神社仏閣


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No 神社名 鎮座地 御祭神 歴史他 写真
1 城神社 呉市天応弥生町8 呉市営バスを塩見町バス停で下車して、国道31号線沿いに約500m東に進み左折して呉線を越えて約400m上り道を北へ進むと城神社に達する。そこから右の風景が望まれる。石段を登ると3方を林に囲まれた静かな境内に達する。境内には昭和43年10月吉日新建記念の石碑がある。
神社の東隣には天聖眞美会呉支部の大きな建物がある。
2 八幡神社 呉市吉浦西城町1 帯中津日子命
息長日賣命
品陀和気命
宇迦之御魂神
(相殿)
奥津比古神
外四柱
由緒:戦国時代小早川隆景が武運長久と戦運を神に感謝して建立したものと云われる。
吉浦駅から商店街を約400m北へ進み左折すると1の鳥居があり、それをくぐって進むと大鳥居がある。101段の石段を登ると境内に達し右折すると左の写真の景観が望める。右には真新しい社務所がある。
3 恵美須神社 呉市新宮町13-19 コトシロヌシノカミ 海岸通り4丁目バス停留所で下車して国道31号線を山側に渡り呉線のガードをくぐって西進し約100mで右折50mで神社境内の下に達する。
境内に昭和53年10月吉日恵美須神社末広大明神社務所・神輿・祠・倉庫奉納の掲示がある。
4
大谷稲荷神社 瀬戸見町11 地図に表示されている場所を尋ねた。恵美須神社入り口の少し西を右折し長い石段を登ると瀬戸見町団地に達する。瀬戸見町14を通りバブコック日立うるめ荘、健康センターをすぎると地図の位置に広場がありその奥に由緒ありそうな石が鎮座している。神社立替準備中と思い石のみ撮影。
5 照日神社 呉市西川原石町6-21 ワカキヒメノカミ
オキツヒコノミコト
オキツヒメノミコト
海岸3丁目7を北へむけて河原石商店街を渡り西川原石町1,2,13,6番の坂道を400mくらい進むと境内に達する。途中に照日神社参詣道の看板がある。
境内はそんなに広くない。
境内の裏手から坂道を登れば山手を通る散歩道に達する。
6 大歳神社 呉市三条1-4-18 オオトシノカミ
モトシノカミ
ワカトシノカミ
三城通り13の通り沿いに一の鳥居があり、それをくぐり曲がり道を合計77段の石段を上りながら進むと、写真の神社本体が望める。
由緒:創立年代不詳
元、和庄村字堀に鎮座しましたるを周辺に人家次第に増え神域狭隘となりたり。明治43年9月当金刀比羅山に遷座せられた。
境内の社殿修築記念碑に「文政12年両城鳴石平より二河流域に至る埋め立てが完成、この地帯一帯は文政新開と命名された。明治19年呉軍港ガ制定されるやこの地に安芸郡郡役所がおかれた。大歳神社は当地域の守護神として明治43年呉港を一望するここ有ア城址に創建され爾来この地域は神恩豊かに繁栄した」とある。
7 鯛乃宮 呉市西三津田町1-1 コトシロヌシノカミ
相殿神:
オオナムチノミコト
アメヒカタクシヒカタノミコト
三城通り4丁目の西教寺対岸を山手に入ると写真の鳥居と石段が望まれる。鳥居の右手に「第六号潜水艇殉難顕彰碑」の掲示板がある。石段115段を登ると前面に写真のお社、左手に第六号潜水艇殉難顕彰碑ガそびえている(そびえるという表現がぴったりの高さがある)。
8 出穂今神社 呉市山手2-16 山手橋を渡り200mほど進むと右手に鳥居が見える。
30段の石段を登ると狭い境内でその奥にお社がある。祭神、由緒等を示す物は何も掲示されていない。
9 竜王神社 呉市西辰川2-9-10 タカキイリヒメニミコト
クラオカミノカミ
タカオカミノカミ
神社の本名:貴船神社
1673-1680年間の二度の大旱魃に見舞われて大被害を受けた。当時の庄屋の呼びかけによりこの神社に雨乞いをしたところ、二河の滝壷から龍が現れて大雨を降らせたと云う伝説がある。
郷町の通りを北上して99段の石段を登ると境内に達する。鳥居のしたから撮った写真が右のものである。
10 荒神社 呉市郷町4 郷町の通りに入り40mほど進むと左手に荒神社がある。
小さな神社である。

先日まで地元にこのような神社があるのを知らなかった。
11 伏原神社 呉市伏原3-5 須佐之男命
(相殿)
大年神
伊那那岐神
伊那那美神
古代主神
奥津日子神
奥津日賣神
大山津見神

伏原2丁目の上り道を北へ進み呉伏原局、上山田小学校をすぎて、100m進めば1の鳥居に達し境内である。
そこから望んだのが右の写真である。
12 宮地嶽神社 呉市畝原町14 鉄管道路(二河の浄水場から平原の浄水場へ原水を送るために戦前敷設された大口径の送水管が埋設されているためにこの名前がある)を東に進むと西教寺があり、同寺の裏手を更に進むと十字路の左手にある小さな神社である。
昭和48年12月祭主植田一郎 の石碑がある。
13 平原神社 呉市平原18-17 タカキイリヒメノミコト(造物3神の内一神)
(相殿)
オキツヒコノカミ
オキツヒメノカミ
外計7柱
由緒:万治二巳亥年9月13日(今から3百年前)に最古の御造営が行われた。
大正二年社地開拓社殿の改修が行われたが、その後の傷みが激しいために、昭和35年6月19日平原神社改築委員会を結成し、昭和36年1月16日に工事が完成。
東畑ー神山線平原浄水場200m手前を左に下れば神社の裏手に出る。
14 高日神社 呉市和庄本町19-2 タカキイリヒメノミコト
オクツヒコノミコト
オクツヒメノミコト
和庄本町より上り道を約400m行き短い石段を登ると境内に達する。
由緒:御鎮座は応仁元年(1467年)後御門天皇の御字、即室町幕府足利義政の頃、神主太刀掛大炊佐、奉事者岡入小太郎等により御造営したものと伝えられている。当社は皇城宮(亀山神社)の摂社でその東北の方向緑深きところを卜して建立されたが時代の変遷兵乱により幾度か荒廃建立を重ね、天和年間桧垣谷(現国立病院の所)に小社を建て、遷座。正徳年間疫病より霊験あらたかなのに感謝した村民が同5年新殿を建立した。
15 亀山神社 呉市清水1-8 タラシナカツヒコノミコト
オキナガタラヒメノミコト
ホンダワケノミコト
亀山神社には宮司さんが作られたホームページがあります。亀山神社をクリックすればリンクできます。 左記の理由から写真は添付しません
16 赤崎神社 呉市室瀬町2-23 宮原3郵便局の横の道を300m程登ると鳥居に達する。そこから45段の石段を登と遊園地があり更に坂道を登ると境内に達し、右の写真のお社がある。境内には高橋栄吉翁之頌徳碑があり、これは故池田勇人氏の書により彫られたものである。
17 大和神社 呉市宮原7丁目4 宮原7丁目アパートに隣接した土地に建立されている小さい社である。
隣が自衛隊のテニスコートのために休日は境内に車が乗りつけられている。
18 伊勢名神社 呉市宮原7丁目8 タラシナカツヒコノミコト(仲哀天皇)
オキナガタラシヒメノミコト(神功皇后)
ホンダワケノミコト(応神天皇)
ある人から自宅の近くに結構な神社があるので探訪してはどうかとのアドバイスを受けて探訪した。宮原7丁目バス停の手前にある堀田医院の横の道を登ること400mで神社の下に達する。伊勢名神社の看板があり石段40段を登ると境内に達しその奥にお社がある。
由来:かって貴い旅の修験者から伝えられたというご神体は往時打続く飢饉にあえぐ村人たちの間で信仰を集めていたが村民と共に宮原中央部伊勢名の地(現在の市県営アパート付近)に移り、更に有志の尽力で現在地に鎮座を見たのが大正14年の秋であった。太平洋戦争への突入により神社は放置されたが昭和45年有志により再建され宮原地区の守護神としての体制が整い更に昭和46年秋亀山神社の分身を迎え爾来亀山神社の末社格として祭祀奉鎮することになった。とある。
19 八咫鳥神社 呉市宮原11-12-25 オオヤマヅミノミコト
タケツヌミノカミ
タマヨリヒメノカミ
神社の手前のお好み焼屋で昼食を取った時に話を聞いたが、中々格式のある神社で出雲大社より神官がこられるそうである。又、数年前にTV、雑誌で報道され有名になり訪問者が多かったそうである。宮原11丁目の円照寺の横の道を400m登れば一の鳥居に到着し、鳥居をくぐって210段の石段を登ると境内に到達する。
由来:呉市宮原村字高烏山に鎮座せられる八咫烏神社は古来由緒ある神社として伝えられている。

本殿は今も高烏山にある。
20 宇佐神社 呉市警固屋4-14 警固屋4丁目バス停より約10mで一の鳥居に達し42段の石段を登ると二の鳥居ガあり、左折すれば写真のお社に達する。境内は中々広い。
昔は年初には安全祈願にお参りしたが、その記憶が今も鮮明である。
21 神田神社 呉市阿賀中央2-1 休山トンネルの南側道路より左折して少し上れば境内に達する。
正規の参詣道はその少し東側を左折して右折すれば一の鳥居、二の鳥居を経て87段の石段がありそれを登れば写真の景色の場所に到達する。
由緒:神宮皇后の三韓征伐時に阿賀村冠アに係留された折連日風が打ち続いたため、神呂というところに御逗留された。そこが現在の宮地である。その後平安時代末、天永3年(1112年)五月、社殿を建立して神達八幡と称しこの蒲の氏神とした。
相国平清盛、源盛勝の祈願、新殿奉造の話も残っている。

尚、社叢及び絵馬は呉市指定天然記念物、重要文化財である。
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初崎神社 呉市広大広1-2 横路の中国電力呉変電所隣に右の写真の一の鳥居があり、それをくぐり進むと二の鳥居蛾あり4段の石段を登ると境内に達する。正面に右下の社殿が望まれる。この建築様式は新明造りであるが、後面にある社は出雲造りである。
由来:

天正3年(1575年)横路の住人不動宗工と有田異仙が謀って九州大分県豊後の国宇佐八幡宮に勧請して横路峠に一祠を建立し鼻ヶ迫宮という。それより141年後享保元年(1716年)横路神社、大広神社、古新開神社、稲荷神社、大広上神社を合祀し、大広の初ア山に御社替えする。有田異仙の子孫が先祖の意思をつぎ自分の持山と大広、古新開の地主とはかり初ア山を寄進し山麓を拓いて社殿を建築して奉還し初ア神社と改めた。建築様式は新明造りと大社造りの混合したものである。

23 弁天神社 呉市広吉松2-16 国道375線と広駅前からの道路とが交わる箇所の少し北にある「中華そば屋弁天」の横を入ると一の鳥居がありそこから50段の石段を登れば境内に達し右の写真の社殿が望める。
24 船津八幡神社 呉市広吉松1-2 誉田別尊
足仲彦命
息長帯比売命
広弁天橋から広駅前行きの道沿い広高校手前の佐々木歯科医院横の道を入り約20m進めば一の鳥居に達する。193段の石段を登ると広い境内に達する。奥に社殿がある。
由緒:享保の大飢饉の時村民大いに困窮の上悪疫流行し、享保20年(皇紀2395年)船津八幡神社を建立、京の上三坂寺門?山の古祠の祀ってあった神をここに迎えて併せ祀り広東部落の守護神とす。
25 工僚神社 同上 船津八幡神社の境内二の鳥居の横手にある。
由緒:当神社は元海軍工廠並びに第十一海軍航空廠勤務中に殉職又戦死した者の霊を祀り昭和二十一年十一月二十四日建立鎮座祭を執行した。
爾来一般に広地区工業関係殉職者の霊を合祀することとしている。毎年五月五日慰霊祭を催行する。
26 明磯神社 呉市広津久茂町8 津久茂バス停から30m手前の道を山手に入り、藤脇商店の右横より坂道を登ると一の鳥居がありそこから更に100m進み21段の石段を登ると境内に達する。過去の水害の被害を受けた模様である。
27 入江神社 呉市広長浜1-1 天照大御神
伊邪那美神
速玉之男神
速佐須良姫神
猿田彦神
長浜バス停を下りて左手が境内である。一の鳥居から御社が望まれる。
由緒:詳細は享保13年八月二十六日(1728年)の大火で消失したため、古老の口碑によると、今より約800年の昔(1185年頃)源平合戦の折平家の武者三將当入江の蒲に身を潜め平家一門の守護神たる厳島神社祭神を勅請し崇敬した。云々。
の掲示あり。
28 新宮神社 呉市広長浜1-16 長浜バス停で下りて湾岸を200m西に進むと右手に鳥居があり石段を登ると社がある。
荒廃した様子である。
29 高尾神社 呉市焼山中2-12 焼山消防署の横にある石段を43段登ると境内である。
境内はかなり広いが、平成18年まで続くリフレッシュ工事が実施中である。
本殿の裏手に廻ると崖から下の平地までうっそうとした森があり、本神社が随分高いところにあることが分る。
本殿の古さと対象的に社務所が新しい。
下の道路は車の洪水であるが、その上にある神社境内が静かなのに驚いた。