伝承


まだ「恥」という概念が確立されていない小さな子どもは
大人が聞いたら赤面するようなことでも平気でしゃべる可能性がある
保育園時代の娘はとってもおしゃべりで
親のことなどもあれこれ色々先生に話していたようだ

ある日、保育園の廊下に毛虫がはっていた
子どもたちはきゃあきゃあ騒いだが
それを見た娘はこう言ったという
「うちのおとうさんコレ食べるよ」

え゛??!、毛虫???食べる???うそぉぉ〜〜・・・と目が点になるわたし@@
しかし、すぐに気がついた
ああそうか、娘はアレと勘違いしているのだな

夫は娘の前で「ハチの子」を食べて見せたことがあった
ハチの子って、まあ言ってみればウジムシみたいな形をしている
だから毛虫もきっと食べれると思ったのだろう
何しろ娘にとって父親は「何でもできちゃう人」というイメージで
大好きな雪がとけてしまった時にも
「お山の雪がなくなったからお父さんにつけてもらおうね!」と
本気で言っていたくらいだ

別の日に、また娘は先生に言った
「お父さんの部屋にはハダカの女の人の本があるよ」

あ゛〜〜、そりゃ違うってば!
あ、いや違わないか・・・?!(汗

これって何かといえば、カメラ雑誌のことなのだ
昔からカメラが大好きな夫は時々雑誌を買っている
そしてこの手の雑誌には被写体としてヌード写真も載っていて
娘は父親の側でそれを一緒に見ていたらしい

うちではこうしてたいていのものを
子どもたちにいちいち「隠す」ということをしないできたので
子ども自身は何を見ても平気なのだが
その話がいつも中途半端だから
先生も驚いたり可笑しかったり???だったりしたようだ

一般的に
“子どもの教育上よろしくない”との理由で
親が子どもに見せるものを限定することは結構あるようだ
中でも特定のマンガやテレビを見ることを禁止するケースは昔からあった
でも、わたしのうちでは別にそういう干渉は一切なかったし
結構色んなものを見てきたなあと思い出す
特に70年代の少年漫画には相当凄まじいものもあったが
それらは近所の歯科医院や散髪屋に普通に並んでいて
当時の子どもたちの多くはそれを平気で読んでいたものだ
そんなマンガを読んで育った世代が 今、社会の中心を担っている
で、結局
彼らにとってマンガは教育上悪影響を及ぼしたのだろうか?

わたし自身について言えば
たとえ過激な表現のあるマンガであっても
それによって悪影響を受けるようなことは別に何もなかった
だいたい、善悪の概念や、上品だの下品だのという感性は
親の日常的な言動によって子どもに自然に伝承されている
その上で、本人がそういうマンガを自分で評価するわけだ
下品な表現が面白いと思ったとしても
決して誰もが同じことをしたくなるわけではない
これは、ナイフに興味を持ったからといって
誰でも人を刺すわけではないのと似ている
だから、マンガやテレビの影響以前に
親の価値観や感性がどのように伝承されているかの方が重要だとわたしは思う
そして、うちの子どもたちも親と同様に
自由に何でも読んだり見たりしながら現在に至っているが
その影響で何か不都合な点があったようには今のところ見受けられない

一方で、美しい絵本や推薦図書などに囲まれ
悪影響がありそうだと思われるマンガやテレビなどは一切遠ざける教育方針もある
そういう環境で育つ子どもが将来どのような大人になっていくのか
誰か追跡調査研究してみれば面白そうだ
でも、こういう教育方針はいつかどこかで妥協を迫られるだろう
そして子どもは親が禁止しているものをいずれこっそりと見る可能性が高い
それが現実だ
そうなると
どこまで「隠す」ことが必要なのか
そもそも「隠す」必要はあるのか
更に
きれいごとだけで育つ子どもがいずれ世の中の汚い現実を見た時
少なからずショックを受けるのではないか等
素朴な疑問がわいてくる

うちでは夫が何でもオープンな人なので
子ども部屋にもカギはかけさせないという決まりがある
わたしの部屋などはいつもドア自体が開けっ放しだ
もちろん本人不在の時に出入りすることも自由
押入れも机の引き出しもカバンの中も見ようと思えばいつでも見れるが
面白いことにこれだけオープンな習慣があると
かえって誰も人の部屋をこっそり探ってやろうとは思わないようだ
誰も何も隠さないので探す必要も感じないのかもしれない
それに、コソコソ探られれば嫌な気がするのは大人も子どももみんな同じだから
用もないのに探りたいとも思わないし
もちろん必要ならばまず本人に尋ねることが礼儀だろう
そういう感覚や習慣も暗黙のうちに伝承されている
そのおかげで
子どものプライバシーの問題は学校でしばしば親の悩みとして取り上げられていたが
うちには縁のない話だった

考えてみれば
子どもが自分の部屋に勝手に親が入ってくるのを嫌うのは
そのとき勉強以外のことをやっている場合には(例:マンガを読んでいたり)
だいたい親の機嫌が良くない傾向にあるからだろう
そうであれば、親の機嫌を損なわないために
不都合なものを隠す時間をかせがなくてはならないわけだ
よって
親が子どもに期待する気持ちが大きいほど
子どもは自己防衛本能が働いて、何かを隠すことが必然となる
そしてプライバシーの問題へ・・と、そういう図式が成り立ちそうだ
ならば、これはプライバシーの問題というよりも
もっと根本的な価値観の問題となるだろう

“教育上よろしくない”という感覚はさまざまだが
わたしは常にその結果を重要視している
とりあえず親は自分が子どもだった時代の経験を持っているはずだ
その時代に問題なかったことが、今たとえ問題視されていても
昔の結果が否定されるものではない
ならば
時代と共にすべてのものが新しくなっていく必要はないと思う

しかし
タブーだとされる感覚は時代によって移り変わっていく
昔は当たり前だったことも、今はいけないといわれることがたくさんある
差別用語もそのひとつだろう
何がびっくりするって
今は「野良猫」も差別用語なのだそうだ
どうやら「地域猫」と呼ぶらしい
え?誰なの?こういう新語を次々生み出す人って?!

最近はどうも物事の善悪感覚の基準を
どこかで遠隔操作している存在があるんじゃないかと感じるほどだ
一体そんな言葉にこだわることで何の意味があるというのだろう
そしてそれが人間性にどんな結果をもたらしているというのか?

どんな時代が来ようとも、我が家はいつまでも「昭和流」だ
あれで夫もわたしも育ってきたし
子どもたちも同じような感覚を持ち、無理なく自然に生きている
多分彼らも同じものを次世代に伝承していくだろう

(2008.2.4記)



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