今週のみことば
10月18日
「エリシャは言った
『主の言葉を聞きなさい。主はこう仰せられる
”あすの今ごろサマリヤの門で、麦粉一セアを一シケルで売り
大麦二セアを一シケルで売るようになるであろう”』
時にひとりの副官すなわち王がその人の手によりかかっていた者が
神の人に答えて言った
『たとい主が天に窓を開かれても、そんなことがありえましょうか』
エリシャは言った
『あなたは自分の目をもってそれを見るであろう
しかしそれを食べることはできない』」
(列王紀下7章1-2節)
スリヤ王ベネハダデが全軍を集めてサマリヤを攻め囲んだため
サマリヤには激しいききんが起こっていました
その飢えた状況はすさまじく
ろばの頭やはとのふんが食物として売り買いされ
果ては自分の子どもでさえ食べようかというところまで切羽詰っていました
その悲惨な状況を見たイスラエル王は怒り
エリシャを殺そうと使者をつかわします
そして使者はエリシャに言いました
『この不幸は主によって引き起こされた
もはや主に何を期待できるのか』
それに対してエリシャは上記のみことばのように答えます
しかし、それを聞いた王の副官はエリシャの言葉を受け入れませんでした
その夜、門の入り口にいた4人のらい病人が
どうせこのまま死ぬ身なら、スリヤ人の陣営へ行ってみようと出かけます
するとそこには誰もおらず
天幕には食べ物や着物などがそのまま残されていました
それは、神によって大軍が攻めてきた音を聞かせられたため
あわててすべてを置いたまま逃げていったのでした
そこで飲み食いした4人は
自分達だけでこんなことをしていてはいけないと思い
町の門番に現状を知らせます
こうして、サマリヤの町はききんから開放され
エリシャの予言は成就します
そして
『たとい主が天に窓を開かれても、そんなことがありえましょうか』
と言ったイスラエル王の副官はというと
門の管理をする時に民に踏みつけられて死んでしまいました
これもまたエリシャの予言どおりとなったのです
さて、常識的に考えた場合
王の副官が語った言葉は正しいといえるでしょう
あのすさまじいばかりに飢えた状況下で
明日には麦粉や大麦が普通に買えるようになるなど
信じろという方が無理なのかもしれません
人間は、「飢え」に直面すると「恐れ」がくるものです
そして、飢えがひどくなるほど恐怖感が増し
『もはや主に何を期待できるのか』
という風に、神に対して不信感を持つようになるのです
神を絶対信頼しているエリシャは動じませんでしたが
そうでない者は、神の言葉を否定しました
もし不幸が神から出たものであるならば
助けも神から与えられるはずです
どんなことが起きても、神に望みをおいて待つ信仰を守る
むやみやたらと恐れることなく
神と共に導かれた道を進むのが信仰生活の基本です
誰しも困難に陥ると副官のようなことを考えがちですが
それでも生きていく希望を捨ててはなりませんし
生かしてくださる神をどこまでも信頼していく姿勢が大切です
人生にはいつ何が起こるかわかりません
ただ、困難や病気を恐れてじっとしているだけでは
将来への不安感から逃れることはできないでしょう
一般的に
「死と向き合った時、人は多くのことを知る」と言われます
自分の面子や都合を捨ててすべてを神にゆだねていくことは
「己に死ぬ」ということであり
それは死と向き合うことでもあります
そこから希望は与えられ、新しい道が開けていくのです
「次の言葉は確実である
『もしわたしたちが彼と共に死んだなら
また彼と共に生きるであろう』」
(テモテへの第二の手紙2章11節)
「彼と共に死ぬ」=イエスの十字架による救い、すなわち洗礼にあずかることで
わたしたちはイエスと共に生きるものとされるのです
せっかくその救いを受けながらも
なおも自分というものにしがみつき
自分の面子ばかりに心がとらわれていくならば
イエスと共に生きているという状態ではなく
平安からも程遠いものとなってしまうでしょう
良い信仰者に見られたいあまり
自分の頑張りや強がりで進もうとする人も少なくありませんが
切羽詰ると、偽善の信仰では生きられないので
自然体で歩むことが重要です
つまりは、自分に嘘をつかず、素直に向き合い
内側にもった弱さも神の前にさらけ出すのです
良い格好をしようとして神の前に偽善で歩むと
結局自分が苦しくなってしまいます
「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ
試練の中にある者たちを助けることができるのである」
(ヘブル人への手紙2章18節)
この神は、わたしたちのかかえる苦難を
理解できないような方ではありません
病気をかかえながらも、悩みをかかえながらも
それでも神は必ず何かなしてくださると希望を持って生きていく
辛いところを通されても祈っていく
その切なる求めは必ず神に通じていくものです
「わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み
わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる」
(箴言8章20-21節)
「宝」とは、普通では得難いものであり
人の心という「倉」を満たす「平安」とも言えるでしょう
人がお金を得たいのは、それによって安心感が得たいからです
平安さえあれば
人はどんな状況下に置かれても生きていくことができるのです
日々の歩みにおいて、実際に神を見ることはなくても
神は確かに生きて働いておられるとの確信を得ることこそ
信仰生活には最も重要な事柄です
そのためにも
聖書のみことばをただ耳で聞くのみならず心に留め
自分の中でみことばが生きるように
信じて従って行きましょう
<目次