今週のみことば
1月12日
「イエスは大声で言われた
『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく
わたしをつかわされた方を信じるのであり
また、わたしを見る者は
わたしをつかわされたかたを見るのである
わたしは光としてこの世にきた
それは、わたしを信じる者が
やみのうちにとどまらないようになるためである』」
(ヨハネによる福音書12章44−46節)
ここで、”わたし”とはイエスのこと
”わたしをつかわされたかた”とは天地創造の唯一の神をさすが
その両者が同一であることがここでは記されています
イエスは唯一の神が人の姿となり
光としての職分をもってこの世に来られました
それは決して人をさばくためではなく
この世を救うためでした
光を信じる人は闇にとどまることがなく
光の示す道を歩むことができるようになるのです
神ご自身が人の手によって十字架にかけられるなど
人間的に考えれば到底受け入れがたいものです
しかし
わざわざ神が人となって世に生まれたのは
十字架にかかって清い血を流し
その血にあずかる救い(洗礼)を万民に与えるためでした
「キリストは神のかたちであられたが
神と等しくあることを固守すべき事とは思わず
かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり
人間の姿になられた
その有様は人と異ならず
おのれを低くして、死に至るまで
しかも十字架の死に至るまで従順であられた」
(ピリピ人への手紙2章6−8節)
こうして神ご自身が
「永遠の救いの源」(ヘブル5章9節)となられたのです
人は誰でも自分の将来を心配しています
そのためしばしば考え込み、不安は尽きません
若くても年をとっていても
あるいはお金のあるなしに関わらず
何が起こるか予想のつかない不安の中にあるものです
ところが
こうして同じように不安を持っていても
光を信じる者は闇から救い出されるのです
それは
神はご自身を人の形でこの世にあらわすほど
この世を愛して下さっているからです
この世をさばくためではなく
この世を救うために来られた方をわたしたちは信じて
この世にあって
平安に生きることができるようにされたのでした
「わたしを拒む者は
わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」
(ルカによる福音書10章16節後半)
イエスを否定するのは神を否定することであり
よって
イエスの語られることを否定するなら
それは神の言葉を否定することになるのです
「わたしが語っていることは
わたしの父がわたしに仰せになったことを
そのまま語っているのである」
(ヨハネによる福音書12章50節後半)
だからこそわたしたちは
人の考えではなく
「聖書は何と言っているのか」を
第一としなくてはならないのです
しかし
イエスの弟子となった人々の多くは
イエスの言葉の意味を理解する(信じる)ことができず
結局彼の元を去っていきました
『あなたがたも去ろうとするのか』
そう聞かれたシモン・ペテロは答えて言いました
『主よ、わたしたちはだれのところに行きましょう
永遠の命の言葉をもっているのはあなたです』
(ヨハネによる福音書6章68節)
神の言葉を悟るには
自分が考えて正しいと思うことを基準とするのではなく
神から見た時どうであるのかと
その視点を変える必要があります
当時イエスの語る言葉を聞いて信じた人はたくさんいても
人をおそれたり、見栄をはるあまりに
結局イエスと共に歩むことができなかった者も多かったのでした
「しかし、役人たちの中にもイエスを信じた者が多かったが
パリサイ人をはばかって告白しなかった
会堂から追い出されるのを恐れていたのである
彼らは神のほまれよりも
人のほまれを好んだからである」
(ヨハネによる福音書12章42−43節)
神は常にものごとを正しく見せてくれますが
人の思いは目をくらませるものです
わたしたちは人の言葉に右往左往することなく
神の言葉を信じ
勇気をもって踏み出していきたいものです
<目次