今週のみことば


1月19日

「マリヤはイエスのおられる所に行ってお目にかかり
その足元にひれ伏していった
『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら
わたしの兄弟は死ななかったでしょう』」
(ヨハネによる福音書11章32節)


自分の兄弟ラザロが死んでしまったことを嘆くマリヤの言葉は
イエスがここに来るのが遅かったことへの悔やみととれる反面
”イエスが居るなら彼は死なない”との
望みを含んだ言葉でもあります

たとえ死に病であってもイエスにあれば癒される
そう信じていた彼女の望みは
結果的に
すでに死んでしまったラザロの上に成就することとなりました
彼は葬られて4日もたった後
イエスの祈りによって生き返ったのです

ラザロが死にそうだと聞きながらも
更に2日も出発を延ばしたイエスの心中には
ラザロは死んでよみがえるとのご計画がありました
これは人々に
イエスが神よりつかわされた者として栄光を受けるためでした

このように
神のご計画は人の思いと異なりますが
最終的にラザロは生かされ
人々はイエスを信じるようになりました
その途中で
ラザロの姉妹や周りの人々は
イエスに絶望して全く拒絶するような行動をとっていません
確かにラザロは死んでしまったけれど
それでもなおイエスの言葉には従った彼らには
この素晴らしい奇跡が成就しました

死んだ人がよみがえるなど
人には決してできないことです
しかし
人にはできないことも神にはできる
この確信が信仰の根本なのです

「わたしたちはこの望みによって救われているのである
しかし、目に見える望みは望みではない
なぜなら
現に見ている事をどうしてなお望む人があろうか
もし、わたしたちが見ないことを望むなら
わたしたちは忍耐してそれを待ち望むのである」
(ローマ人への手紙8章24節)


わたしたちにとって真の望みとは「命を得ること」です
目に見えるお金や物を得るのは望みではありません
それは世の中の誰でも見ているものであり
手に入る可能性もあるものですが
「命」は神に握られています

ただ単に寿命としての命なら
誰でも時が来れば命もとられていくでしょう
生き返ったラザロであっても
その後、寿命が尽きてこの世を去っています

ここで大切なのは
絶望の中にあってもなお生きる望みを失わない信仰と
それに答える神の力の体験です
見えないこと、想像できないことが起こることこそ望みであることを信じ
いかなる時にも勇気をもって立ち上がっていきたいものです

しかし
そうは言っても人間は弱いものです
頭ではわかっていても不安な心はどうしようもない・・
だからこそ聖霊の助けが必要になるのです

「御霊もまた同じように
弱いわたしたちを助けて下さる
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが
御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって
わたしたちのためにとりなして下さるからである」
(ローマ人への手紙8章26節)


こうして毎週みことばによって色々教えられるわたしたちであっても
ただ教えられたことを頭の中に留めておくだけでは
なかなか生活に生きてこないでしょう
頭ではわかっているけれど・・・というだけでなく
聖書のみことばは生活に生きてこそ人を正しく導くのです
そのためにも聖霊に導かれて祈ることは重要です
残念ながら人間は
頭の中で良い事ばかりを考えているのではありませんから
ふと悪い方向に向いてしまうこともあるでしょう

自分の面子にこだわらず
もし自分に間違いがあったならそれをよく覚えておき
二度と繰り返さないように祈っていくことです
それは失敗という結果でもって神が教えたものなのですから
それでも面子にこだわると
何度でも同じ間違いを繰り返すこととなります

頭でわかっているだけの神ではなく
実際に心に感じ、聖霊に感じ、日々の生活に生きる力として現れる
そんな信仰を身に着けるべく
ひとりひとりに与えられる試練を通して
学んでいきたいものです

純粋に神に向おうとする人々の心にも
サタンは隙をねらって働こうとしますから
その辺のところには十分注意しながら
祈って進んでいきましょう



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