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「三つの出会い―阿難・韋提希・阿闍世」  第4回
 2002年2月2日(土)
 
   第4回「悲しみの底にある問い」 

  1

 どうもご苦労様です。今日で第四回目となりました。
 先回、最後のまとめの時に、王舎城の物語の中で親鸞聖人が守門者というあり方を問題にし、特に注意しておられるということをお話ししました。今日はもう一度ここのところからお話ししたいと思います。
 この守門者というのは、頻婆娑羅王が息子の阿闍世によって幽閉された牢獄の門番のことです。そしてその門番は、新しい王となった阿闍世から決して誰も通さず、食べ物も飲み物も与えてはいけないと、命令を受けるわけです。
 その阿闍世に対しては、「よく分かりました」と言って命令に従うんですが、一方、王妃だった韋提希がその牢にやって来ると、「どうぞ、どうぞ」と言って通してしまいます。あるいは、お釈迦さまの弟子が来るとまた通してしまう。
 つまり守門者というのは、その場その場で強い権威を持った人が現れると、その人に合わせて顔を変えてしまう存在として描かれています。
 これは何も経典の上でのことだけではなくて、私たちの生活の中でも相手に合わせた顔をして、自分をくるりくるりと変えていくということを、我々もよくしているということをお話ししました。
 もちろん二千五百年前のインド社会においては、守門者は身分の低い存在でした。ですから、王様である阿闍世や王妃である韋提希といった身分の高い、権力を持った人たちの前では、その人に合わせていなければ自分の身が危ないので、身を翻していかなければいけない存在でしたし、そういうところに追い詰められていた人です。
 本来、自分で考え、自分で行動していく人間を、その場その場で合わせていかざるを得ないようなところに置いてしまう社会の構造の問題が、一方ではあるわけです。
 そのことを今日に移しますと、私たちがいかにも守門者のように、その場その場に合わせて一貫せず、自分で自分のことをきちんと考えようとしない、そしてどの人に対してもいい顔をしていくような生き方をしているといった問題が、ここにあぶり出されているといってもよいかと思われます。
 その場その場で、力を持った人に合わせていかないと、我々の社会の中でもなかなか身が持たないということがあります。それで、そういう生き方をせざるを得ないことを、自分に対しては、仕方がないと言います。
 ところが、自分以外の人がそういう姿をとっていたり、自分の競争相手の者が八方美人的にうまく調子を合わせているのを見ると、お調子者で信用できない者として、「あれでもきちんとした人間なのか」などと言ってしまいます。
 ですから、同じ守門者のような生き方をするといっても、自分に対しては「まあ仕方がない」と言い、他人に対しては「それでもちゃんとしたおとななのか」と言って批判をしていきます。自分に対しては弁護し、他人に対しては許せないとして、同じ問題を翻していくということが、私たちの中にはあります。
 ですから自分自身に対しても、守門者のような形で眼を向けているということがあるわけです。自分の生き方というものが一貫せず、自分で自分のことをちゃんと考えようとせずに、自分に対してもその場の状況に合わせて自己弁護を繰り返していく姿が、守門者という形で描かれ、私たちに問題を提起されているのだと思います。
 最近もアフガン復興会議へのNGOの参加をめぐって、力のある議員が「そのNGO団体を出席させるな」と言うと、「はいはい」と聞くわけですし、そのことを知った大臣が「出席させろ」と言うと、それにも「はいはい」と言うことを聞くわけです。まさに守門者のようなかたちで問題が起きています。
 さらに、そのことを言ったとか、言わないとかということをめぐって大きな問題になりました。
 ある意味で私たちは、声の大きい、力のある人の意見にその場で合わせて顔を変えていきますが、そういうことが国の政治の場面でもたくさん見受けられます。
 もしそれが今日的問題であるとするならば、あらためて私たちが自分自身をきちんと生きていくということを、もう一度しっかりと見つめなければならないと思います。

  2

 それでは次へ読み進めながら、私たちの問題を尋ねていきたいと思います。『現代の聖典』34ページを見てください。

時に阿闍世、この語を聞き已りて、その母を怒りて曰わまく、「わが母はこれ賊なり、賊と伴たり。沙門は悪人なり。幻惑の呪術をもって、この悪王をして多日、死せざらしむ。」すなわち利剣を執りて、その母を害せんとす。時に一の臣あり、名をば月光と曰う。聡明にして多智なり。および耆婆と、王のために、礼を作して白して言さく、「大王、臣聞く、『毘陀論経』に説かく、劫初よりこのかた、もろもろの悪王ありて、国位を貪るがゆえに、その父を殺害せること一万八千なり。未だむかしにも聞かず、無道に母を害することあるをば。王いまこの殺逆の事をなさば、刹利種を汚してん。臣聞くに忍びず。これ栴陀羅なり。宜しく此に住すべからず。」時に二の大臣、この語を説き竟りて、手をもって剣を按えて、却行して退く。時に阿闍世、驚怖し惶懼して、耆婆に告げて言わく、「汝、我がためにせざらんや」と。耆婆、白して言さく、「大王、慎みて母を害することなかれ」と。王この語を聞きて、懺悔して救けんことを求む。すなわち剣を捨てて、止りて母を害せず。内官に勅語し、深宮に閉置して、また出ださしめず。
(阿闍世はこの話を聞き終えると、怒りに身をふるわせて言いました。
「母は私を裏切った。悪党の味方をしおって。出家の悪人どもめが。人をたぶらかすまじないを使って、父の悪王を何日も生きながらえさせおった。」
こう言い終わるが早いか、阿闍世はすぐさま母のところへ行き、鋭い剣をとって、母に切りかかろうとしました。
その時、阿闍世の側近に、月光という名のひとりの大臣がいました。彼は聡明で知恵にすぐれていました。月光大臣は耆婆大臣とともに阿闍世王の前に進み出て、拝礼して申し上げました。
「大王さま、わたくしどもの聞くところによりますとヴェーダという古い経典には、『この世が始まってからこれまで、王位ほしさから父親の王を殺した例は一万八千にものぼる』と説かれています。しかし、無道にも生みの母親を殺害したということは、いまだかつて聞いたこともございません。それなのに、もしいま王さまが、そのような悪逆無道なふるまいをなされば、クシャトリヤの名誉を汚すことになるでしょう。わたくしどもには耳にすることさえ堪えられません。それはチャンダーラのすることです。こうなっては、わたくしどもはもはやあなたを王としてこのお城にお置きするわけにはまいりません。」
こう言い終わると、二人の大臣は剣のつかに手をかけ、身構えながらじりじりと後ろへさがりました。阿闍世は二人の思いがけない激しい言葉と態度におどろきうろたえ、おびえながら、耆婆に向かって、
「お前もわたしを見捨てるのか。」
と責めました。耆婆は、
「決してそうではありません、大王さま。どうか自重なさって、母君を害することをお止めください。」
とまごころをこめて申し上げました。これを聞いた阿闍世は自分の過ちを感じて悔い、どうか許してくれと二人に頼みました。そして剣を床に投げ捨て、母親を殺すことだけは思いとどまりました。しかしなお母に対する怒りと不信のおさまりきらぬ阿闍世は、王宮の役人に命じて、韋提希夫人を王宮の奥深く閉じ込め、一歩も外に出られないようにさせました。)

 この部分は、母親を殺そうとした阿闍世が家臣から諫められて、殺さずに頻婆娑羅王と同じように閉じ込めてしまう、ということが書かれています。先回では、国政のあり方や王位という権力をめぐっての争いが、父と子の争いの中で見られたわけです。
 先回の父と子という関係に対し、今回は母と子という争いの構図になります。これは少し趣が違ってきています。『観無量寿経』では、父と子の対立と、母と子の対立を分けていますが、そこに何か深い意味があると思います。
 先回の復習になりますが、もともと国を治める理念について父と多少の意見の違いがあった阿闍世は、お釈迦さまに代わって仏教教団のリーダーになろうと思っている提婆を支持していた。提婆も阿闍世をたのんで自分がリーダーになろうとしていた。それで阿闍世に王位を奪うことを勧めます。そのことに多少のためらいを持っている阿闍世に、提婆は出生の秘密を明かして、王を閉じ込めてクーデターを決行させていきます。
 その段階では、阿闍世は母親である韋提希には何もしていないし、怒りも向けていません。ここが不思議なところです。
 実際に自分を殺そうとした実行犯は母親の韋提希であって、頻婆娑羅は現在の刑事事件の言い方では殺人教唆であり、殺すのを勧めただけです。実際に手を下したのは母親です。
 ところが、阿闍世は母親に具体的には何もしていないのですから、やはり出生の秘密というのはクーデターへのきっかけになってはいますが、それが阿闍世の怒りをよんでいるわけではありません。
 ところがここの場面では、阿闍世は怒りだします。なぜ怒るかというと、それは自分を生む時に殺そうとしたからではなくて、王となった自分の命令を聞かなかったということにあるわけです。
 自分の命令を無視して、母が頻婆娑羅に食べ物と飲み物を差し入れていると聞いて、阿闍世は怒りだしたわけです。
 阿闍世は、母親だけは自分の味方をしてくれる、と信頼していたと思います。まわりの人間はいろいろと言うだろうし、国中の者も自分のことを未生怨と言い、今に何かしでかに違いないと、裏にまわっては噂をし、冷たい眼を向けていたわけです。
 それに孤独感を感じていた阿闍世ですが、母親だけは自分を理解し、自分の味方をしてくれるはずだと思っていたんですね。ところが、その母にも裏切られたという絶望感が、阿闍世をして非常に感情的にさせたわけです。母まで自分を裏切るのかと。
 非常に感情的になったということは、この『観無量寿経』には出てきません。この王舎城の物語は『涅槃経』というお経に詳しく出てきます。
 その『涅槃経』を見ますと、阿闍世は自分で母親の所へ行き、母親の髪の毛をつかんで引きずり倒し、剣を抜いて殺そうとした、という記述になっています。そこに母にも裏切られたという絶望的孤独感からくる、阿闍世の感情の爆発が表れています。
 阿闍世は当時インド最大の国の王になっていました。王はまわりに対して威厳をもってふるまうことで、自分の存在を示し、支配力を強めていくものです。それからすると、自分で母親の所へ走って行くようなことはしないものです。普通なら人を遣わして母親を自分の所に連れてこさせるか、呼びつけるわけです。しかし、もうそんな威厳にかまっていられなくて、母親の所へ怒って行ってしまったわけです。
 そこに、王として威厳をもってふるまうことを忘れてしまうほど、阿闍世が感情的になっていることがわかります。自分で髪の毛をつかんで倒して、殺そうとするというのは、王としてのふるまいではありません。本来なら、人に命じて殺させるのであって、自分が手に掛けるようなことはしません。
 父親に対してクーデターをした時には、阿闍世は自分で手を下していません。それが当時の王という者の姿です。その王の姿を忘れてしまって非常に感情的になってしまったわけです。そこに母と子との信頼が切れた姿が描かれています。

 そして韋提希の方にも、阿闍世の言うことを聞かずに頻婆娑羅に食べ物や飲み物を差し入れるのですが、そういうことをしても、阿闍世は怒るかもしれないが、最終的にはわかってくれるだろう、という思いがあったと考えられます。
 ところが意に反して、阿闍世は自分を殺そうとしたわけです。そのことに韋提希は非常にショックを受けます。そしてさらに、息子である阿闍世に「我が母はこれ賊なり」とまで言われるわけです。賊であるという烙印を押され、殺されそうになったわけです。
 このように、父と子の場合は政権をめぐる理念の争いでしたが、母と子の争いは非常に感情的で生々しい人間の争いの姿として経典に描かれています。この感情的なところが一つのポイントになります。
 と申しますのも、王様というのは、王という存在一人のもとに、その国のあらゆる者の生殺与奪の権利を持っています。その国に住む者の生死を与えるか奪うかという権利が集中しているわけです。

 そういう王が激情に駆られて殺そうとするわけですが、次の場面では殺すことをやめます。絶対の権力者が激情に駆られて殺そうとする。それほどのことになっているものを止める手立てがあったわけです。それが次の月光の発言です。
 月光とはこの国の大臣の一人で、「聡明にして多智なり」とありますように、非常に頭脳明晰でいろんなことをたくさん知っている知恵者という存在です。その人が激情に駆られた絶対者である王を止めたわけです。それを止めた言葉がこれです。
「大王、私は聞いています。古来、『毘陀論経』(ヴェーダ)の教えによると、王位が欲しくて父を殺した王はたくさんいます。しかし母を殺した王はいません。もし母を殺せば、刹利種(クシャトリア)としての名を汚します。それは栴陀羅(チャンダーラ)と同じことになります。栴陀羅になるのなら、あなたにはここにいてもらうわけにはいきません」
と、そういう言い方をするわけです。
 その言葉が激情に駆られて殺そうとする絶対者の王を止めていくんです。つまり、この言葉が具体的に非常な力をもって働いているわけです。
 チャンダーラとは、インド社会が生み出し温存している差別制度であるカースト制度の中の最下層の人々の呼び名で、生まれながらに人間として扱われず、厳しい差別の中に置かれています。
 インドでは現在、法律でカースト制度を禁止していりますが、実際は非常に厳しい差別構造がはたらいています。
 インドには、もともとドラビダ系といわれる人たちが住んでいました。それが今から五千年以上前に、北の中央アジアの方からアーリア民族といわれる人たちが侵入してきます。アーリア系の人たちは、今のヨーロッパにいる人たちと人種的なつながりがあります。そして、ドラビダ系の人たちを滅ぼし支配して、国を作ります。
 したがって、支配者であるアーリア系がカーストでは上位を占めます。そして支配された人たちが下のカーストに置かれたわけです。
 そのように、民族とか人種とかをカーストという段階で分け、後から来たアーリア系を上に、ドラビダ系を下という形で、支配の構造が差別の姿で固定化していくのが、カースト制度といわれるものです。
 一番上の階級がバラモンといわれるバラモン教(現在のヒンズー教)の聖職者です。次がここに出てくるクシャトリアです。刹利種というように漢字では書きます。王侯貴族です。その次がバイシャです。これは商人や農民、職人などの階級です。その下がシュードラです。シュードラとは、この上の三つの階級に仕える奴隷の階級です。ここに出てくるチャンダーラといわれる人たちは、最下層に置かれます。
 そしてカーストとは、この上の四つの階級であり、その下はカーストにも入らないのですから、アウトカーストといわれます。現在ではローカーストといわれていますが、そういう存在です。
 このように人間を生まれながらの階級で差別することを、バラモン教という教えによって正当化していったわけです。それがカースト制度です。
 お釈迦さまの伝記を見ますと、お釈迦さまはルンビニー(という所でお生まれになられました。産気づいたマヤ夫人が、無憂樹という木につかまってお釈迦さまを生んだということになっています。そしてお釈迦さまはマヤ夫人の脇の下から生まれたと書いてあります。
 これは生まれによって人を差別するカースト制度の影響を受けた表現です。
 バラモンは口から生まれ、クシャトリアは脇から生まれ、バイシャは腹から生まれ、シュードラは足の下から生まれるというふうに、生まれ方も全然違うのだとして、差別を固定化する見方があります。
 足の下とは、もともと踏みつけられる存在として生まれたということを意味します。
 つまり、お釈迦さまが脇の下から生まれたというのは、クシャトリアの出身であると語られたわけです。
 インドでは現在、法律上カースト制度を禁止していますが、民衆の中には今も色濃く残っています。
 阿闍世も韋提希も月光もクシャトリアです。国の支配者という階級はクシャトリアなんです。
「クシャトリアというのは母を殺すようなことはしない。そんなことをする者はチャンダーラだ」
と、月光は言ったわけです。ということは、チャンダーラといわれる人たちは母を殺すような者である、と決めつけているわけです。そして、そういう形でチャンダーラを貶めて差別しているわけです。そして、それゆえ社会から人間扱いされないことを当然とする構造が厳然としてあることが、その背景にあります。
 そしてまた、我々クシャトリアは無道なことをしないものだと優位性を誇っています。こういう構造の上で語られたのが、月光の言葉です。
 月光大臣はマガダ国の長老ですが、こういう構造が世の秩序であって、間違いのない秩序だということを当然として考えています。そしてこの秩序を維持していくことについて、たくさんの知恵を持っている大臣です。
 阿闍世も、「そんなことをする者はチャンダーラの身分に落として、城から出て行ってもらうぞ」と言われると、絶対者であり、激情に駆られていても、チャンダーラに落とされることを非常に怖れて、母を殺すことをやめていくわけです。それほどカースト制度が強固な差別の構造として機能しているわけです。
 つまり月光は差別を利用して止めたわけです。そういうことを私たちも往々にしてやっています。

 つい最近も、田中真紀子さんが思わず悔しさから涙を流しましたが、小泉首相の「涙は女性の最大の武器だ。泣かれたら男は逆らえない」という言い方が大変問題になりました。当然これは問題です。
 つまり日本には、男性が主であって女性が従だ、という意識もあり、そういう構造も残っています。女性が社会の中で活動をしたり仕事に就こうとすることに、まだ大きなハンディが残されています。給与面でも役職面でもそうです。
 だから「女のくせに」とか「女だてらに」とか、ひどい場合は「女の腐ったような奴だ」などという言い方までします。つまりそのことによって、相手を軽蔑すると同時に、女性というのはそんなものだとして、そういう構造を当然のものとし、軽蔑の言葉に使うことを通して、あらためて女性を軽蔑し差別することをし直すわけです。そういうことが我々の生活に中にいっぱいあります。
 最近経験したことですが、子どもが食べ物をおもちゃにしたり、ごはんをこぼしたりすると「もったいないことをしてはいけない」と注意するのは、大事なことです。食べ物のことだけでなく、社会全体の大量消費文化の中でもったいないということが忘れられているのが、今日の日本の大きな問題です。
 しかし、そのことを注意する時、「そんなふうに食べ物をおもちゃにしたら、バチが当たって目がつぶれるぞ」という言い方を、皆さんも言ったり、言われたりしたことがあると思います。
 実は、私の知っている保育園で、保育士さんが、昼ご飯の時に園児が食べ物を粗末にしたものですから、「そんなことをしたらバチが当たって目がつぶれるよ」と注意したわけです。
 ところが、ある園児のお母さんは目の不自由な人だったんです。ということは、その言葉で、その園児のお母さんは食べ物を粗末にしたからバチが当たって、眼が不自由になった、ということを言外で言ってしまったことになります。
 私たちは、眼が不自由であるとか、身体に障害があるという人を貶めて、同じ人間として見ないという形で下に置くことをしてきました。そして、あのようになったのは何か良くないことをした報いだ、因果応報だ、という言い方がずっとあるように、そういう人たちを貶めてきたんです。そういう貶めてきた行動があるから、バチが当たって目がつぶれるという言葉が出ているわけです。
 食べ物を粗末にしてはいけないということを伝えるのは大事なことですが、その時に「目がつぶれるぞ」と言うのは、注意しているのでも叱っているのでもなく、脅しているだけです。叱るというのは脅すということではありません。
 今日、子どもたちがきちんと叱られないのは不幸なことです。もちろん、きちんと叱るというのは叩くことではありません。これだけははっきりとしておかなければならないと思います。
 私たちも叩かれて育ってきていますから、どうしても体罰を弁護したい気持ちがあります。愛情があって叩くんだとか、叩いても愛情があれば伝わるんだという言い方をします。
 しかし、人間のやることですから、本当はかっとなってしているわけです。愛情があれば叩いてもいいと言うのなら、正義のためだから爆弾を落としてもいいということになります。言い方としては同じフレーズです。正義だったら何をしてもいいのかということが、今、世界的問題だと思います。
 先日も京都のデパートに行くと、小さなお子さんが走り回っていたんですね。そこにお母さんがやって来て。「こんな所で走り回っていると、どっかの怖いおじさんが来て怒るよ」と言うんです。それは脅しているわけです。
 こういう所で走り回るのは、まわりの人に迷惑をかけることだ、あなた一人の場所ではないんだ、あなた一人で生きているわけではないんだ、ということを子どもに話して、そのことを自分も確認して、共にうなずきあうというのが、本来の叱るということであり、それがあって初めて伝わるわけです。叩いたり脅したりするのは叱ることではありません。
 私たちは日常の中で、同じことをよくやっています。そのことを通して、差別を利用し,さらに差別し直していくわけです。そしてそのことが差別だとも、問題だとも気がつかずに、こういう構造をそのままにしていく。そういうことが私たちの問題です。
 こういう問題が「栴陀羅」という月光の一連のものの言い方の中で浮かび上がっていると言えます。そういうことが、我々のもう一度考えなければならない学ぶべき問題ではないかと思います。

  3

 その後をもう少し進めてみたいと思います。そのようにして阿闍世は一応殺害を思いとどまりますが、やはり頻婆娑羅と同じように、母親も宮殿の奥深くに閉じ込めてしまいます。そこから次の部分になりますが、『現代の聖典』では44ページになります。

 時に韋提希、幽閉せられ已りて、愁憂憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かいて、仏の為に礼を作して、この言を作さく、「如来世尊、在昔の時、恒に阿難を遣わして来らしめて、我を慰問したまいき。我いま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつること得るに由なし。願わくは目連と尊者阿難を遣わして、我がために相見せしめたまうべし。」この語を作し已りて、斐泣雨涙して、はるかに仏に向いて礼したてまつる。
(「世尊よ、かねがねあなたさまはよく阿難尊者をおつかわしになって、わたくしを慰めてくださいました。いま、わたくしはつらくてどうしようもありません。でも、世尊のおでましを願うのは、あまりにおそれおおいことでございますから、どうかお弟子の目連尊者と阿難尊者をおつかわしくださいませ。」
このように言い終わると、韋提希は悲しみの涙を雨と注ぎ、はるか釈尊に向かって礼拝いたしました。)

 殺されそうになったけど助かって、部屋に閉じ込められることになった韋提希は、深く憂いて嘆き悲しんだということが書かれています。
 ことの流れからいくと別に違和感はないんですが、善導大師がここで一つの問題を出しておられます。なぜ韋提希はここで憂い悲しみ嘆くのかと。
 我々はあまり気がつかないことですが、善導大師はここでちょっと立ち止まります。殺されそうになったけど、殺されずにすんだのだから、一応ほっとして安心すればいいじゃないかと、それなのになぜ「愁憂憔悴」するのか、というので問題を立てられるたわけです。
 そして、ここでの韋提希の憂いと悲しみを三つあげられます。
 一つは、頻婆娑羅についてです。自分が閉じ込められてしまったから、誰も食べ物を差し入れないだろう。そして、頻婆娑羅は自分が閉じ込められたことを聞いているだろうから、自分のことを心配しているだろう。食べ物もないのに、そういう心配をしていては命が縮めることになるのではないかということ。
 二つ目は、こんな所に閉じ込められて、お釈迦さまに会うことも、教えを聞くこともできないということ。
 三つ目は、やがて自分もここに閉じ込められたまま一人寂しく死んでいかなければならないということ。
 この三つが韋提希を憂い悲しませていると、善導大師は見られています。
 しかしよく考えてみると、この三つの憂いはいずれも別に閉じ込められなくてもある問題です。何事も起きなくても、やがては頻婆娑羅は死んでいきます。もちろん歳の順番に死んでいくとは限りませんが、この時、頻婆娑羅は六十代後半です。当時のインドでは、いつ死んでもおかしくない歳です。ですから、頻婆娑羅がいつか死んでしまうことは、こんな事態にならなくてもあった問題です。
 それから、こんな身ではお釈迦さまの教えを聞くことも学ぶこともできないということは、それならば追い詰められ、厳しい状況に置かれたら、その時に今まで聞いてきた教えが力とならないのか、ということになります。何を聞いてきたんだろうか、ということです。
 それも、閉じ込められなければそういう問題がなかったのかというと、実はそういう状況に置かれた時にこそ、あらためて学び直せるようなかたちで、仏教を学んでいなかったということが、すでにあった問題です。
 そして、私もやがて一人死んでいかなければならないという問題も、閉じ込められなくてもある問題です。閉じ込められなければずっと生きていることができるということはありません。
 ですから、閉じ込められなくてもあった問題に、閉じ込められたことによって気がついたわけです。韋提希は今までそういう問題に気がつかずに生活してきたということです。
 韋提希は王妃ですから、儀式や政治的セレモニー、いろんな人に会ったりと、次から次へと仕事があり、毎日が大変忙しいということもあったでしょう。そして同時に、王妃として美しく着飾り、教養もあり、みんなからかしずかれている自分に満々の自信があったことでしょう。
 ですから、こういう問題に今まで目が向かなかったということがあったと思います。しかし、閉じ込められて、今まで見えなかったけど、現にあった問題に韋提希が向かうことが始まったということが、善導大師の見ようとされたことだと思います。
 そしてそのことが、いよいよ韋提希をして、人間が問わなければならない問題の本質に向かわせることが、今から展開していきます。
 ただ韋提希の方は、直ちに問題の本質に向かったというわけではなく、少し紆余曲折が出てきます。

 憂い意気消沈した韋提希は、それまで自分で自分にもっていた自信がゆらぎ、不安になり、それで阿難や目連という仏弟子に慰めにきてもらうことを要請します。なぜお釈迦さまに来てもらおうとしなかったのでしょうか。
私たちは自信をなくした時、自分のことを胸をはって認められなくなっていきます。「こんな自分では」「どうせ私なんか」と自己否定的な思いに執われます。
 このように自信をなくした時に「あなたは、よくやっているのだから、そんなにしょげずに」と、私もそう捨てた者ではないと認めてくれる言葉をかけて慰めてくれる人があれば、慰められることがあります。それで自信を回復して、もう一度チャレンジしようと思い直すことにもなります。
 このことが間違いということではなく、そのように我々は慰められたり慰めたりして、立ち直ってきたこともあるでしょう。しかしそのことは裏側で、認めて慰めをくれる人やものばかりを求め、まわりをそうしたもので固めたり、それだけを探しているうちに、自分の事実をきちんと見ようとしないことになるという問題が、同時に生じるかと思います。
 つまり、自分を持ち上げてくれる、ちやほやしてくれる、そういう人は気に入って、そういう人たちだけを集めようとします。自分に合わせてくれるイエスマン、守門者だけを集めて、みんなが自分を認めてくれると喜んでいるということが、私たちの中で起こります。ですから、韋提希も最初は問題を感じながら、この問題を抱えたくないために、慰めてもらってなんとか自信を取り戻したいということで、仏弟子の慰問を願うことになったわけです。

 いつもここで思い出すことですが、私の知り合いに買い物好きな方がいます。バーゲンや売り出しなどがあると必ず行きます。そして帰りに我が家に立ち寄って、「これを買った、いくらで買った」と言って見せてくれるんです。そして「いい買い物したね。買い物が上手だ」と、みんながほめてくれるまで言い続けます。
 いい買い物をした自分を認めてほしいわけです。ですから、「そんなもの買って損なことをした。なんでそんな物を買ったんだ」などと言えば大変なことになりますから、「いい買い物した。よく似合う」と言うように、母親に言っているんです。
 それから以前聞いた話です。ある人が大腸癌になって、手術はうまくいったんです。おそらく抗癌剤による治療でうまくいくと思いますが、本人にしてみれば大変なことなんですね。癌になったらもう終わりだという意識がどうしてもあります。
 癌は今は早期発見やいろいろな治療法によって、かなり治る病気なんですが、我々の自信を揺るがせ、立っていられなくさせるんですね。
 それで、その方は今かかっている病院以外の病院にも行くわけです。そしてついに他の町の大きな病院まで行かれたのです。何か新しい治療法を探して行かれたというわけではなく、癌ではないという診断を出してくれないかと思って行かれたわけです。
 気持ちはよくわかります。自信がなくなって、どうしても駄目だという意識がありますから、大きな病院できちんと診断してもらい、「癌ではありません」と言ってくれないかなあ、と思うらしいんですね。そしてあちこちの病院をまわっているんですが、どこも癌だと言うわけです。その間に治療に専念した方がいいと思うんですが。
 そういうふうに、立てなくなると、立たしてくれるものを探す。それが慰問です。慰めは、場合によってはとても勇気づけられるし、力づけられるますが、それだけを求めていくと、事実を見誤ることもいっぱいあります。そういう問題が韋提希の慰問ということに出ていると思われます。
 私たちは宗教に対しても、ここで韋提希が求めたような慰めではないかと思ったり、そんなイメージを持って、そういう宗教を求めていくということもあるかと思います。

 それに対してお釈迦さまは、仏教はそういうものではないんだと、ここで身をもって示されます。『現代の聖典』45ページを見ていただきますと、

仏、耆闍崛山より、王宮に没して出でたもう。時に韋提希、礼し已りて頭を挙げて、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。
(仏陀ご自身は、耆闍崛山から姿を消して、たちまちのうちに王宮に出現されました。)

 つまり韋提希は、お釈迦さまは偉すぎるから、対面して、ちょっと慰めてもらうにはしんどすぎるし、こんな身になってはお釈迦さまに会わせる顔がないので、お釈迦さまでなくてもいいと、親しくて気軽に慰めてくれるお弟子に来てもらうことを願ったわけです。
 しかし意に反して、お釈迦さまが来てしまうわけです。そこに仏教というものの重要な意味があります。
 ちょっと慰めてもらって、自信をつけようとしていた韋提希の思惑を超えて、お釈迦さまが現れたことにより、韋提希は自分の直面する事実に対面することになります。如来とは我々に安易な慰めを与えるものではなく、事実を知らせるはたらきであることが、ここで示されています。そのことを、身をもって釈尊が示しておられるわけです。
 韋提希の心を知ろしめして、目連なども遣わしたけど、仏自身が耆闍崛山に飛んできた、という表現になっています。
 それは慰めをもって問題や事実をごまかそうとする韋提希に、それでは駄目だ、もう一度、事実のところに立つことが大事なんだという、問題の重大性が、飛んでくるという表現になっていると思います。如来とは安易な慰めを与えるものではなく、我々に本当の問題に立ち向かわせていく教えのはたらきなのだということを、こういう表現で『観無量寿経』は我々に訴えようとしていると思います。
 私たちどういう形で宗教を求めたり、イメージしているかということを、このあたりから見直すことができればと思います。
 この後、お釈迦さまが現れたために、いよいよ韋提希は自分自身の事実に対面して、そこから本当の問題に向かっていく、そういう歩みが展開していくわけです。
 その部分については、後半で少し触れたいと思いますので、前半のお話はここまでにさせていただきます。

  4

 どうも座談会、ご苦労様でした。座談会の様子を聞かせていただきました。時間もありませんので、二点だけ触れさせていただきます。
 先ほども触れましたし、座談会の中でも出ました差別という問題ですが、カースト制度というのは、人を段階に分け、差別を設けて支配していく構造です。
 たしかに私たちの中には差別の心があります。それは、そういう構造の中で育っていますから、その構造通りの心が我々の中に生まれてくるわけです。そしてその心があるから、またその構造を作っていくわけです。
 差別とは支配の構造であると言えます。先ほど申しましたように、後から来たアーリア民族が、元々インドにいた人たちを支配する構造として、こういうものを考えだし、作っていったわけです。このように、いろんな構造によって支配されていくということがあります。
 私たちのところで言いますと、戦国時代に一向宗といわれた浄土真宗の門徒たちが、非常に大きな力を持っていて、一向一揆を起こし、加賀の国では一つの国を百姓の持つ国として維持したことがありました。ですから、戦国の殿様たちはどうやってこの一向宗というものを支配していくかが、大きな問題だったわけです。
 その当時、浄土真宗の門徒は人口の半分以上を占めていたと考えられますから、非常に大きな勢力です。
 そこで、賢いというか、ずる賢いというか、徳川家康が大きな力を持っている本願寺を東西に分けたんです。そしてその東西を競わせることによって、上から支配したわけです。
 強大な力を持っているものは、半分に分けて、互いをいがみ合わせ、喧嘩をさせ、その喧嘩を上からうまく利用して支配するという構造があります。それも差別の構造の中に入っていきます。カースト制度もそういう形です。
 生まれによって人に差別をつけて、そしてこういう生まれの者は駄目な者だと下位に置いて、踏みつけにしていきます。
 このチャンダーラ(現在はアンタッチャブルとか不可触民、ハリジャンとも呼ばれる)といわれている人たちは、現在でも非常に厳しい差別の状況にあります。たとえば、インドの農村に行きますと、村に井戸がありますが、チャンダーラの人たちは井戸の水を自分でくむことを許されません。その人たちが井戸に触ると、穢れが水を通して他のカーストに伝わるから駄目だというわけです。それで、井戸水に触ってもよいカーストの人が来て、気まぐれに水をくんでくれるまで待っていなくてはなりません。そういう扱いを受けています。
 もちろん表面的にはわかりませんし、若い人たちの中にはカーストというものを越えていこうという動きもありますが。
 カースト制度を具体的に私が感じたのは、インドに旅行をした時です。ガイドをしてくれたインド人とだいぶ親しくなったものですから、「あなたのカーストは何ですか」と聞いたんです。すると「私はバラモンの出身です」と言われました。
 といってもお坊さんではありません。バラモンというのは家系ですから、バラモンだからといって、みんなお坊さんというわけではありません。
 インドでは生水は飲めませんから、ミネラルウォーターを飲むんですが、その方はミネラルウォーターのペットボトルには決して口をつけないんですね。離して飲むんです。そのペットボトルに、自分より下のカーストの人間が触っているかもしれないから、口をつけないのだ、という意識があるからです。
 また別の時に行った時のガイドさんは、非常に特徴のある名字を持っておられました。その名字はインドの歴史を知っている人なら、思い当たるような有名な名前だったので、何か関係があるんですか、と聞いてみたんです。すると「いや、違います。私はバイシャですが、私と同じ名字を持っている人は大体バイシャです。ヒンズー教の中でも特別、戒律をきちんと守ることを表明しているのが私たちです」と言っておられました。
 人を騙さない、欺かない、嘘をつかないという戒律をきちんと守っているカーストであるということです。だから、人から信用されるそうで、「私と同じ名字のカーストの人は商売をしている人が多いです」と言っておられました。
 それでわかるように、カースト制度は今のインドの若い人は知らないと言いますけど、お年寄りならその人の出身地域と名字を聞けば、その人が属するカーストがわかるという仕組みなんだそうです。
 お釈迦さまはカースト制度を否定されます。これは間違っていると。人間は生まれによって、尊かったり、卑しかったりしないと。そして具体的には、カーストがわかる名字をやめて、教えにちなんだ名前を名告り直して、仏弟子になったんです。
 法名とはそういうことです。法名とは仏弟子としての名前です。古くはお釈迦さまの時代から伝統されています。カーストの名残りのある名前を捨てて、教えにちなんだ名前に名告り直して、仏陀のもとで共に平等なる事実を見出していくということが、仏弟子の具体的な実践の最初であったわけです。それが法名という名告りの大事な意味です。
 事実を見るとか、事実に対面するなどと言っても、事実を見てどうなるんだと思われるかもしれません。しかし、我々のいのちの事実は、生まれによって尊かったり、卑しかったりしないというのが事実です。それがきちんと認められるならば、カースト制度はおかしいということが、智慧として出てきます。それが仏教の学びです。
 このように、事実を見ることによって私たちがいかに錯覚をしていたか、いかに歪んでいたか、いかに狭かったかということもわかってきます。そこから私たちの智慧が開いてくるかと思います。
 仏教を学ぶということは、何か特別よい解決方法を見出すということではなく、私が私のいのちの事実にきちんと目を開いていく、それを教えられていくということが、基本であると思います。
 これを仏教では諸法実相と言います。諸法(あらゆるもの)の実相(事実の姿)を見ていく。そして結論は、諸法は平等だと。
 何か特別に幅をきかせて偉いものがあるわけでもないし、片隅で我慢しなければならないものがあるわけでもないんだと。それなのに構造的に差別を作っていくこと自体が人間の錯覚であると。そして錯覚に目を覚まして事実に帰っていくわけです。
 それが事実に学び、事実を認めていくという仏教の学びの基本ではないかと思います。

  5

 後半が少し残っていまが、次回もう少し詳しくお話します。
 次回の予告になりますが、それまで王妃の椅子から追われて閉じ込められていても、王妃としての威厳とか品位を保っていた韋提希が、お釈迦さまが現れたのでびっくりしてしまい、もうその品位を保っていられなくなります。
 そして、身につけていた王妃としてのしるしであるネックレスとかイヤリングとかブレスレットなどを全部、引きちぎって投げ捨て、自分も地に身を投げ出して嘆きます。
 そしてお釈迦さまに、「私はどんな因縁があってこんな悪い子を産んだのでしょうか」と訴えます。これは阿闍世に対する恨みです。「なんで私がこんな目に遭うのか」と。
 しかし考えてみれば、阿闍世がこんなことをしたのは提婆達多がそそのかしたからだというので、「お釈迦さま、提婆達多はあなたの弟子であり、従兄弟でしょう。あなたに責任があるのではないですか」と言うわけです。
 阿闍世と提婆と、そして釈尊への恨みをぶつけていくわけです。阿闍世がこんなことをしたのは、提婆がそそのかしたからだと。うちの子に限ってと思っていたけれども、こんなことをしたのは友達が悪かったからだ。というような親としての率直な疑問や恨みをお釈迦さまにぶつけていきます。
 このように恨みをぶつけることによって、韋提希は願いをぶつけたのだと思います。「お釈迦さま、あなたは仏様でしょう。つまり宗教的最高権威でしょう。それならば、あなたの権威でこの状態を解決してください」と。
 提婆は弟子であり、従兄弟ですから、提婆に罰を与えて追放する。阿闍世に対しては、その間違いを諭して思い直させる。そして頻婆娑羅と私をここから解き放って、元通りに戻してほしい。あなたが仏様ならできるでしょうと。
 そういうことが心根にあって、そんな言葉を吐いたと思います。
 ドラマでしたら大体そういう筋立てになります。そして、お釈迦さまが水戸黄門の印籠のような物を出し、提婆を懲らしめ、阿闍世を改心させて、元の親孝行な息子になり、頻婆娑羅も王位に戻り、韋提希と頻婆娑羅と阿闍世は仲良く暮らしました、というふうに、日本のドラマだとなるわけです。が、そうはいきません。
 やはり、そういうことを韋提希は願ったと思うんです。しかし、それは宗教的な意味で言うと奇跡です。奇跡を起こして提婆を懲らしめてほしい、阿闍世を改心させてほしいと。そういうものを我々は宗教に願うことがあります。
 もちろんお釈迦さまはそれはできません。何もせずに、ただ黙って韋提希の前に立っておられるわけです。
 だいぶ時間が経ったのでしょうが、ひとしきり叫んだ韋提希が、黙って立つ釈尊によって、事実は後に戻らないということをまず認めます。そして元に戻りたいと思っていたけれど、今までどんなところにいたのかが問題になってきたわけです。
 今まで多くの者にかしずかれて、綺麗な王妃として威厳のある衣装をまとい、品位をもって君臨していたわけです。それが、閉じ込められたら誰も来ないわけです。
 今までどんな形でまわりの人たちと出会っていたのか、ということです。まわりの人を守門者や慰問者にしていた。そして、王妃という力でまわりを自分の気に入るものに仕立てて、出会っていた。
 息子の阿闍世とはどんな形で出会っていたのか。出生の秘密があるなら、それを自ら阿闍世に話し、申し訳なかった、しかし今はどれだけあなたのことを愛しているかと話して、もう一度、親と子の関係を結び直していれば、この事態は起こらなかったはずです。しかし出生の事実を隠し、そこの部分だけ仮面で阿闍世と接していたわけです。
 阿闍世とも本当の意味で出会っていなかったし、まわりの人たちとも守門者や慰問者という形で出会っていたのであって、本当の意味で人と人という形では出会っていなかった。
 だから、まわりの人たちも、韋提希を一人の人として出会っていたわけではなく、韋提希が王妃であり、威厳や教養があるから、持ち上げてちやほやしていただけなんです。ですから、韋提希に頭を下げていたのではなく、王妃という椅子に頭を下げていたわけです。
 そういう意味で、韋提希は誰とも出会っていなかったと。人と人との関係を結べるようなところにいなかった。教養や地位、名誉、きらびやかな服装をもって立っていたけれども、それが全部なくなり、ただの人になってしまうと、立っていられない自分を、韋提希は見つけてしまったわけです。孤独な状態に置かれて初めて、今までも孤独であったということに気がついたと思うんです。
 その韋提希が、一人の人間として立っていける場所をお釈迦さまに問いかけるわけです。元に戻してくれと言ったものの、何もしないお釈迦さまの沈黙の説法を通して、あらためて自分がいたところがどんなところであったかと考えさせられたんです。
 人と人とが本当に出会う出会いを、王妃という権力で拒絶し、息子とも本当に出会っていなかった。そして王妃だということで胸を張っていたのであって、それがなくなってしまうと、立っていられないような形でしか自分はいなかったと。王妃という瓔珞の中身は空っぽだったと。
 そういう自分の姿に韋提希は気がついて、本当に一人の人間としてあらゆる人と出会っていけるような場所があるならば、それを願いたい、元に戻してくれとはもう言わないと、そのようにお釈迦さまに問いを出しなおします。
 次回は、そこを少し丁寧に読んでいきます。韋提希が私たち人間の問わなければならない問題の本質に迫っていきます。その部分を一緒に読んでいきたいと思います。今日はここまでにさせていただきます。ありがとうございました。

(2002年2月2日(土)に徳栄寺で行われました安芸南組推進員養成講座でのお話をまとめたものです)