真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  優生思想

月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』

大谷いづみ「J.フレッチャーとバイオエシックスの交錯 フレッチャーのanti-dysthanasia概念」

大谷いづみ「「尊厳死」思想の淵源 J・フレッチャーのanti-dysthanasia概念とバイオエシックスの交錯」

大谷いづみ「太田典礼小論 安楽死思想の彼岸と此岸」

守田憲二「移植学会 脳死概念を放棄か 松村氏の「与死許容の原則」を紹介“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”」(「死体からの臓器摘出に麻酔?」)

冲永隆子「「安楽死」問題にみられる日本人の死生観 自己決定権をめぐる一考察」

2016年、神奈川の津久井やまゆり園で、元職員が19人の障害者を殺し、26人に重軽傷を負わせたという事件がありました。
『開けられたパンドラの箱』を読むと、加害者の植松聖死刑囚は優生思想の持ち主のようです。

優生思想とは、障害者、犯罪者といった悪い遺伝子を持つ者には子供を産ませないようにし、よい遺伝子を残して、人類をよりすぐれたものにするという考えです。
日本でも旧優生保護法によって、本人の承諾なしに不妊手術を受けさせられた障害者や遺伝子疾患を持つ人が、1948年から1996年の間に約2万5000人もいます。

植松聖死刑囚の手紙(2017年7月21日付)
「私は意思疎通が取れない人間を安楽死させるべきだと考えております。私の考える「意思疎通がとれる」とは、正確には自己紹介(名前・年齢・住所)を示すことです。(略)
私の考えるおおまかな幸せとは〝お金〟と〝時間〟です。人生は全てに金が必要ですし、人間の命は時間であり、命には限りがあります。重度・重複障害者を養うことは、莫大なお金と時間が奪われます。(略)
3年間勤務することで、彼らが不幸の元である確信をもつことができました」

本人の同意なしの安楽死という名の殺人、社会の負担となる障害者の抹殺という問題がここに示されています。

優生思想と安楽死は関係があります。安楽死とはもともと、植物状態といわれる人や重度障害者たちを、本人が望まなくてもmercy killingすべきだと主張されました。mercyは慈悲、情けで、killは殺す。慈悲殺と訳されます。

ヒトラーは重度の精神障害や身体障害を持つ者は社会と国家に経済的に負担となるから「生きるに値しない命」と考え、「安楽死プログラム」を実施しました。20万人が殺されたと言われます。gnadentod、gnadeは恩寵、神の恵みという意味、todは死で、「恩寵死」と訳されます。

障害者たちは社会の邪魔だから抹殺することが、慈悲とか神の恩寵だとされたのです。殺すことが慈悲になるという一殺多生という考えと同じです。

『開けられたパンドラの箱』は、ヨゼフ(ジョセフ)・フレッチャー、松村外志張の「与死」に触れています。

大谷いづみ「J.フレッチャーとバイオエシックスの交錯 フレッチャーのanti-dysthanasia概念」「「尊厳死」思想の淵源 J・フレッチャーのanti-dysthanasia概念とバイオエシックスの交錯」にジョセフ・フレッチャーについて書かれてあります。

ジョセフ・フレッチャー(1905年~1991年)は中絶、産児制限、安楽死、優生学、およびクローン作成の支持者であり、アメリカ安楽死協会の会長を務め、アメリカ優生学協会と産児調節協会の会員。
euthanasia(安楽死)との対比でdysthanasia(悪しき死)という概念を創出し、のちにdysthanasiaに対する否定の意をこめ、anti-dysthanasiaという概念が創出された。従来の安楽死とanti-dysthanasiaとの相違は、患者の同意を必要としない点にある。同意するに足る能力がない場合には、憐れみによって死がもたらされる(慈悲殺 mercy killing)べきであると考える。
人間性を自己意識をもって決定し、理性的な一貫性のある行動をなす能力のある人格的存在であることを最重視する。自己意識をもたず、理性的な能力のない者は、新生児であれ病み老い衰えた病者であれ、人間ではない「怪物」であり、また「植物」であるにすぎない。フレッチャーはこれを「人格主義の倫理」と呼ぶ。
優生主義と「人格主義の倫理」を基本とするフレッチャーの論理構成と、産児調節運動を牽引し、日本安楽死協会を設立した太田典礼の論理構成は酷似している。

太田典礼について、大谷いづみ「太田典礼小論 安楽死思想の彼岸と此岸」で論じられています。

太田典礼(1900~1985)は、戦前から産児調節運動を行い、衆議院議員として旧優生保護法の施行(1948年)に寄与した。
1969年、太田典礼は「老人の孤独」(『思想の科学』)で以下の指摘している。
「社会にめいわくをかけて長生きしているのも少なくない。ただ長生きしているから、めでたい、うやまえとする敬老会主義には賛成しかねる。(略)
ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。(略)
老人孤独の最高の解決策として自殺をすすめたい。(略)
老人はなおる見込みのない一種の業病である。まだ、自覚できる脳力のある間に、お遍路に出るがよい。老人ぼけしてからでは、その考えも気力もなくなってしまい、いつまでもめいわくをかけていながら死にたくないようなことをいうからである」
1972年の立法化提案では、延命処置を中止・軽減する消極的安楽死を適用行為に加え、これに付随して適用条件に「死期の遠い不治」を挙げ、しかもその範囲を「中風、半身不随、脳軟化症、慢性病の寝たきり病人、老衰、広い意味の不具、精薄、植物的人間」に拡大している。
太田典礼の安楽死運動はしばしば心身障害者と真っ向から対立した。
「障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。(『死はタブーか』)」
本来は安楽死の対象にはならない障害者が安楽死と関連して語られる。人格の疑わしい人間存在に対する合法的な処置を提案する。
「ひどい老人ボケなど明らかに意志能力を失っているものも少なくないが、どの程度ボケたら人間扱いしなくてよいか、線をひくのがむずかしいし、これは精神薄弱者やひどい精神病者にもいえることですが、むずかしいからといって放っておいてよいものでしょうか。(略)
人権審査委員会のようなものをつくって、公民権の一時停止処分などを規定すべきではないか、と考えます。(『死はタブーか』)」
「社会の負担」となる「半人間」の排除の論理が貫かれている。

中絶、産児制限、安楽死、優生思想はそれぞれつながっていることがわかります。
稲子俊男『産む、死ぬは自分で決める』によると、太田典礼は安楽死を希望するというリビング・ウィルをしていません。晩年に脳梗塞(脳血栓?)で倒れ、さらに糖尿病が悪化した。昭和60年、昼食にそうめんを食べている最中に気分が悪いと訴え、そうめんをのどに詰まらせての急性心不全で亡くなりました。

『開けられたパンドラの箱』で最首悟さんは、安楽死をする医師の負担について以下の指摘をしています。
最首悟さんの41歳になる娘さんは重複障害者で、障害1級、目が見えず、しゃべらず、自分で食べず、噛まず、排泄は無関心、動くことをあまり好まないそうです。
「オランダの安楽死が日本で紹介された時、非常に印象的だったのが、家庭医の苦しみでした。60ほどある段取りを一つでも抜かすと刑事罰、訴訟の致傷になるので、そのことだけでも大変だということはわかるのだけれど、それに加えて、人の死に携わるということ、自分が最終的に死を与えなくちゃいけないというのは非常に厳粛なことで、ふざけてはいられない。家庭や友達と楽しむことができない、いやそういう集いから外される。安楽死の患者を年間3人もつとしたら、本当にひとりぼっちになってしまう。(略)
植松青年の問題提起の先にあるものを考えれば、与死法ができて、お医者さんが条件を満たした意識のない人たちに死を与えていくということになるけれども、果たして若者はそういう職業に就きたいのか」

松村外志張が提案した与死とは、社会が一定の基準を満たした人に死を受容させるというもの。守田憲二さんの「死体からの臓器摘出に麻酔?」というサイトに、「移植学会 脳死概念を放棄か 松村氏の「与死許容の原則」を紹介“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”」という記事があります。松村外志張「臓器提供に思う-直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案」(2005年)という論文を批判したものです。

臓器移植法が制定されたが、脳死者からの臓器移植が伸び悩んでいるので、死者の生前の意思表示より、遺族や親密な関係者の意志を優先して尊重すべき。ドナーカードで拒否している死者からの移植臓器の摘出もありえる。臓器移植といった課題に対応するために、三回忌が済んでからでは間に合わない。緊急の場に悔いない判断をするためには、日常的な訓練によって冷静な判断に到達する時間を短縮できる。

「生きていても死んだものとなんら区別なく平気で扱うこともまた、人間を対象とした場合にはともかく、動物を対象とした場合には、少なくとも私にとっては、しばしばあるのが日常である。
飛び跳ねている魚や蝦を見て「うまそう!」と口走る者がいてもあまり驚かないだろう。その時これらの生物は、脳の中では生命が無視された存在であり、なんの感情もなく殺せる「虫けらのごとき」存在ということとなる。(略)
与死は殺害と類似して、本人以外の者(あるいは社会)がある者に対して死を求めるものであるが、ここで殺害と異なるのは、本人がその死を受け入れていることが条件であるという点である。与死が尊厳死とは異なるのは、尊厳死は、死を選択するという本人の意志を尊重するという考え方であるに対して、与死は、社会の規律によって与えられる死を本人が受容する形でなされる。(略)
「殺」意を完全に非倫理的な観念として否定することはできず、限定した条件においては 、現在においても生きたその必然性があるもの(と)見るのが冷静な判断なのではなかろうか」

本人の承諾がない、あるいは本人が拒否していても、臓器提供すべきだと主張する松村外志張にとって、人間は「虫けらごとき」のものかもしれません。江崎玲於奈の優生思想的教育論もそうですが、頭のいい人の言っていることが正しいとは限らないといういい例です。

守田憲二さんの指摘の一部です。
・臓器提供意思表示カードの所持者が脳死ではないにもかかわらず臓器摘出にむけた処置を開始され、臓器獲得目的で法的脳死以前にドナー管理を推奨する医師が多数いるため、与死の許容が現実には臓器獲得目的の 一層の殺人奨励となることに認識がない。
・時代に合わせて国民が決める条件で与死を許容するならば、脳不全(脳死)患者だけでく、臓器不全患者(移植待機患者)も「高額な医療費がかかる」として与死が許容されるだけでなく、脳不全患者がさらされているのと同じ生命を短縮される環境におきかねない。

最首悟さんの安楽死批判です。
「問題は、人間の条件というのを自分でつくっていること。そしてその条件にかなわない場合、その人を抹殺する、廃棄するというところまで行ってしまう」

冲永隆子さんも「「安楽死」問題にみられる日本人の死生観 自己決定権をめぐる一考察」も問題点を指摘しています。
「もし、この医師の手による「慈悲殺」が認められたとすれば、患者と利害対立が生じる可能性のある家族に患者の生死を判断する権利を認め、結果として「安楽死」は、格好な殺人の手段となってしまうのではないだろうか。この点は、「安楽死」反対派が最も恐れる問題点でもある。なお、容認派は「厳しい条件付け」を主張している」

障害者、認知症・寝たきりの人たちへの安楽死(殺人)を主張するジョセフ・フレッチャー、太田典礼、松村外志張たちにとって、安楽死とは社会の負担を減らす手段であり、一人ひとりを見ていません。この点で安楽死と優生思想はつながります。

「創」の編集長である篠田博之さんはこのように危惧します。
「弱者を排除しようとする排外主義的な気運が世界中に広がっていることと無縁ではないような気がする」(『開けられたパンドラの箱』)

植松聖死刑囚の手紙(2017年10月)
「トランプ大統領は事実を勇敢に話しており、これからは真実を伝える時代が来ると直観致しました」

「相模原事件 死刑確定でなにが失われてしまったのか」(「FORUM90」VOL.173)で、篠田博之さんはこのように語っています。
「今の社会風潮の影響を強く受けていることは確かです。植松氏が施設の中でも障害者を否定する発言が目につくようになる2016年初めには、アメリカ大統領選挙を控えてトランプが連日のようにテレビに映されており、植松氏自身がそれに大きな影響を受けたと自分で言っているんですね。(略)今までの福祉重視みたいな社会とか、世界の在り方にトランプは暴力的に挑戦した。差別的な考えを隠さずに口にすることが許されるのだという風潮で、植松氏は世直しのためにそれが必要で、自分も社会のための救世主になるんだと論理を飛躍させていくんですね。(略)
そうやって彼が変わっていく半年なり1年というのは、世界中にある種の排外主義が広がっていった。彼はそれを自分の思想形成の中に取り入れていくんです」

渡辺一史さんの発言です。
「もう一つあるのは「自己責任社会」です。とにかく助け合いや支え合いということにはコストがかかるだけで、最終的には自己責任で野垂れ死にするような人はすればいい、命の選別もやむなしというような風潮が高まる一方ですよね。(略)公の席ではなかなか口にしづらいようなことでも、あけすけに語ってしまうことが正しいことなんだというような、ポリティカル・コレクトネス批判というんでしょうか、簡単に言うと「キレイゴト批判」ですね。「障害者なんていらなくね?」「あいつら生きてる意味なくね?」というような、身もフタもないことを口にすることこそが正しいことだというような価値観。それらが2016年という時期に、色濃く植松氏の中でクロスして犯行に結びついたんじゃないかと思います」

海老原宏美さんも『開けられたパンドラの箱』に談話を寄せています。
海老原宏美さんは脊髄性筋萎縮症Ⅱ型の障害があり、移動には車椅子を使い、人工呼吸器を日常的に使用しているそうです。
「なぜその命が大事なのか。命が大事だということは、学校の道徳とかで習うけれども、なぜ大事なのかは習わないんですよね。そんなものは一緒に生きていくなかで感じとることだけれども、共に生きる環境がないから感じとれないし、誰も教えてくれない。その中で起きた事件なので、背景には複雑な環境があるのだろうけど、起こるべくして起きた事件なのかなと私は思っています。(略)
植松被告が本当に狂った人で、あんな危ない人を野放しにしておけないから、精神科病や刑務所に早く入れてほしいと思う人が多いんでしょうね。危ない人、よくわからない怖い人をどこかに隔離しておいてほしいというのは、重度障害者の人は接し方もわからないし、ケアも大変なので施設に入れておいてほしい、という考え方と全く一緒なんです」

新自由主義政策によって格差が拡大して貧困層が増え、弱者が切り捨てられています。
そんな中、死ぬ権利を主張する人は、イジメやパワハラ、経済問題などで「自殺したい」と本人が望むのなら認めるのでしょうか。
死にたいんだったら殺してあげようというのは間違っています。
安心して生きていける社会にするなどして、「生きる権利」を大切にすべきです。

海老原宏美さんはこのようにも語っています。
「当事者として生きていて思うのは、周りが思っているほど私は大変じゃないんですよ。大変なことも多いですけど、結構面白いんですね。目の前に障害が治る薬があったら飲みますかと言われたら、私は多分飲まないと思うんです。障害と生きるって大変なことがありすぎて面白いんです。別に強がりではなくて、障害があることで、健常者にはない喜びを得られる機会がもの凄くたくさんあって、色んな人に出会えたり、指が動く、手が動くことをすごく幸せに感じられたりだとか、世の中の一個一個の現象に対してすごく敏感になるんです。
私は進行性の障害なので、いつどう死んでいくかわからない、いつまで生きられるか、いつまで体が動くかわからないという状態に置かれている。死ぬことが身近にあるんですね。だから逆に今やれることをやらなくちゃとか、生に対する、生きることに対する意識が健常者に比べると日常的に自分の中に湧き上がる機会も多い。1日1日を面白く楽しく生きていこうという思いがすごくあって、障害者として生きるってすごく面白いなと思うんですね」
海老原宏美さんの言葉にはうなずくばかりです。

最首悟さんの談話です。
「今はまだ訪問介護などもお願いせず私たち夫婦で星子を見ていますが、もうそろそろそれも終わりかもしれません。心配はしていません。頼りになる人たちがいますから」

12年間、筋萎縮側索硬化症の母親の看護をした川口有美子さんはこう語っています。
「自分の命を捨てて他者を助けるような合理的には見えないようなことを人はするが、それは生物の本能ではなくて、人間がもっている本性だと思います。重い障害をもった人を大事にしたり、食べられない人には食べさせてあげることを人間はずっとしてきている。そういう弱い人たちがいることによって、ギスギスしないやさしい社会になり、目には見えないがメリットがあることを人間は本能的にわかっている。
重度障害者が産まれないようにしたり、早く死ねるようにしたりして、優秀な人ばかりの社会になったらどういうことになるか。たぶんもっと早く人類は滅ぶのだろうと思います」