二者択一
先日より
母がカイワレダイコンの栽培をはじめた
はじめは暗いダンボール箱の中で育て
伸びてきたら明るい所に出す
こうしてできたカイワレは
市販のものより辛味が強くて美味しい
こどもたちもよろこんで
「もっとないの?」と催促するので
母も嬉しくなってせっせと作っている
カイワレだけでなく
家庭菜園で作る野菜は
どれも味が濃くて美味しいと思う
これこそ無農薬栽培の賜物
ちょっとした贅沢
これだから野菜つくりは楽しい
でも
野菜つくりはとても難しい
今回の長雨で
野菜の病害虫被害が広がっている
農薬を使えば簡単に問題は解決するのだろうけど
無農薬が売りの家庭菜園に
農薬をまいたのでは話にならない
病葉を酢やアルコールでふいたりして
なんとかその場をしのぎながら
もし農業が本業だったら
どこまで無農薬栽培の決意を守り通せるものかと考えてしまう
所詮わたしがやっていることなどは遊びに過ぎない
もし上手く育てられなければお店で買ってくれば良いし
面倒になればいつでもやめることもできる
でも野菜を売って生計を立てている人はそうはいかない
ここであきらめて農薬を散布するのか
意地でも無農薬で通すのか
選択肢は二つに一つ
ある農業関係の雑誌に
「オレは百姓だ、生産農家なんかじゃない」
と宣言する人の記事が出ていた
この人によると生産農家とは
作物の品質よりも収穫量や見かけのよさを重視し
もうかることを第一に考えているというわけだ
一方、百姓は
より質の良い作物を提供する事を第一にしているという
そのために労を惜しまないし
損も覚悟している
なるほどそれは素晴らしい
いつかはその努力も認められるかもしれない
でもそういう人は
たいてい大きな成功もしないしお金持ちにもなれない
それでも食べていければまあいいよと思っている人だけが
自分の信じる道を歩み続ける
これは宗教の世界とて例外ではない
うちにも時々『投資』を勧める電話がかかってくるが
教会と投資がどうして結びつくのかと
反対に聞いてみることがある
どうやら彼らは
”宗教=もうかる”と思っているらしい
牧師に投資するだけの私財がないことが
どうにも納得いかない様子
この話をお寺に嫁いでいる友人に話したら
彼女のところにも同様に電話がかかるという
お寺はどこもお金持ちに違いないと思われているのが心外だと言っていた
そうそう、彼女の言い分はわたしにはよくわかる
宗教の世界は実にあいまいな世界だ
農業は自然が相手だからごまかしようがないが
宗教は人間が相手なので
やり方次第ではどうにでもなるところがおそろしい
わらをもすがりたい人に
この宗教を信じれば病気が治るとか
子どもの受験が成功するとか
あるいはそこに脅しも加われば
人はその気になるものだ
うちの教会のように
「Q.救われると良い事ばかりあるのでしょうか?
A.残念ながら良い事ばかりではありません」
などと本当のことを書いているようなところは
手っ取り早く成功したい人には魅力がないようだ
だからといって
ありもしないハッタリを言う気もしないし
正直がモットーのスタイルを変えるつもりもない
牧師が病気になったと言ったら信者がつまづくから言わない方が良い
などと言われたこともあるが
夫は胃がんになったときそれを皆に公表した
胃を三分の二切除したために
今もってずっと色々な後遺症もある
昨日もせっかく自分で作ったカレーが食べられなかった
それでも術後12年経った今もこうして生きている
それで十分素晴らしい事ではないのだろうか
息子は今日学校で
ひざを8針縫うけがをした
生きていればけがもするし病気にもなる
この当たり前のことを当たり前に話すのは普通のことだし
普通の人は
当たり前のことを聞いたら当たり前に受け止めるだろう
もし
”教会の子どもなのにけがをしたのは如何?”
と思う人がいたら
それはちょっと感覚がおかしいと思う
その息子に
前からたずねてみたかったことを先日聞いた
彼は野球ではうちで唯一G軍を応援している
とはいっても特別野球が好きというほどでもないのだが
とにかく強いのが良いのだという
他の家族は
G軍がお金にものをいわせて良い選手を引き抜くのが気に入らない
ああいうやり方はフェアじゃないと思うから
しかし
息子はそこがまたいいらしい
「結局世の中はお金持ちと強いものが勝つんだよ」
あっさりそう言われてしまって
そうだなぁ、、それが現実だ・・・とつくづく思う
夢や理想やきれい事だけでは
世の中渡ってはいけない
生きている限りは生活がかかっているから
本心とは違う道を選ぶ人も多い
反対に
「お金なんかで引っ張られて」
と批判している人であっても
実はその誘惑と戦っているのかもしれない
だから世の中には
”もうけ話”にひっかかる人が後をたたない
息子はG軍のことを
あれはあれでいいじゃないかと割り切っている
世の中には一生懸命努力しても
一生報われないように見える人もあるし
人をだまして成功している人もある
それらをいちいち腹を立てていても仕方がない
人のことはどうでもいいから
自分はどちらの道を選ぶのかが問題だ
お金持ちになりたい
成功したい
良い人だとも思われたい
名誉もほしい
人に良い格好がしたい
世の中に貢献したい
認められたい
正しい人でありたい
多くの人が持つこういう望みは
そのうちのいくつかは両立しない
結局はどれかを選んでどれかは捨てる
息子はどれを選ぶのだろうか
G軍と同じなのかと聞いてみたら
「Gはあれでいいけど自分の場合はまた別」
と言ってにやっと笑った
夫はいつも同じ考え方で統一している
スタンスが変わらないので
わたしも合わせるためにいちいちふらふらする必要がない
たいていのことをあまり迷わないし
決断した事は後悔しない
わたし自身
昔はこれでも結構失敗を恐れていたのだが
今はずいぶん無謀になった
無難な道もいいけれど
大胆な方が世界がひろがる
あまり考え込むのは好きではないので
さっさと決断する事の多いわたしだが
どうにも決めかねて困る問題もある
今年は種から野菜を作ろうと
小さな苗をたくさん育てていた
しかし植える場所は限られている
苗が生長するにしたがって
”間引き”のできない自分に呆れる
せっかく芽を出したというのに
惜しいというより可哀想だと思ってしまう
もう定植しなくてはならない頃になっても
植えるプランターが足らない事に頭を悩ませて
ついに”米袋”まで登場した
苗がこのくらい小さいうちはまだそれでも良かった
大きくなってくると苗数が多いほど消毒にも手間がかかる
それに同じ種類の苗ばかりたくさん育てても仕方がない
ほかにも植えたいものもあるのに
これ以上場所もない
とにかくこのまま育てるのか
他を生かすためにあっさり抜くのか
ここのところ母と考え込んでいる
母はわたし以上に捨てられない人だし
決断できない人だ
ここはわたしがあっさり決めなくては前へは進めないのに
いざとなると
何だかなぁ・・・とちゅうちょする
問題は他にもあった
キュウリだ
節ごとにこうしてキュウリをならせているのは株のためにも良くない
本によると
間を2本くらい摘み取るようにとある
せっかくなっているキュウリを摘み取れとは
なんと酷なことだろう
母と
「どうする?」
「摘みたくないよね」
と毎日眺めていてもらちがあかない
結局わたしはバラの担当だからとか何とか言って
母に押し付けたのだが
摘み取って当分の間
母は可哀想な事をしたとため息をついた
そして今日は米袋のナスの苗を何本か処分した
「やっぱり抜いた方がいいよね」
と何度もわたしのところに確認に来る母
「それが良いけど、自分でやってね」
と今回も押し付けて逃げるわたし
植えるところもないほど苗を育てるのはもうやめよう
今日はつくづくそう思う
キュウリも中途半端に大きくしないで
小さいうちに間引こう
でも
小さければ小さいほど可愛くてますますそのままにしたくなる
だから
やっぱり間引きはこれからも母の役目になりそう(苦笑)
<目次