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 四衢 亮さん
   「念仏の教えと私―何が問われているのか―」

2002年2月4日 
 
 おはようございます。岐阜県の高山からやって来ました四衢と申します。昨日まで推進員養成講座がありまして、そこでお話をしました。今日もこちらでお話をするようにというのでうかがいました。
 特別にテーマをたてていないということですから、私の方で「念仏の教えと私―何が問われているのか―」というテーマをあげてみました。
 推進員といいますのは、私どもが宗祖親鸞聖人の教えを尋ね、仏と法と僧伽の三宝、この三つを自分の人生の宝としていこうということをもって出発しています。ですから、出発の原点に立ち帰って、真宗門徒であろうとすることはどういうことなのかを、ご一緒に確かめ合うことができたらと思うことです。

真宗の教えというのは、基本的には念仏が中心なのだという一応の了解があるかと思います。
 おたくのお寺は何ですか、と聞かれた場合、うちは真宗ですとか、うちは念仏の宗派ですと、皆さんお答えになるでしょう。そして南無阿弥陀仏という言葉に、小さなころから慣れ親しんでおられると思います。
 南無阿弥陀仏は大事なことだと教えられたり、あるいは南無阿弥陀仏を大事にしてきた大人たちの姿をみて育ってきたという方もおられるでしょう。

 私たちは南無阿弥陀仏が大事だと言われておる宗派に属しています。しかし正直なところ、南無阿弥陀仏とはどういうことがよくわからないということもあるかと思うんです。それから、南無阿弥陀仏を称えるぐらいで私の人生の何が変わるのかということも、正直な疑問かと思います。
 ですから、南無阿弥陀仏がどういう意味で大事なのか、私にとって本当に大事なものになっておるのか、一度確かめてみなければなりません。

 南無阿弥陀仏という言葉を覚えてみても、いざという時に力にならなかったりするわけですから、南無阿弥陀仏は大事だ、あるいは南無阿弥陀仏は尊いことなんだそうだ、と頭で了解してみても、何もはっきりしません。
 むしろ大切なことは、そういうふうに言われているけれども、私にはそのことがはっきりしないんだと、きちんと確認することです。
 南無阿弥陀仏と称えるぐらいのことで、私の人生の何が変わるのか、何が支えられるのかよくわからない。あるいは呪文やおまじないとどこが違うのか。そういう疑問があるならば、その疑問をごまかさないことが大切です。

 南無阿弥陀仏は大事なことなんだということにしておけばいいということではなくて、自分の事実としてはどうもはっきりしない、どうもよく分からない、そういう疑問があるならば、その疑問があるということを、きちんと確認していくことが大事だと思います。分かったことにするんじゃなくてね。
 私たちはどうしてもずるさがありますから、こういう場へ来たら、分かった顔をしておかないと格好がつかないもんですから、その場に合わせて分かったふりをするということもあります。
 そして、私たちは宗祖親鸞聖人の教えがなかなか聞けないんですけれども、聞いたふりをしたり、聞いたことにする、あるいは聞いてもいないのに聞いた思いになるという錯覚をするし、聞き間違うこともよくあります。

 私は念仏をこういうものだと思っている、ということがあるのはいいんですが、そのことが確かかどうかを確かめてみないといけません。
 ですから、教えを聞いて、それを一人でためこんどくのは危険です。我々は自分の都合に合わせて聞くこともありますし、聞き間違うこともよくあるからです。

 だからこそ、今日のようにみんなが集まって、私はこう聞いた、私はああ聞いた、とお互いが確かめ合い、あなたはこう言われるけれども、こういうことではないだろうかと言われたり、それは間違っていると言われたりして、自分が聞いたつもりになったり、自分が聞いたことが錯覚であったり、間違いであった、ということに気がつくことができるようになるんです。そのためにこういう集まりがあるんです。
 そういう意味で、こういう集まり、僧伽ですね、が与えられていることは大事な、それこそ人生の宝だと思います。

 今日は念仏ということを中心に確かめていけたらと思うことです。
 ただですね、闇雲に分からない者が集まって、わあわあ言っても、それでははっきりしないままで終わりますから、そういう時にこそ親鸞聖人の言葉が目印になるわけですし、手がかりになっていきます。
 念仏とはどういうことかがよく分からない、南無阿弥陀仏と称えたぐらいで何が力となるんだろうか。
 そういう思いが私にはあるんだ、ということをまず確認した上で、しかしながら念仏を非常に大事にし、念仏を自分の人生の中心において生きていかれた方もいる。そのこともまた事実です。

 具体的に身近にそういう方を見知っておられる人もあるでしょうし、そういう方がいなくても、少なくとも親鸞聖人とか蓮如上人といった方々は、念仏を自分の人生の中心にすえて生き抜いていかれた方です。
 そういう方たちが言われている念仏と、呪文やまじないとは、どこが違うんだろう。私が疑問を持っている念仏と、はたして同じなのか違うのか。違うとすればどう違うのか。
 そこがはっきり見定められないと、自分の今いる所が見えてこないと思うんです。

 それで、宗祖親鸞聖人のお言葉を手がかりとしながら、宗祖は私たちにどういう意味で念仏を説いておられるのか、あるいはどういうふうに念仏を語っておってくださるのか、そのことを確かめ、そして自分はどんなイメージで、どんなつもりで、念仏を思っていたり、称えていたのかということを考え、そして違いがあるのならその違い、一緒ならどこが一緒なのかということを確認して、違うのならばなぜ違うのか、違う原因はどこにあるのかをたずねていくということが、具体的に学んでいくことです。
 今日は親鸞聖人が念仏を我々に示しておってくださる言葉を手がかりとしながら、皆さんとご一緒にこの作業をしてみたいと思っています。

 最初に親鸞聖人の念仏了解ということで「濁世の目足」という言葉を出してみました。これはあまり耳慣れない言葉かもしれません。『文類偈』という『正信偈』と同じような歌を親鸞聖人が作っておられます。その中に「濁世の目足」という言葉が出てまいります。

 もともとは『正信偈』に「源信広開一代教」とあります源信という、親鸞聖人から百年以上前に比叡山におられた方が示された言葉です。親鸞聖人の先生である法然上人も、この言葉を受け継いでおられて、この言葉をもって念仏ということを確かめておられます。
 念仏の教えというものは私どもにとっての濁世の目足となるものだ、という確認の言葉です。

 濁世とは濁った世の中という意味です。濁っていればよく見えませんし、見通しがつきません。いろんなものがよく見えなくなっている。
 いのちというものも見えなくなっているし、いのちを生きる人間の姿も見えなくなっている。そして、私たちがどのような形で世界に生きているのか、ということもよく見えなくなっている。
 つまり、私がどんな格好で、どんな所にいるのかということが、濁っていてよく見えなくなっている。そういうことが濁世ということです。そういう状況に私たちが置かれているというご了解が、濁世という言葉にあります。

 現代ではいのちということがよく分からなくなっていますし、いのちを生きること自体もはっきりしなくなっています。

 具体的に触れていきますと、例えばいのちというものは親から子へ、子から孫へという形で伝えられていきます。しかし現在、医学の最先端の分野では、そういう形ではなくていのちを作り出せるところまできています。
 受精卵、お父さんとお母さんからできたのではなくて、お母さんの細胞に科学的に刺激を与えて細胞分裂させ、子供になっていくことに、アメリカでは成功したそうです。それだけじゃなくて、再生細胞を使ってある信号を送ってやれば、人間の身体部分品が再生できるんですね。私たちの皮膚などはコラーゲンというものでできています。そういうものを土台にして、人間から出た細胞に刺激を与えてやると、そこに耳を作れという信号を与えれば、耳の形に細胞ができていくんです。それをネズミの背中に作っています。
 そういう再生医療ということが、今の医学の最先端です。そういう技術を利用して、いのちからいのちという形じゃない形で、いのちを作り上げていく。そういうところまできています。
 一体、どこからいのちなのかということが、はっきりしなくなっています。科学技術が発達するにつれて分からなくなっています。

 具体的な事実も含めて、我々はいろんな意味で見えない。自分自身と自分がどんな格好していて、どんな所に住んでいるかが見えないでいます。

 そういう我々に対して、目と足を与えていくのが念仏の教えである。そういうご了解です。
 目があることによって初めて、私がどんな所に、どんな格好をして、どんなものとして生きているのかが見えてきます。そしてまわりが見えてくることで、私自身も問題が見えてきますし、問題が見えてくれば、私が生きていかなければならない方向を見通していくことが明らかになってくるかと思います。それが目ということです。
 それは仏教の言葉で言うと、智慧ということかと思います。

 もう一つは足です。足によって初めて自分自身できちんと立つことができます。自分自身の姿が見えて、こんな所にいるのかが分かって初めて立てるわけです。
 暗闇に放り込まれると、どこまでが天井で、どこから壁かが分かりません。ですから、立つこともできません。見えて、初めて立つことができるんです。
 私をきちんと立たせる、そして立った者は歩いていくわけですから、歩んでいくことができる。そのように私に大地を与えるもの、それが足ということの意味です。

 歩み、立ちあがる大地、そういうことを私に開いていくのが、念仏の教えなんです。そういうご了解が「濁世の目足」という言葉で示されているように思います。

 念仏とは何かよく分からないけれどもありがたいものだ、ということではなくて、ありがたいという意味がはっきりしない私たちに、念仏の教えによって初めて、眼と私が立ちあがる大地をいただくのです。そして、方向が見えることで歩いていくことができます。それが念仏の教えということなんです。
 念仏の教えに出会っていますかということを、こういう言葉を通して確かめるようにと、言葉を残されているんですね。このように「濁世の目足」という言葉は、大事な手がかりとなるのではないかと思います。

 もう一つは、直接念仏について語られた言葉ですけれども、親鸞聖人の言葉を書き留められた『歎異抄』という書物の第七章の冒頭に、「念仏は無碍の一道なり」という言葉が出てまいります。
 『歎異抄』というのは、親鸞聖人の弟子である唯円という方が関東から京都へ行かれて、そこで聞かれた言葉が集められ、書き留められたものと考えられます。宗祖が八十代の言葉です。親鸞聖人の晩年の言葉です。
 八十すぎたお爺さんが、何もないのに『歎異抄』に書かれていることを、べらべらと喋られたわけではないと思うんですね、少なくとも。
 親鸞聖人が独り言を言ったんじゃなくて、いろんな方が尋ねてきて、そして教えについて質問をしたり、問題を提起したり、そういうやりとりの中で見いだされてきた言葉が、『歎異抄』の言葉だと考えられます。

 例えば、有名な第三章の、「善人なおもて、往生をとぐ、いわんや悪人おや」という言葉も、なんでもないのに八十すぎたお爺さんが、いきなり「善人なおもて、往生をとぐ」と言いだしたら、何を独り言を言っているんだ、どうしたのかな、ということになりますね。
 ですから多分お弟子方が、
「私たちは世の中から悪人と言われたり、下類と言われて、救われない者だと蔑まれ、差別されています。私たちはやはり救われないのでしょうか。」
 関東からお弟子たちが、そういう問いをひきさげてやって来たということがあって、そこでの緊張関係の中でのやりとりの中で生みだされてきた言葉だと考えていいと思うんですね。

 そのように『歎異抄』の言葉が生みだされてきた背景には、人間の問題があるんです。ですから、その背景の問題が私たちの問題となるわけです。
 そこまで言わないと、『歎異抄』は読めないという気がします。ただそれでも大事なことは残しておって下さるわけですから、そこを手がかりとして考えていく必要があると思います。

 おそらく、「念仏とは一体どういうものなんでしょうか」、「念仏を称えたぐらいで私たちは何か力を得られるんですか」というやりとりの中で、私にとって「念仏とは無碍の一道」なんだ、という言葉を、親鸞聖人が語って下さったんだろうと思うんです。

 こういった言葉は難しそうですし、難しく考えた方がいいのかもしれないというイメージがあるかもしれません。
 親鸞聖人の言葉は鎌倉時代の言葉ですから、多少古いですが、そうはいっても日本語です。あまり恐れずに読んでいかれたらと思います。専門家でなくても読んでいけます。

 「念仏とは無碍の一道なり」という言葉は一見文語調ですし、難しい感じがします。しかし、小学校の国語の時間じゃないですが、言葉の流れとしては、「この花は赤いバラです」という文章と並び方は一緒です。
 ですから、まずどうやって読むかというと、難しそうな言葉はカッコにくくればいいわけです。(無碍)と(赤い)をかっこでくくって読んでみてください。赤いとか無碍という言葉は、バラや道にかかる修飾語です。
 「この花は(赤い)バラです」で言いたいのは、「この花はバラです」ということです。どんなバラかというと、「赤いバラです」。それがこの文章の内容です。
 同じ並びなんですから、これを応用して考えればいいんです。こういうことをまず言おうとしておられるんだということを、国語的に理解することが大事です。初めからわかんないとあきらめるんじゃなくて、国語的に理解してみたらいいんです。
 念仏とは何か。念仏とは道です。どんな道かといえば、無碍という道です。

 そうすると、まず念仏というのは道なんです、あるいは、念仏というのは私の上に道となるものです、あるいは、念仏は私に道を開くものです。そういうことを親鸞聖人は言っておられるんだなということが、まず分かります。

 では、念仏は呪文やおまじないとはどう違うのか。
 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えると、腹が立つのがおさまると言う人がいます。それはともすれば念仏を呪文にしているわけです。
 腹がカーッと立った時に、南無阿弥陀仏と言ったら腹が立ったのがおさまった、いやあ、念仏はありがたい、ということでしたら、これは念仏の功徳ではありません。時間が経っただけのことです。人間はそんなにいつまでも怒っておられませんから、念仏を称えているうちに時間が経ちます。それで、腹立ちがおさまっただけの話です。それは自然なことです。珍しいことではありません。

 そういうことではなくて、念仏というのは私にとって道となるものなのだ、このように言われています。道というのは、そこを歩くものです。だれも歩かない場所は道とは言いません。
 念仏によって私たちが歩んでいく道が開けるんだ、あるいは、道となって私を歩ませていくんだ。
 そういうこととして親鸞聖人は念仏を了解されていたということを、この言葉でまず見ていくことができると思います。

 問題は無碍という言葉です。「碍」という字は日本の言葉にすると「さわり」という意味です。さわりというのは障害になるものとか、邪魔をしてくるものとか、私を縛ってくるものという意味です。
 今日はちょっと差し障りがあって行けない、という言い方をしますね。差し障りというのは、本当は行きたいのだが、私を行かせない用事が何かある、ということです。行きたいことを邪魔するもの、そういうものが障りです。
 行きたいけれども、家の用事があって、私は縛りつけられている。孫の守りなら、孫が私を家に縛っているわけです。
 そういう意味が「碍」です。無碍とはそういう縛るものがないということです。辞書でここまで読めます。

 念仏とは何か。念仏とは私の上に道を開くものだ。どういう道を開くのか。いろんな障りをなくしていく道なんだ。あるいは、いろんな障りを私から取り除いていく道を開くものが念仏だ。「念仏とは無碍の一道なり」という言葉を、そのように読むことができます。

 無碍という言葉は、仏教では涅槃に関わって出てきます。涅槃という言葉は日本では大きな誤解を招いています。涅槃といったらどんなイメージですか。涅槃とは死ぬことだとか、死んだ先だとか、そういうように死にまつわることだとイメージしがちです。
 それがあながち間違いだとは言いません。お釈迦様が亡くなっていかれることを入涅槃と言います。それで涅槃というのは死ぬことだというイメージが出てくるんでしょう。しかし、入涅槃とは死ぬことという意味ではないんです。
 涅槃という漢字に何か意味があるのではありません。インドの言葉でニルヴァーナという言葉を音訳して、涅槃という漢字を当てただけのことです。
 ニルヴァーナというのは、縛られていたものがほどかれていくという意味なんです。つまり涅槃とは、がんじがらめに縛られていたものが、ほどけて解放されるという意味です。無碍というのは涅槃に関わる言葉ですから、無碍とは解放されるという意味が、そこから出てくるわけです。

 ですから、念仏とは道である、いろんな形で私を縛っているものから解き放って、私を本当に解放していく道を私に開くのが念仏である。
 そういうふうに親鸞聖人が言っておられるのが、「念仏とは無碍の一道なり」という言葉の意味かと思います。

 念仏というのは道なんです。私に道を開くんです。私が本当に歩んでいける大地を開くんです。どんな道を開くのかというと、私が本当に解放されていく、そういう道です。それが念仏です。

 私たちが考えている念仏というイメージはこれとは違っていて、どうしてもおまじないとか呪文とかいうニュアンスが抜けないんですが、そういうことではありません。
 そういう念仏の道を生きられたのが宗祖親鸞聖人です。私たちが南無阿弥陀仏をいくら称えても何も解放されない、何が変わったのかわからない、ということなら、それは宗祖の念仏と私たちの念仏とに違いがあるからだ、という見当がついてきます。こういう言葉を手がかりとして、そのことがわかってきたのではないかと思います。

 さらに、違いがどこにあるのかという点を、もう少し考えてみたいと思います。
 私が解放されていく道となる、それが念仏なんだ。そういう道を念仏において私たちは開かれるんだ。そういうことを親鸞聖人は言っておられるわけです。
 ということは、私たちは解放されなければならない何者かであるわけです。もともと解放されているなら、念仏は必要ないことになります。念仏を我々に勧められ、念仏が人生にとって非常に大事なものなんだと言われるということは、解放されなければならないものを我々が持っているからです。解放されているのだったら、そんなことは言われません。

 そういう意味で、仏陀の目から見ると、私たちは解放されなければならない者として見えているということです。仏さまの方から見ると、人間ががんじがらめに縛られ、いろんなものが障りとなって、いのちを本当にのびのびと、生き生きと生きていないから、念仏という解放の道を開かれたんだ、ということです。
 そのことをたしかにそうだと受け取られて、「念仏とは無碍の一道なり」、念仏は私を解放していく道になりますと、仏陀の願いに応えて言われたのが、親鸞聖人のご了解かと思います。

 こういうご了解の背景には、人間ががんじがらめに縛られていて何ともならないから、解放の道を念仏ということで示そうという、仏陀の願いが先にあって、その願いに応えられたということがあるんですね。

 仏さまの目から見ると、私たちはがんじがらめに縛られているということになるんですが、どうですか。縛られているという感じがしますか。
 そこが問題なんです。仏さまの目から見ると、私たちはがんじがらめに縛られて、いのちをやせ細らせて、そしてかたくなで、狭く、歪んで生きているわけです。だから、本当のいのちを解放する意味で、念仏という道を仏さまは示されたんです。

 そういうふうに仏さまから、お念仏を通して解放されてほしいと願われている、当の我々本人の方は、いたってのんきにしているわけです。縛られていると言われても、そうかなあと思っています。何を縛られているのか、別段不自由ではない、旅行だってしているしと。そういう感じですから、私は結構自由にのんきで、それなりにやれてますと、縛られていることがわからないわけです。

 ですから、そこで仏陀の願いと私たちがすれ違っているわけです。仏さまは、あなたはがんじがらめに縛られているから、そのことに気がついて解放されてほしいということで、念仏というものを願いとして与えられ、開かれたわけです。ところが、当の我々は、別段縛られているとも、不自由とも、悲しいとも、痛いとも思っていないですから、結構やれてますと自信があったりするわけです。
 このように仏さまの願いと私たちがすれ違っているということがあります。そこが念仏の教えがよくわからないというところなんです。真宗の話は結局何が言いたいのかわからない。よくそう言われます。そういうことになっている原因は、このすれ違いにあるかと思います。

 私たちはがんじがらめに縛られているとは意識していませんし、鈍感にもわかりませんから、解放の道として念仏が示されると言われても、はっきりしないわけです。そうかなあと思って、それで仏さまの願いとすれ違う。真宗の話がどうも了解しにくい、念仏がわからないということは、このすれ違いが原因です。

 親鸞聖人は、私ががんじがらめに縛られている、こんなことに縛られていたのか、ということに気づくことが不可欠だと言われます。私はこんなふうに、こんなものに縛られていたんだと気づけば、それを解放する念仏と自分がピタッと合うわけです。すれ違わずに。
 それに気がつかないもんですから、結構やれてますと、自信を持っていて、それで念仏の教えとすれ違ってしまうわけです。

 ああ、こんなことに、こんな形で、こんなふうに縛られていたんだということが見えて、気がついていくということが、どうしても必要になってきます。そうでないと念仏の教えとピタッと合わないんです。すれ違っていくわけです。

 この、気がつくということを、親鸞聖人は信と言われたかと思います。ああ、こんなふうに私はなっていたんだ、こんなふうに私は縛られていたんだ、という自分の姿に目を覚ますことが信ですし、念仏の教えとピタッと合うために不可欠なんだと、我々に示してくださったわけです。
 ですから、真宗では念仏と言うけれども、信心が大事だと言われるのは、そういういわれがあります。

 念仏の教えによって、私がいろんな形でがんじがらめに縛られていたという自分の事実に気がついて、そして気がつくと同時に、それを解放していく道が念仏として与えられていたことに気がつく。そういうことが信の内容です。こういうことが真宗の教えの姿です。
 私たちはこういう念仏の教えを通して、自分自身と自分自身を解放する大地が開くということに、初めて気づくことが起こるんです。それを信と言われているかと思います。

 お釈迦さまは、私たちを縛っている、不自由にしているものの根っこにあるものを発見されたんです。それがお釈迦さまの悟りです。
 何かわけのわからん夢見心地のことを悟ったんじゃないんです。夢見心地なものを悟っても、それは迷いです。悟りじゃないんです。私がこれに縛られて迷っていたんだということに目を覚ますのが悟りです。

 私を縛っていたものを我執と言います。お釈迦さまは、「私」という思いに執われ、それに一番縛られていたということを見つけられたわけです。

 「私」という思いに縛られているということなんですが、PPK運動というのをご存知ですか。老人会運動でこれをやっているんです。皆さん一生懸命やっておられまして、同朋会運動よりもずっと盛んです。PPKというのは英語じゃありません。ピンピンコロリということなんです。
 どういう意味かと言いますと、死ぬまでピンピンと元気でいて、死ぬ時はあまり病まずにコロリと死にたい。虫のいい希望ですが、そういうことを目指して、日頃から適度な運動をして、身体が不自由にならないように鍛え、健康に注意して、ストレスをためないようにし、いろんな会合に出て、楽しくピンピンと、それからコロリ。

 気持ちはよくわかります。しかし、ピンピンとしている間はコロリとできないわけですから、矛盾したことを願っているわけなんですね。
 これは思いなんです。しかし、ピンピンコロリということが、運動となっているということは、ピンピンコロリということが目的であり、目的となる以上は、それがよいことだという前提があるわけです。
 あまり家族に迷惑をかけるような状態にならずに、最後までピンピンと家庭の仕事もこなしながら、朝、起きてこないので見に行ったら、コロリと逝っていた。
 そういうことがよいことだということがあって、そうなりたい、そうなるべきだという思い、希望があるわけです。それで、ピンピンコロリということがよいことだというので、老人会で率先してされているわけです。

 ピンピンコロリがいい、という気持ちはよくわかります。ですが、ピンピンでなくなった人はつらいですね。本当はピンピンコロリがいいことなのに、私はこんなことになってしまった、残念無念、という気持で寝ていなければなりません。不自由な思いをしなければならないわけです。
 そういうことになったら、ピンピンコロリということが、ピンピンでなくなった人にとっては非常に冷たいものを持ちます。
 ピンピンでいなければいけないのに、こんなことになって、申し訳ない、悲しい、もういやになった。そういう自分を否定的に見る思いを募らせるものが、この運動の背景に出てきます。

 そういうことが私たちの思いがもっている暗さです。つまり、思い描く私は、いつまでもピンピンとしていたい。ほんとはコロリと逝きたくない。ずっとピンピンでいることを考えているわけです。でも、いつかは死ななくてはいけない。仕方がないから、せめてコロリと逝きたい。そう私が勝手に思うわけです。そして、ピンピンコロリが私の希望だということになります。しかし事実は、ピンピンでなくなることだってあるわけです。

 私のお寺の同朋会に来ている方なんですが、雪で転んで骨を折られたので、病院にお見舞いに行きました。骨を折った人で病院が一杯なんですね。整形外科の病室に入れなくて、小児科の病棟に入っていました。滑って転んで骨を折る人が続出したんです。
 こういうふうに、ピンピンコロリが希望なんですけれども、骨を折って寝ていなければならないこともあります。そうなると、期待どおりにいかない、残念だ、そんな私はダメだという形で、自分を否定します。こんなことになって悲しいという思いを事実にぶつけるわけです。

 そういう思いが、個人の上ではあるにもかかわらず、仲間の老人会ではピンピンコロリ運動ですから、せっかく運動していながら自分はダメだったいうことになります。それでいよいよつらい思いをすることが出てきます。

 希望どおりになっていくことがよいことなんだ。そういう気持ちがあると思います。しかし、現実はそうじゃないんです。希望どおりにはいきません。そして、そんな現実の自分をダメだと思ってしまいます。残念だ。そういう思いを「私」として、私たちは生きているわけです。

 そして、この思いが満足することが大事だと。思いを満足させるとは希望どおりになるということですが、そのためにいろいろ手をつくし、宗教も使っていきます。
 残念無念というのは苦しいですから、物事は思いようだから、思い方を変える工夫してごらん、という考えを宗教のごとく扱ったりしています。思う私を中心において、希望どおりならよし、そうならない時は事実を秘めて、ないことにする。

 しかし、お釈迦さまが悟られたのは事実を悟られたわけです。人間の事実は生老病死ですね。老い、病んで、そして死んでいく。これが人間の事実だと。老い、病んでいくことが我々の事実性なんです。

 しかし私たちはその事実を認めたくないんです。死はなかなか乗り越えることはできませんが、老いと病いは飛び越えて、という思いがあります。
 ピンピンコロリが絶対だとしたら、生老病死を認めることはできません。老いる自分、病む自分を自分として認めていけない。社会の中でも、同じ年代の仲間がピンピンコロリがいいことだと、老人会でPPK運動をしていくほど、老い、病んでいく自分を認めていけないことが、裏側に残ってくるわけです。

 31,917人、これは昨年一年間、日本で亡くなられた自殺者の数です。これは交通事故死の三倍以上です。この中の35%、10,997人が60才以上です。一般的に言えば、人生の最期を生きて、自分で自分を殺していく、自分で死を選んでいくという方が非常に増えています。
 1998年からこんなに高齢者の自殺が増えたんです。その年にいっぺんに8,000人自殺者が増えているんですけれども、大半が高齢者です。
 多くの場合、いわゆる寝たきりにさせられたり、体が不自由になって介護が必要になると、家族に負担をかけるし、迷惑だと感じる。そして、社会からも、そういう存在は重荷だというようなことを言われるわけです。高齢化社会は若い人に多くの負担をかける、何人かの老人を若者一人でみなければならないとか、そういう統計みたいなことが言われだしてから、高齢者の自殺が増えています。

 老いる私、病む私、そういう私を自分でも認めないし、社会も重荷として感じる。そういうことがストレスとして感じられて、自ら死を選んでいかれる高齢者が増えているわけです。それは非常に大きな問題だと思います。

 老い、病むもの、それが私だ。老いた時は、老いた私が私だ。病んだ時は、病んだ私が私だ。それが事実です。
 しかし、なかなか事実の上に立てないんです。思いを絶対にして、事実を認めません。思いというのは事実から離れていくんです。

 病んだ時に何を考えるかというと、治ったら何をするかと考えます。たしかにそれは希望になります。けれども、病んだ時に、病んだ事実に立てないんです。そこから離れていきます。
 しかし、事実をひきずっていますから、ひきずりかねる時には事実を切っていきます。私の身の事実をも切るわけですから、この身さえも都合が悪くなったら排除します。他人に対してはもちろんそうです。都合が悪くなれば簡単に切ります。

 私の思いを中心に生きれば、思いにかなうものはよしとし、思いにかなわないもの、私を認めてくれないもの、私の思いを応援してくれないものは排除していくという形で生きようとします。ですから、私の思いに合わないもの、都合の合わないものをすべて排除します。今まではその人にいい顔をしていても、ぱっと豹変するわけです。

 そういうふうに、自己の思いを中心にして、思いにかなうものがいいことだという世界を立てようとしていることが、私の根っこに出てきます。そういうことを親鸞聖人は罪福信と言われます。

 罪福信を自分の根っこにおいて、都合の悪いものは全部排除し、都合のいいものだけ呼ぼうとする。こういうものをもとにしたセレモニーが節分です。鬼は外、福は内ですから、都合の悪いもの、鬼は外へ行け、私にとって役に立つもの、福は利用したいから内へ入ってくれ。そう言っているわけです。日本中があげて罪福信ばかりというセレモニーが節分です。
 罪福信をもとにして自分の思いを立てていくことを理想とすれば、自分の都合がすべてだとして、他人の都合を考えないわけですから、必ず他の人の罪福信とぶつかりあいます。そうなると、自分の罪福信をのばしていくために、他を力ずくでもねじまげる、抑えることが当然起こってきます。

 それが私たちの世界です。家族でも、会社の中や自分の近くの人でも。世界では如実にそうです。
 アメリカのブッシュという人は、これからイラン、イラク、北朝鮮と戦争をするんだと言っています。アメリカの言うことを聞かないと、アメリカの罪福信のために都合よくしないと、全部爆弾を落としてやる。そう言うんですね。さすがに世界はあきれてますけれども。
 アメリカが一人勝ちの世界になっていますから、力ずくです。アメリカの罪福信を世界中に認めさせるためにねじふせる。今、世界はそういう形で力と力とがぶつかりあっています。

 我々はそういう罪福の思いに執われ、私の思いを私としていきます。事実を忘れて、私の思いこそが本当の私だと錯覚して執われている。そういう形で私が縛られているのが、私の実体です。
 ああ、これにこういうふうに縛られていたのかと、縛っているものが見えれば、わからずに縛られていることから解かれていくことが始まります。縛られることはなくならないでしょうけど、ああ、またこれに縛られているなという形で、思いから事実に帰って生き続けることができるはずです。

 よくこうやってお話をすると、なんとかわかりました、罪福信を退治すればいいんですね、というふうに話を受けとられることが多いんです。
 しかし、罪福信はダメ、罪福信でなければいいというので、罪福信は都合が悪いから排除して、罪福信のない心を持ってこようということになれば、これがまた罪福信になります。
 思いはダメだから、思いを排除しようというのが思いです。そういうことではないんです。

 そうではなくて、こういう構造をもってがんじがらめに縛られていたということを、私たちに知らせ、教えてくれる教えを、信として仰ぐ。その事実を知らせてくれるはたらきを全面的に信頼するんです。信頼する場所が変わります。

 思いは消えません。思いは消えませんけれども、思いを信頼するんでなくて、こういう構造になっているということを、どこまでも知らせ、どこまでも説いてくる教えを限りなく信頼するんです。そして、その教えを私の立つべき大地にするんです。
 私に自分というものを知らせる教えや、私が信頼を持って立てる大地が、教えのもとに開くんだということを、限りなく信頼するんです。

 念仏という形で、そういう教えの世界が開くということを知らされていく。念仏を通して私の事実を知り、そして、その知らせてくるものを真実として限りなく信頼していく。
 自分の思いを信頼するんじゃないんです。自分の思いを信頼することが、親鸞聖人の教えられている念仏なのではありません。

 自分の思いを変えて何とかしようということ自体が罪福信です。ですから、思いの方を信頼して思いを変えて、何とかしていくことではありません。それだったら今の自分はダメだから、もっと良い自分になろうとすることです。こういうことではないんです。

 そうじゃなくて、私の事実を限りなく知らせてくれるものをどこまでも信頼していくんです。それが私が立っていく真実の大地です。

 だから如来というのは、私たちの事実をどこまでも知らせてくるはたらきであると同時に、この教えてくれるはたらきを信頼して、そこに立っていく大地になるもの、それが如来です。そういう「如来まします」ということを示されてきたのが、念仏ということになると言えるかと思います。

 親鸞聖人は、念仏というのは私たちを解放していく道なんだ、念仏こそが私が立っていく大地となるんだ、ということを伝えようとされたんだと思います。
 このように考えていきますと、私たちがイメージしていた念仏と、宗祖が言われる念仏とはかなり違うことが見えてくるかと思います。

 そういう意味で私たちは、あらためて宗祖の念仏ということを通して、私が念仏をどのように誤解してきたかが見えてくることが、大事な学びの確認ではないかと思いますし、そのことが事実に目を覚ましていくことにつながっていくように思います。
 中途半端ですが、時間が来ましたのでここまでにさせていただきます。どうもありがとうございます。
(2002年2月4日に大竹市の誓立寺で行われました推進員研修会でのお話をまとめたものです)