罪過
5日の『美学』に寄せられたコメントを読み
わたしは今まで無意識のうちに日の丸・君が代問題に言及してこなかったことに気づいた
それは、今住んでいるここ広島がその手の話題に最も敏感な地域だからだろう
>忌まわしい戦争は人間がひきおこしたもので、それと国旗はべつのもので
↑このコメント内容は、わたしが持っている感覚とまったく同じものだ
すべての罪過は人間にあり
それを他のものに責任転嫁するのは如何なものか
ただ単純にそう思うのだ
人間とは元々罪深いものと思う人と、そう思わない人とでは
責任の所在を問う感覚が違ってくるのも仕方のないことだろう
これはもうどんなに議論をしても平行線なので
この手の話題には首を突っ込まないで距離を置くことにしている
わたしは小学校4年生の頃、「世界の偉人伝」を熱心に読んだが
その中でも、ノーベル賞で知られるノーベルの伝記は印象的だった
それは
彼が発明したダイナマイトが本来の目的とは違って戦争に使われたのを嘆き
その収益が平和貢献のためノーベル賞基金となったことに純粋に感動したからだ
ところが、現在ではその見解はちょっと違っているらしい
実は彼は初めから武器を製造しており
すべてを破壊するほどの威力を持つ爆薬を作れば
どの国も戦争をしなくなるのではないか
そう目論んだが
現実はそんなに甘いものではなかった
言ってみれば
戦争という「毒」をダイナマイトという「毒」で制するはずが
人間という「猛毒」がいて計画がおじゃんになったという感じだろうか
人間がいる限り戦争は決してなくならない
だから彼はせめてその収益で平和貢献をと考えた・・・
広島の呉市にある大和ミュージアムには
10分の1スケールの戦艦大和が展示されていて
この歴史に残る戦艦を「美しい」と思う人々がたくさん訪れる人気スポットとなっている
一方で
戦争兵器を愛でるとは何事かとの声もある
しかし、何と言ってもこの大和の人気の高さは否定しようがない
そう、美学と思想とは別次元のものだから
わたしの思想は右よりでも左よりでもない、”聖書より”だ
聖書には以下のように記されている
”あなたがたは、すべて人の立てた制度に
主のゆえに従いなさい”
(ペテロの第一の手紙2章13節)
日の丸・君が代も、国が定めた国旗・国歌である以上
各式典においてわたしはその場にふさわしい行動をとる
起立し、帽子をとり、国歌を歌う
これは子どもたちにも
国際儀礼として、また日本人としての誇りを持つために
小さい時から教えてきた
オリンピックで各国の選手が国旗掲揚で見せるあの毅然とした姿を
わたしは純粋に「美しい」と思っている
人にはそれぞれの思いがあり
行動も別々の方向に向うのは自然なことだ
そんな中で、自分の思いは果たして正しいのかどうか
毎度同じことを書くようだが
わたしはいつも結果を見て判断している
人間は罪深いものだから
正しいと信じてやっていることでも
しばしば間違いを犯すことがある
ならば時折自分のやっていることを省みることは必須だろう
そして結果を見て判断する
これもまた聖書に記されているのだ
”木が良ければ、その実も良いとし
木が悪ければ、その実も悪いとせよ
木はその実でわかるからである”
(マタイによる福音書12章33節)
わたしはこの言葉を読む時いつも粛然とした気持ちになる
もし、今までやってきたことが間違いだったとの結果が出た時
それを潔く認めることができるだろうか
いや、それを認めなければ結局自分が苦しむことになるのだ
ならばどうかそれを受け入れる素直な心がわたしは欲しいと願う
それが本当の意味での悔い改めの心だから
思想も信仰も妄想も紙一重の世界だなと思う
夢は人を生かすが、妄想は時に人を狂わせる
自分の信じたもののために大きな罪過を積み重ねることがないよう
自分と正直に向き合っていきたい
(2008.2.7記)
<目次