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  兪 渶子(ユ・ヨンジャ)さん「解放への祈り」
2019年4月6日

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 兪渶子(ゆ・よんじゃ)といいます。もうすぐ70歳になります。広島県比婆郡東城町で生まれました。同じ話をみずみずしい生き生きとした感性で話し続けたい、と思っています。この思いは、ジャーナリスト青地震の『同じことをみずみずしい感動で言い続けたい』という本から得た、私の座右の銘です。その時々の出会いが新鮮でありたいと思います。

 一期一会です。2019年4月6日の今日この日の出会いはこれ一回限りです。帰りの飛行機が落ちたらもう会われへんしね。出会いを大切にしたいと思います。

 沖縄に引っ越して15年。だけど、「ウチナーグチ」が使えません。「ウチナーグチ」は沖縄の民族の言葉です。「日本の方言と言わないでください」と沖縄の先生に言われました。

 関西弁というのは日本の地方語ですね。でも、沖縄の人たちの言葉は独立した民族の言葉なんです。沖縄独特の言葉を沖縄の人たちが本気で話をしだしたら聞き取れません。「マーカイガー」は挨拶の言葉。「どちらに?」という意味だそうです。調べたんですが、日本語の「こんにちは」という「ウチナーグチ」はないそうです。現在の挨拶は日本語です。それで奪われた「ウチナーグチ」を取り戻す動きが始まっています。

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 私は韓国の文字が書けますし、話もできますし、民族学校に通ったので通訳もできます。1年から高校まで12年間通って、朝鮮語ができます。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の影響のある学校だったんです。なぜかというと、金正恩さんのお祖父さんの時代に奨学金が送られてきていたんです。小学校5年の時から高校まで無償で学校に行きました。

 私の朝鮮語はなかなか面白いらしいです。関西弁が混じるんですよ。お母さんの故郷は釜山に近いんです。お母さんの朝鮮語が私の根っこにあるんですね。それと民族学校で学んだ朝鮮語。私の朝鮮語は日本語っぽい朝鮮語です。いろんなものが混ざってる。

 両親は戦争が終わり、祖国の解放後も日本に取り残された「在日」朝鮮人です。朝鮮人と言うと朝鮮民主主義人民共和国のことと思うでしょ。韓国人と言うてもいいんやけど、今日はこだわって朝鮮人と言ってるんです。一つの朝鮮と思ってるから。

 祖国に帰りたかったけれども、いろんな事情があって帰れなかったのが「在日」なんです。帰国できなかった多くの「在日」は、娘が結婚して子どもができたとか、お父さんが急死してとか、いろんなことが重なって帰られなかった。

 母の故郷は釜山から車でね、1時間くらいの山ん中。両親の故郷に行って見たら田んぼしかない。川と田んぼ。母が語ったそのまんまの故郷でした。そこに帰りそびれたんですよ。そういう事情があって日本にいたのです。

 日本の人の暖かな情けであるとか、山川草木豊かな日本の風土というのはとても愛しています。私が生まれた東城の風景を覚えてるんです。3つか4つまでしかいなかったのにね、覚えてるの。

 兄は「それは刷り込みや」と言うんですよ。誰かに聞いたことが自分の記憶として残っていくいうことがあるでしょ。兄は「お兄ちゃんやお姉ちゃんが話したことを覚えて、自分の記憶にしてるだけや。覚えているわけがない。ちっちゃいちっちゃい妹やったから」と言うんです。

 9人兄弟の末っ子なんです。すごいでしょ。私はお父さんが60歳の時の子どもです。昔は劣等感やったけど、今は自慢です。時間が過ぎたら、そういうこともあるんやなってに思えるようになりました。

 一番上の姉がね、生まれてすぐ3日くらいして亡くなったので、8人で大きなったんです。もう甘え上手ですよ。末っ子ですからね、わーわー泣いたらなんでもしてくれるし、泣きやまんかったら背中なでてくれる。そういう生い立ちです。

 東城の風景で覚えているのはね、裏戸開けたら、山並みと緑いっぱいの稲穂が育ってて、風にそよそよ揺れてる。そういう風景が記憶に残っているんです。ちっちゃい頃によく夢を見ましたよ。広々とした野原でね、私がぴょんぴょん飛びながら、「ははは」って笑って喜んでる夢です。なんてかわいらしい。4つの時はかわいらしかったのにね、そんな記憶が残ってます。

 神戸に引っ越した時に、雪が降ったんです。私、日本語読みでは「えいこ」なんです。父が「えいこ、これが雪だよ」と教えてくれた、私をおんぶした父の背中もその眼差しも覚えているんです。赤い服を着ていました。お兄ちゃんたちに「刷り込みで自分の記憶にしとるだけや」って言われても、そこまで覚えているのにね。柔らかな何とも幼い時の記憶です。

 でも、父と母が細い路地を歩いて帰って来るのをひたすら待ってた淋しい子どもやったことも覚えています。行商してたの。2人で仕事に行くからね。細い路地を通って父と母が帰ってくる。裸電球がぼうっと灯ったらお母さんが帰ってくるって、わくわくしたその気持ちも覚えているんですよ。久しぶりに思い出してね、何年かぶりでこの話を聞いてもらっているんです。

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 お寺は何か暗い話ばっかりするところと、長い間思い込んでいました。死んだらどうなるとか、死んで地獄に落ちないように、お布施いっぱい包んだら良いところに行けるとか、うまいこと話をしたりするところだと、思ってたんですよ。子どもの頃から、お寺というと暗いイメージしかなかったんです。まさか自分がその僧侶の一員になるとは夢にも思ってなかった。微塵も思ったことはない。

 お寺の門の前に立った時が39歳と半年。三十路を超えて、40になろうとする時。40年生きてきて、何とも言えない焦りみたいなんがあったんですね。このままでいいかな、と。

 真宗の教えで私が一番感動するのは、仏教は生きる力、仏教は明るい世界観、そう思えるようになったことです。あの暗いお寺のイメージが払拭されました。

 初めて行った報恩講は、本堂の前に幕が飾られてね、旗がたなびいていて、お寺の案内に「解放の広場 報恩講 どなたでもどうぞ」と書いてあったんです。解放されるって何から解放される? 解放というのは自分の思い込みからの解放です。「こんな私なんて」とちょこっと卑下してみたり、「私はこんだけできる」とうぬぼれてみたり。

 そうではなくて、まっすぐに自分と出会う。誰の解放でもない。そして解放された人間がさらに解放を望むんです。そういう話を初めてのお寺で聞きました。わくわくしました。

 お寺はね、人と人が出会う場所。会所(えしょ)です。だから、私のようにかたくなにお寺を先入観で見ている、そういう人間のために、「解放の広場 どなたでもどうぞ」と書いてくださったんやなと思いました。

 そういう縁がずっと続いて30年、今日、広島に来ることができた、と思っています。ためらわずに「行きます」と返事しました。「お母さんが喜ぶやろな。親孝行の子やな」と自分が思いたいからね。

 今日は釈尊降誕会、花まつりはお釈迦さまのお生まれになったお祝いですね。生まれてきたことの不思議です。「頼んだわけでもないのに生まれてきた」。つらい時、お母さんをそう責めました。「日本でこんな差別されるくらいやったら産まんとってくれたほうがいい」とかね。私の子どもが思春期の頃に反抗した時にね、「まだまだあんたは私の反抗期に負けているよ」と思いました。

 今は心から謝っています。どんな事情があったにしても、どんなにつらいことがあったにしても、ここに産んでもらってありがとうと思うています。これはね、「恨みはよくない」と私に言ってくれた人がいたからです。

 お母さんを恨んでいません。恨んでいるのは、母の切ない思いも知らずに、「なんで日本に残ったの。故郷に帰らなかったの」と責めた私を恨む。本当にもっと早よ気がついたらね。悔いが残ります。

 自分はどういう人間か、一番わからないのは自分やなって、お寺での出会いの中で教えてもらったのはそういうことやったんです。私以外の人が私をもっと知ってた。

 人は死んで終わるわけではありません。お母さんに死なれて初めて、お母さんの尊さがわかった。「すごいな」って。どんなにがんばってもお母さん以上にはなられへん、子たちから尊敬を受ける人にはなれないなあ、と思います。

 お母さんは「あいうえお」の「あ」の字も知らんのよ。なぜかというと、学ぶことを取り上げられた世代の女だったんです。「女が勉強してどないする」と言われた時代を生きた人です。今ほとんどいませんよね。でも、私の上の上の世代くらいの人にはいっぱいいると思います。

 母は好奇心の強い人でね、昔は糸車を回しながら糸を紡いだりするのね。そうしながら、一人で「千字文」、中国の漢詩ですけど、それを勉強しようとしたらしいけれどできませんでした。「ハヌル(天)・チヨン・タン(地)・ジ」と節をつけて字を覚える。「ハヌル」は朝鮮語の空という意味です。「天」という漢字を朝鮮語で発音すると「チヨン」。「タン」は地です。

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 私は人嫌いだと思ってた。人間は言葉で話をするでしょ。誤解された時、どうなります? そういうつもりで言うたんじゃないのに、真逆に聞かれて、悪口言われたら、心底黙ってしまおうと思いませんか。二度と物言わんとこ、少なくともあの人とは物言わんとこってなりませんか。だからね、黙っているのが一番楽と思ってたのね。

 でも、ある先生に出会ったんです。息子が小学校6年の時。「在日」の子どもが日本の中学校に行くのにね、国籍が違うから 「義務教育を受けます」という保護者の承認が必要だったんです。先生が職員室で「後で渡してもええけど、どうする?」と聞いたので、息子は「せっかくやから今もろうて帰ります」と、一枚のハガキをもらって来たんです。

 それ聞いた私はがっかりしました。40人のクラスの中に1人だけハガキをもらわなあかん子どもがなぜいるのか、先生が子どもたちに教えてほしいと思いました。先生は日本人でないことがばれて息子がいじめを受けると思って配慮したんです。

 息子は本名で学校に行っていたんです。鄭という名字で、「ちょん」と読むんですけど、日本語では「てい」なんですね。テイ君が朝鮮人だということが、ばれると思ってみんなの前で渡さなかった、先生の気持ちはわかったんですよ。好きな先生でした。今も尊敬する先生です。

 保護者会の時にね、「先生、なぜうちの子だけにハガキを渡すのか、子どもたちに教えてください。子どもたちに日本の歴史を教えてください。私は朝鮮の歴史を子どもに教えて育てます」と言ったんですね。先生、びっくりしたの。びっくりしたけどね、私を教室に招いてくれたんです。「テイ君のお母さんから話を聞く会」を道徳の時間を一時間つぶして。

 もうね、死ぬか思うたよ。心臓がどきどきするのが自分に聞こえるんですよ。真っさらな子どもたちに話するわけでしょ。焼き肉屋しながら一生懸命にがんばってきて、人前で話することなんかないですしね。

 息子が前から二列目に座っていました。息子の感想文を読んだらね、「お母さんが演説しました」って書いてあった。愛おしくて胸が一杯になりました。後日、卒業式の日に朝鮮の民族衣装を着て行った時は、「お母さんがチョゴリを着て学校に来るので、もう僕は今日以上に緊張することは僕の人生でないと思う」と言いながらも、着ることを受け入れてくれた息子です。ただ抱きしめずにはいられませんでした。

 店の前が通学路だったので、クラスの子どもたちから届いた感想文に「おばちゃんがよそいきを着ていました」とある、そんな感想文をもらいました。話したことは表紙に「出会い」と書いてある冊子になりました。

 道徳の時間に先生が私に話を依頼したことを校長先生が知って、先生が左遷されたり、職を失ったりしたら、私、ほんとに困ったな、そうなったら立ち上がらなあかんなと思ったんですよ。校長先生が私の話を録音したテープ全部聞いてくださってね、「いい授業をしました」とおっしゃったのね。もう心底ほっとした。私のためじゃなくて、先生のためにほっとしたんですよ。その後、ちゃんと言葉にして生きなあかんなとさらに強く思うようになりました。

 今も多くの人が通名で生きているんです。朝鮮人だと言えない。日本の名前で生きていたら、みんな日本人だと思うでしょ。責めて言うんじゃないですよ。そういう歴史だったということなんです。「朝鮮人です」、あるいは「韓国人です」と、いわゆるカミングアウトする時にね、ブルブル震えながら告白したんです。おかしいでしょ。

 お母さんから故郷の美しい話いっぱい聞いた私はもういい。でも、私の子たちがそんな目にあったらたら嫌でした。だから、指紋の押捺を拒否しました。

 押捺制度というのがあったんです。日本の法律です。ある高校生が「指紋を押すの嫌です」って泣いている姿を見て、自分の息子のことを考えたんです。息子が16歳になったら、あの少女のように「犯罪者じゃないのに、押せ、言われるのいやや」言うて泣かれたら弁解のしようがないでしょ。「朝鮮人なんよ。日本で生まれたから仕方ない」言われんでしょ。私のお母さんが私に語ってくれたような、あの故郷を語ることもできない親が言うたらあかんでしょ。

 「拒否したい人は私たちが戦います」、そんな思いの横断幕を貼った市役所があったんですよ。大阪のどこかの市役所。新聞で読んで、かっこいいなと思ってね。「あなたの問題は私たちの問題です」と言ってる日本人がいたんです。

 私、子どもたちがつまずかないように、石ころを一つでも拾ってやりたい。そんな気持ちで町役場にたった一人で行ったんです。「嫌です」と言った時にね、職員が一生懸命説得するわけですよ。でもね、この身が拒否するんです。未来がかかっているから。

 私は署名活動もしないし、シュプレヒコールもしない。ただ、私の意思表示として、子どもたちが私に「あの時代、どう生きたん?」と聞かれたら、「私は精一杯がんばったけど、法律が変わらんかった」と、こう言いたかったんです。いうなら私のアリバイ作りです。

 現在、指紋押捺制度はなくなりました。息子には間に合わなかったけどね、娘の時には間に合ったんです。言葉を尽くせばわかってくれる人がいたという実感を持ちました。

 間に合ったけれど、指紋の代わりにサインが残りました。娘を説得してサインすることを勧めた日のことを忘れられない。行政の受付で差し出されたサイン記入欄のある用紙を前に、立ち尽くす娘を待ってくれた窓口の女性が、娘の真意がサイン拒否なのを察して、「そりゃ、そうよね」と爽やかな笑顔で、サイン記入のない外国人登録証明書の申請を受理したんです。娘の人格を奪う過ちをただしてくれた出来事でした。その人が受付にいてくださったお陰です。今も感謝しています。

 様々な出会いがお寺に行く縁になりました。その縁の中に「在日」一世のおばあちゃんの人生を独り舞台で演じる女優さんがいたんです。新屋英子という女優です。新屋さんが無償で来て、独り芝居してくれたんです。500円の券を作ってね、「来てください。観に来てください」と頼みました。隣の奥さんたちが500円の券を売ってくれて、人口3万人のところに400人来てくれた。

 新屋さんは日本の人ですけど、セリフにちょこっと朝鮮語入れるんです。「アイゴー」とかね。アイゴーというのは慟哭で、つらい時に出る言葉です。ほんまの朝鮮人じゃないかなと思うくらいでね。でも、発音がちょっと。「朝鮮語の発音下手ですね」言うたら、「日本人やもん」と言われました。「これからあんたが独り舞台し」と言われたんで、「芝居にならないから嫌です」と断りましたけどね。現実のことやからね、芝居にならない。

 新屋さんは80歳で亡くなりました。どんなに尊敬してもあまりあるような女優さんです。本当に励まされました。私は幸せやね。行き詰まってたら、この人のように生きたいという素敵な人に出会えて。

 なんでこのことを話すかというと、こういうことがあって、それでお寺に出会うことができたんです。ただただ自分の子どもが大事。3人の子を産んだ責任があると思って立ち上がったのに、そこに浄土真宗の教えが向こうから来てくれたんですよ。

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 大谷派の僧侶たちが来るきっかけになったのは沖縄です。指紋の押捺を拒否してから、「在日」のことを知ってもらいたいと思って、いろんなことを調べてたら、金城実さんという沖縄の人にたどり着きました。

 その金城実さんは沖縄靖国訴訟原告団の団長で、押捺拒否者の裁判の証言者でもあったんです。裁判所で朝鮮人について演説したんですよ。アイヌ民族と朝鮮民族と沖縄民族のことを裁判の証人席で。

 それを読んで、これは面白いな、この人の話を聞こうと思って、人に尋ねたら、市民運動をしてる人がね、「あそこのお寺に行ったらいいわ」と教えてくれたのが、私の先生の玉光順正さんが住んでいる光明寺というお寺でした。

 兵庫県の市川町に訪ねて行ったんです。30年前の11月の第4土曜日でした。日本昔ばなしに出てくるような、おにぎり山みたいなのがぽこぽことあってね、小川が流れてて、そこにポツンとちっちゃなお寺があった。

 玉光さんが「ばらばらで、なお一緒」とおっしゃったんです。蓮如さんの御遠忌のテーマになりました「バラバラで一緒」という言葉は、安田理深の「雑多にあっていい。一人ひとりがそのままの光を持って、そして一つになる。それを和合衆という」、共同体のことです。一人ひとりがそのままで集まっている共同体。「それでいい」と言われたことからです。

 玉光順正さんが安田理深講演会でその話をお聞きになってね、私のように文字をも知らぬ人のために平たい言葉で解説したのが、「ばらばらで、なお一緒」だったんです。

 私は役場に行って、「押捺拒否します」言ったら、「なんで?」と聞くから、「私たちは疎外されいる」「はずされている」「子どもは差別を受けています」と言うと、「いやあ、そんなことない。税金でできたこの道路、一緒に歩いとるでしょ。一緒でしょ」と言うんです。

 でも、お寺で聞いた言葉はね、「ばらばらで、なお一緒」なんです。人は一人生まれ、一人死んでいく雑多という意味ですね。しかも、それが和合衆になっている。一つの共同体になっている。「それが浄土真宗の世界観だ」とおっしゃったんですよ。

 世界観ですよ。もうね、感動した。私は帰り道、絶対に寺になんか行かんとこ、と思ってた今までのかたくなな思いがほぐれるような気がしました。毎月、第4土曜の「市川親鸞塾」、そして「浄土の宴」に参加しに行きました。ただの飲み会みたいに思えたのに、玉光先生がつけた宴会の名前が「浄土の宴」。そこにキムチを持っていったりね、自分で考案したサラダ作って持っていったりしました。

 なぜかというと、私はよそ者です。どんなに言っても門徒じゃないから、自分の座る場所がない。座る場所がないから何をするかといったらね、自分で「ここにおるよ」と言わなあかんわけです。それでキムチを持って行きました。

 沖縄でもキムチで覚えてもらうことがあります。「キムチの人、知りませんか」と、私に聞いた人がいます。名前忘れてもキムチ覚えてる。その人、マッサージする人なんですよ。あの時のお礼と言って、中国式のマッサージを一時間もしてくれました。面白いね。

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 私、人前で恥をかかされたら死んでやろうと思うような気の強い子やったんです。プライドですよ。私をみんなの前で笑いものにしたら、その人の前で自分の舌を切ってやろうみたいなね。

 その時の兪渶子はもういませんよ。お寺に通いだしたら、プライドも劣等感も邪魔なものだとわかった。まっすぐ自分と出会う、その豊かな出会いを教えてもらったんです。

 500人の人が来た婦人会と坊守会の合同の大きな大会で話した時、字が書けなかったことがあるんですよ。「自信教人信」が書かれへんかった。何回も書いた字なのに。びっくりしました。緊張しすぎて書けなくなった。

 それで、振り向いてね、「字、書けないくらいでは死にません」と、とっさに言いました。自分のプライドが邪魔するから、書けないとは言えない。だけど、書けなかったんやから仕方ないじゃないですか。千回書いた字でもね、パッと忘れてしまうこともあるもん。そういう老いていく自分を認めた日でした。すごく自分を教えさせられましたね。「本当に今日は話しきれなかった。字も書けなかったな」と思っていたのに、テープから起こした講演録が送られてきました。

 私、一生懸命に話をするんですよ。昔は帰ったら3キロくらいやせて、友人が「どうしたん?」って聞くからね、「鶴の恩返し」と答えました。

 でも、後になったらすごくがっかりしてね、「申し訳ない」ってなるんです。わからないんですよ。自分がいいと思って話することが、人を傷つけるようなことを言ってしまっていたとか。それも全部私なんですね。それを知って、誠実にその日一日を生きていきなさいというのが真宗の教えだと私は思っているんです。


 「あなたに出会えて本当によかった」と思える人に出会うことが始まりやし、もし誰にも出会えなくて、「ああ、空しいなあ」と、ほんとは出会っているのに、それに気がつかずに「空しいなあ」とため息ついた時が真宗に出会うきっかけだと思う。

 私が押捺拒否していろんな人に出会って、お寺に行きかけてた頃のことでした。洗濯物を干していた時に自分の身体に空しい風がふわって吹いたあの記憶、忘れられない。田んぼの稲穂が風に吹かれる、東城で見たあの風景です。押捺拒否して、人にちょっとちやほやされ、でもこんなことやって社会が変わるんかと思うたんです。自分にとっては人生の転換点になるくらいの大きな出来事だったけど、こんなことくらいで社会は変わるやろかと、本当に空しい風が吹きましたね。

 お寺に通い始めて教えてもらったことはね、真宗の言葉に出会う、お釈迦さまの言葉に出会う、親鸞に出会う、それはね、自分の人生を空過しない、空しいものにしない、そういうことなんですね。呼びかけられたような気がしました、「一緒に生きていこう」って。

 ちょっとほめられたらどうなる? 有頂天やね。ところが、夕方、人が集まって何か話しているのを見て、「私の悪口いうとんやないか」と思ったらね、疑心暗鬼地獄でしょ。そんな六道の人生みたいな毎日。朝は有頂天。なんかあったら、有頂天からあっと地獄に落ちて、また上がって。そんなんじゃないですか、私たちの日常というのは。空しくなったり、調子に乗ってのぼせ上がったり。

 でも、真宗は「そういうものや」と教えてくれるんです。どんなに人間が一生懸命に生きとったって、そういう空しさから逃れられない。空しいということがわかった時に、「そういうことなんや。誰にでもあることや」と思ったんですね。空しいもんです、人生は。

 これは逆説的みたいやけどね、空しいもんやと知った時に空しくなくなったんです。「みんながそうなんや。人はそうやって生きて、死んでいくんや」と思ったんですね。日本の社会をものすごく斜めで見てたけどね、みんな一生懸命生きている姿が見えたような気がします。特別にえらい人もいない。特別にダメな人間もいない。玉光先生は「みんなちょぼちょぼ」と言いました。

 藤元正樹先生はこうおっしゃったんです、「人間は環境の生き物」と。素晴らしい良い環境で育った人はお上品にもなります。そうじゃないですか。環境ですよ。それはわかるはずやわ。私は、環境とは「縁」のことだと思います。

 社会全体の疲弊した環境の中で、殺さずにおれなかった、自分の人生をだめにしてしまった人がいます。その人たちのこれから先に対して祈りたい。

 時々、ニュースに出てるでしょ、お母さんお父さんが子ども殺したとか。どんな人生を生きてきて、ちっちゃい子を殺してしまったんやろう。ましてや我が子をね。自分もあと追って死ぬつもりやったやろうか。心臓がきゅうっと痛くなります。

 死ぬまで生きられるのに。何も心配することはない。死ぬまで生きられるんですよ。その時が来たらみんな死ぬんやから、死ぬまで生きる命やから、せめてね、今日一日、明日どうなるかわからんけど、笑いながら当たり前の一日を当たり前に終わりたい。そして、あなたもそうあってほしい。そんなことを思いながらここに立っています。

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 つらくない人間なんていないと思う。みんなつらい。つらくないと言ってる人はね、よっぽど鈍感な人だと思うわ。そんな人もいますよ。「なんもつらいことない。感謝しかありません」とか「天から授かった命。本当に幸せ。感謝です」いう人がいます。私は、よかったですね、あなた。と言います。立場で語りたくないと思う。

 浄土真宗は押しつけとおねだりがありません。「南無阿弥陀仏」千回一万回言うても歯の痛みは治りません。「南無阿弥陀仏」一万回言うて何ができるか言うたら、一万回言う間に歯が痛いことを忘れることはあるかもしれない。痛みが治るわけじゃないです。

 でも、念仏以外にこの地上を、世界を平和にする道はないと思っています。みんなが念仏称えたらね、世界は平和になるんです。こう言い切ったら、ネットでボロクソに叩かれました。

 全然くじけないわ。真宗門徒はそれを言い続けなあかん。「南無阿弥陀仏と称えたらご利益あってね、痛いのが治ったんです。あんたも真宗に来なさい」と言ったらだめですよ。新興宗教となんも変わりません。一生懸命自分たちのところ引き入れようと、嘘にしか思えないようなことも、なんでも言うからね。でも、あの人たち、嘘で「助かる」と言ってない。真剣に助かると思ってる。真剣に間違っているのだと思います。私の身近にそんな人がいました。

 浄土真宗の教えは「疑え、疑え」やからね。問うても問うても問い続けるしかない。「問うても問うてもわからなかったら、もっと問え」と。

 安田理深の『不安に立つ』という本を見た時、じゃあ、どうしたらええのと思いながら読みましたよ。でも、そういうことなんですよ。自分の人生を自分が片をつけようとする。私はそうやってずっと肩肘張ってたの。

 でも、おまかせしたらいい世界があるんやなあと。自分一人で決着できへんことは、もうまかせるしかない。自分が自分を一番大事にしなければ、自分が自分に出会うことはありません。「こんな私、いやや」って、ほんまに放棄しようと思ったこと何回かあります。思春期の頃とかね。でも、最初の子どもが生まれた時、これで自殺もできないなと思いましたね。そうですよ。責任があるもん。

 でもね、子どもがいなくて、一人で生きている人もね、生まれたことの責任がある。
「生まれてきたことの仕事は何ですか。生きることです。最後の仕事は何やいうたら、生き抜くこと」
 藤元先生のこの言葉にものすごい納得しました。

 私はね、なんでも感動するタイプらしくて、その時、そやなと深くうなずいたんです。わからないことだらけです。年取ったら何かわかるかなと思ってたらね、70歳になってもわからんことだらけ。でも、了解したことはあります。ひたすら生きとったらいいんやな、と。時が過ぎれば、時の豊かさということを感じます。「とりあえず生きておろう」、そう思っています。

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 真宗宗歌は私のテーマソングなんですよ。あれ、私のためにできた。

  ふかきみ法にあいまつる 身の幸何にたとうべき
  ひたすら道を聞きひらき まことのみむねいただかん

 聞いて、自分を探して、聞いて聞いて、問いが生まれて、ああ、そうだったな、とうなずいていく。そういう広い世界が開かれてきたなと思う。

 一人ぼっちはつらいけどね、一人は豊かなんです。一人で生きていける力を開いてくれるのが仏教です。いつもお釈迦さんの言葉があるし、親鸞聖人の言葉がある。言葉によって励まされていく。

 私は「お釈迦さん、親鸞、梶原敬一」と呼んでるんです。私の仏教の先生ですから。戸をばっと開いて浄土真宗の教えの前に立たせてくれたのは玉光順正先生です。そして、私に「それでいいか」と激しく問いかけてくれるのは梶原敬一という名の先生です。友であり、師である、尊敬してやまない浄土真宗の門徒さん。

 私、聞法会で話を聞きながら、日本の片隅に静かに生きて、嫌われもせず。悪いこともしなかったら嫌われんでしょ。そうやって生きていこうと思ってたんですね。路傍の石でええわって。

 親鸞聖人が「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」、みんなに蹴り飛ばされるような石ころ、そういう存在の人たちは自分と一緒や、御同朋だと言った。昔は漁師やあきんどは卑しい仕事だと言われていた。猟をしたり、魚を捕ったり、商いをしていた、そういう人たちに呼びかけた言葉なんですね。

 親鸞聖人が自分と同じ道を歩く人に呼びかけた言葉を聞いてね、すごくうれしかったのね。親鸞聖人が800年も前にそういうことをおっしゃっているんやったら、私、路傍の石でええわって。「そうやって日本人に嫌われんように精一杯生きて、ああ、ええ教えに出会ったな。私、これで生きていけるわ。ええ教えや」と思ったんですよ。

 梶原敬一さんのお連れ合いさんも聞法会に出てたのね。帰りの車の中で、あまりうれしいから今のことを言うたんですよ。そしたら彼女がね、梶原さんに「ヨンちゃんがね、こんなこと言うた」と話したら、ここがすごいんですよ、「間違ってる」って私の焼き肉屋に来たんですよ。聖典もって来た。「ヨンちゃん、間違ってる。あなたのようなタイプの人が宗教を聞いたら、すぐそんなふうに座り込むんや」と。そして、梶原さんはこう言いました。
「石は石のままであって良いわけがない。石も輝かなあかん」
 もうね、バシって張り倒されたような気がしました。「輝かなあかん。一人ひとりが輝かなあかん」、そういう教えに出会ったんです。それで今日ここまで来るご縁をいただきました。

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 人間関係で大事なのは距離感ですよ。ある人に「あなたは親友です」と言ったら、「親友は気持ち悪い」と言われました。「もう何でも知ってるから」となるでしょ。その前には何がつくんですか。思い込みがつく。「親友だから」「親友なのに」がつくじゃない。その人に「だから」「のに」はやめようと教えられました。みんな当てが外れた話じゃないですか。人生って、ほとんど当てが外れてませんか。

 人が変わるということは何かを学ぶ。言い換えれば、出会うということは人が変わること。出会いで人は変わるでしょ。いろんなことを発見しながら、生き生きと毎日変わっていくじゃないですか。

 赤ん坊は特にそうでしょ。子どもは毎日、何か発見があって、生き生きと生きてるんですよ。学んでる証拠ですよね。

 焼肉屋をしていた時に、子守してくれる人がいないからね、息子をおんぶしたら、ふくらましたらぴょんと跳ぶカエルのおもちゃがあるでしょ。あれですよ。おんぶすると両足で蹴りながらギャーと泣くんです。で、下ろすと泣き止むの。もう本当にちっちゃい時から自立心の強い子どもでした。歩行器に座らせてたんです。すると、後ろばっかり行くの。安心してたら、今度は前、前に行ってね、縁側から落ちた。バケツの中にはまってた息子を、帰ってきた夫が見つけたんです。あっという間に前に行くようになったのね。びっくりしました。子どもの成長に後から付いて行くお母さんは、あっちこっちに「ありがとう」と「ごめんなさい」しか言うことをないですよ。ほんまに大変。

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 私、50歳で大谷大学に行ったんですよ。開学百周年で、「学びたき者 来たれ」という募集があって、試験を受けて通ったんですね。

 レポートを20枚。「現代と真宗」と「真宗と自然法爾」というのを10枚と10枚書いて、書けば誰でも面接は受けられるんです。

 二年間学んだら僧侶になるというのが奨学金の条件だったんですが、本当はとても悩みました。在日の同朋がどう言うやろなって。

 大谷大学の「在日」の鄭早苗先生に「ヨンジャは宗教に逃げた」と言われましたね。「宗教から始まりました」と応えました。先生は無償で私たち「在日」に韓国の歴史を教えてくれた方です。大学では必須科目の合間に先生の授業を受けました。

出会いが向こうから来てくれた。「一緒に勉強しよう」と。生きてたらなんとかなったんです。なんとかなったから、それを不思議と言うのではないですか。他力と言うてもいいかもしれんね。自分の思いを超えた願いに自分が生きてるという実感ですよね。他力不思議だと思うわ。

自分が一生懸命がんばっていても、できない時はできないもの。できた時は自分ががんばったからと自分をほめても、できる縁があっただけのこと。そう思ったら生きるのが楽になったかな、って。つらい時はとりあえず深呼吸。深呼吸してね、体をもんでやる。そしたらオキシトシンというのが出てね、元気が出るらしいですよ。だから、手当というそうです。そうやって自分をいたわって、その時が来るまでお念仏申しましょうよと最近はお話しています。

 そしたら、「ヨンジャの話は丸くなった」と言われるんですね。「昔、よう怒っとったのに」って。そんなに怒られたいんかなと思うんですよ。言うほうも疲れるよね。そろそろ「在日」のことをわかってと昨日もそう話しました。私、黙るから、住職さんたち、今の話、拡散してくださいって。

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 沖縄に住んでると、本当に基地の騒音がうるさい。ここは車の音がうるさいですけど、でもうるさいうちにはいりません。私、心臓が悪くなってるのは基地の騒音のせいだと思うんです。そういう人が年間に千人ぐらいいるらしい。でも、政府はそれは民間が調べたデータだからというので無視しています。

 沖縄に阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)という、101歳まで生きられたおじいちゃんがいたのね。この方が戦争中に、お国のためにと、たった一人の息子を戦場に送ったんです。帰ってきたのはちっちゃな箱でした。開けて見たら、これが息子かというものが入ってたのね。

 阿波根さん、その時、気がついたんです。「何ということしたのか。自分の息子を殺してしまった」と思ったのね。それから平和活動を必死にしてこられた。伊江島という島に「反戦平和博物館」があります。伊江島に落ちた砲弾とか、核兵器の準備をしたものとか、いっぱいあります。日の丸にみんなで寄せ書きしたでしょ。ああいうのとかね、なんでもかんでもある、そういう博物館を阿波根さんが作ったんです。今もかなりの人が来てます。海外からも来る。もちろん沖縄の人も行きますよ。

 今、辺野古で闘ってる原点になってるんです。非暴力。声も荒げないんです。そりゃ、「痛い」と叫んだり、「出ていけ」とかは言うけども、棍棒もって来る人に何をもって立ち向かっていけるかというたら、なんもないでしょ。座って抗議しているおじいちゃんたちをひっぱって行って排除する。今はなりふり構わないようになってます。

 辺野古の話、日本中でニュースになりましたよね。ご存じでしょ。沖縄の新聞の一面は毎日、辺野古がどうなってるかという記事が載ります。新聞記者が実際にそこに立って見たニュースです。

 でも、悪口が流れるんですよ。「あそこにいる人は辺野古の住民ではない。日本各地から来たんだ」とかね。そりゃ、辺野古の住民だけでは間に合わないもん。間に合わないから日本の各地、北海道から東京から、もういろんなとこから来てる。「私は辺野古に行ってきました。何日間行ってきましたよ」という方に会わん日はありませんよ。いろんな人が来てます。

 辺野古に座ってる人は、あの戦争を記憶したおじいちゃん、おばあちゃんの悲しみを忘れていない人たちです。私も90歳を超えたおばあちゃんの話を聞いた一人です。

 集団自決ってご存じですか。集団自決いうのは言い直さなあかんと思う。赤ちゃんも死んでるんですよ。赤ちゃんは自決できない。だから集団強制死。私が住んでる読谷村に集団自決したところがあるんですよ。チビチリガマと言います。読谷村の「集団強制死」が明らかになったのは、戦争が終わって30年以上が経った後ことです。

 死ぬことは美しい。国を守るためだ。天皇のために死ぬことを教えられて来たわけです。そういう時代だつたから、自分だけ死んでしもうたら子どもがかわいそうでしょ。子どもだけ生き残ったら不憫やと思って殺した。親が子どもを殺した。沖縄はそういう悲しみが満ちあふれています。

 そのことを覚えてる人たちはね、誰にも言えない。生き残ったつらさがある。死んだ人もつらいけど、生き残った人もつらい。自分の子どもを殺して自分も死のうと思ったのに、生き残ってしまった親のつらさがあるでしょ。だから、ずうっとみんな口つぐんでたんです。

 そしたら、政府が教科書の検定で集団自決に軍が関与したことを否定したんですよ。国のために自ら死んだんだ、軍の関与はなかった、と。2007年にそれに抗議して11万以上の人が集まりました。それから、ずっと我慢していたことを言葉にしだしたんです。

 非暴力で闘おうとしてる人々が座り込んでるところにね、「お前らが反対運動するから基地ができない。税金が無駄に使われてる」と言う人たちがいるんです。基地の建設はたしかに予定よりもずいぶん遅れています。だけど、今はものすごいスピードで土砂が投入されています。

 そういう現実の前で真宗門徒は何ができるのかと思うよ。一千万真宗門徒やて聞いたんですよ、30年前。今はそんなにいるかわかりませんけど。でも、百万人でも変わると思う。百万人が国会の前で、首相官邸の前で、「南無阿弥陀仏」言うたら、それは力になると思う。

 でも、そんなことを一緒にしようと呼びかけてるんじゃないんです。ここにいてできることを一緒に考えたい。新聞にちょっと投稿するとか、戦争したがる人に一票いれないとか、自分ができることを自分の生活の中で考えていただけたらなって思うんです。

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 政府がウソをついています。辺野古の基地は普天間の代替基地ではありません。まったく新しい、軍艦も入ってくるような基地になると聞いています。命を殺しているんです。なのに、平和を守るための基地やと言うてるんですよ。戦争によって生まれる平和なんか絶対ない。真宗門徒はそう言い切りましょうね。もう二度とあんな殺し合いは嫌やわ。

 韓国の大臣がなんか言うたらしいけどね、あの気持ちも汲んでやってほしいと思う。日本を責める言葉に聞こえるかもしれんけどね。やっぱり恨みでは人間、解放されないわ。恨みを解くようなお念仏の風が朝鮮半島に、日本に吹き渡れと思う。

 相手に届くか届かないかはいいんです。問題ではないんです。しなければならないことを今やらなければならない。その課題が目の前にある。このことを韓国の小説家が言ってるんです。

 韓国では、四・三事件といって、1948年の4月3日に韓国の軍隊や警察による済州島の住民の虐殺があったんですよ。住民の5人に1人が殺された。済州島の集団虐殺は南北が分断されたことが原因なんです。

 関心があったら韓国の歴史の本をちょっと読んでもらって、そこから始まる縁になればいいなと思ってお話しするんですけどね。

 朝鮮半島の南北分断は、ヤルタ会談でアメリカのルーズヴェルトとソ連のスターリン、イギリスのチャーチルたちが決めたんですよ。日本をどうするのか、日本の植民地であった朝鮮半島をどうするのか、と勝った国が決めたんです。

 戦後、朝鮮半島で統一選挙を支持したい人たちがいたのね。南と北で別々に選挙をしたら、分断した国になるでしょ。ところが、李承晩という韓国の初代大統領がいち早く選挙しちゃったわけ。で、北もね、金日成が選挙した。それで朝鮮半島は徹底的に分断された。統一選挙しようと言うた人たちが済州島にいっぱいいたの。その済州島の人たちを軍隊が弾圧して虐殺した。デマと憎しみで。

 その虐殺事件を小説にした。小説を書いたら発禁になって、作家は捕まって監獄に連れてかれました。「結果のためにやるのではない。今、やらなければならないことだからやるのだ」と書いていました。

真宗に出会って一年目くらいに、玉光順正さんが「浄土真宗の教えに出会ったらどういう人生が生まれるか。結果を気にしない人生が生まれます」とおっしゃったんですよ。結果を気にしない人生が開けるというのは、ほんとに今もうなずいています。

 でも、結果を気にするよね。「こんだけ子どもにご飯食べさせたら、背が高こうなるかな」とか、「こんだけの家庭教師つけたら、どこそこの大学に」とか期待するでしょ。こんだけのことしたのに。さっき言った「のに」ですよね。
「じゃあ、ヨンジャさん、あなたにとってそのしなければならないこと、なんですか」
「解放への祈り。平和だけです」
 何年か前から言い切っています。そして、
「私の国籍は浄土。自由と平等の国です。そこを志向する意思」
 自分の志をそれに向かって生きることはできる。浄土に行くことはできないけど、浄土というものは何かと問い続けて平和を願うことはできる。志向する私。

 平和になるために戦争反対いうとるわけじゃない。戦争は人類が決してやってはならない。自明のことです。人が人を殺してはいけない。
「いのちは、いのちを殺してはいけない」
 これは自明のこと。解説なんかいらないんです。

 以前、テレビで中学生が「何で人を殺したらいけないんですか」と言ったら、そこにいる大人がみんなうろたえたことがあったでしょ。その中学生に解説してたけど、余計こんがらがってた。一言でいい。「人間は人間を殺したらいかんからです」。もっと言えば、「いのちは、いのちを殺したらいかんからです」。これはね、説明いらない。

 「これなんで赤ですか」と聞かれたら、「赤は赤だからです」と答えたらいい。赤を「黄色や」と言ったらややこしいじゃないですか。ところが、赤を「黄色や」と言ってしまう人がいる。自明なものとしてあるものに、ややこしい理屈つけてるんです。

 兵器買うたらあかんと思う。人殺しの道具を買うたらあかん。買うのやめてね、東北で被災した人たちやお金に困っている家庭の人たちにお金あげたら、どんだけ生活が楽になるか。まあ、私はもらわんでもいいわ。息子が「養う」言うてくれてるし、もっと困った人がおるしね。分けてほしいと思ってる人、いっぱいおるはずでしょ。

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 死ぬまで生きてね、戦争のない世界を見たい。志はそっちに向かった。だから、戦争しそうな人には一票いれない。辺野古でこんなこと言ったら、「ヨンジャさん、絶対死なれへんわ」と言われました。私が「アメリカが、戦争の国アメリカが滅亡するまで生きたい。アメリカの人たちが世界平和のために立ち上がる。それを信じてます。死なれへんわ」言うたら、「じゃあ、三百歳くらいまで生きなあかん」と言われました。

 今が平和でないと、国のために死んでいった若い人たちに申し訳がないからです。死んだ学徒兵の人数も把握できてないらしいです。ひどい国です。ジャーナリストの森口豁(もりぐちかつ)さんが「恥ずかしい国」だと教えてくれました。

 私たちの国はどこですか。私たちの国籍は浄土でしょ。浄土を国籍にした自分で考え、自分を生きる新しい発見がある。そうじゃないかな。

 いろんなことが私の人生にもあります。愛いしてやまない友人が亡くなりました。ちょっとだけ言うと、宮城節子さんという人が亡くなったんです。美しい魂の人でした。彼女ね、入院した時期に友人が「ヨンジャに知らせる」と言ったらね、「ヨンジャは忙しいから連絡しないで」と言ったらしい。残念でした。亡くなった後、宮城さんは私にとってどんなに大切な人であったか知りました。

 私は宮城節子さんに贈る一文を書きました。亡くなった人にラブレターを書いたんです。書くために資料を見てたらね、「親鸞の勉強をしたかった」と書いてあった。しまった、と思いました。ごめんね、という思いが消えません。

 平和を願い、ひたすら生きた一生でした。反基地の争いのない時であったなら、森の中で染色と織物を愛し、人間を愛しながら生きたと思う。忘れられない出会いです。

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 お釈迦さんの花祭りの時にこんな話せなあかんのね。親鸞聖人の未来を生きてるのに。私たちは親鸞聖人の未来なんですよ。びっくりするけど。親鸞聖人の未来を生きてる。死んだ人たちの未来を生きてる。そして、子どもたちの未来を食いつぶしたらあかんと思います。ここに座ってる人はみんな未来に責任があると思う。

 自分一人が苦しいんじゃない。みんな苦しんでる。その中でも一吹きの風に、ふと自分を省みたりしながら生きてるじゃないですか。一緒に生きて行きましょう。ただそのことを伝えたい。忘れないでね。沖縄のこと、沖縄の人のことを忘れないでね。

 今日は得がたいご縁をいただきました。私にとって忘れられない日になります。親鸞との出会いが、美しい出会いがここに始まったらええなあと思って。あなた一人に伝わってくれたら、私、うれしいなあ。出会い続けていきましょう。終わります。
(2019年4月6日に行われました釈尊降誕会でのお話をまとめたものです)