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  四衢 亮さん「本願に救われる教え」  
                            
 2011年4月19日

   一、念仏と信心

  1

 こんにちは。岐阜県高山市からまいりました四衢と申します。今日は真宗入門というニュアンスで話をするようにとのことでした。しかし、真宗入門といいましても、聞いているうちにだんだんわかって、高みに登っていって偉くなる、というのは浄土真宗ではありません。真宗のお話を聞いていても、今一つはっきりしない、あいまいなところについて、ご一緒に考えてみようと思います。
 今一つはっきりしないというのは、部分的にはっきりしないことがあるという意味ではなくてですね、真宗の教えそのものの根幹にかかわることがはっきりしないのだと思います。
 真宗といえば「念仏の教え」だということは誰もが承知していることです。あるいは、「信心をいただく」と常々聞いています。同時に、真宗の教えは「阿弥陀如来の本願の教え」と言われます。そして、「浄土往生の教え」とも言われます。
 念仏、信心、本願、浄土、どれ一つとっても真宗の教えの根幹にかかわることです。ですから、真宗ではこうしたことが話されるんですけど、聞けば聞くほどよくわからないという感じがしないですか。話を聞いたり、学んだりするんだけれども、聞けば聞くほど、学べば学ぶほどはっきりしないのではないかと思うんですね。

 そうした根幹にかかわることについて、どのようにわからないのかを整理してみようと思っています。そのためには、念仏とはこういうことだとか、信心とはこういう心持ちだろうかとか、自分のイメージで考えるのではなく、親鸞聖人がどういうふうにおっしゃっているかを整理しておかないと、わからないものが集まって、わからないままにイメージを語り合っても、いよいよわからなくなるだけです。親鸞聖人の言葉、特に『歎異抄』を中心にして念仏、信心、本願、浄土について考えてみたいと思います。

 『歎異抄』は親鸞聖人がお書きになったものではなくて、親鸞聖人のお同行だった唯円という方が、親鸞聖人がなくなられて二十八年から三十年たったころに、「親鸞聖人はこういうことを話された」とまとめられたものです。明治以降では、日本で最も有名な宗教書の一つと言っていいほどです。浄土真宗のご門徒でなくても多くの人が『歎異抄』を手に取っていますし、学校の教科書でも、親鸞聖人自身の言葉よりも『歎異抄』の言葉が出てきます。

  2 念仏

 念仏ということですが、はっきりしないですね。だいたい頼りにならないでしょ。「南無阿弥陀仏」と口で称えるぐらいのことで何が変わるのかということがありますし、念仏を称えて人生の何が支えられるのかと言えば、ある意味、頼りない感じがします。

 『歎異抄』第一章の書き出しに念仏と信心について書かれています。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」

 念仏を称えようという心が起こったときが、そのまま「すなわち摂取不捨の利益に」にあずかるんだと、親鸞聖人は言われています。「すなわち」という字は「即」という字になります。前のことと後の内容が同時で同一の時に使うんです。つまり、念仏申そうと思う心が起こることがそのまま同時に、阿弥陀如来の救いの中にあるということです。
 これは私たちが考えている念仏についての考えとは違うかもしれません。念仏を称えているとだんだん救いに近づくように考えたり、自分が少しずつ変化して救われていくのではないかというのが、私たちの持っているイメージですね。

 でも、親鸞聖人はそうはおっしゃっていません。念仏を申そうと思う心が起こることが、そのまま救いの中にあることなんです。私たちのイメージと親鸞聖人のおっしゃっていることとはだいぶ違いがあります。

 それと、念仏は呪文やおまじないような気がするでしょう。念仏は呪文やおまじないではないと聞いてはいても、そんな感じがしますよね。念仏は呪文やおまじないのような気もするし、でもそんなはずはないしと、どうもはっきりしない。
 おまじないや呪文は、唱えることで物質化するんです。どういうことかと言いますと、日蓮宗の方はお題目といって、「南無妙法蓮華経」と唱えられますね。日蓮上人の伝記を見ますと、鎌倉幕府から弾圧され、龍ノ口というところで首を切られそうになるんです。首切り役人は刀を構えて首を切ろうとするんですけど、日蓮上人は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えると、首で刀が止まって切れない。「南無妙法蓮華経」と唱えることでお題目が硬い物質になり、刀を防いでしまう。そういうのが呪文やおまじないです。

 たくさん念仏を称えると病気が治るなら、それは念仏が薬に変わっているわけです。念仏を称えてお金が儲かるのなら、念仏がお金になったということです。呪文やおまじないというのは、唱えたことによって物質化するんです。
 そんな馬鹿なことはないだろう、いくら何でも理不尽だと思ったり、呪文は程度の低い宗教だと考えたりしますから、念仏を呪文みたいに受け取っていると、とても念仏を称えられないということにもなります。

 呪文とは違って、念仏を称えることによって私の心が落ち着いて穏やかになり、人格も円満になっていく。ちょっとしたことでは腹を立てない、道徳的にも立派な人格になる。そうした精神的変化が念仏を申すことで起こるというイメージもあります。精神修養的なイメージですね。
 念仏を申すことによって精神的な修養がされる効果があるんじゃないか。腹が立った時に念仏を称えたら、腹が立つのがおさまってきたと。そういうふうに、念仏によって自分の心が変化するというイメージもあります。
 ただその場合、念仏を称えたことで腹が立つのがおさまったのか、時間がたったからおさまったのかはわからないですね。人間、いつまでも怒っていませんから。だいたい一晩寝ればケロッとします。性格によってはしつこい人もいて、目が覚めたとたんに怒り出す人や、怒りが何年たっても思い出して「あの時は」という人もいます。ですけど、そんなには怒っておられません。長続きしないんですね。ですから、念仏によって腹立ちがおさまったのか、時間がたったのかだけなのかはわかりません。

 親鸞聖人は、念仏することによって私が変化するとか、精神的な修養ができて円満な人格になるとはおっしゃっていないんですね。念仏を申すということが私の上に起こるということがそのまま救いなんだとおっしゃるんです。

  3 信心

 そして、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて」と書いてあります。念仏申すということには、阿弥陀如来の本願に助けられて浄土往生の身となると信じるということが必ずあるんだ。そして、信じた姿として念仏申すということがあるんだと、親鸞聖人はおっしゃっています。だから、念仏申さないけれど信じています、ということはないんですね。信じるということは必ず念仏申すという姿を取ると、親鸞聖人はおっしゃいます。

 私たちは、念仏申さなくても、お話を聞いていくうちにだんだん理解して、納得して信じるようになると考えています。けれど、親鸞聖人はそうおっしゃらないんですね。信じることの証(あか)しは、私の上に念仏申すことが起こることなんです。だから、念仏申すことのない信心はありませんと、こう親鸞聖人はおっしゃっているんです。でも、念仏を申したら必ず信心があるのかというと、そうとは限りません。
 念仏を通して教えが伝わってきたことは確かです。念仏申すということがないと、どういう意味があるんだろうということも問題にもならないですね。

 私のお寺で子ども会をやっています。子どもたちと『正信偈』と和讃のお勤めをする前と後に、必ず子どもたちに手を合わせて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と口で言ってもらうんです。念仏申すということが伝わらなければ教えも伝わりませんから。
 今は大人が念仏を称えません。お葬式とか法事で手を合わせて「南無阿弥陀仏」と言いますか。言わない人が多いですね。なんかモニョモニョとしか言わないんです。手を合わせても念仏が出ない。格好だけです。お寺で大きな声で「南無阿弥陀仏」と称えることを子どもと一緒にしないと、たぶん念仏が伝わらなくなります。

  4 身口意の行為(業)

 親鸞聖人は、念仏申すことが起こることが救いなんだと、念仏してだんだん私が変化して、だんだん立派な者になって救われていくんじゃないとおっしゃっています。

 親鸞聖人にこういうお手紙があるんです。
「まず、自力と申すことは、行者おのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり」(『親鸞聖人血脈文集』第一通)

 人間は身と口と心とで行為をします。行為のことを業と言います。インドの言葉ではカルマと言っています。
 身でいろんなことをします。ご飯を食べますし、人を殴ることもあります。身で行為をするだけなら動物とあまり変わりませんが、人間には言葉がありますから、口で行為をします。口は災いの元と言いますけど、身でする行為よりも、口でする行為のほうが問題を引き起こしますね。「あの人はいい人だけど一言多い」とか、口で人を傷つけることがあります。心で思うことも行為です。口や身は表に現れますけど、心は人に見えませんから、どんなことをも思っています。
 身や口や心の行為を整えて、よこしまなことを行なったり、邪悪なことを考えたりせず、おだやかになり、立派なめでたい身となって浄土へ往生しようとするのを自力というんだと、親鸞聖人はおっしゃっています。

 私たちは、念仏しているとだんだん立派な自分になったり、おだやかな自分になったりするんじゃないかと考えますけれど、そういうことじゃありません。心や身が立派に整って、見事な自分になって、浄土へ生まれるということは浄土真宗の教えではないんです。
 「身や心が立派にならないと往生できない」と言われたらどうですか。「長年、お話を聞いたり、念仏を申したり、さまざまな経験をすることによって、おだやかで立派な人格になって往生するんだ」と言われたら難しいですね。

 みなさんは長年人間をやってきて、立派になりましたか。さほどではないですか。むしろ年を取りますと、若いころできたことができなくなりますから、立派になるよりも落第していくことのほうが多いくらいです。だから、立派にならないと往生できないというと、これはかなり難しい話です。
 浄土真宗はそういう教えではないんですから、私たちによく合っているんですけども、我々の宗教のイメージが、念仏しておだやかで立派な人格になって救われていくというものなんですね。そのイメージで念仏の教えを聞くものですから、教えを聞いてもはっきりしないんじゃないかと思います。

  5 「よきひとのおおせ」(諸仏・善知識)

 次は『歎異抄』第二章のこういう文章です。
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」

 「親鸞におきては」という書き出しは珍しいんですね。平安時代から江戸時代までの古い文書の中で、主語、「私は」という言葉が出てくるものはあまりありません。普通、日本の文章は主語がはっきりしないので、誰が言っているかわからないようになっているんです。ところが、親鸞聖人は肝心なところでは、「親鸞におきては」とか「親鸞は」と、「私は」とはっきりとおっしゃるんですね。このあたりは非常に珍しいんです。

 「ただ」は「唯」、このこと一つということです。他のものが混じらないということです。
 「よきひと」というのは先生です。善知識とも言います。自分に先立って念仏申そうという心が起こって、念仏申して人生を歩んでいる人のことです。「よきひとのおおせ」、念仏申して生きる人の教えをいただいて、ただ信ずるほかに別の子細はないんだと、親鸞聖人はおっしゃいます。ですから、「よきひとのおおせ」を介在せずに念仏申すということはありません。

 そのことはお経にも出てきます。
「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」(『仏説無量寿経下巻』)

 さまざまな仏様が阿弥陀仏の教えを聞いて、阿弥陀仏の教えこそすばらしい、「南無阿弥陀仏」とほめたたえる声を聞いて信心をいただくと示されています。
 ほめるというのは、その人の名前を呼ぶことなんです。たとえば長島茂雄さんが活躍したら、みんなが「長島!」と声をかけるでしょ。声をかけることが応援になるし、ほめることにもなりますね。「長島!」と呼ぶことで長島選手をほめたたえる。歌舞伎でもそうで、見得を切っていいお芝居をすると、大向こうから屋号が呼ばれますね。松本幸四郎だと「高麗屋」と声がかかるでしょ。名前を呼ぶことはほめることになります。

 いろんな仏様が阿弥陀仏の教えを聞いて、「阿弥陀仏の教えこそたしかだ」と阿弥陀仏の教えをほめたたえる。それが「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と名前を呼ぶことなんですね。そして、仏様たちが「南無阿弥陀仏」と呼ばれるのを私たちが聞いて、南無阿弥陀仏の教えがあるんだと知り、自分も南無阿弥陀仏と申そうという信心が起こるんです。

 「よきひと」というのは諸仏です。私たちから見れば、我々を導く仏様です。諸仏の教えを聞いて、そして念仏申そうという心が起こるんです。だから、「よきひとのおおせ」とか諸仏を抜きにして念仏ということはありません。

 私たちは諸仏の念仏、「よきひとのおおせ」を聞かずに、自分だけで念仏を称えて何とかなろうとします。自分で自分を持ち上げようとするようなことですから、無理があるんですね。まず、念仏に生きている人の教えを聞いて、私の上に念仏が起こるんだと。だから、「よきひとのおおせ」が必ず介在する。それが念仏ということです。

  6 今ここの救い

 『歎異抄』第二章の続きです。
「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』)

 念仏することによって浄土に生まれることになるのか、あるいは念仏が地獄に堕ちる行為になってしまうのか、私は知らないと、親鸞聖人がおっしゃっているんです。これは話がだいぶ違うでしょ。

 念仏していくと、だんだん心持ちがよくなって、浄土に生まれさせてもらえるというイメージがありますが、親鸞聖人は、念仏したことによって、この先浄土に行くか、地獄に堕ちるか、それは知らないとおっしゃったんです。

 これはですね、今やったことでこの先どうなるかは宗教の課題ではないということです。それは同時に、なんでこうなったかということも宗教の課題ではないのですね。
 私たちは念仏することによって死んでから浄土に行くというイメージがあります。しかし、この先どうなるかということは宗教の課題ではないんです。念仏したことによって、先のことがはっきりするわけではないし、なぜこうなったのかがわかるわけでもない。浄土真宗の教えとは、今ここがはっきりすることです。死んでからどうにかなるというのが真宗の課題ではないんですね。

 みなさんは「死んでからお浄土に生まれます」と言われたら救われますか。浄土はいいところですよ。朝から一本つきます。三食昼寝付き。献立の心配をしなくてもいい。温泉もあります。そう言われて、「そんなにいいところなら今すぐ行く」と言う人はいません。できたら行きたくないです。このままがいいんでしょ。「死んでから浄土に行く」といくら言われたって、それでは救いにはならないですよ。今ここが救われない者が死んでから救われたりしません。死んでから必ずいいところに行くかどうか、そんなことは死んでみなければわからないですから、不安になるだけです。

 みなさん、お昼にご飯食べられましたか。今夜のご飯はどうですか。まだですね。明日の朝ご飯もまだ食べていません。人生、いろいろ経験したといっても、まだ今夜の夕ご飯も明日の朝ご飯も経験してません。私が経験していないことはいっぱいあります。経験できるかどうかも保証の限りではないですね。寝る時は、明日の朝に目が覚めるつもりで寝るでしょう。朝、目が覚めるという予定をしていますからのんきに寝ますが、目が覚めるかどうか保証の限りではありません。

 これからどうなるかをいくら言ってみても、安心できないんです。老後の安心でもそうでしょう。経済評論家に「老後にはこれくらい必要だ」と言われると、足りないのではと心配になりますし、何とかなると思って安心したりします。でも、おかしな話だと思いませんか。何歳まで生きるかわからないのに、また何が起こるかわからないのに、老後にどれだけお金がいると言えるわけないです。あれは数字のマジックです。どんなことが起こるかわからないのが人生です。私たちは先がわからない形で生きているんです。「将来、救われます」といくら聞いたって、私たちは救われません。

 一瞬先のことはわからないけど、今までのことは全部わかっているつもりでいますね。昨日の夕ご飯は忘れても、二十年前のことはよく覚えていますから、昔のことは全部知っていると思っています。だけど、わかってないです。

 あんなことさえなかったらとか、あの人に会わなければこんなことにならなかったのにと思うことがありますね。だけど、あの人になぜ会ったのかまではわからないでしょう。いろんな縁があり、いろんな条件が重なって、今ここにいるんです。ですから、どうしてこうなったかは説明つきません。

 ところが、たった一つのことを取り上げて、「あなたはこういうことが原因で、こうなったんです」と、いかにももっともらしく説明する人がいますね。たとえば、テレビで「あなたの前世は中世のお姫様ですよ」と言ったりします。あなたが前世でこういうことをしたから、今のあなたはこうなったんだと説明してもらっても、そんな単純な話じゃないですね。いろんなことが重なって今があるんですから。

 あるいは、「あんた、そんなことでは孫子の代までたたられるよ」と脅しつける人もいます。それは本当じゃありません。でも、こうしたから将来はこうなるという説明をもし信じていたら、その人にあらゆることについてお伺いを立てないといられないようになります。

 そういうことは宗教ではないんだと、親鸞聖人はおっしゃっています。今ここに私がいる、そのことに本当に深くうなずけるかどうかが宗教の課題であり、信心ということです。それはもちろん、今さえ、ここさえよければいいということではありません。またこの先どうなるか自分の都合に合うようになってほしいとお願いすることでも、今どうしてこうなったかを過去に責任転嫁できるように説明してもらうことが宗教の問題ではない。そうではなくて、今ここがはっきりすれば、自分自身にきちんと立って、過去と未来に責任をもって、今の連続を生きていくんだ。そういうことを親鸞聖人はおっしゃったと思うんですね。

  7 地獄

 さらに『歎異抄』第二章ではこのように言われています。
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

 自分で計画を立て、はからって、この先どうなるかを組み立てていくことはできませんし、どうしてこうなったかとわかっているわけでもない。そして、自分が完成し、立派になるものでもないのに、完成しなければとあせり、自分も他人も傷つけて、地獄のような世界を作っている。そういう現実があるんだと言われます。

 信心の内容は「今ここ」が明らかになることです。「今ここ」の私はどういう者かというと、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」、自分で自分を救うことができず、しかし自分だけ助かることをすべてにして生きていることによって地獄を作っていた、という事実に深くうなずけた。自分で地獄を作っているとはっきり目が覚める。それが念仏の呼びかけであるし、教えです。阿弥陀如来の教えをいただいて、今ここの自分に目が覚めましたといううなずきを信心と言うのだと、そういう言い方を親鸞聖人はしていらっしゃるんですね。
 私たちは、念仏を称えると死んでから浄土へ行くんだというイメージがありますが、親鸞聖人はそうじゃないと言われているんです。

 8 二つの信心(二種深信)

 真宗の信心の内容を親鸞聖人はこのように整理されています。
「一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と深信すべし。二つには決定して「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく、慮なくかの願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信せよとなり」(『愚禿鈔』)

 この二つの内容が真宗の信心ということだと示されます。つまり、まさに罪悪生死の凡夫として今ここに生きている。そして、そのことを教えてくれる本願を深く信じるのだ。そういう言い方で信心を確認していらっしゃるんです。

 私という者は「罪悪生死の凡夫」である。今までずっと迷いに迷いを重ねて生きていた。それが今ここにいる私だ。ああやったら救われるか、こうやったら救われるかと、いろいろ聞いたり、やってみたりしたけど、考えたほど立派になれるわけではない。まさに「罪悪生死の凡夫」としてここにいることを思い知らされた。
 そして、どれほど私は罪悪を作り、迷いの中にいても、阿弥陀如来は見捨てずに、「今ここのあなた自身に目を覚ましなさい」と呼びかけてやまない。その阿弥陀如来の本願を信頼するのです。

  9 業と縁

 そのことをもう少しくだいて考えてみたいんですが、今まさにここに罪悪生死の凡夫として生きているということを『歎異抄』第十三章ではこういうふうに表現されているんです。
「「さるべき業縁のもよおせば、いかかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいし」

 人間とは業と縁によって決まってくる存在だと、親鸞聖人はおっしゃっています。業とは行為ですね。縁とは条件です。人間は行為と条件によって決まってくる存在です。つまり、条件や状況さえ整えばどんなこともするし、どんなことでもしてきたわけです。そして、条件や状況が整えば、どんな目にも遭いますし、どんなことにもなっていくのが人間です。

 たとえば、朝顔の種を畳にまいても芽が出ませんね。当然、土にまくわけです。土があって、水があって、光があって、養分があってという条件が整って初めて、芽が出るんです。でも、土があって、水があって、光があって、養分があれば必ず芽が出るかというと、まいた後に鳥が種を食べてしまえば芽は出ません。
 予定した条件が変われば、結果も変わっていきます。病気という条件が整えば病を得ます。条件が整えば死にもします。我々は「ガンが原因でなくなった」と言いますね。でも、ガンは条件です。なぜ死んだのかというと、生まれたからです。生まれなければ死ぬことはできません。

 生まれたことにしても、自分で予定して生まれたんじゃないでしょ。大震災で「想定外」という言葉が言われましたけど、想定外ということで言えば、私たちの人生はすべて想定外です。

 みなさんは想定し、予定して生まれてきましたか。予定して、計画して生まれてくるのなら、生まれてくる家を考えたでしょう。私も何回「お寺に生まれなければよかった」と思ったかしれません。姿格好にしても、もうちょっと何とかならなかったと思います。計画を立てて生まれてくるのならそうします。だけど、気がついたら生まれてしまってたんですから。想定外から人生は始まるんです。
 そして、想定して、予定して死ぬんですか。予定をたてなければ死なずにすむんだったら、死ぬ予定はたてません。こんな病気で、こんなふうに死ぬと、計画を立てて、計画通り実行する人はいません。

 ですから、人生のすべては想定外のことなんです。想定できるという我々の思い込みがあるだけです。「さるべき業縁のもよおせば、いかかなるふるまいもすべし」、条件さえ整えばどんなことでもするし、どんな目にも遭わなければならないんだ。それが今ここという私たちの事実なんです。予定通り生きているのではないですから、生きる様はまさに罪悪生死の凡夫です。
 想定外を生きていますから、私たちは我が事しか考えません。自己関心から離れられないですね。想定外のことが起こりますから不安になります。不安を打ち消そうとして、いろんなことを企むんですが、想定は外れますから、まさかということになります。

 もちろん、いい場合もあります。考えに相違してとてもいい結果になったということもありえます。しかし、いずれにしろ、私たちの人生は想定外の連続で生きています。ですから、条件さえ整えばどんなことにもなっていきます。


   二、本願・浄土について

  10 仏教

「これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」(『教行信証』総序)

 仏教は、平穏無事で、善良な人に対して開かれたんじゃない。苦悩のまっただ中の、そして悪逆をなし、背いている者に仏教は開かれたのだ。なぜか。人間はそのように生きているからです。
 私たちは、どんなこともするし、どんな目にも遭うし、どんなふうになるかもしれない。そう生きざるを得ないから苦悩しますし、条件さえ整えば、仏法を誹謗することさえしてしまうんです。

 だから真宗の教えは、苦悩の人は救われないとか、悪逆をなす者はダメだとか言わない。まさに苦悩のまっただ中で悪逆をなし、背く者に開かれたのが仏教だと、親鸞聖人は主著である『教行信証』に書いていらっしゃいます。
 人間はこうでなければならない、ああでなければならないということになると、ほとんどの者は排除されます。自分自身も排除されます。こういう自分でなければと思ったら、自分で自分を嫌いになって排除します。そういった苦悩する者に開かれたのが仏教です、と親鸞聖人はおっしゃるんです。

  11 浄土(真仏土)

「謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰うなり」(『教行信証』真仏土巻)

 浄土とは、いつか―死んだ先に、どこか―西のほうに夢のような国がある、とは書いてありません。浄土とは特定の場所を指すのではなくて、本願にかたどられた世界です。だから、本願を形に表したものが浄土だとおっしゃっています。浄土とは本願の世界だと言っていいと思います。

  12 本願

 では、本願とは何かというと、親鸞聖人の和讃にこうあります。
「大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみびとを
 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり」(『観経和讃』)

 「大聖」とはお釈迦さまのことです。お釈迦さまは「凡愚低下」、罪悪生死の凡夫、悪逆をなすような者を本願の世界に入れようとして教えを説かれたんだ、という親鸞聖人の歌です。それから、お経にはこのようにあります。

「舎利弗、衆生聞かん者、応当に願を発しかの国に生まれんと願ずべし。所以は何。かくのごときの諸上善人と倶に一処に会することを得ればなり」(『阿弥陀経』)

 お釈迦さまが舎利弗というお弟子に向かって、このように話されます。人々が教えを聞くならば、まさに阿弥陀仏の浄土に生まれようと願いを起すことになる。なぜかというと、「倶に一処に会う」、浄土とは共に一つところに出会う世界だ。みんな一つ場所に出会える世界が本願の世界だ。とおっしゃっています。

 それから、親鸞聖人のご和讃にはこうあります。
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(『阿弥陀経和讃』)

 なぜ阿弥陀仏と名づけられるかというと、あらゆる者をおさめ取って捨てないというのが本願だからだ、と本願が表現されているんです。

 あらゆる者と出会う。そして、あらゆる者を捨てない。つまり、どんなふうに生きてもいいんだと、お釈迦さまはおっしゃるんです。どう生きていようと、何をしようと、その者と出会い、引き受け、見捨てないんだというのが本願だと言われるのです。
 なぜ本願がおこされたかというと、私たちと無関係に本願がおこされたのではありません。私たちは縁によってはどんな目にも遭うし、何でもするし、どんなことにもなっていくという業縁存在を生きているからなんです。そういう生き方をしている者を救うとは、どんなことをしていても、何をしてもかまわない、絶対に見捨てないんだという願いをいただくことによって、私も我が身の事実を引き受けていくのです。

 願いは、願いのままでは私たちには届きません。願っているだけでは届かないのです。願いとは問いかけであり、呼びかけであり、ある意味では祈りとなって、私たちに至り届きます。
 願いがあるから呼びかけるんです。願いを持っていなかったら放っておけばいいんですから。親もそうでしょう。親も子どもに願いを持っていますから、子どもに呼びかけます。「勉強したか」とか「整理整頓しなさい」と言うのは、きちんと生きてもらいたいという願いがあるから、「しっかりやってほしい」と呼びかけ、問いかけるわけです。うるさがられますけども。親はそれがわかっていながら、懲りずに言うわけです。

 我が事として事実に真向かいになってほしいという願いは、私たちに「あなたは目の前に起きたこと、自分自身の今ここにある事実を我が事としていただいていますか。我が事としてうなずけましたか」という問いかけとなって、私たちに至り届くんです。

 私たちはどんなこともしますし、どんな目に遭うかもしれない。それなのに、目の前に起きたことを我が事としてはいただけず、他人事にします。自分の都合のいいことや好ましいことは我が事にしますけど。嫌なことや面白くないことは他人事です。あいつがあんなことをしたからと、責任を転嫁します。我が事として受け止めないのが凡夫の悲しさだと思うんです。

 他人事にしてしまう凡夫性を、善導大師は「大志なければなり」とおっしゃっています。大きいこころざしを持たないとはどういうことかというと、全部、自己関心にしてしまうことです。
 NHKが「無縁社会」というドキュメンタリーを放送しました。孤独の中で死んでいった人。孤独死をしてしまうかもしれない予備軍として、うまく職に就けないし、職場でもうまくいかない、親戚や親子兄弟とも疎遠になってひとりぼっちで生きている人。そういう人が多くなっている無縁社会という問題提起をして、本にもなりました。それは大きな衝撃を社会に呼び起こしました。共同体が喪失したことを今更ながらに感じ、共にと願いながらお互いが出会うことがない社会になってしまっている。そういう喪失感を皆が感じたのだと思います。
 しかしそれをそのまま自分の問題にできないのですね。そういう問題を見て大変だとは思うんですが、すぐ自己関心に戻ってしまいます。

 どういうことかというと、自分が孤独死しないためにどうしたらいいかと考えるんですね。そして、自分の子どもや孫が無縁社会の中で生きるのは心配だ、尻をたたいてもっと勉強させないといけない、と自己関心になってしまう。自分が孤独死しないために、子どもや孫が無縁社会を生きないために、どうしたらいいかという自己関心に戻ってしまうのですね。そして、個人の喪失感、出会いを失っていく社会性といった全体を問題にせず、実際に起こっていることを他人事にしてしまう。そういうのが凡夫だと言われているんです。

 そのことをあらためて感じましたのは大震災です。被災地では水も足りないし、食料も足りない、ガスも電気もない。そういうことがテレビで放送されていました。そうしたら私たちはどうしたかというと、水やガスや電池や食料を買いだめしたり買い占めたりするということが起こりました。それは被災地の人を他人事にしているからです。
 足りないところ、必要としているところに送るにはどうしたらいいかと、みんなで協力して知恵を出し合うことをせず、他人の苦しい、不安定な状況を見て、自分もそうなったら困ると思って買いだめに走ったんですね。

 東京は本当にすごかったですね。揺れそのものもひどく、被災した地域でもあった訳ですから、東京で東北の被災地を支援する集会がありまして、感話をなさった方がこんな話をされていました。テレビで、スーパーに品物がないと言うと、なくなったら大変だと思って、みんな買いに走る。そして、手に持ちきれないぐらいカップラーメンや水とかをカゴに入れてレジに並んでた。気がついたら、自分の家に山のようにカップラーメンと水とガスがあることに気がついた。全部買ってしまったんですね。

 買いだめする人を批判するつもりはないんです。これは安心行動と言われるものです。人間は不安や恐怖が高まると、早くこの不安や恐怖を取り除いて安心したくて、何かにすがりつきたいという依存心が高まるんです。

 これを利用したのが振り込め詐欺なんです。孫が「会社の金に手をつけてしまった。明日、監査があるからもうだめだ。捕まってしまう」と泣きながら電話をかけてくると、おばあちゃんはびっくりしてですね、不安と恐怖が高まります。なんとか助かる方法はないか。すると、上司の役の人が「とりあえず五十万なんとかなりませんか。五十万を会社に返して誠意を見せ、あとは私が会社に話します」と言うと、溺れかけていたおばあちゃんは五十万というワラを差し出されたものですから、そのワラをパッとつかむんです。そして振り込んでしまうということが起こるのです。

 振り込め詐欺にひっかかった方を調査すると、7割方が「これは詐欺ではないか」と思いながら振り込んでしまったというんです。つまり、今の安心がほしいんです。ですから、被災者の不安と恐怖をテレビで見てると、自分も不安と恐怖にかられてしまい、安心するために買いだめに走るんですね。

 そうやって、みんないっぱい品物を抱えてレジに並んでいたら、保育園の年長さんくらいの子が自分のおやつを買いに来てたんです。レジに被災地救援の募金箱があったんですね。そしたら、その子は自分の持っていたお小遣いを募金箱に入れて、お菓子を返して何も買わずに帰ったのです。店員さんが思わず「ありがとう」と言ったら、みんながハッと気がついたと、その方が話されていました。
 その子の行為に、一番大変なところに一番大事なものを送ることを忘れ、他人事にして、自分の安心のために買いだめをしてた我が身にハッと気づかされたわけです。

 そういう愚かな者を見捨てず、凡夫性に目を覚ませという如来の呼びかけが本願だと思います。被災者の悲しみや嘆きと共に、事実を我が事として受けとめていますかという祈りや問いかけが私たちに届くと、初めて私自身の愚かな有り様を知らされて狭さを破られ、我が事としているかという問いかけや呼びかけによって、本願の世界をいただいていくんです。そうしたら、何をすべきかという身の処し方は決まってきます。

 本願の問いかけをひたすら聞くのが真宗です。聞く宗教です。問いかけをひたすら聞いて、身を処してきたのが真宗門徒の歩みだと思います。
 お釈迦さまから二千五百年、親鸞聖人から八百年、歴史の中では災害もあったでしょうし、戦争もありました。そのさなかに、真宗門徒は本願からの問いかけを聞き続け、身を処して歩んできたとと思います。

 大変な状況の中で真宗の教えを聞き続けることを、私たちの先輩が伝えてくださったと思っております。お釈迦さまが開かれた教えを私たちは親鸞聖人を通していただいてきたという伝統を大事にしたいと思うことです。
 ここまでにいたします。どうもありがとうございました。