記念碑

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呉市二河公園内設置記念碑

殉職者招魂碑
大正十一年十二月二十二日建立

明治二十六年より昭和二十年の間の呉海軍工廠の殉職者を祀る
招魂の碑
昭和五十年八月十五日
呉市長 奥原義人

忠勇護国

建立の主旨
すぐる昭和三十二年に先人有志の志を
もって復興されてより二十有余年
荒廃甚だしき故に再度有志の
御賛同を得てここに修復を行い
謹んで御霊を安んじ奉る

昭和五十八年九月吉日
呉郷友連盟
会長増岡博之
勝田登一氏の像

昭和14年7月同氏の功績を讃えて
貴族院議員 松本勝太郎氏を建設者代表として建立
裏面に主旨等が刻まれている。

尚、松本勝太郎氏は明治23年5月松本建設(当時は請負業)の創始者で、呉市長を勤めた。
信原一人君の像
昭和五年八月建之
三町合併記念碑
昭和三年四月一日安芸郡吉浦町、同警固屋町及び賀茂郡阿賀町と
呉市との合併を記念して建立
昭和十四年十二月六日建之

本碑は二河公園南側道路の側に建立されている。
隣に勝田登一氏の像がある。
供養塔

建立主旨
祖国民族を平和の唯一心に希い戦いに散れる同族の霊
永遠に安かれと祈り結成十周年を記念して一石一寧
追善供養塚をここに建立す
昭和三十五年六月
第七地区遺族会

側面に69,384名及び会員200名が1ヵ年に亘り謹書して奉納

と刻まれている。
明治天皇御歌
軍ふね造る所もみてゆかむ 呉の港にしばしとまりて
海軍大将 米内光政謹書

裏面に 呉市長 鈴木登氏の碑文が刻まれている
その主旨は明治天皇が明治18年船で呉港に、翌明治19年四国経由で、明治23年に
開船式に明治27年には広島大本営より鎮守府に行幸なされた。
明治36年神戸沖観閲式に行幸なされたとき御製された。
蜜月や
思ひはるけき
灰ヶ峯
碑文
門田省三氏は明治29年呉市に生まれ昭和32年鎌倉の寓居で逝かれた。
氏は優れた歌人としてその令名はすでに六高時代から高邁な識見に深い
学殖とによって幾多後進の育成に尽くされると共に広く学術・分化・芸術の
面に貢献せられた功績はきわめて大きい。
本年あたかも故人の10周年忌を迎えるに当り有志相はかりその遺徳を追慕し氏の旧宅近きこの地に建碑する次第である。
碑表の句は氏の絶筆で切々たる望郷の哀情がこもっている。
支葉は氏の雅号である。
昭和42年乙未.秋 有志一同
佐々木英夫翁 頌徳碑

呉市中央公園内記念碑
宮原幸三郎頌徳碑
昭和四十五年十一月吉日建之

宮原幸三郎氏の呉市での功績を讃えて頌徳碑を建立してその徳を永く
後世に伝う

顧問 奥原義人 増岡博之 他
発起人 多数
関係者の氏名が刻字されている

華魂碑

碑の裏面に刻まれた内容
この碑は昭和十年東本願寺呉教院境内に華道界の協力を得て
呉花き業界有志が建立した
全国各地にある華魂碑の発祥の地である。以来、人々の暮らしに
安らぎと潤いを与えてくれる華への感謝の念を捧げる為、呉花き商
組合の主催により、華魂祭を毎年開催、昭和五十二年華魂祭実行
委員会が発足し、これを継承、昭和六十二年二月、この碑を
呉市中央公園内に移設した。
昭和六十二年二月二十四日
華魂祭実行委員会
藤井清水碑

裏面に刻まれた内容
藤井清水(きよみ)は明治二十二年焼山に生まれ
昭和十九年東京に没した。 わが国の在来民謡を
採譜すると共に新作民謡に対し純日本的芸術
的に作曲し民謡音楽としての新正面をひらいた。
昭和三十六年九月 呉市

藤井清水作曲の主要曲
足柄山、せっせっせ、おぼろお月さん、水鶏、七夕さま、お月見、新田の藪、
兎子兎
昭和四十七年七月吉日
呉信用金庫創立四十五周年記念

製作 林 健

トーテンポール

建立の由来
1967年6月28日呉ライオンズクラブはプレマートンライオンズクラブと
姉妹クラブ縁組を締結致しました。
呉市と米国ワシントン州プレマートン市が共に両国を代表する造船港湾都市
であり 地形の上からも非常に類似していることが結びつきの動機でした。
そして1969年この縁組の記念品としてインディアン美術の粋を集めた
このトーテンポール(杉材.直径2尺、高さ24尺、重さ約1屯)が
プレマートンライオンスクラブから送られてきたのです。
米国西部で育ったこの一本の杉にこめられた友情の絆を我々は両国親善
の象徴とし永く呉市民の御守となることを祈念してここに建立し
呉市に寄贈いたしました。
1969年7月14日 呉ライオンズクラブ

尚、現地には上記由来と共にトーテンポールの説明が掲示されています。
大望の像

「タイムカプセル2001」
夢が出てきた〜そして〜未来へ
2001年度 社団法人呉青年会議所
平成13年4月29日

呉市宮原五丁目子規句碑付近に設置されている記念碑

宮原地区風水害犠牲者慰霊碑
昭和20年9月27日の風水害犠牲者の慰霊のため
昭和42年7月9日建之
された慰霊碑である
正岡子規の歌碑
「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」
この句は明治28年3月9日に友人古嶋一雄が
海軍従軍記者として軍艦松島に乗り込んで出征するのを
見送るため、呉を訪れた正岡子規が詠んだ3句のうちの1句である。
当時は、広島と呉を結ぶ鉄道は未開通だったので、
子規は宇品港から船で呉の川原石港へ向かいました。
呉軍港入り口のウルメ島付近にさしかかったとき、正面に
見える休山山ろくの日暮れの情景を詠んだ1句と思われます。
この句碑は、昭和33年12月に宮原地区有志により、
約90メートル南西の交叉点中央部に建立されましたが、
道路改良のため昭和53年に現在地へ移設したものです。
なお、句碑の文字は、子規の直筆を写真版から復刻した
ものです。
呉市
の掲示があります。
澤原為綱翁の像
昭和8年3月に「澤原為綱翁遺徳顕彰会」理事長
天野健太郎氏の名で碑文が書かれている。
戦艦大和の碑
呉大和会発起人として呉市長奥原義人氏以下8名の
名前で碑文が彫られている。
昭和四十四年八月八日建立
呉海軍工廠起工記念碑

呉海軍工廠の面影を偲ぶよすがとして建立。
呉海軍工廠の起工日 明治二十二年四月
が裏面に刻字されている。
レンガは呉鎮守府庁舎に使用のもの、礎石は堺川に
かかる二重橋に使用されていた御影石である。