなんておっしゃるかといったら、「だったらお前、今から駅前に行って、千人殺してこい。そしたら浄土に往生することが定まる」といった。

 私が同じこといったら、みなさんどうします? 「それは勘弁してくれ」というでしょ。唯円もそういったんですよ。「私は一人の人間を殺す器すらないのに、千人殺すなんかとっても無理です」といったら、親鸞聖人は「お前、さっき俺のいうことを信じるといったではないか」といわれるんですよ。唯円はそれを聞いて何もいえなくなっちゃうんだけども、親鸞聖人はそのあとこういうの。「そうだろ、お前が私を信ずるといったのは嘘偽りではないと思う。嘘偽りはないと思うけども、俺が千人殺せといったって、お前は一人も殺せないじゃないか」というんですよ。

 逆にいったら、人を殺したくない、善人になろうと思ってる人だって、人を殺してしまうことがあるんだ、と。これ、オウムの人なんかそうじゃない。大乗の教えを求めてみんなを救おうとして地下鉄でサリンをまいたんですよ。

 やまゆり園の事件を覚えていますか。植松聖という人が19人の障害者を殺したという事件です。あの人、衆議院の議長に手紙を送ってる。
障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です
 このように書いてた。

 我々の心の中にもそういうのがあるでしょ。正しく生きようとして間違ってしまうことがいくらでもあるし、善人になろうとして悪人になってしまうこともいくらでもある。私が今こういうところにいるのは、たまたまそういう縁があっただけなんです。ほんとは私は何もできないし、自分の思い通りに生きることができないし、生き方によって救われることはできないんだというのが、「行に迷い」ということなの。これが十九願。

 2 二十願 信の問題
 そして次は信です。信について二十願で説かれるんです。何が説かれてるかといったら、「南無阿弥陀仏が救いだ」と書いてあるんです。

 だからね、行が間に合わなくなるわけでしょ。生きざまによって救われないんだったら、「南無阿弥陀仏によって救われろ」といってるんですよ。

 僕らは南無阿弥陀仏が救いだとどうするかといったら、一生懸命に南無阿弥陀仏が救いだということを納得をして、信じて救われようとする。だから、こうやって一生懸命聴聞に来てお話を聞いたり、本を読んだりするのも、南無阿弥陀仏が救いだということを懸命に信じて救われるためなんですわ。これが浄土真宗でいう信ですよ。

 ところがどっこいなんですけど、懸命に信じようとすればするほど、南無阿弥陀仏から遠ざかっていくんです。なんでかといったら、南無阿弥陀仏を信じているんじゃなくて、南無阿弥陀仏を納得して、南無阿弥陀仏が救いだと思ってる私を信じているだけなんですよ。

 「私は信じられない」「私はありがたく思えない」、そういう気持ちになったら、僕らどうするかというと、多くの人は「そんなことじゃいけない」って思って、より一生懸命に阿弥陀さんを信じて、自分の中に、「間違いないんだ」「これが正しいんだ」「ありがたいんだ」という心をこしらえることによって安心しようとする。だから、お説教なんか聞いていても、「ありがたいですね」「尊いですね」「よかったですね」と一生懸命そう思うんです。でもそれは裏返せば、少しもそんなこと思えていないということなんです。

 マザー・テレサという人がいました。カルカッタで貧困救済の活動した人です。あの方は当初はミッションスクールの校長先生をしていたんだけど、途中で神からの啓示を受けて、教会の中に閉じこもっているんじゃなくて、「実際に人を救う力にならなきゃなんない。神様の教えを実現しなきゃならない」といって、懸命に活動したんです。

 ところが、マザー・テレサが亡くなった後に書簡が見つかった。それは友人の神父さんや、神様宛に自分のことを告白した手紙だったんだけど、それを見ると、マザーテレサは「一時も神様を信じられたことがなかった」「私の隣にイエスはいなかった」と書いてるんです。

 これね、たとえば教会で信者さんだけを相手に「神様はいつも私とあります。ああ、よかった」とかいってるだけだったらわかんなかったように思うんです。本当に外に出て、神様の御心に生きようとした時に、神様が隣にいないことに気づいたんですよ。私はこの信仰を尊いと思うんです。信じているつもりが信じてない自分に気づいた。気休めの信仰によって覆い隠すことのできない、自分の奥底にある深い冷たいものに触れたのではないかと思うんです。

 これが、「私の信仰」というものの限界なんです。信じようとしたら離れていくんです。離れていったら、さらに信じようとする。さらに信じようとしたら、さらに離れていくんです。信じたものを握りしめて、信じたものをつかんで安心したいんだけど、つかもうとすればするほど逃げていくんです。そして、つかめない私というものを知らされていくんです。

 これが信心の問題で、二十願に「お念仏が救いですよ」と書いてあるのを、親鸞聖人は「難信」とおっしゃる。つまり、これは如来を一生懸命に信じようとするんだけども、信じようとすればするほど、信ずる私を信じていく。これは自力なの。私というものを頼りにしていく。如来さんを頼りにすればするほど、私というものを固めて、固めて、頼りにしていこうとするんです。これが親鸞聖人の直面した問題なんです。

 でね、二十願はこの後に、「果遂せずば正覚をとらじ」と書いてあって、果遂の誓いといわれるんだけど、この果遂というのは「仮の救いにお前をとどめておくことはない」ということなんです。いいですか。これは真実の行でも信でもないんだけど、そういう形でしか私は行ずることも信じることもできませんから、こうやって私を真実まで導き入れると言われているのです。

 3 十八願
 十八願が真実だと親鸞聖人はいうんです。じゃあ、十八願とは何かというところで、もう時間が来たんだね。ここが一番の問題なんで、ほんとはここをもっともっと丁寧にお話ししたいんですけどね。

 この十八願の要は一体どこにあるのかというと、親鸞聖人は「聞其名号だ」とおっしゃる。「聞其名号」というのは、「如来が私を呼ぶ声を聞きなさい」と、これだけなんです。南無阿弥陀仏が聞こえたのが信心なんだと。

 いいですか、僕らはね、「なんまんだぶ」が聞こえたことが信心だといったら、まずこういうことをいい始めるんですよ。「南無阿弥陀仏がちっとも聞こえないんですけど。どこに行ったら聞こえるんですか」「どんなふうに聞いたら聞こえるんですか」「どんなふうに信じたら聞こえるんですか」って。これは十九願、二十願の問題だよね。

 そして、「南無阿弥陀仏が聞こえることが信心だったら、南無阿弥陀仏が私に聞こえるということを信ずるんですか」といい始めるんですよ。これも二十願の信なんですよ。さらに、「だったら一生懸命念仏称えたらいいんですか」というんです。これは行なんですよ。「行に迷い信に惑い」でしょ。

 どれだけ聞いても、どれだけ南無阿弥陀仏を聞いても、自分の生きざまや自分の信心以外に頼るものがない私がある。これがどうやったって救われっこないといわれた下下品の、一番最後の、死ぬ間際にすら阿弥陀様を信じれない悪人なの。

 このね、行も間に合わない、信も間に合わない、生きざまも信仰も何一つ間に合わんという、この私に遇うということが、南無阿弥陀仏に遇うことなんだ。つまり、阿弥陀さんが呼んでくれてる私というのは、一生懸命阿弥陀さんを信じて、「よかった。ありがたい。大谷派の教えでよかったですわ」といってるもんじゃないんだ。信じようとしても信じられない。生きざまによっても救われない。何一つ間に合わない。それ以外に私達が疑いない事実なんてないんですよ。

 会社では仕事ができる。子育てもできる。おいしいハンバーグも作れる。カレーも作れる。いろんなことできるんだけども、この私の生老病死の一番の人生の根本の問題に対して、指一本触れることができないというね、そんな人間なのに、阿弥陀様に背を向けて、自分の生きざまや自分の信仰を頼りにせざるを得ない、この私を「南無阿弥陀仏」と呼ぶ声があるんだ。これだけなんや。

 聞こえるという中に「私」は入らないんです。そして「どうやっても助からん。行も信も間に合わんという私と、それを必ず救うという呼び声は、二つであって一つなんだ」と親鸞聖人いわれる。ここ一番肝心なところですよ。

 信じるにしても、生きざまを変えるにしても、私がどうにかして変わっていくことで、信仰とか宗教というものを成立させようとする。ところが、親鸞聖人の教えは「そういうものが一つも間に合わん世界に、一つも間に合わん私をずっと呼んでいる声が聞こえるんだ」ということです。

 これがね、親鸞聖人のいわれる信心の一番の要のところやね。もう時間だからやめますけど、「信ずるものがあったほうがいいでしょ」といわれても、信じられないんですよ。親鸞聖人はそういうところを見られたんです。信ずることもできないし、行ずることもできないというわが身を見られたんですよ。ここに真宗の信が成り立つ根拠がある。
 最後、難しい話をしました。終わります。
(2019年2月24日に広島別院で行われました安芸南組推進員研修会でのお話をまとめたものです)